循環の思想

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/2969474  【永遠の今を生きる】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/8048471  【畳み込みの世界】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7319790  【循環思想・縄文思想】

https://sensin.net/news/1003/  【【よもやま】よみがえり(黄泉がえり)】 より

 黄泉がえりとは、まさしく黄泉の世界から帰ってくることを意味する言葉です。私たちの魂は、死の瞬間から肉体を離れあの世に行き親しかった人との再会を喜ぶのですが、あの世に行った魂は、またこの世にも戻ってくるというのです。あの世の滞在期間はどれくらいかと言いますと人によって異なり、良いことをした人は早く、悪いことをした人は遅いというのです。あの世の1日はこの世の1年位らしく、おおかたあの世に1ヶ月(この世の30年)位で戻ってくるらしいです。

 古代の日本人は、当然ごとく魂の黄泉がえりを信じていました。あの世に行った魂が縁があるこの世の人の生命の誕生に伴い魂を宿すのです。

 魂は、再生循環するという世界観を日本人は古代より抱いていますし、現代でもそのような世界観がよく理解できます。

 有名な松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭の「月日は 百代の過客にして 行き交う年も また旅人なり」の歌ですが、梅原猛氏いわく、この歌は魂の循環の世界観を余すところなく表現しているというのです。

 毎日昇り沈む太陽と月は、生死を繰り返す「魂の行き来」と同じで、人は太陽がよみがえる朝が来るとめざめ生の世界に入り、太陽が沈む夜が来ると寝て死の世界に入る。覚醒と睡眠の循環です。また春夏秋冬の「春の誕生」から「冬の死」1年もまた循環の魂の旅を表現しているというのです。

「死んだらおしまい」という言葉をよく耳にしますが、そのようなことはないのです。あの世とこの世を行き来し、冥土の土産にこの世の面白いことをあの世のご先祖様に報告し、時期が来たらまたこの世に「黄泉がえる」この循環を永遠に繰り返すのです。

「信ずれば救われる」のように何か信じる事が大事な心の肥やしです。

「今日 彼岸 菩提の種を 蒔く日かな」  種を蒔き水を与え良き環境に育てれば、必ず大輪の蓮華の花が咲くことでしょう


http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/hw-bunnka10.htm 【文化 第9話  循環の思想(1)】より   

かって日本列島は縄文文化一色でした。そこへ大陸から弥生文化がやってきて、縄文文化を南北に分断しました。この仮説は、アイヌ文化と沖縄文化を比較してみると、その「あの世観」があまりにも似ているのに驚いて、梅原猛さんがたてた仮説です。

そのあの世観とは、魂がこの世とあの世を永遠に循環するという思想です。この世とあの世とでは、空間的にも時間的にもすべてがアベコベだと言われます。空間的には上下左右が逆なのです。

すなわち、この世とあの世とは違うけれども、どちらからも逆ではあるが全く同じに見えるということです。だから循環しうるわけです。

死とは肉体と魂が分離して魂があの世に行くことだとされますから、この世で死ぬと魂はあの世に移動し、あの世で肉体を持って生まれます。あの世で死ぬと魂はこの世に移ってまた誕生するというわけです。

アイヌでは熊の肉が最上の肉とされています。熊はあの世からミアンゲ(土産)を持ってくる客人だと考えられています。人間はその肉をいただいたら熊の魂に沢山のミアンゲを持たし丁重にあの世に送ります。これが熊の葬式(イオマンテ)です。

あの世に着いた熊は人間からのミアンゲで宴会をします。熊の仲間たちは人間の世界(この世)はなかなか良さそうなところだなと思い、この世で熊が沢山生まれて、どっさり熊が捕れるというわけです。

葬式は豊猟祈願祭でもあるわけです。人間の魂もこの世とあの世を循環し、熊と同様の葬式がなされると言われます。

人間は動植物を食べることによって生きて行かねばなりませんが、アイヌの人々は熊を殺して肉を食べても魂は殺していません。丁重にあの世に送り返します。肉をいただいたという感謝の気持ちの表れでしょう。大自然に生かされているという気持ちの表れだと思います。

すべての動物は他の動物や植物を食べ、植物は太陽のエンルギーと養分を吸収して生きています。そのような循環の中ですべての生き物は生きています。人間も例外ではないはずです。

生き物の循環と同時に魂の循環も考えられましょう。どんな生き物も個としての命は限界がありますが、新たな命の誕生という現象もあります。アイヌの人々はそれをあの世の魂の生まれ替わりと見たようです。

魂すなわち命はあの世とこの世を循環するのであれば、それは永遠です。人間もそんな永遠の命の流れの中にあるわけで、今生きている人間が中心であろうはずがありません。自己中心的に考えがちな我々現代人には意味のある考え方かと思います。 


https://www2.rikkyo.ac.jp/web/maya/research/time-thought.html  【Ⅱ-2.時間思想】より

時間はマヤ民族文化のアルファであり、オメガである。古代マヤ人は時間を世界と生命の根源であると考えた。20ナワールを根幹とするマヤ時間思想は歴史上唯一無二の思想である。だがマヤ人だけではなく、時間は人間にとって不可思議な現象であり、世界中の哲学者、思想家、科学者の頭を悩ませてきた。キリスト教者、聖アウグスティヌスは時間を深く考察したことで知られる。彼の表現を借りれば、「私たちは時間が何であるか、よく知っている。だからそんなことは問われるまでもない。しかし、人から時間とは何か? と問われたら私たちはそれに答えることはできない」。まさしく時間とはそのような存在であり、理性で理解しようとすれば捉えようのない実体である。時間とは何か。この疑問に正面から答えるのは難しい。だがそれでもその理解を深めることはできる。例えば我々が時間と呼ぶものの考え方は実に多様である。時間概念は文化によってもまた時代によっても異なる。

はじめに直線的時間が存在する。この時間概念はキリスト教が造り上げた西欧世界の発展からから誕生した。その根底にあるのは進歩という思想である。18世紀ドイツの哲学者カントは時間が先験的なものであり、他の事象とは無関係に存在すると考えた。つまり時間とは人間の認識の外に存在するものであり、人間はそれを変化の尺度としてしか認識できないのだ。現代世界を支配するのは西洋起源の科学的世界観であるが、それによれば時間とは一方向に直線的に流れるものである。これに関しては、20世紀初めにアインシュタインの相対性理論により、時間と空間が不可分であり、速度や重力によって時間の経過が変化することが明らかになった。しかし時間が直線的に流れるという理解においては大きな変更はない。

だが同時にまた、時間とは円環的な流れでもある。昼と夜の反復、季節の循環はその最もわかりやすい例である。古代インド人は円環としての時間、万物の生成流転の表象としての時間にこだわった。ヒンドゥー教では世界は創造神(ブラフマン)、維持神(ヴィシュヌ)、そして破壊神(シヴァ)によって無限に創り変えられる。インド的時間概念の到達点は輪廻転生の思想である。円環としての時間思想を最も深く考察したのは古代マヤ人である。彼らは世界の森羅万象の中に無数の周期(サイクル)を発見した。またその謎を解明すべく、数多くのカレンダーを製作した。そして時間を、エネルギーを持った実体であると考えた。

円環としての時間は現代科学において詳細に解明されつつある。例えば人間の意識であるが、実験心理学によれば、人間の認知作用は生物学的、脳生理学的電気パルスに基いているという。そして意識とは数秒ごとに行われる統合作用であるという。

世界にはまた直線的でも円環的でもない時間概念が存在する。例えばアメリカ・インディアンの一部族であるホビ族である。ホピ語には通常の意味での動詞の時制が存在しない。したがって単純に考えれば、ホピ文化には過去・現在・未来という区別がないことになる。言い換えれば時間は存在しないということになる。事実はそう簡単ではないが、この言語学的特性は有名なサピア・ウオーフ仮説を生み出すことになった。

では日本的時間概念はどうか。大きな意味で、おそらくは「直線的な流れ」としての時間である。だがこの「流れ」は理性的尺度としての西欧的時間概念とも異なり、極めて情緒的なものである。『平家物語』冒頭にある「諸行無常」的な、あるいは『方丈記』冒頭の「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」という「生ある者のはかなさ」が投影された時間概念である。

時間とは何か。時間と世界、生命、そして人間の関係とはいかなるものか。世界の諸文化に見られる時間概念の多様さは何を意味するのか。これらのことを解明したい。

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