いま甦る、キリシタン史の光と影 ③

https://christian-nagasaki.jp/stories/9.html 【「いま甦る、キリシタン史の光と影。」 第9話

神社と共生した潜伏キリシタン】  より

島原の乱に参加した天草の村々は荒廃し、新しい領主によって復興されていきました。一方で一揆に参加しなかった村のうちいくつかの集落では、その後もひそかに信仰が継承されていきました。

現在、入り組んだ湾のほとりに美しい教会がそびえたっている﨑津集落はそのうちのひとつです。この集落では禁教の時代に神社と共生するという方法で、信仰を継承していったのです。

島原・天草一揆のあと、一揆に参加した天草の村々は島原半島とおなじく荒廃しました。天草の領主は代えられ、新しい領主は離散した領民の呼び戻しや新田開発、富岡城の再建などに取り組みました。その後、天草は幕府直轄の天領地となります。

復興される一方で、各地に寺院が設けられ、領民は必ずどこかの寺院の檀家になるという寺請制度もはじまりました。それぞれの村の庄屋宅では定期的に絵踏みが行われ、キリスト教禁制の高札が設けられるなど、生活の隅々まで取り締まりが徹底されていきます。

当時、こうした宗教の統制は天草のみならず、幕府によって全国的におこなわれていました。しかし、そうした中でもひそかに信仰を受け継いでいった地域があったのです。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:羊角湾にのぞむ﨑津集落羊角湾にのぞむ﨑津集落

神社との共生

天草の入り組んだ羊角湾のほとりに位置する﨑津集落はその1つです。住民の多くは漁業を営み、江戸時代は海路でなければ通行もままならないという隔絶された土地でした。外部の人の往来があまりないこの集落のキリシタンは、表向き仏教徒を装いながら、ひそかに洗礼やオラショを伝承していきました。

独自の信徒組織も営まれ、集落の長老格が「水方」とよばれる指導者となり、子どもの誕生時に洗礼をさずけたり、仏式葬儀のときに経消しを唱えたりしたそうです。

﨑津の潜伏キリシタンは、アワビ殻や一文銭、鏡などを聖器として信仰する一方、集落を見下ろす山の斜面に建つ﨑津諏訪神社も大切にしていました。この神社に潜伏キリシタンが参拝する際には「あんめんりゆす(アーメン、デウス)」と唱えていたという記録が残っています。自らの信仰と神社の様式をうまく摺り合わせながら共生していったことがうかがえます。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:﨑津諏訪神社﨑津諏訪神社

天草崩れ

1805年、﨑津をはじめ今富、大江、高浜の4村の潜伏キリシタンが「宗門心得違者」として摘発されます。これらの村では講会と称して夜分集まったり、神前で変わった参拝をする風習があるようだと、長崎奉行所や江戸幕府に報告されたのです。その結果、5千人あまりが摘発されました。

ただし彼らはキリシタンとしてではなく、「心得違いの者」として摘発されました。関わった役人は潜伏キリシタンであると事実をつかんでおきながら、婉曲して報告したのです。事を大きくせずに穏便に済ませようとしたことが読み取れます。

摘発された人々は村から出ないよう出郷差し止めとなり、信仰していた聖器は「異物(仏)」として没収されました。幕府や奉行所もこの天草崩れを深追いする事はなく、潜伏は明治維新までつづくことになります。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:﨑津集落の様子﨑津集落の様子

﨑津教会の建設

明治に入り禁教令が解除されると、﨑津諏訪神社のとなりに木造の教会が建てられました。その後、﨑津にやってきたフランス人司祭・ハルブ神父が集落の中心にあった庄屋屋敷跡を買い取ります。この屋敷はかつて絵踏みが行われていた場所だったのです。

1934年、その屋敷跡に現在の教会堂が建設されます。設計・施工を行ったのは鉄川与助でした。外観はゴシック建築でありながら内部は畳敷きという珍しい教会です。洋式をうまく摺り合わせるという工夫がここにも見てとれます。

絵踏みが行われていた場所には現在、祭壇が置かれているそうです。禁教の時代およそ250年間、状況にあわせて形は変えていったものの、根底の意志は堅く受け継いだという信者たちの想いが伝わってきます。


https://christian-nagasaki.jp/stories/8.html 【「いま甦る、キリシタン史の光と影。」 第8話

聖地として語り継がれた地】 より

島原の乱のあと、幕府による徹底した弾圧により島原半島南部は根絶やしの状態となりました。そして全国各地から移住者が集められ、この地では再び信仰が広がることはありませんでした。

しかし五島や長崎、天草などのキリシタンは、宣教師がいない禁教の時代にあっても独自に信徒組織をつくり、表面上は仏教徒を装ってひそかに信仰を継承していきます。その形は地域によって少しづつ違っていました。この第8話では平戸についてお話しします。

殉教と聖地化

平戸はフランシスコ・ザビエルが布教した土地です。当時の領主・松浦氏の縁戚が信者となったこともあって多くの領民がキリシタンとなりました。宣教師と仏教徒の争い、ポルトガル船員と平戸商人の口論から死傷者を出した事件、また豊臣秀吉の宣教師追放令に呼応した松浦氏の政策など、様々な問題や摩擦が生じながらも信仰は根強く広まっていきました。

そのような中、平戸のキリシタンが決定的な打撃をうける出来事が1599年に起こります。松浦氏の縁戚であり平戸での信仰を庇護していた籠手田氏の一族およそ600名が長崎へ追放されたのです。これ以降、平戸の信者たちは支柱を失い、受難の時代に入りました。

平戸の各地では厳しい取り締まりにより多くのキリシタンが殉教しました。平戸島の美しい海岸、根獅子ヶ浜にある「昇天石」と呼ばれる小岩はそれを伝えるもののひとつです。多くのキリシタンがこの小岩で処刑されたと伝えられており、「殉教者たちはこの小岩から天国へ逝った」とのことから聖地として祀られています。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:昇天石のある根獅子ヶ浜昇天石のある根獅子ヶ浜

聖地・中江ノ島

平戸には信者の殉教にまつわる聖地がいくつもあります。信仰が強く浸透していた生月島の信者にとっての最大の聖地は、島の東に浮かぶ無人島・中江ノ島でした。

1613年の慶長の禁教令で宣教師はすべて国外追放されましたが、そのあとも日本へ潜入して布教を試みる宣教師が多くいました。カミロ・コンスタンツォ神父はその1人で、1622年にひそかに潜入し平戸や生月島で布教していました。

しかし神父はまもなく捕らえられて火あぶりの刑に処されます。その後、神父に手を貸した生月島の信者も捕らえられてしまいました。彼らは中江ノ島で処刑されることになり、処刑場にむかう船中では賛美歌を歌いながら自ら櫓を漕いだ者もいたそうです。殉教すれば天国へ行けるという教えがあったのです。ほかにも一緒に昇天できるよう、兄弟3人で俵につめられた上で縛られ、海に投げ込まれた子どもたちの話など、さまざまな殉教の話が伝承されてきました。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:生月島からみた中江ノ島生月島からみた中江ノ島

潜伏の時代へ

平戸で最後の殉教があったのは1645年だといわれています。この年以降は宗門改奉行がおかれ、定期的な絵踏みによって領民の宗教が厳しく管理されるようになります。そのような中、キリシタンたちは表向きだけ改宗して仏教徒を装い、隠れて信仰を続けるようになりました。

この水面下での信仰の形は地域ごとに少しづつ異なっています。平戸で特徴的なものは「納戸神信仰」というものです。これは座敷に神棚を祀り仏壇を備え、ごく普通の家と変わりないように装いながら、家の奥の納戸にはキリシタン祭具を飾り、ひそかに信仰するという工夫でした。

ほかにも具象化されたデウスの姿をあしらった掛け軸や、キリストやマリア、聖人などの人物画を大和絵風に描いたものが潜伏時代の信仰の対象となりました。信徒組織は外部から発見されないよう地下に潜んで営まれるようになります。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:納戸神さま(平戸市切支丹資料館)納戸神さま(平戸市切支丹資料館)

宣教師がいない中での信仰継承

宣教師がいない中での信仰の継承は、羅針盤をもたずして船を進めるようなものでした。禁教以前に信者達が教会で熱心に覚えた教義や祈りは、オラショとよばれる呪文や唄の形で継承されていくようになります。

このオラショも地域によって独自に変化していき、中には声を出さないで執り行われるものもあるといいます。教義を伝える宣教師がいない状態では、内容の理解を必ずしも伴わない暗記と口伝という形で継承されるため、次第にもともとの教義から変容し、独自の信仰形態へと変わっていったと考えられます。

しかし、変化しながらもそれらは親から子へと脈々と受け継がれていきました。1873年にキリスト教禁制の高札が撤去されるまでのおよそ250年間、信仰はひそかに継承されたのです。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:マリア観音(平戸市切支丹資料館)マリア観音(平戸市切支丹資料館)

かくれキリシタン

明治時代に入って、キリスト教禁制の高札撤廃のあと、潜伏キリシタンたちは信仰を表明してカトリックに戻る人々と、それまでの信仰形態を守る「かくれキリシタン」とに別れました。

なぜ隠れて信仰を続ける必要があったのということに関しては、さまざまな理由があったようです。先祖代々の伝統形態を継承していくことこそが大切だとする考え方、またはこれまで受け継いできた習慣を放棄すると罰をうけるという恐れなど、端的には言い表せない背景がうかがえます。

平戸の生月島や根獅子はかくれキリシタンの里として知られていますが、永年の信仰形態の変化と忘却、そして継承者の不在からかつての組織や伝承は失われつつあるそうです。この記憶を書き留めることができる時間は、あと僅かなのかもしれません。


https://christian-nagasaki.jp/stories/7.html  【「いま甦る、キリシタン史の光と影。」 第7話

3万7千人の悲劇…島原・天草一揆】  より

1637年、年貢を納めきれなかった口之津の庄屋の妊婦が代官によって殺されたことをきっかけに、島原半島と天草の領民たちは次々と蜂起します。彼らの総大将となったのはわずか15-16歳の少年、天草四郎でした。

幕府ははじめ、これをただの農民一揆にすぎないと見ていました。しかし、かつて有馬氏や小西氏などキリシタン大名の家臣であった帰農武士たちが指揮する一揆勢は、本格的に武装・組織化されており、事態は深刻になっていくのです。

湯島で談合する帰農武士たち

凶作にくわえて松倉氏の過酷な年貢の取り立てにより、島原半島では多くの餓死者が出ていました。領民たちは翌年の田植えに使う種籾すら、奪い取られていったといいます。かつて有馬氏に仕え、武士の地位を捨てて島原半島に残った帰農武士たちは「この惨状をなんとかしなければ」と密かに話し合いを重ねるようになります。

苦悩していたのは島原半島の領民だけではありません。関ヶ原の戦いで敗れたキリシタン大名・小西行長に代わって唐津領主・寺沢広高に治められていた天草の領民も、重い年貢と信仰の禁止に苦しんでいたのです。そして天草では、宣教師が残した「天変地異がおこり人が滅亡に瀕するとき、16歳の天童があらわれ、キリストの教えを信じるものを救うであろう」という予言が注目を集めるようになります。かつて小西行長の家臣であったキリシタン浪人たちは、その予言の下に結束するようになりました。

島原半島の帰農武士たち、そして天草のキリシタン浪人たちが集まったのは、それぞれの地の間に浮かぶ湯島でした。彼らはここで談合を行い、一揆を図るようになるのです。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:湯島(談合島)を島原半島より見る湯島(談合島)を島原半島より見る

3万7千人の蜂起

湯島で一揆の計画が練られている中、領民たちの怒りが爆発する事件が起きます。年貢を納めきれなかった口之津の庄屋の妊婦が代官によって殺されたのです。それは身ごもっているにもかかわらず、冬の冷たい川の中の籠に閉じ込められ、母子ともども命を落とすという非常に残虐な事件でした。

これをきっかけに島原半島と天草の領民たちは次々と蜂起します。彼らの総大将となったのはわずか15-16歳の少年、天草四郎でした。彼こそが天草に残された宣教師の予言にある「天童」であると信じられ、キリシタンは自らの信仰を表明し、領主に立ち向かっていったのです。

島原半島では松倉氏の居城・島原城が、そして天草では富岡城が、蜂起した領民たちによって攻囲されました。かつて武士であった指導者たちによって民衆は武装・組織化され、単なる農民一揆を超えた本格的な戦いへと発展していきました。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:天草四郎像(原城跡)天草四郎像(原城跡)

原城跡での籠城

はじめ勢いのあった一揆勢ですが、島原城も富岡城もなかなか陥落しませんでした。そこで天草の一揆勢は海を渡り、島原半島の一揆勢と合流しました。その数はおよそ3万7千人。彼らは戦力となる男だけでなく、女子供までを含む大集団のまま原城跡に立て籠もりました。「ここで待っていればポルトガル船が応援に来てくれる」・・・かつて龍造寺氏を撃退したときのイエズス会の大砲のことも聞き伝わっていたのでしょう、一揆勢は そうした願いも持ちながら、結束して組織的な籠城生活をはじめます。

はじめはただの農民一揆にすぎないと考えていた幕府ですが、深刻化する事態を重く見て九州の諸大名にこれを鎮圧するよう呼びかけます。そうして島原半島に集結した兵は、最終的には12万余という大軍に膨れ上がります。幕府軍は原城跡を取り囲み、食糧を断ち切る兵糧攻めを行いながら、数回にわたって城攻めを行いました。しかし諸藩の統制を十分にとれていなかったことに加え、廃城とはいえかつて有馬晴信が築いた原城の堅牢さもあいまって、幕府軍の攻撃は思うように行きません。一揆勢の籠城は3ヶ月間にも及ぶことになるのです。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:島原陣図屏風・戦闘図(秋月郷土館蔵)島原陣図屏風・戦闘図(秋月郷土館蔵)

幕府軍12万の総攻撃

兵糧攻めがつづき、原城内の弾薬と食料はほとんど尽きかけていました。一揆勢は原城の断崖絶壁を海まで下り、海藻をとって食糧の足しにしたといいます。幕府側の指揮者・松平信綱は城外に討って出た一揆勢の死体を見分して、海藻しか入っていない、つまり城内にはもう食糧が残っていないということを確信すると、1638年4月12日を総攻撃の日と定めます。しかし、その前日に手柄をねらっていた諸大名が我先にと抜け駆けしたため、なし崩し的に攻撃がはじまりました。

弾薬も食糧も尽きている一揆勢に対し、12万余りの幕府軍が襲いかかりました。原城は一日で陥落し、天草四郎はじめ、籠城していた民衆のほぼ全員がここで命を落としました。幕府軍に徹底的に破壊、殺害されたのです。

近年の原城跡の発掘調査では、刀傷が刻まれた人骨、遺体の口元近くのメダイ、また鉛弾を溶かしてつくったと考えられる十字架などが出土しました。原城跡で見つかったこうした出土品は、戦いの壮絶さや籠城していた人々の信仰心をいまに伝えたのです。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:原城跡から出土した鉛の十字架原城跡から出土した鉛の十字架

徹底された弾圧、そして鎖国へ

「キリシタンの痕跡を一切残さない」・・・原城跡の遺構からはそうした幕府の対応を垣間見ることができます。城としての機能を再生できないよう、櫓台の隅石のほとんどは外されました。また、残っていた建造物も焼却し、破壊した石垣で埋めるといった徹底ぶりで処分されました。

島原藩主・松倉勝家はこの乱の責任を問われ改易され、後に斬首となります。民衆が全滅してしまった島原半島南部には、全国各地から移住者が集められました。そして1639年、幕府がポルトガル船の入港を禁止すると、日本は長い鎖国の時代に突入するのです。

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