一角獣

http://tsukinoshizuku2012.weebly.com/199683528229539.html  【一角獣】より

麒麟(きりん)と呼ばれる伝説上の動物がいます。

姿は鹿に似て背丈は5メートルあり、顔は龍に似て牛の尾と馬の蹄(ひづめ)を持ち、背毛は五色に彩られ、毛は黄色く、体には鱗があるとされます。

頭には基本は一本の角が生えていますが、二本角、三本角、時には角の無い姿で描かれることもあったようです。

説文解字(せつもんかいじ)によると、「麒」(き)がオスで、「麟」(りん)がメスだとされますが、詩経(しきょう)以来の古文献ではメスである「麟」(りん)の一字で表されることが多く、文献によっては「麟」(りん)がオスで角があり、「麒」(き)がメスで角がないとする雌雄が逆のものまであったようです。

「麒麟」(きりん)には、いくつかの種類があるとされ、青いものを聳孤(しょうこ)、赤いものを炎駒(えんく)、白いものを索冥(さくめい)、黒いものを甪端(ろくたん)、あるいは角端(かくたん)と呼び、「麒麟」は黄色いものを指すと言います。

これは、麒麟という動物が誰も見た事がなかったので想像が膨らんで、いろいろな説が出来たのだろうと思います。

私は、この伝説の動物はアフリカのキリンを指していたのだと思います。

キリンの模様が鱗に見えたのだと思います。

物事の終わりや、文章を締めくくる言葉に「獲麟」(かくりん)という言葉があります。

呼んで字のごとく「麟を獲える」という意味で、孔子(こうし)が出典になります。

孔子が仕えた魯(ろ)の国にある日、鉏商(しょうしょう)という人物が西の国から「麒麟」を捕まえて帰って来ました。

孔子は実在するはずのない「麒麟」を目の当たりにして、今まで自分がしてきたことは何だったのかと、「獲麟」の記事を最後に魯の歴史記録の記事を打ち切ったと言われます。

これは孔子が信念として持っていた理性で説明のつかない妖怪や鬼神の類は決して語らないとする「怪力乱神」(かいりょくらんしん)の姿勢を打ち砕く出来事だったからです。

また、明の「聖迹図」(せいせきず)には孔子の誕生の時にも「麒麟」が現れ、口から「玉書」(ぎょくしょ)を吐き出したと書かれていて「麟吐玉書」(りんとぎょくしょ)と呼ばれています。

「玉書」とは「玉」(宝)と「書」(学問)を表し、ここから聖人の資質のある子供を「麒麟児」(きりんじ)と呼び、「麒麟」が孔子のような優れた子を授けたという逸話から、「麒麟送子」(きりんそうし)という言葉も生まれます。

「麒麟」にさらに「鳳凰」の子(雛)も足した「麟子鳳雛」(りんしほうすう)という言葉もあります。

子供の将来に期待して、「麒麟」になるか「鳳凰」になるか、どちらにしろ大人物になる子供だというわけです。

おそらく、この孔子が深く関わった「麒麟」はアフリカのキリンだったのだと思います。

日本では東の「青龍」(せいりゅう)、南の「朱雀」(すざく)、西の「白虎」(びゃっこ)、北の「玄武」(げんぶ)に対して当初は「麒麟」(きりん)が中央になっていたようですが、子の守り神は「麒麟」ではなく、春日大社の「鹿」となります。

「鹿」は藤原不比等の母親の「鏡王女」(かがみのおおきみ)を指し、「ナフタリ族」を象徴します。

中央にあるのは「鏖」(みな)=「皆」(みな)で「全ての人」を表します。

「鏖」(みな)を「鏖」(みなごろし)と読むのは「騎兵」を得意とした前漢の武人の「霍去病」(かくきょへい)が「蒼き狼、白き牝鹿」(あおきおおかみ、しろきめじか)を祖とする「匈奴」(きょうど)の女子供を表す「牝鹿」(めじか)までも「金」(刀)で「鏖殺」(おうさつ)=「皆殺し」にしたからです。

「鏖」(みな)は「䥝」(みな)を略した漢字で「金」は「鏡」を表します。

「麀」(ゆう)は「鹿」+「牝」で「めじか」を意味します。

つまり、「鏖」(みな)の元々の意味は「女子供も含む全ての人々」です。

推古天皇である観音菩薩の「御名」(みな)という意味も含みますが、それと同時に「鹿」の「鏡」=「七支刀」=「メノラー」=「光」を象徴します。

「蒼き狼、白き牝鹿」はチンギス・カンで有名ですが、「狼」のテュルク系の父と、「鹿」のモンゴル系の母の騎馬民族の子供を指します。

モンゴルの草原には角の生えた「牡鹿」(おじか)が描かれた550基以上の墓標のような遺跡があり、「鹿石」と呼ばれています。

モンゴル相撲は「牡鹿」(おじか)の「角の力」の「角力」(すもう)というわけです。

モンゴルでは「オリオン座」の「三つ星」は「三匹の牝鹿(めじか)」=「麀」(ゆう)だという伝承があります。

昔、モンゴルには弓の名手のフフデイと呼ばれる王様がいたそうです。

ある時草原でフフデイ王は「三匹の牝鹿」に遭遇し弓を放ちます。

すると、そのうちの一頭に見事命中したそうです。

そして、びっくりした「三匹の牝鹿」は天に向かって駆けて、「オリオン座」になったというものです。

「オリオン座」の左上の赤く光る星「ベテルギウス」は「三つ星」の中心の牝鹿を射抜いた時の矢の「血」の色で、おおいぬ座の青白く光る「シリウス」は「天狼星」(てんろうせい)と呼ばれ、フフデイ王だと言われます。

日本では「オリオン座」は「鼓星」(つつみぼし)と呼び、宗像三女神の「三つ巴」を表します。

京都市中京区にある行願寺(ぎょうがんじ)は山号を「霊麀山」(れいゆうざん)と言います。

「霊」(れい)の「麀」(めじか)です。

行願寺という名前は「一切の人々の成仏を願い行じる」という思いからつけられたそうです。

開基は行円(ぎょうえん)という平安時代の僧で、仏門に入る前は狩猟を業としていたそうです。

ある日、山で「牝鹿」を射止めたところ、お腹に子を宿していたようで仔鹿が産まれます。

母鹿は痛みで苦しみながらも、産まれ出た仔鹿を愛しそうに舐めていたそうですが、やがて息絶えてしまいます。

その様子を見た行円は「なんという事をしてしまったのか」と後悔し、殺生の非を悟って仏門に入ったとされます。

その後、行円はその母鹿の皮を常に身につけていたことから「革聖」(かわひじり)、「革上人」(かわしょうにん)と呼ばれました。

行願寺に併設されている宝物館には「幽霊絵馬」と呼ばれるものがあります。

「絵馬」は実物の「馬」を奉納する代わりに木の板に絵の馬を書いたものです。

「幽霊絵馬」は、この行願寺の革堂(こうどう)で子守をしていた「文」(ふみ)と呼ばれる10歳の少女を杉の板に描いたもので、絵馬にはその少女の母親が母だと思って大事にするようにと渡していた「手鏡」が「裏向け」にはめ込まれているそうです。

「文」は質屋の店主の八佐衛門のもとに江州(滋賀県)から子守としてやって来るのですが、法華信者の八佐衛門の前で天台宗の御詠歌を歌った事で怒りを買い、殴る蹴るの暴行を受け、あげくに殺され庭に埋められてしまいます。

八佐衛門は「文」の両親には家出をしたと嘘を言い、心配した両親が革堂の観音様に「文」を見つけてくださるようにお願いします。

すると、「文」の幽霊が現れて事実を両親に語り、「手鏡」を自分と一緒に弔ってほしいと言い残して消えたそうです。

「文」(ふみ)とは「文月」(ふみづき)で「七」を表します。

「七」はキリスト教の聖数で、「羊」の方位になります。

「鹿」に「七」を足した漢字が「霊麀山」の「麀」(ゆう)で、「霊麀」(れいゆう)は「幽霊」(ゆうれい)を逆さまにした言葉で、「絵馬」(えま)も反対にすると「馬絵」(まえ)になります。

「まえ」で連想するのは「前」(まえ)という言葉です。

「前」(まえ)は「前」(さき)や「前」(さい)とも読み、「幸」(さい)は「幸」(ゆき)から「行」(いく)などの字が当てられます。

埼玉県の「埼玉」(さいたま)の語源である「前玉神社」(さきたまじんじゃ)や藤原氏を指す「生玉神社」(いくたまじんじゃ)など、蘇我氏の「玉」(勾玉)に関係する言葉です。

ちなみに「行神社」(ゆきじんじゃ)は「往生」(おうじょう)の「往」(いく)で推古天皇を祀る神社になります。

「鏡」も「裏」を向いているという事は、本当は「馬」は「鏡」ではないという事かもしれません。

それから、行願寺には豊臣秀吉から贈られた七福神の「寿老人」(じゅろうじん)の像を祀る寿老人堂があります。

「寿老人」は道教(どうきょう)の老子(ろうし)が天に昇った仙人で、「鹿」を連れた白髭のおじいさんの姿で知られます。

「寿老人」は久米寺(くめでら)と同じく推古天皇を表していて、藤原鎌足を表す「福禄寿」(ふくろくじゅ)とは同神だとされます。

推古天皇の忌部氏は天皇家の祭祀を担当していましたが、その役目を藤原氏が引き継ぎ、同神としたのだと思います。

行願寺の本尊の千手観音とは推古天皇の事で、オリオン座の「三つ星」の中心になります。

「鏡」を中心に持って来るのは、「蘇我氏」を「蘇る我」の「我」(が)=老子が嫌う「我執」(がしゅう)=「自分だけの小さな考えにとらわれる事」を否定するためです。

宗教が違うからといって八佐衛門のように「他人」を殺すことを日本人は嫌い、宗教も文化も超えた「鏡」を中心に持ってきたというわけです。

おそらく、仏教派の蘇我氏と、神道派の物部氏の宗教戦争が根底にあるのかもしれません。

八幡神(はちまんしん)は応神天皇(おうじんてんのう)を神格化した神様で、神功皇后の胎内にいた時から皇位につく宿命があったために「胎中天皇」とも呼ばれ、「神道」と「仏教」を統合する八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれました。

この神仏習合(しんぶつしゅうごう)の神様を生み出した事で日本の宗教感は大きく変わり、他宗教を排斥する宗教に対して嫌悪感を抱くようになり、それが日本でキリスト教が根付かない要因の一つになったものと私は思います。

この神仏習合のアイデアは実は八幡神が最初ではなく、「ヒンドゥー教」と「仏教」を統合した「毘沙門天」(びしゃもんてん)=「ヴィシュヌ」が最初であり、そこからヒントを得たものと思われます。

天平勝宝4年(752年)に東大寺の大仏の開眼供養会が行われ、宇佐から八幡神が勧請されました。

その時の宣託が「われ天神地祇を率い、必ず成したてまつる。銅の湯を水となし、わが身を草木にまじえてさわることなくなさん」です。

「銅の湯」とは仏教の八大地獄の最初の等活地獄(とうかつじごく)で罪人を茹でる「鍋の熱湯」です。

「熱湯」を「水」のように無害にするという事のようですが、それは死者を知る人たちが成仏するように供養することで、罪人の罪が軽減するようです。

自分のためではなく、他者のために祈るわけです。

草木にまじえてとは、おそらく天武天皇を「草」、皇極天皇を「木」に準えていると私は思います。

八幡神は日本の神様の天神地祇(てんじんちぎ)の代表というわけです。

この八幡神が勧請された翌年、興福寺の僧の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)の要請を受け、唐から鑑真(がんじん)が来日します。

おそらく、「神道」との共存を前提とした本格的な「仏教」の教団組織(サンガ)の確立が目的と思われます。

この鑑真が来日した天平勝宝5年(753年)の753という数字が「神道」と「仏教」が統一を果たした「八幡神」を意味し、子供の成長を祝う節目の年、「七五三」(しちごさん)になるようです。

さらに翌年の754年には宇佐八幡宮の神職(禰宜尼)の大神社女(おおがのもりめ)の呪詛事件や、769年の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)による宇佐八幡宮神託事件など、八幡神が政治に利用される事件が続きます。

八幡神の神功皇后と応神天皇の母子は、聖母マリアとイエス・キリストの母子をモデルに創作された天皇だと私は思います。

そして、比売神(ひめかみ)は宗像三女神と言われますが、推古天皇の多岐都比売(たぎつひめ)を指すようです。

応神(おうじん)は王仁吉師(わにきし)の王仁(おうじん)ですが、応(おう)は否(いや)=NOではないYESの神で、イエス・キリストを象徴するようです。

おそらく、古事記を書こうと発案した天武天皇が自分をイエス・キリストに見立てて応神天皇を考え出したものと思いますが、途中で製作者が藤原不比等に代わり、そこから応神天皇は八幡神として「皆」(みな)の神様になったのだと思います。

パウロの「ローマ人への手紙」第10章13節の「主の御名(みな)を呼び求める者は、皆(みな)救われる」の「御名」(みな)でもあります。

藤原北家と当麻氏の血を引く藤原明子(ふじわらのあきらけいこ)が生んだ清和天皇(せいわてんのう)が源氏(げんじ)の始まりであり、源(みなもと)の姓は「水源」を表すと共に「御名の元」(みなのもと)という意味があるようです。

長野県の戸隠神社(とがくしじんじゃ)の「戸」は天照大神を隠した天岩戸の「戸」(と)だと言われますが、「十」(と)はキリスト教の「十字架」で、景教徒(けいきょうと)であった「秦氏」を隠す神社という意味があるようです。

景教(けいきょう)とは当時、唐にいたネストリウス派のキリスト教を指します。

どこに「秦氏」を隠したのかというと、厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれた聖徳太子(しょうとくたいし)という人物にです。

法隆寺(ほうりゅうじ)の夢殿(ゆめどの)にはイエス・キリストを表す救世観音菩薩(くぜかんのんぼさつ)の像があります。

明治以前は秘仏であり、その姿を見たものは誰もいませんでしたが、東京美術学校を設立したアメリカ人のフェノロサと助手の岡倉天心(おかくらてんしん)が明治政府の許可を取り、その姿を見ようと夢殿を訪れました。

祟りがあると抵抗する法隆寺の僧侶を押し切って厨子(ずし)を開けたところ、中には500ヤード(約457mm)の長さの木綿で幾重にも巻かれた仏像が出て来たそうです。

木綿でぐるぐる巻きにされているだけでも異常ですが、さらに異常だったのは、その仏像が光背を止める目的で頭部を直接、後ろから「釘」で打ち付けられていた事でした。

そして、光背には内円に「唐草模様」、外円に「火炎模様」の彫刻が施されていました。

「唐草模様」は蔓植物の「葡萄」を意味し、「火炎模様」はそれが焼かれる事を意味しているのだと思います。

「いかるがや 富の小川の 絶えばこそ 我が大君の 御名(みな)を忘れめ」

この富の小川とは奈良県の富雄川(とみおがわ)で、神武天皇の弓の先に「金のトビ」が止まって「鳥見」(とみ)と呼ばれた場所になります。

神功皇后のモデルである皇極天皇の事で、朱色ではない金色の「鳳凰」(ほうおう)になります。

神武天皇も、天武天皇をモデルにした初代天皇ですが、鳥見の地で、太陽に向かって前進した事で「日向」(ひゅうが)=「太陽に歯向かう天皇の敵」として高千穂に降り立つ瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)となり、そこに謀反を起こして「火」によって焼かれる「狭穂彦」(さほひこ)という別名も加わります。

私は、聖徳太子を象徴する救世観音菩薩は「麒麟」であった天武天皇を呪詛する目的で作られたものだと思います。

聖徳太子の関わるお寺を回って、そこに纏わる縁起などをよく観察すると、「物部守屋」を滅ぼしたはずの聖徳太子が何故か「物部氏」に有利になるような逸話を沢山残していて、とても理解に苦しみます。

そこから考えられる可能性は、日本に最初に「仏教」を伝えたのは蘇我入鹿(そがのいるか)であり、聖徳太子は「蘇我氏」の業績を消す為に作られた架空の人物だったという事です。

天武天皇はキリスト教を信仰する「秦氏」を率いた氏族で、「蘇我氏」からも一目置かれる存在だったのだと思います。

法隆寺は聖徳太子が建てたのではなく、蘇我馬子に殺された藤ノ木古墳の被葬者の穴穂部皇子と宅部皇子を供養するために「藤原氏」が建てたお寺だと私は思います。

「蘇我氏」の「仏教」の中に「秦氏」の「キリスト教」を隠したわけです。

「秦氏」は「役」(え)と呼ばれる肉体労働者となり、彼らを束ねる「賀茂氏」(かもし)の「役小角」(えんのおづぬ)が修験道(しゅげんどう)となります。

藤原不比等によって伊豆に流されるまでは「役小角」は孔雀明王(毘沙門天)=天武天皇を信仰していました。

雄略天皇(蘇我入鹿)とそっくりだった葛城の「一言主大神」(ひとことぬしおおかみ)は天武天皇の事で「鬼」(秦氏)を取りまとめていた氏族になります。

皇極天皇が天武天皇を統合し、八幡神となり、「秦氏」は天武天皇ではなく、聖徳太子の部下の秦河勝(はたのかわかつ)に率いられる形となります。

秦河勝は猿楽(さるがく)の祖となり、伝統芸能を通して藤原鎌足(猿田彦大神)の価値観を宣伝し、広める役目を担います。

「鳳凰」の秦氏ではなく、「猿」の秦氏で、比叡山の「比叡」(ひえ)が「日枝」(ひえ)であり、「稗」(ひえ)になり、猿田彦大神(日吉大神)を象徴します。

藤原氏は吉備国の「黍」(きび)で、「稗」(ひえ)である「秦氏」とお友達という事です。

本来、「秦氏」を象徴するのは「麦」(むぎ)だったと思いますが「稗」(ひえ)に変えられたんだと思います。

それは、ヨハネの福音書第12章24節で、イエス・キリストが一粒の「麦」は地に落ちて死ぬことによって無数の実を結ぶが、落ちて死ななければ一粒のままだと、自分がキリスト教の繁栄という実を結ぶために十字架にかかり犠牲になる「一粒の麦」である事を予言しました。

この章では異邦人のギリシア人が登場し、キリスト教がユダヤ人という枠を超えた世界宗教へと発展する予言とも取れます。

この為、「麦」はキリスト教徒にとって特別な存在であったという事です。

また、イエス・キリストは最後の晩餐で、「葡萄酒」を自分の「血」、「パン」(麦)を自分の「肉」に例えて弟子たちに食べる事を勧めました。

「葡萄酒」は「知恵の樹」、「パン」は死と再生の象徴である「生命の樹」を表しているようです。

「パン」が象徴するのは古代ギリシアの牧神「パーン」(山羊)、エジプトの豊穣神「オシリス」(牛)、そして、古代メソポタミアの「タンムーズ」(羊)です。

どの神様も国は違えど、死んで冥界の王(閻魔大王)になった「角のある動物」が象徴の神様です。

「タンムーズ」のギリシア語が「トマス」で、インドにキリスト教を伝えたイエス様の双子の兄弟「使徒トマス」になります。

キリスト教の「鳳凰」=「復活」を表します。

「鳳凰」について

「能」の演目で五番目物の曲名「猩々」(しょうじょう)は「真っ赤」な能装束で「酒」に浮かれながら舞い謡い、「海中」に棲む架空の動物とされます。

その「真っ赤」な出で立ちから「猩々紅葉」(しょうじょうもみじ)など「赤」の「紅葉」の代名詞でもあります。

日本では七福神の「寿老人」の代わりに「猩々」が入れられた時代もあるようです。

おそらく「猿」の秦氏を「猩々」として象徴したものだと私は思います。

私は推古天皇は元々は秦氏のリーダーだったと思っていて、それが「丁未の乱」(ていびのらん)で物部守屋(もののべもりや)を滅ぼした蘇我氏と結びつきの強い女帝だったので、後の時代に秦氏とは切り離され、蘇我氏の系図に組み込まれたものと思っています。

素戔嗚尊(蘇我氏)が持っていた十束剣(とつかのつるぎ)や、山幸彦(物部氏)の持っていた十拳剣(とつかのつるぎ)などみんな秦氏を表していると思われます。

そういうわけで、「鏡」は「皆」(みな)の象徴のようです。

「他人」は自分を映し出す「鏡」で、「皆」を愛せないものは「自分」も愛せないという事です。

「鹿」(鏡)は藤原氏のシンボルで、「麒麟」の代わりだということです。

談山神社(たんざんじんじゃ)の多武峰縁起絵巻(とうのみねえんぎえまき)には藤原鎌足が誕生する時には「鎌」を咥えた白い「狐」(きつね)が現れて鎌足の前へ「鎌」(かま)を置いたと言われ、「麟吐玉書」の逸話と極めてよく似ています。

違うのは「麒麟」が「狐」(お稲荷さん)となり、吐き出した「玉書」が「乙巳の変」(いっしのへん)というクーデターを起こして「蘇我氏」を刈り取る「鎌」だった点です。

「狐」はシュメール神話の豊穣神「ニンフルサグ」の眷属で、日本の天岩戸に天照大神が姿を隠す神話は、「ニンフルサグ」が姿を隠し、それを「狐」が見つけ出すという神話から着想を得たのかもしれません。

この「ニンフルサグ」からあらゆる穀物の「種」が生まれ、日本の豊受大神(お稲荷さん)に該当します。

中国では中央は中国人の祖である黄帝(こうてい)を表す色なので中央には置かず、「麟鳳亀龍」(りんぽうきりゅう)と呼び、「麒麟」(西)、「鳳凰」(南)、「霊亀」(北)、「応龍」(東)を「四霊」(しれい)と呼び、西の「白虎」が「麒麟」に置き換わっています。

中国の風水では西の「白虎」は凶性があるので、その凶(毒)を打ち消すために家の中の西に銅(金)の「麒麟」の像を置いたりするそうで、そこから来ているのかもしれません。

日本の高松塚古墳の壁画などに描かれる「白虎」はキリンのように首が長く描かれていて、おそらく、「白虎」と「麒麟」を統合するためのものだと思われます。

「白虎」は皇極天皇(こうぎょくてんのう)であり、「麒麟」は天武天皇(てんむてんのう)を象徴するようで、共に西に置かれます。

そして、中央には八幡神の応神天皇(おうじんてんのう)を表す「応龍」(おうりゅう)が来るようです。

東ではなく中央です。

八幡神(はちまんしん)は単神で祀られる事のない「秦氏」の「幡」(はた)=機織りの神様です。

源氏の崇敬を集めた弓矢八幡(ゆみやはちまん)という呼称は、元々、秦氏が弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする弓矢の氏族で、「金鵄」(きんし)と呼ばれる「金色のトビ」の神功皇后(じんぐうこうごう)を秦氏のリーダーである武神として祭り上げたことによるものです。

神功皇后は皇極天皇を神格化した人物で、高句麗(蘇我氏)、百済(物部氏)、新羅(秦氏)の三氏族を統合した三韓征伐(さんかんせいばつ)の女帝です。

八幡神は「彦星」(ひこぼし)=天武天皇や「牽牛」(けんぎゅう)=蘇我倉山田石川麻呂ではない「織姫」(おりひめ)=皇極天皇が率いるみんなの神様です。

「応龍」は翼の生えた龍だとされ、西洋のドラゴンに近い姿をしているようです。

応(おう)は黄(おう)という意味もあるようです。

黄色は有彩色の中で一番明るい色なので、本来は「光」を意味し、「天国」を象徴します。

しかし、日本では黄色は「黄泉」(よみ)=「あの世」の色として「闇」(やみ)を表し、西は西方浄土(さいほうじょうど)の方角として「白虎」の白に黄色は含まれるものとします。

相撲の吊り天井を飾る「緑(青)、赤、白、黒」の四つの「四房」(しぶさ)に対して「黄」は力士が「塩」を撒いて踏み固める土俵の「土」の色で、相撲の神様である野見宿禰(のみのすくね)の「土師氏」(はじし)の色というわけです。

ちなみに「塩」は藤原鎌足である塩土老翁(しおつちおじのかみ)であり、「海神」(わたつみのかみ)=綿津見(わたつみ)になります。

秦氏の「秦」(はた)が「綿」(わた)であり、「秦氏を摘み取る」という意味があるようです。

そこから、本来は「土」の色である「黒」が「水」の色とされ、「青龍」(木)、「朱雀」(火)、「麒麟」(土)、「白虎」(金)、「玄武」(水)が陰陽五行の五行になります。

「青龍」、「朱雀」、「白虎」、「玄武」の最初の一字の「青、朱(赤)、白、玄(黒)」はみんな色を表す文字なので、「麒麟」の「麒」(き)もオスやメスは関係なく「黄」(き)を表しているのだと私は思います。

余談ですが淡路島(あわじしま)の「淡」(あわ)は、在るか無いか分からない儚く消えやすい「陽炎」(かげろう)を意味し、実が小粒で在るか無いか分からない黄色い雑穀の「粟」(あわ)の意味も含まれています。

「粟」(あわ)は「小さいものの喩え」として用いられ、「大海原」(おおうなばら)に浮かぶ一粒の「粟」を「滄海一粟」(そうかいのいちぞく)と呼びます。

「滄海」(そうかい)は「大きな青々とした海」で「凡海氏」(おおあまし)の天武天皇(大海人皇子)で、「粟」は「粟特」(ぞくとく)と書かれたソグド人=「蘇我氏」を表す言葉なのかもしれません。

小さな島の寄り集まりの「粟散らす国」(あわちらすくに)=「粟散国」(ぞくさんこく)は「蘇我氏」を散らした日本の別称になります。

しかし、「粟」は元々は「実の垂れ下がった穀物や果実」の総称で、「葡萄」を意味する言葉だったのかもしれません。

「葡萄」は「神酒」ソーマを象徴し、「淡麗」(たんれい)は甘味の少ない「辛口」のお酒を意味します。

中央アジアのソグド人の商業都市サマルカンド(ウズベキスタン)はオアシス都市の中でも最大の都市でした。

「葡萄」の産地として有名で、シルクロードを通じてギリシア、ローマ、ササン朝ペルシアなど「葡萄唐草文様」が世界へと広がりました。

それが、日本や中国では持ち運びの容易な「粟」(あわ)となり、少彦名神(すくなひこなのかみ)が「粟」(あわ)の茎に弾かれて「常世の国」(あの世)に行ったとされる「小ささ」を象徴する「穀物」となってしまいます。

この「粟」の小粒のイメージは、「富」の象徴である「金」の粒金細工のイメージではないのかと思います。

「粟特」(ぞくとく)の「特」(とく)は「牛」と「寺」を組み合わせた漢字ですが、「寺」には「寸」(手)と古い字形では「土」ではなく音符「之」(足)の会意兼形声文字で、手足を動かして忙しく「進む」という意味があったようです。

ソグド人が忙しくシルクロードを行き来するわけです。

イメージが「馬」ではなく「牛」なのは遊牧民ではなく、農耕民族だからかもしれません。

それが現在では「土」のせいなのか「寺」は「止まる」という反対の意味になっているようです。

菅原道真(すがわらのみちざね)が老女から「船旅のお供に」と貰ったお菓子で「粟おこし」(あわおこし)と呼ばれるものがあります。

「米」を小さく砕いたものを「粟」(あわ)に見立てて「岩」のように硬く固めたものから「岩おこし」とも呼ばれます。

「岩」は蘇我倉山田石川麻呂のシンボルで、蘇我氏を蘇我倉山田石川麻呂に作り替えるという意味があるものと思います。

推古天皇など不老長寿の磐長姫(いわながひめ)の「磐」(いわ)でもあります。

その他には菅原道真を意味して「雷おこし」と呼んだりもします。

違う材料を使用したり製法も色々とあるようですが全て「粟おこし」が基本のようです。

「粟特」(ぞくとく)は「粟戈」(ぞくとく)とも書かれました。

「戈」(ほこ)はおそらく、ソグド人が得意とした「長槍」(ながやり)を意味していると思われます。

紀元前480年にアケネメス朝ペルシアのクセルクセス1世がギリシア遠征を行い、その支配下にあったソグド人は同盟国として従軍し、ギリシアのアレキサンダー大王を「馬」と「槍」で相当苦しめたものと思われます。

その教訓からアレキサンダー大王はファランクスと呼ばれる密集陣形で使用される「サリッサ」と呼ばれる「長槍」を生み出し、紀元前329年にはサマルカンドを攻め落としソグド人の死者は約3万人にのぼったと言われます。

私はソグド人とは消えた北イスラエル王国の「エフライム族」だと思っているので、アッシリアに北イスラエル王国が滅亡させられた後に、生き残った人々が捕虜としてアッシリアに連行されたのだと思います。

「鉄」の「ヒッタイト人」と「馬」の「フルリ人」のペアが、「馬」に車を牽かせて、その車の上に人が「鉄」の武器を持って乗るチャリオットという「戦車」を発明しました。

日本の物部氏のルーツである「突厥」(とっけつ)と、蘇我氏のルーツである「ソグド人」は「軍事」と「経済」で相互に補完しあう関係だったようで、「ヒッタイト人」と「フルリ人」の関係とよく似ていて、根本は同じものではないかと思います。

ヒッタイト帝国が「海の民」と呼ばれる謎の氏族に滅ぼされた後、それまで極秘とされた「鉄」を生産する技術が隣国であるアッシリアに漏れ、強大な軍事力でアッシリアがオリエントを統一する形となります。

アッシリアは「ヒッタイト人」と「フルリ人」が生み出した「チャリオット」(戦車)から、さらに直接、「馬」の背に乗る「騎兵」(きへい)というスタイルを生み出します。

それを可能にしたのが「鞍」(くら)の発明で、蘇我入鹿(そがのいるか)の本名が蘇我鞍作(そがのくらつくり)なのも偶然ではないと思います。

アッシリアは「騎兵」によって格段に行動範囲が広がり、機動力も増しました。

アッシリアの信仰する神様が「光」の「アッシュール神」で「阿修羅」(あしゅら)=「アフラ・マズター」を意味するようです。

ゾロアスター教の開祖であるゾロアスターもアッシリアで誕生したようです。

アッシリアはバビロニア連合軍に敗戦し、最後は嵐によるチグリス川の洪水で水に飲みこまれ滅亡します。

おそらく、ノアの洪水伝説が誕生したのも、アッシリアの滅亡を象徴的に表したのかもしれません。

その後、アッシリアの後継者となったのがアケネメス朝ペルシアで、捕虜だった「北イスラエル王国の十支族」は解放されたのだと思われます。

アケネメス朝ペルシアは日本の秦氏の「秦」(しん)のルーツである「フェニックス」(鳳凰)を信仰する航海の民「フェニキア人」と同盟を結ぶ国でした。

「北イスラエル王国の十支族」が何処へ行ったのかは不明ですが、私はシルクロードを通って日本に来ているのではないかと思っています。

現在、シルクロードには三つの幹線があったとされ、「草原の道」「オアシス(泉)の道」、「海の道」と呼ばれています。

三つの幹線と言っても整備された道路が続くのではなく、草原や砂漠、そして海など道なき道がずっと続くのですが、便宜上、三つに分けられています。

「草原の道」は最も北方に存在し、中国を北上してモンゴルの草原地帯(ステップ)を通り、最後はトルコ北部の黒海周辺に至ります。

移動手段は「馬」です。

ウクライナ周辺に紀元前8世紀に世界最古の遊牧民族「スキタイ」が現れ、その後、数多くの騎馬民族が現れました。

ヨーロッパ(古代ギリシア)から見た「スキタイ」は一部の民族を指すのではなく、遊牧騎馬民族の総称で、ギリシャ神話の上半身が「人間」で、下半身が「馬」のケンタウロスという怪物は「スキタイ」を指していたのだと私は思います。

ヨーロッパの歴史に出てくる「フン族」や、中国の「匈奴」(きょうど)、「鮮卑」(せんぴ)、「突厥」(とっけつ)など様々な遊牧民族がこのルートに登場します。

次に「オアシスの道」は一番過酷な「砂漠の道」です。

主な移動手段は乾燥に強い「ラクダ」や「ロバ」による隊商(キャラヴァン)です。

しかし中継地点になるオアシスに多くの都市国家が生まれて繁栄したので、シルクロードの要となり、この「オアシスの道」はさらに三つのルートに分かれます。

中国の天山山脈の北を通る「天山北路」、南を通る「天山南路」、そしてその南にあるタクラマカン砂漠の南を通る「西域南路」です。

「天山南路」は西遊記の三蔵法師がインドにお経を取りに行ったルートだそうです。

「西域南路」はマルコ・ポーロが元に渡ったルートだそうです。

オアシスではカナートなど「水」の権利を持つものが支配者となり、その下に地主と小作人があり、階級社会の「農耕民族」になります。

シルクロードの西と東を結ぶ「唐」(とう)の建国にもソグド人が深く関わっていたとされ、唐都長安には1000人を超えるソグド人が常駐していたとされ、国土は西に長く伸びた形になります。

そして最後は「海の道」です。

移動手段は当然「船」で、時代としては前者よりは後に発展したルートです。

中国の南から海に乗り出し、東シナ海、南シナ海、インド洋を経て、アラビア半島へと至る海路です。

このルートを通じて東南アジアやインド方面の真珠や、象牙、犀角などの珍しい交易品が次々と中国に届きました。

トルコ系遊牧民族である「突厥」(とっけつ)は「草原」を選び、「ソグド人」は「オアシス」、「フェニキア人」は「海」を選んだんだと思います。

そして、この三氏族はそれぞれ、「物部氏」(月読命)、「蘇我氏」(素戔嗚尊)、「秦氏」(天照大神)となってシルクロードの終着点の日本に辿り着いたのだと思います。

「ノアの方舟」はこの「フェニキア人」を指し、「ノアの方舟」に乗らなかった「麒麟」とは「オアシス」を選んだ「ソグド人」を指すのだと思います。

アッシリアが得意とした「騎兵」(きへい)はソグド人に受け継がれたんだと思います。

「騎兵」には弓を使用する「弓騎兵」と、槍を使用する「槍騎兵」の二種類が存在しました。

前者が「鳳凰」(秦氏)のイメージで、後者が「麒麟」(蘇我氏)のイメージです。

皇極天皇を神武天皇の弓の先に止まった「金鵄」(きんし)に例えるのも「矢」が「飛ぶ鳥」のようだからだと思います。

「鳳凰」は時に矢先に「火」をつけて射る「火矢」(ひや)が「火の鳥」のイメージとなったのかもしれません。

弓という飛び道具を使い、俊敏で機動性に優れている騎馬民族(きばみんぞく)です。

「麒麟」は馬に乗って「槍」で突撃する「槍騎兵」です。

鎧(よろい)を纏い接近戦で力を発揮する猛牛(もうぎゅう)のタイプです。

「粟戈」(ぞくとく)の「戈」(ほこ)は敵を突き刺す「麒麟」の「長い角」を表しているという事です。

「戦車」(チャリオット)は「ヒッタイト人」と「フルリ人」のペアの「白虎」(大伴氏)で、「城」を築いて守りに徹する「盾兵」は「玄武」です。

「青龍」は中国より東の海の「海賊」を表していて大型船を可能にした「鉄」の「竜骨」(りゅうこつ)と呼ばれる材料を意味したのだと思います。

つまり、四方を囲む「四神」(ししん)は中国から見て異国を恐れて生まれた「兵器」のイメージなのかもしれません。

キリンは首が長いので、中国では「長頸鹿」(チャン・チー・ルゥ)と呼びますが、伝説上の「麒麟」とは別物だと考えられているようです。

私は「麒麟」にはキリン以外にもう一頭、別の動物がモデルにいると思っています。

それは「麒麟」と同じように頭に一本の角が生えてる動物で、「一角獣」(いっかくじゅう)のモデルになった動物です。

中国では「麒麟」は「チャイニーズユニコーン」と呼ばれ、一角獣というと西洋の「ユニコーン」の「馬」のイメージが大きいですが、私は「犀」(サイ)が元々のルーツだと思います。

北野天満宮の「太陽」と「月」だけの「星欠けの三光門」の蟇股(かえるまた)に「水犀」(すいさい)の彫刻が施されていますが、「亀」のような甲羅があり、「水」に関係する霊獣なので火災に遭わないための「火除け」の意味もあるようです。

甲羅が描かれたりするのは皮膚が鎧のようなインドサイがモデルになっているという話もあります。

紀元前5世紀の古代ギリシアの医者であるクテシアスがインドには「一本の角が生えたロバ」がいると「インド誌」と呼ばれる書物に書いていて、紀元前3世紀には古代ローマの著述家のアイリアノスが「動物の特性について」で伝聞として、インドには「一本の角が生えた馬」がいると言及しています。

「犀」の古代ギリシア語のῥινόκερως(リノケロス)は「鼻」を表す「リノ」と「角」を表す「ケロス」から「鼻に角を持つもの」という意味になるそうです。

日本の「水犀」は別名を「通天犀」(つうてんさい)と呼びます。

「通天」(つうてん)は「天に届く」という意味で、強い決心を持って一心に努力すれば何事も成功するという「一念通天」(いちねんつうてん)という意味を含んでいるのかもしれません。

「水犀」(ユニコーン)は「努力」を天に届けてくれる霊獣のようです。

中国で伝説の霊獣としてキリンとサイが統合されてしまったようです。

「晋書温嶠伝」(しんじょおんきょうでん)という書物に「燃犀」(ねんさい)という言葉があります。

「東晋」(とうしん)に「温嶠」(おんきょう)という人物がいて、怪物が棲むとされる「牛渚磯」(ぎゅうしょき)と呼ばれる真っ暗な崖の下の河の底から音楽が聞こえてきて、「犀の角」を燃やして覗いてみたら、本当に怪物がいて、そこから「深い洞察力」がある事を「燃犀」(ねんさい)や、「燃犀之明」(ねんさいのめい)と言います。

宋(そう)の文学者の「劉敬叔」(りゅうけいしゅく)の書いた「異苑」(いえん)によると、この怪物を見た「温嶠」(おんきょう)は、その晩ある夢を見ます。

その夢とは人が出て来て「温嶠」にこう質問します。

「私たちと君とは、幽界(あの世)と明界(この世)と道を隔てて存在している」

「どんな意図があって君は私たちを照らすのか?どういうつもりで覗いたのか?」と…

そして、数日経たないうちにこの質問を受けた「温嶠」(おんきょう)は亡くなってしまったと言います。

この「犀の角」が「幽界」(死)と「明界」(生)を隔てる不思議な力を持つものだと思われていて、それを燃やしてしまったから力を失い「あの世」と繋がってしまったのか、それとも、燃やすことによってよりパワーが引き出されて「あの世」と繋がったのかよく分かりません。

しかし、どちらにせよ「犀の角」が「異世界」に通じる不思議な力を持つという事を示唆しているのは間違いないようです。

魏志倭人伝で鬼道(原始の道教)を行ったとされる日本の卑弥呼(ひみこ)の「鏡」も「あの世」と交信する為の道具だったのかもしれません。

「牛渚磯」(ぎゅうしょき)は「馬鞍山」(ばあんざん)にある揚子江(ようすこう)の右岸の断崖絶壁だったようです。

「金の牛」が現れたという伝説のある場所で、「五彩の石」を産出することから「採石磯」(さいせきき)とも呼ばれ、「宝」(富)を象徴する場所だったのかもしれません。

その反面、「馬鞍山」は劉邦(りゅうほう)と天下を争った項羽(こうう)が捕らえられ、処刑された場所で、主人を殺された項羽の「馬」が悲しみのために河に身を投げた場所で、それを見た地元の船乗りが「鞍」(くら)を山に祭った場所になります。

「馬」が死んで「牛」(鬼)が現れた場所です。

唐の詩人の「李白」(りはく)も泥酔して、「月」を捕まえようとして河に飛び込んで溺死した場所でもあるそうです。

「李白」というと「楊貴妃」(ようきひ)を思いだします。

唐の第9代皇帝の玄宗(げんそう)が宮中に沈香亭(じんこうてい)と呼ばれる牡丹園(ぼたんえん)を作って、「楊貴妃」(ようきひ)と共に花を愛でながら「李白」を読んで詩を作らせ「李亀年」(りきねん)に歌わせました。

この時代に日本から唐に渡った阿倍仲麻呂(あべなかまろ)が玄宗に仕え唐朝の諸官を歴任し、高官となります。

サマルカンド出身のソグド人と突厥(とっけつ)の混血であった「安禄山」(あんろくざん)は「楊貴妃」に取り入る形で、「楊貴妃」の養子となり、軍隊の司令官となります。

そこから「楊貴妃」の一族である楊国忠(ようこくちゅう)と「安禄山」の権力闘争が生まれ、「安禄山」による「安史の乱」を引き起こします。

この乱を切っ掛けに、地方の反乱が増加し、唐は反乱軍を内部分裂させる目的で反乱軍の有力な将軍に節度使(せつどし)を乱発し、これが地方にウイグル、チベット、契丹(きったん)などの小軍事政権を誕生させることとなり、300年続いた大唐帝国は徐々に弱体化し滅亡します。

「楊貴妃」が絶世の美女でありながら「悪女」と言われる所以で、玄宗が「牡丹」の美しさを「楊貴妃」の美貌にかけて「李白」に作らせた詩「清平調詞」(せいへいちょうし)から「牡丹」は「楊貴妃」の代名詞となります。

「沈香亭」は中国の香(こう)の始まりとも言える「沈香」(じんこう)の木で建てられたようです。

「沈香」は良質なものは比重が大きく、水に入れると沈む事からこの名前がついたそうです。

「牛渚磯」(ぎゅうしょき)の河の話に戻りますが、水は澄んでいるそうですが、あまりにも深くて光が届かず、角の生えた「鬼」が河から出て来て人を河底に引きずり込むという言い伝えのあった場所のようです。

つまり、「牛渚磯」は「富」と「死」の隣り合わせの場所という事のようです。

漢方では「犀の角」(さいのつの)を「犀角」(さいかく)と呼び、解毒作用があるとされ、とても高額な「宝物」として取引されました。

中国では「犀」(さい)の事を「犀牛」(さいぎゅう)とも呼びます。

「犀」は「馬」の仲間ではなく、「牛」の仲間のようです。

長野県の戸隠神社(とがくしじんじゃ)では古来より「諏訪神」(すわしん)と「水内神」(みのちしん)が祀られてきました。

「諏訪神」とは「贄」(にえ)を司る「狩り」の神様で天武天皇(てんむてんのう)を表します。

「水内神」は水の中に姿を隠す「九頭龍大神」(くずりゅうおおかみ)=推古天皇(すいこてんのう)で長野県を流れる「犀川」(さいがわ)の女神になります。

その戸隠神社の神宝の一つに「牙笏」(げしゃく)があります。

「牙笏」とは聖徳太子が手に持つ平たい板で、高貴な身分しか持つことが許されなかったため、日本でも5枚しか存在していません。

持っていたのは聖徳太子と、聖武天皇、菅原道真、そして、これは私の想像になりますが天武天皇と持統天皇です。

「牙笏」の材質はイチイや桜の樹を使う木製のものと、象牙を使用したものの二種類あります。

象は「輪を以って貴しとする」和合の聖天のシンボルで、イチイや桜は皇極天皇のシンボルです。

この戸隠神社の「牙笏」は昭和39年の国立科学博物館の鑑定によって「アフリカ象の牙」であることが判明し、シルクロードを通じて日本に伝わったものだと考えられています。

持統天皇5年(691年)に水内の神を祀り、「犀角笏奉納」と日本書紀引用の文献に書かれています。

「象牙」(ぞうげ)を「犀角」(さいかく)と間違って奉納したのか、知っていてわざと「犀角」と偽ったのか、あるいはシルクロードを通じて偽物を掴まされたのか、どれが真実かは分かりませんが、長い間、戸隠神社の「牙笏」は「犀角」だと信じられていました。

「犀角」は万病に効くという言い伝えから、所々に削られた跡があり、削った人はその粉を煎じて飲んだものだと想像出来ます。

「幽霊絵馬」の行願寺の行円は比叡山(ひえいざん)の横川(よかわ)の聖(ひじり)でした。

この横川は比叡山(ひえいざん)の鬼門の地で、遣唐使の「船」の形を模した舞台造りの横川中堂があります。

横川は第3世天台座主の円仁(えんにん)によって開かれた土地で、比叡山(琵琶湖)、東塔、西塔の三か所の北側にあり、横川を加えて川に見立てた「四川」(よかわ)=「鹿輪」(しかわ)を意味するのかもしれません。

古代中国の長江上流の「四川」(しせん)は巴蜀文化(はしょくぶんか)が栄えました。

「巴」(は)は蚕の食料となる「扶桑の樹」(ふそうのき)をご神木として絹を作る「戈族」(かぞく)を指し、「秦氏」を意味します。

「蜀」(しょく)は三国志の時代に劉備玄徳(りゅうびげんとく)が入って漢民族の国となりましたが、元々は「羌族」(きょうぞく)を指し「藤原氏」を意味しました。

「羌族」(きょうぞく)は漢民族からは二本の角が生えた「鬼」として恐れられました。

つまり、「四川」とは「秦氏」と「藤原氏」の祖先が協力して建てた国というわけです。

横川中堂の屋根には「一本角」の「鬼瓦」(おにがわら)が飾られています。

「一本角」は「戈族」(かぞく)を指すようです。

「鬼瓦」はギリシャ神話のメデューサの彫刻をシリアのパルミラ遺跡の入口の上に厄除けとして設置していた文化をシルクロードを通じて日本が受け入れたものです。

平安時代の「鬼瓦」は「一本角」が主流で、鎌倉時代になって「二本角」が主流になります。

鎌倉時代とは御存知のように源頼朝(みなもとのよりとも)が京よりも東の地で武家政権の鎌倉幕府を開いた時代です。

源氏は藤原氏の子孫なので、鎌倉は藤原氏の武器である「鎌」を大切に保管する「倉」だというわけです。

この円仁(えんにん)は天台宗の密教を台密(たいみつ)として大成し、第3代天台座主になり、没後は源氏の祖である清和天皇(せいわてんのう)から日本で初めて「慈覚大師」(じかくだいし)という大師号を贈られます。

神社の鬼瓦

また、横川には「角大師」(つのだいし)と呼ばれた第18代天台座主の良源(りょうげん)=「元三大師」(がんざんだいし)を祀る四季講堂(元三大師堂)があります。

伝説によると良源が疫病神を追い払う時に「二本の角」を生やした「鬼」の姿に化けたとされます。

他には33体の豆粒のように小さくなった観音菩薩の化身となった「魔滅大師」(まめたいし)の異名もあります。

33という数字は、観音菩薩が33の姿に変わり、人々を救う「法華経」を体現した数字で、第33代の推古天皇を意味するようです。

横川中堂の西に、龍ヶ池と呼ばれる池があります。

この池には昔、九頭龍と呼ばれる狂暴な悪龍がいて、近くの坂本や仰木などを荒らしていたそうです。

見かねた良源が、九頭龍に話しかけます。

「お前は凄い力を持っているようだが大きくなれるのか?」

問われた九頭龍はたちまち巨大な龍へと姿を変えます。

「ならば、逆に小さくはなれるのか?」

「なれるのなら、この手の上に乗ってみよ」

そういって良源は手の平を出します。

簡単なことだと、龍はたちまち小さくなって手の平の上に乗ります。

その時、良源は手の平を握って観音菩薩の霊力で龍ヶ池に龍を閉じ込めたと言われ、その後、九頭龍には弁財天の使いとしての役目を与えたと言われます。

ここから、人の計略にはかからない事を「その手には乗らない」というようです。

この横川には他にも良源が千僧供養(せんそうくよう)の箸(はし)を埋めた箸塚弁財天(はしつかべんざいてん)と呼ばれる場所もあります。

「箸」も、「観音菩薩」も、「九頭龍」も全て推古天皇を意味しています。

弁財天は元々は持統天皇(じとうてんのう)を表していたようですが、壬申の乱で天武天皇が政権を握り、持統天皇を皇后としたので、天武天皇との結びつきを嫌う藤原不比等は持統天皇には沙穂姫(さほひめ)という名前を本人には気づかれないように予め用意し、古事記に組み込んだものと思われます。

持統天皇が崩御した後は代わりに皇極天皇が弁財天も兼ねる形になったようです。

その後、皇極天皇は、千手観音菩薩(推古天皇)を含む六観音菩薩に勢至菩薩(蘇我倉山田石川麻呂)を加えた「七仏」を脇侍とする浄土教の阿弥陀如来(あみだにょらい)という新しい名前も持つようです。

浄土教は、良源の弟子の源信(げんしん)が開祖となり、そこから法然(ほうねん)の浄土宗や、親鸞(しんらん)の浄土真宗が生まれます。

宇治の平等院に代表される浄土教は藤原氏と結びつきの強い宗教と言えそうです。

私は平安時代後期から室町時代前期に成立した歴史物語「四鏡」(しかがみ)は「鹿神」(しかがみ)で藤原四兄弟の「四本の鎌」の「鎌卍」(かままんじ)を表していると思います。

「鎌卍」は戸隠神社の神紋で、「鏡」を表します。

画像

鎌卍(かままんじ)

卍のルーツは古代インドで「ヒンドゥー教」と「仏教」を結びつけたヴィシュヌのシンボルマークでした。

ヴィシュヌは「鳳凰」の化身であり、「卍」(まんじ)は回転する「太陽の光」を表すマークでした。

ただし、その回転する方向は現在の日本の「卍」のように「左」(反時計回り)ではなく、「右」(時計回り)向きの「卐」がヴィシュヌのマークで、インドのアーリア人がヨーロッパのゲルマン人の起源だとするヒットラーのナチスの「ハーケンクロイツ」(鍵十字)として用いられるようになりました。

日本のように「左」の「卍」は本来は「逆」であり、「卐」を反転した形になるようです。

「右」の「卐」はヴィシュヌ(毘沙門天)の「光」の「白」を表していたのに対して、「左」の「卍」は「闇」の「黒」であるシヴァ(大黒天)を表しているのかもしれません。

元々、シヴァは「男性器」(リンガ)や「牡牛」を崇拝するインダス文明を築いたドラヴィダ人の神様で、そのルーツはカナンのベル(バアル)にあるようです。

比叡山の横川の「角大師」の良源の墓は「キノコ」の形だと言われていますが、おそらく、シヴァの「男性器」(リンガ)を意味していると思われます。

シヴァの人気が上がるにつれ、古代のヒンドゥー教の像は「右」の「卐」が多かったのに、時代が新しくなるにつれて「左」の「卍」が増え、「左右」両方が存在するようになったのかもしれません。

インドでは「卐」は「スヴァスティカ」と呼び「幸運の鳥」とされ、毘沙門天のシンボルとして仏教でも広く使われるようになり、中国に仏教の経典が伝わった時に「吉祥喜旋」(きっしょうきせん)や「吉祥海雲」(きっしょうかいうん)と訳されました。

鳩摩羅什(くらまじゅう)や玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)はこれを「徳」と訳して、則天武后(そくてんぶこう)は全てが満たされる印という事で「萬(満)字」(まんじ)と定めます。

「四鏡」は物語の古い年代順だと「水鏡」(みずかがみ)、「大鏡」(おおかがみ)、「今鏡」(いまかがみ)、「増鏡」(ますかがみ)になりますが、成立順だと、「大、今、水、増」(ダイコン水増し)となります。

最初に「大鏡」が製作されて、後から他の物語が足されたようです。

「大鏡」(北)は藤原北家の藤原道長(ふじわらみちなが)を主役とし、「今鏡」(東)は藤原京家の藤原麻呂(ふじわらまろ)、そして、「水鏡」(西)は式家の藤原百川(ふじわらももかわ)と全て藤原四兄弟を目立たせる内容だと私は思います。

藤原百川は久米氏を母に持つ事から推古天皇の血を引く人物だと私は思います。

「水鏡」は「見ず鏡」で、「鏡を見ない」=「我に執われる」という事のようです。

「鑑真」(がんじん)は「鑑(水鏡)の真実」という意味だと思います。

最後の「増鏡」(南)は「鳳凰」を表す鏡なので、本来ならば藤原南家の藤原武智麻呂(ふじわらたけちまろ)になりそうですが、鳥羽天皇(とばてんのう)から始まって南北朝時代に武家政権の鎌倉幕府を滅ぼす為に「南朝」を立てた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が主役のようです。

藤原武智麻呂は没後、「佐保山」(さほやま)で火葬され、奈良県五條市の音無川(おとなしがわ)を眼下に望む薬師如来を本尊とする榮山寺(えいさんじ)の前山(崎山)に埋葬されます。

「佐保山」は天武天皇を象徴する「毘沙門天」が祀られていた山ですが、天武天皇が崩御した後に均(なら)されて平地にされてしまった山で「平城山」(ならやま)と呼ばれます。

後醍醐天皇は「南朝」の正統性を「北朝」に認めさせましたが、今まで通り「南北」交代で天皇を立てる約束で南北朝を統一し、三種の神器を「北朝」に渡してしまった結果、約束を守らなかった「北朝」によって「南朝」を消滅させてしまう事となります。

勝者であって、実質は敗者になります。

「鎌倉」という武家政権を嫌った「南朝」が結局、「室町」という新たな武家政権を誕生させてしまっただけで、支配者が北条氏から源氏の足利氏に移っただけでした。

「増鏡」の本当の主役は「武家政権」の「源氏」だという事です。

この切っ掛けを作ったのが鳥羽天皇の寵愛した「藤原得子」(ふじわらのなりこ)で、公家が後白河天皇(ごしらかわてんのう)と崇徳上皇(すとくじょうこう)の二つに分裂する「保元の乱」(ほうげんのらん)を引き起こし、公家がその内部抗争の解決に武士の力を借りた為に「武家政権」が樹立されることとなります。

この「藤原得子」は南北朝時代末期に成立した「神明鏡」(しんめいかがみ)の「玉藻前」(たまものまえ)と呼ばれる伝説上の人物と同一視され、皇帝を誑かす女性の妖怪の「九尾の狐」(きゅうびのきつね)に例えられます。

伝説では「玉藻前」は15~16歳の少女の「若藻」(わかも)に化けて「鑑真」の船に乗り込んで「唐」から日本にやって来たと言われます。

中国の「殷」(いん)の時代には紂王(ちゅうおう)を酒と女に溺れさせ「酒池肉林」(しゅちにくりん)という諺を生んだ「妲己」(だっき)、その次の「周」(しゅう)の時代には幽王(ゆうおう)を夢中にさせた「褒姒」(ほうじ)、そして、「唐」の時代の「楊貴妃」(ようきひ)も「九尾の狐」が取り付いたものだという逸話が残っています。

この「九尾の狐」は絶世の美女で「国を傾ける」妖怪というイメージですが、元は「西王母」(せいおうぼ)の使いで「三足鳥」とセットで脇侍に置かれます。

「西王母」は道教の女神で「不老不死」の「桃」の女神であり、日本の「秦氏」を代表する「伊弉冉命」(いざなみのみこと)になります。

「龙虎」(りゅうこ)と呼ばれる神獣を玉座にして描かれることが多く、「龙虎」(りゅうこ)は「龙」(龍)と「虎」の両方を支配する「神獣」のようです。

私は、これは「龙虎」(りゅうこ)ではなく、「白虎」(びゃっこ)だと思います。

元々、中国を統一した「秦」は中国の「西」に位置し、「白虎」が「秦」のシンボルマークで、「西王母」の「西」はもちろん崑崙山(こんろんさん)の意味もあるのでしょうが、不老不死を求めた「秦」の意味が最も強いと思います。

「白虎」が四神の中で最も高齢だとされるのも「西王母」を意味しているからだと思います。

日本では「西王母」は「鬼子母神」(きしもじん)と呼ばれ、その子供が荼枳尼天(だきにてん)となり、愛染明王(あいぜんみょうおう)になり、推古天皇(卑弥呼)の後を継いだ皇極天皇(台与)を意味するようです。

現在の中国人は「秦」の後に「漢」を建てた漢民族なので、「秦」の建てた「万里の長城」(ばんりのちょうじょう)も、全て自分たちの力で創造したものではなく、戦争によって手に入れたものになります。

「秦」は滅亡してから100年後に書かれた司馬遷(しばせん)の史記(しき)によってその存在は知られていましたが、あまりにもスケールが大き過ぎて、単なる伝説だと思われていました。

それが1974年に住民が井戸を掘っている時に偶然発見された精巧な造形の8000体の「兵馬俑」(へいばよう)によって、史記の信憑性が増し、「秦」への関心が強まりました。

「秦」の文化はとても高度で、その後の王朝は全て「秦」を模範としたようです。

つまり、異民族を表す「白虎」は漢民族にとっては恐れの対象で、「凶」になったのだと思います。

「三足鳥」は「太陽」を表し、「九尾の狐」は「月」を表し、「西王母」はその両方を支配していたという事のようです。

「三足鳥」は日本の「八咫烏」(やたがらす)で「鏡」の「八幡神」を表します。

日本で最も多い神社は「八幡神」で、その次に「稲荷神」となるそうです。

どちらも「秦氏」の神様です。

この「稲荷神」が「九尾の狐」を表していて「九条」に東寺を建てた空海がその南東の「杉山」に東寺の守護神として「稲荷神」を祀りました。

「九尾の狐」は「秦氏」を代表する神様で、「八幡神」の「賀茂氏」(かもし)の「鴨川」(かもがわ)に合流する「葛野川」(かどのがわ)を表していたようです。

「葛」(かど)は「角」(かど)であり、九頭龍大神の「九頭」(くず)=「葛」(くず)でもあります。

「九頭龍」は「頭」が「九」なのに対して「九尾の狐」は「尾」が「九」で、「推古天皇」(九頭龍)と「皇極天皇」(九尾の狐)を表すようです。

「葛野川」の上流は「秦氏」が治水工事を行い開拓した土地で、多くの「秦氏」が住んでいたとされ、現在の皇極天皇を意味する「桂川」(かつらがわ)は後から付けられた名前になります。

桂は月桂冠(げっけいかん)の言葉のように冠(兜)を意味し、玉鬘(たまかづら)など頭を意味します。

通常、「狸」は大国主命(物部氏)で笠(頭)=「笠間荒神」(かさまこうじん)を表し、「狐」は八上姫(秦氏)で草履(足)=「十一面観音菩薩」を表しますが、「九尾の狐」は秦氏を日本に連れて来た葛城氏として、同族ですが頭(リーダー)になるようです。

中国から見て北狄(ほくてき)を意味する「同じ穴の狢(むじな)」になります。

「鴨川」の上流は「牛」の「角」のようにYの字に分かれていて、その分岐点に「八咫烏」(やたがらす)=「八幡神」を祀る下鴨神社(しもがもじんじゃ)の「鏡」の神社とされる「河合神社」(かわいじんじゃ)があります。

河合(かわい)について

「河合神社」は持統天皇の母親である遠智娘(おちのいらつめ)=玉依姫(たまよりひめ)であり、「秦氏」、「物部氏」、「蘇我氏」の三氏族を結びつけた宗像三女神の田霧姫(たぎりひめ)を象徴します。

その「河合神社」と、西側の「鴨川」を挟んで反対側に「幸神社」(さいのかみやしろ)があります。

「幸神」(さいのかみ)は「犀の神」(さいのかみ)で推古天皇を意味します。

神様に仕える巫女の「斎宮」(さいぐう)の元祖です。

現在のご祭神は猿田彦大神となっていますが、本当の主祭神はその妻の天細女命(あめのうずめのみこと)になります。

天細女命と豊受大神の両方の意味を持つ穀物神が宇迦御魂(うかのみたま)と呼ばれます。

猿田彦大神と宇迦御魂を祀る二見玉興神社(ふたみおきたまじんじゃ)の藻刈神事(もかりしんじ)は海中から刈り取る「藻」(も)を「無垢塩草」(むくしおくさ)と呼び、不浄なものを祓い清める力があるとされます。

「二見」(ふたみ)は「生」と「死」を分けた「伊弉諾命」(いざなぎのみこと)が「黄泉の国」で後ろを振り返った事件を表し、「藻」は「九尾の狐」を表しているものと思われます。

「物部氏」を意味する西宮戎神社の本殿の狛犬が「九尾」なのは物部氏にとっては「九尾の狐」は吉兆(きっちょう)の瑞獣(ずいじゅう)だからです。

「賀茂氏」の「賀茂」(かも)は「加茂」(かも)であり、「茂」(も)は「藻」(も)を表していて、天智天皇(物部氏)に「藻」(九尾の狐)を加えたのが持統天皇である「加藻」(かも)だという事だと思います。

岡山県の日蓮宗の「最上稲荷」(さいじょういなり)の「最上」(さいじょう)は最上位教(さいじょういきょう)=法華経(ほけきょう)の事だと考えられますが、「最(犀)の上」(さいのうえ)=「最上」(もがみ)で、「藻神稲荷」(もがみいなり)の隠れた意味があるように思います。

壬申の乱で政権が天智天皇から天武天皇に移り、持統天皇が天武天皇の后となってからは「藻」(も)は素戔嗚尊の「毛」(も)に代わり、群馬県の「上(毛)野」(かみつけ)=「天武天皇」(馬)と、栃木県の「下(毛)野」(しもつけ)=「蘇我倉山田石川麻呂」(牛)の国が生まれます。

お盆に飾る「精霊馬」(しょうれいま)は「キュウリ」(馬)=「天武天皇」と、「ナス」(牛)=「蘇我倉山田石川麻呂」になります。

精霊馬

「キュウリ」は元々、素戔嗚尊の「蘇我氏」を意味しましたが、そこに「天武天皇」を被せたようです。

「ナス」は「鴨ナス」で天神の「牛」になり、「キュウリ」も含めて「牛頭天王」となるようです。

道教の「馬頭羅刹」(めずらせつ)と「牛頭天王」の地獄を獄卒する「馬」と「牛」の番人です。

共に閻魔大王(えんまだいおう)の下で働く使いになります。

「馬頭羅刹」は仏教では「馬頭観音」(ばとうかんのん)と呼ばれ、毘沙門天(ヴィシュヌ)の化身とも言われます。

足利氏が立てた室町幕府は京都に造営した花の御所(室町殿)から命名され、武家政権は「東」から「京」に戻ります。

その後、戦国時代や、安土桃山時代を経て、徳川家康が再び坂東武者として江戸幕府を開き、「東」が武家政権の中心となります。

この「四鏡」とは別に鎌倉幕府を書いた「吾妻鏡」(あづまかがみ)という書物もあります。

「吾妻」(あづま)とは日本武尊(やまとたける)が東征の時に忌部氏の房総半島を船で渡っていた時に嵐に遭い、その嵐を静める為に妻である「弟橘姫」(おとたちばなひめ)が海の神に嵐を止めてくれるように命と引き換えに祈り入水自殺した場所です。

嵐は静まり、妻の死を嘆いた日本武尊が「吾妻」(わがつま)と叫んだ事から「東」を「吾妻」(あづま)と呼ぶようです。

「吾妻」(東)は武家政権の男性を立てる女性の手本、見本になる土地のようです。

「吾妻鏡」は北条氏が書いた物語なので、源頼朝(みなもとよりとも)の妻の北条政子(ほうじょうまさこ)が内助の功で「吾妻」なのかもしれません。

当時、流刑人だった頼朝を愛し、平家を恐れて源氏には近づかない時代に父の反対を押し切って結婚し、頼朝を陰で支えたようです。

北条政子は聡明で勝ち気な性格だったようで、頼朝は政子には頭が上がらなかったようです。

北条氏は平貞盛(たいらのさだもり)の子孫を自称していました。

「吾妻鏡」は「増鏡」より早く成立していたようですが、武家政権を嫌う朝廷が「吾妻鏡」を無視して「増鏡」を作ったようです。

日本武尊の「弟橘姫」は「玉依姫」(たまよりひめ)=遠智娘で、船の舳先(へさき)には大きな「鏡」が取り付けられていたそうです。

「吾妻鏡」が五枚目の「鏡」になるようです。

「犀」の話に戻りますが、「犀の角」はシルクロードを通じてヨーロッパにも伝わりました。

「犀」を見たことのないヨーロッパの人々は「ユニコーン」という生き物を想像します。

そして、「ユニコーンの角」は毒に触れるとそれを浄化して無毒にするという伝説が生まれます。

「ユニコーン」は貞操を好み処女にしか懐かず、湖に現れるという伝説は、想像が膨らんでいった結果だと思います。

昔はヨーロッパでは北極海に生息するクジラである「イッカクの牙」を誰かが「ユニコーンの角」だと偽って高額な取引がされていたそうです。

その角の長さは3メートルにも及ぶと言われます。

毒を制する「ユニコーン」は「薬」のシンボルであり、そこからイエス・キリストを表した聖獣と言われます。

ヨーロッパでは薬局の看板に描かれたりすることもあるようです。(以下略)











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