駿府キリシタンの光と影

https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/06_01.htm 【駿府キリシタンの光と影駿府から始まったキリシタン信徒迫害】 より

「キリシタンを迫害する悪皇帝(徳川家康)に相当の報を与え給え。何となれば、彼の政治を行ふ間は善き事を行なふの望みなきが故なり」(「ビスカイノ金銀島探検報告」)このように、スペイン人にうらまれた家康の駿府大御所時代の記録は、残念ながら国内にはあまり存在しない。しかし生死を賭けて来日したキリシタン宣教師らの記録は、海外に数多く残されていることが最近の研究でわかってきた。それらの記録から、「駿府のキリシタン」を取り巻く当時の環境から見てみよう。

駿府にキリシタンの信仰がいつ入って来たかは明らかではない。慶長2年(1597)ごろからはすでに始まっており、駿府市街と安倍川付近に南蛮寺(教会)17世紀の駿府教会地図が2カ所あったといわれている。慶長17年(1612)の「日本全国布教分布図」(山川出版「日本史」所収)によると、駿府の教会設立は江戸より早いことがわかる。駿府におけるキリスト教の布教は、当然それ以前であることは明白だが、資料に登場するのは、慶長12年(1607)閏4月にイエズス会の宣教師パジェス一行が駿府城で家康に拝謁したとき、駿府と江戸での布教を願い出たのが最初である。(「パジェス日本邪蘇教史」)。

しかしこれより先、すでにフランシスコ派のアンジェリスが駿府で開教しており、1カ月に240名余の信者が洗礼を受けていた記録もあるという。

こうした時期に、先に述べたスペイン国王使節セバスチャン・ビスカイノが来日し、駿府城で家康に謁見した。皇帝家康と無事に謁見が済むと、ビスカイノは宿に帰った。遠い異国から来たビスカイノに会うために、キリシタン信者たちだけでなく家康の息子(義直・頼直・頼房)らをはじめ多くが訪れた。連日、異国の話を聞きに来る者が大勢いたという。それは慶長16年(1611)のことで、このとき、駿府のキリシタン信徒たちの熱狂的な歓迎を受けたことが彼の記録に次のように記されている。

「我々は旅館に帰りしが、同所に皇帝の宮中の婢妾女官と称する方可なるジュリアといふキリシタン、大使を訪問し、ミサ聖祭に列せん為め待ちいたり。この婦人を歓待し硝子の玩具その他の品を与へしが、影像珠数その他信心の品に心を寄せたり。彼女は善きキリシタンなりと伝へられしが、その態度これを証明すと思はれたり。(駿府の)日本人のキリシタン多数、大使に面会し、またミサ聖祭に列席し教師等に接して慰安を得ん為めに来り。彼等より好遇せられしこと、及び他の人々が我等の正教の事を聞き、此処に述べず。この事は実に嘆賞すべきことなりき」(「ビスカイノ金銀島探検報告」)。

大奥の侍女でキリシタン信者であるジュリアがビスカイノに、「ミサに同席させて欲しい」旨を願い出たのである。駿府は、この時点では信者にとっても平和な信仰の地でもあったが、やがて迫害の嵐が吹き荒れる前夜でもあった。


https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/06_02.htm 【駿府キリシタンの光と影岡本大八事件とキリシタン弾圧】 より

徳川家康の「キリシタン禁教令」は、慶長18年(1613)に発布された。正式名は、「伴天連追放之令」という。初めは、駿府より幕府直轄領に布告され禁止されたものであった。京都の教会を破壊させたのもこの時期と一致している。発端は、本多正純の寄力であった洗礼名パウロと呼ばれた岡本大八が、肥前のキリシタン大名有馬晴信を欺くために、大御所家康の朱印状を偽造したことが発覚したことによる。大八は慶長17年(1612)3月、駿府市街を引き回しのうえ、安倍河原で火刑に処せられる前に、拷問に耐えかねて駿府の主なキリシタン信者の名前を白状したため、このときに多くの関係者が捕えられている。有馬晴信も、同年5月に家康の命によって処罰された(「当代記」)。

原主水の銅像〔カトリック静岡教会前〕キリシタン信者の実態調査の命令を受けた駿府町奉行彦坂九兵衛が、さっそく取り調べると、家康の周辺に多くのキリシタンが取り巻いていることが露見した。その中には、家康の鉄砲隊長原主水もいた。のちに捕らえられた原主水は江戸に引き回され、元和9年(1623)12月4日の朝にキリシタン50人とともに処刑された。このとき、諸大名を前にして処刑したのは彼らに対する見せしめのためであった。フランシスコ・ガルベス神父やアンジェリス神父も同時に処刑されたが、彼らの遺骸が信者によって一晩でどこかへ運び去られたことは有名な話である。


https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/06_03.htm 【駿府キリシタンの光と影アビラ・ヒロンの「日本王国記」から】 より

アビラ・ヒロンは、「日本王国記」の中でキリシタン信徒および宣教師が、徳川家康によってどんなに迫害されたかを記し、ウィリアム・アダムズによって始まったと、次のように厳しく指摘している。「この王国(日本)で難破した船の水先案内であったイギリス人が造った小帆船で、一六一〇年、ドン・ロドリゴはメヒコ(メキシコ)に向け出船した。このイギリス人はアダムズといい、われらの主とキリシタン宗徒たちに不利になるでたらめごとを国王(家康)に告げ口して、われわれをひどい目に合わせたのである」(「日本王国記」)。

アビラ・ヒロンのほかにも、駿府でのキリシタンの平和な時代や、あるいはそれから一転し、迫害へ進んだ事実を目撃した外国人は大勢いた。やがてこの弾圧が、幕府直轄領だけでなく全国的に広がっていったのが翌年慶長18年(1613)であった。このときの「伴天連追放之令」は、金地院崇伝の手によって江戸で一夜のあいだに起草されたものである。


https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/06_04.htm 【駿府キリシタンの光と影大奥の侍女・ジュリアの信仰と追放】より

ジュリアのことをアビラ・ヒロンはこう記した。「(駿府城)大奥の侍女ジュリアも追放し、僅かの漁夫しか住まない無人の島、八丈の島に送った。ジュリアは今ではその島で厳しい労働と貧困に耐えている」。駿府城大奥の侍女として仕えたキリシタンの女性の消息を、いち早くキャッチしていたのには驚く。

ジュリアの出生は明らかでない。秀吉の命令で朝鮮に出兵したキリシタン大名小西行長が、戦乱で苦しむ朝鮮貴族の少女(絶世の美女という)を養女として日本に連れて帰ったとする説が有力だ。この少女がどうして大奥の侍女として、特に駿府城内で生活することになったのかは謎である。おそらく関ケ原の合戦で亡びた小西家の養女であったことから、何らかの縁で駿府城大奥の侍女となった可能性は高い。

「日本キリシタン殉教史」もジュリアのことをこう報告している。ジュリアが外国人の記録に初めて登場したのは、ジョアン・ロドリゲスの「日本年報」であった。それによると、「公方様(徳川家康)の大奥に仕えている侍女の中に数人のキリシタンが居て、前にアグスチノ津の守殿(小西摂津守行長)の夫人に仕えていた高麗生まれの人がその中にいる。彼女の信心と熱意とは、たびたびそれを抑制させねばならないほどで、多くの修道女に劣らないものである。(中略)高徳のこの女性は、昼間は、大奥の仕事で忙しく異教徒たちの中にいるので、夜の大部分を霊的読書と信心に励んでいる。(中略)そのため、誰にも知られないようにうまく隠した小さな礼拝堂を持っている。(中略)またたびたび知人を訪問するという口実で許可を得て、教会に来て告白し聖体を拝領する……うら若い女性で、あのような環境の中で、「茨の中のバラ」(讃美歌)のように純潔で、自分の霊魂を損なうよりも命を捨てる決意を固めている」。

この史料からすれば、ジュリアの出自はやはり朝鮮とみて良いであろう。アロンソ・ムーニョも彼女のことをマニラ管区長にこう報告した。「皇帝の宮廷(駿府城)にいる一女性は、キリシタンたちの間でドーニャ・ジュリアと呼ばれ、信仰深く、慈悲の模範になっている。貧しいキリシタンたちを訪ねては多くの人々に食物を施している。たびたび教会に来て熱心に聖体を拝領している。迫害が始まったことを知ると、教会に来て告解と聖体拝領をした。遺言書や必要な準備をし、所持品を貧しいキリシタンに分け与えた。将軍(家康のことか)が欲求のまま呼び出して侍らせる妾ではないかと思われたので、神父は、はじめ聖体を授けようとしなかった。(するとジュリアは)「もしそんなことがあったら、私はそこから容易に逃げ出せます。それができないようだったら死を選びます」と言ったという。この女性は大奥にあって常にキリシタンとしての態度と、信心を保ち、われわれが同宿を必要としているのを知ると、自分が養子にしていた十二歳の少年を同宿として教会に行かせた」(「日本キリシタン殉教史」)。

家康も当然ジュリアが信者であることを知っていた。キリシタン信者の迫害が駿府で始まった時も、家康は彼女を殺さなかった。とかく言われていることは、改宗させて自分の側室にしようとしていたという説もある。余談だが駿府城内の情報や秘密が、宣教師のあいだに広がって国外に流れた可能性もある。事実宣教師たちも、布教と称しては多くの人々に近づき、また城内の者や出入りの商人を入信させては家康の周辺でスパイ行為をさせていたとしても不思議ではない。

こうなると家康も、もはやキリシタン信者を野放しにしておけない。(このころ駿府城内では、原因不明の出火が続いていたが、キリシタンとの関係はわからない)。

大奥の侍女ジュリアも、このころに駿府の町にある教会に通いビスカイノやソテロなど多くの宣教師とも会っている。慶長18年(1613)のキリシタン禁令によって、ジュリアは最初は大島に島流しとなり、さらに伊豆の孤島(神津島)に流された。慶長19年(1614)のキリシタン年報には、セバスチャン・ウィエイラの記録として、ジュリアが神津島に送られた様子が伝えられている。ウィエイラが果たしてジュリアが流された場所まで連絡を取ることができたかどうかは疑問だ。

ウィエイラの記録は殉教を美化した創作という説もある。また「日本殉教者一覧」の中にジュリアの名前はない。彼女がキリシタン信者として処罰されたのではなく、流刑の罪状を「スパイ容疑」として島流しとなったという説もある。巷間では、ジュリアに心を寄せていた家康が、島流しならいずれ改心して駿府に帰って来ることを期待したとする見方である。ところがジュリアは神津島で、心安らかな信仰生活を続けてそこで亡くなった。


https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/06_05.htm 【駿府キリシタンの光と影イギリス国王使節の見た、駿河の迫害】 より

慶長18年(1613)12月に発布された「伴天連(ばてれん)追放之令」は、キリシタンに決定的な打撃を与えた。この年来日したイギリス国王使節ジョン・セーリスは、駿府郊外の安倍川でむごたらしいキリシタン信者の死体の山を目撃し、その様子をこう記した。

「予らが、ある都市に近づくと、磔殺(たくさつ)された者の死体と十字架とがあるのを見た。なぜならば、磔殺は、ここでは大多数の罪人に対する普通の刑罰であるからである。皇帝の宮廷のある駿府近くに来たとき、予らは処刑されたたくさんの首をのせた断頭台を見た。その傍らには、たくさんの十字架と、なおその上に縛りつけたままの罪人の死体とがあり、また仕置きの後、刀の切れ味を試すために幾度も切られた他の死骸の片々もあった。駿府に入るには、是非その脇をとおらねばならないので、これはみな予らにもっとも不快な通路となった」(「セーリス日本渡航記」村上堅固訳)。

セーリスによると、家康は元来キリシタンは嫌いであった。それ以上にキリシタン大名たちがスペイン国王の勢力と呼応して、徳川幕府に対抗することを何よりも警戒していたと見た。家康はキリシタン信者の迫害を駿府から始めた。陰惨な弾圧と迫害が繰り返され、駿府町奉行彦坂九兵衛らが先頭に立って次々と新しい拷問のやり方が考案された。なかでも「駿河の責め苦」といいう宙釣り状態にした拷問はとくに恐れられていたという。

キリシタン信者の埋葬を許さず、火刑(火あぶり)にした。また埋葬した信者は墓から掘り出して海に捨てたこともあった。家康のキリシタン弾圧は、ローマの皇帝ネロよりも残忍であったかもしれない。

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