貫主のおはなし

http://www.amabiki.or.jp/h18/k20060830/  【著莪(シャガ)の花】 より

   かそけしや 雨降り止まず 著莪の花

この句は奈良県の長谷寺退山に降して私が詠んだ句である。拙い句であるかも知れないが、自分なりにマアマアの俳句だと思っている。

実は私は雨男でして何か大事なことの有る日には必らず雨が降るという因果な人間である。

平成16年6月14日のこの日は、丸4ヶ年の長谷寺の勤務が無事終了して故郷の雨引山楽法寺に帰山する日なんだから、過古の経験からして降らない筈はない。パーセンテージで云えば99%は間違いないだろう。まして五月雨の時期なんだから。

と、決めてかかって、退山式の挨拶にこの句を詠じて、宗派内外のお客さま方の喝采を頂けるんじゃないかと思うと嬉しくて、これ以外の句なんか考えたくないと思って13日の夜は寝て了った。

 明くれば6月14日、朝早くからブチ起されて観音堂で退山の報告法要やら諸堂参拝やらで、退山式典のことなどスッカリ度忘れして本番に臨んだから、サァ挨拶の枕言葉の俳句が浮かんで来ない。

もう仕方がないから、いくら晴天でもこの句を使う外ないと決めて、この雨降り止まずの句を使って退山の辞を述べ了った。

 ところがこの句が「有卦」た。

参会者が私の手を握って「雨引山へお帰りになるんですから雨降り止まずでなくちゃいけませんよ。」と言って呉れたのには感激した。

「雨が降ってなくても雨降り止まずでなくては雨引山楽法寺の主たるものいけないんだ。」と妙なところで自信をつけた次第である。

実は雨引山の山号は嵯峨天皇さまより下賜されたということに成っているが、近くは元禄5年松尾芭蕉翁が当山に詣られて

  雨引の 名もことわりの  時雨かな

と詠じられているのでありまして、当山貫主の職を帯すれば、大事なときには必らず雨が降るといわれておって、私自身は因果なことだと思っているのでありますが。

 扨て、私も長谷寺を退山して早や2ヶ年を経過しましたのでこれからは「雨の想ひ出」から抜け出し度いと思ひ、「著莪の花」の句を考えてはみたが、所詮この花にはどうしてもしとしとと降り止まぬ雨が似合うようで推敲の結果こんな句になって了いました。

   想ひ出は  雨の中なる 著莪の花   寒桜子

寒桜子は、私の俳号であります 実は寒中に咲く寒桜の淡白さが好きで、この俳号を使っています。


http://www.amabiki.or.jp/h18/k20060422/  【雨引観音還暦詣りの話】 より

日本は世界に冠たる長寿国であり、人生百年の時代を迎えようとしています。数え年齢六十一歳になられた方は還暦(かんれき)であります。還暦は本卦(ほんけ)がえりといい自分の生まれた干支(えと)に帰るという訳であります。また華甲(かんれき)とも書きます。この文字は人生再出発の意味を表しております。

昔、元朊式という成人式を迎えた武士は、華やかな鎧甲を着て人生の出発と致しましたが、今人生の再出発の『還暦の日』を迎えた方は、華甲(かんれき)の意義を噛みしめて人生百年までの再出発の佳き日といたさねばなりません。

当山の延命観世音菩薩はこの地に鎮座いたされてより来年は一千四百二十年の歳月を迎えることと成ります。

四百年前、天海僧正は当山の延命観世音菩薩を信仰して百八歳の長寿を得られたと言われております。

当山に伝わるマダラ鬼神祭という奇祭もこの名僧がもたらしたとも伝えられており、延命の功徳は当山観世音に勝るみ仏はないと言われております。

 「かんれき」のとしに当られる方は、是非雨引観音にお詣りの上『還暦延命』のご祈願によって健康長寿の幸福を迎えられるよう祈念いたします。

雨引観音 雨引山楽法寺の御本尊 延命観世音菩薩 開創年代用明天皇2年 西暦587年


http://www.amabiki.or.jp/h21/k20090408/ 【マダラ鬼神祭の縁由】 より

1、序 章

文明3年(1471)6月24日、上杉顕定(あきさだ)の部将長尾景信(かげのぶ)の軍勢、古河城を攻撃して古河公方足利成氏(こがくぼうあしかがしげうじ)を破り古河城を占領す。成氏(しげうじ)は弟弘尊(ひろたか)以下一族とともに千葉に逃れ、千葉孝胤(たかたね)にかくまわれる。

2、古河城の奪回

文明4年2月3日、結城城主結城氏広(うじひろ)の援兵を得て弟弘尊(ひろたか)率いる自軍と併せて15,000の兵が、夜陰利根川を渉って古河城を奇襲し遂に奪還に成功した。

成氏(しげうじ)は長尾方の敗兵を追って裏筑波山系の雨引山を囲んだ。

3、雨引山楽法寺の焼失

裏筑波山系の雨引山に長尾勢を追い上げた足利勢は、四方から火を放って長尾勢を攻め立てた。

当山はこのため炎上し、本尊延命観世音菩薩(像高175cm)は自ら光明を放って観音堂前の椎の老木に難を避けられた。

火収まり両軍退去した後、蝟集(いしゅう)した信者は本尊仏の安泰に随喜の涙を流した。

それから幾日か後のこと、夜毎多数の鬼が雨引山上に集まり、材木を運び工事をしているという噂が立った。夜になるのを待ち兼ねるように多数の覆面をした職人が現れて、仮堂を制作していたのである。17日目にして仮本堂が建った。

その鬼形の人々を統率したのが馬上姿の鬼神であり、白馬に跨(またが)って覆面の鬼の職人を指揮していた。

 これを直視した土地の人々はその異形さに驚き、この鬼の大将こそ天竺(てんじく)のマダラ鬼神であろうと噂し合った。

 この噂の根元は当山の住持吽永和尚(うんえいわじょう)であったとも伝えられ、或いは吽永(うんえい)の師の坊である吽賀阿闍梨(うんがあじゃり)であったかも知れない。

 然し当山にはそれを伝える確実な証拠は何一つ残っていない。

 兎(と)に角(かく)、覆面し或いは面を被った職人集団が、無償で仮本堂を建設したという説話が生まれ、これがマダラ鬼神祭の原点であることだけは確かなようである。

 ただ謂(い)えることは、日本国内ではマダラ鬼神の祭礼を行っているのは京都の太秦(うずまさ)の広隆寺(こうりゅうじ)と当山のみであり、広隆寺(こうりゅうじ)のそれはマダラ鬼神が鬼面を着け牛に乗り唐風(からふう)の衣装を着けていることに対し、当山のマダラ鬼神は馬に乗り弓箭(きゅうせん)を帯し破魔矢(はまや)を天空に放つという違いが有ることである。

 それに当山中興第一世の吽永(うんえい)は吽賀阿闍梨(うんがあじゃり)の弟子であり、吽賀(うんが)は京都の醍醐三宝院(だいごさんぼういん)の阿闍梨(あじゃり)であったということを考えれば、「日本二大鬼祭の一」と位置付けられるマダラ鬼神祭が、当山に於いて実施されるという因縁も判然といたすのである。

 この祭礼は、それ以後断続的に継承されて江戸時代にまで続いて来たが、江戸時代初期にいたり当山中興第十三世尊海僧都(そんかいそうづ)が出るに及び、漸く定着するに至った。

 尊海僧都(そんかいそうづ)は武蔵国河越六万石の城主松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)侯の二男にして、寛永18年当山住職に就任するに当たり、信綱(のぶつな)侯より当山に内帑金(ないどきん)壱千両を贈られて祭祠料とされた。 依って寛永19年3月、中断していたマダラ鬼神祭を復興した。その際信綱(のぶつな)侯夫人は御自身の衣装を袈裟に改造して当山に納められた。

 第二次大戦後の昭和27年、マダラ鬼神祭復興に当たって此の袈裟を鬼神に被着させて、その意義を世に訴えたのである。

 祭典の開始は花火の轟音を以て合図となし、古式床しい裃(かみしも)姿の侍(さむらい)を従えたマダラ鬼神が馬上凛々と鬼達を従えて大石段を駈け登り、境内の竹矢来(たけやらい)の中で鬼達の踊りと、鬼神の破魔矢(はまや)の発遣(はっけん)や柴燈護摩(さいとうごま)と太鼓の合奏の裡(うち)を、大祇師(だいぎし)と称する僧侶の大太刀の修抜(しゅうばつ)が行われ、厄災を攘(はら)う光景は圧巻である。正に日本二大鬼祭の名に恥じない。


http://www.amabiki.or.jp/h17/k20050511/  【弁慶の写経について】 より

奥州(岩手県)平泉を発足した源義経一行は、一路南下して治承四年(1180)秋も深まる十月、常陸国(茨城県)筑波山の北の雨引山楽法寺に入った。当時雨引山は南都(奈良県)興福寺の末寺として、興福寺別当一乗院門跡の支配下にあり、平家の勢力に対し批判的立場にあった。特に義経の家来弁慶は、紀州(和歌山県)熊野神宮の別当僧(平安時代以降明治二年に到るまで神社と寺院は一体であり神社には別当の僧侶がいた)湛増の息子であり、南都の寺院とは上可分の関係にあったので、当山に参籠して戦勝を祈願したのである。

 特に弁慶は観音の信仰心の篤い人であったので、弁慶自ら筆を執って書写し、平泉から捧持して来た法華経を納めて武運を祈願したと伝えられている。

 源頼朝(義経の兄)挙兵に応じて駿河国(静岡県)の黄瀬川に急ぐ旅路にありながら、猶あつい観音信仰の思いをたぎらせて雨引山楽法寺に参籠した源義経と武蔵坊弁慶の姿を考えると、中世の武人の信仰生活が偲ばれる思いである。

 現在武蔵坊弁慶の法華経の写経は、815年の星霜を閲して、弁慶のあつい想いを現在に伝えているのである。

 雨引山楽法寺には、弁慶の写経の外に聖武天皇の后光明皇后(701-760)の写経と嵯峨天皇(811-823)の写経とが寺宝として現存している。特に弁慶の筆致は優雅にして、武勇の大男のイメージとは異なるセンサイな筆の運びで、みる者をしてタメ息を吐かせるような美しい筆跡である。






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