荘子

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/43_soji/index.html 【「荘子」】より

制度を整え、競争を煽り、管理や罰則を強めれば社会はうまくいくという考えが主流を占める現代。その考え方に巨大な「否」を突きつける本があります。「荘子(そうじ)」。今から2300年前、中国の戦国時代中期に成立したとされる古典です。5月放送の「100分de名著」では、肩の力を抜き、自然体で生きる術を語ったこの名著を取りあげます。

「荘子」を書いたのは荘周。宋の国で漆園を管理する役人でしたが、やがて隠遁生活に入った人物です。卓越した才能を買われ宰相になるよう口説かれますが、世に出ることをよしとせず、在野の自由人として生涯を終えました。

その背景には「万物斉同」という根本思想があります。姿かたちはさまざまでも、万物はすべて「道(タオ)」と呼ばれる根本原理が変化したものであり、もとより一体であるという思想です。広大無辺な「道」からみれば、ものごとの是非や善悪、美醜、好悪などには本質的な違いなどありません。それなのに、世間の人々は自分の価値観を絶対視し、愚かな争いをやめようとしません。荘周はそうした愚かさから身を引き離して、全てのものをあるがままに受け容れ、「道」と一体化する自在な境地の素晴らしさを説き続けたのです。

社会が複雑化し息苦しさを増し続ける現代、「荘子」を読み解くことで、様々なしがらみから抜け出し自由になるヒントや、あるがままを受け容れ伸びやかに生を謳歌する方法を学びます。

第1回 人為は空しい

【ゲスト講師】

玄侑宗久(臨済宗妙心寺派福聚寺住職)

人間の小賢しい知識が生き生きとした豊かな生命を奪ってしまう「渾沌の死」、機械の便利さにかまけると純真な心を失ってしまうという「はねつるべの逸話」。「荘子」はいたるところで、本来の自然を歪めてしまう「人為」の落とし穴を指摘する。その背景には、「荘子」の「無為自然」の思想がある。人為を離れ、自然の根源的な摂理に沿った生き方こそ、人間の最高の境地だというのだ。第1回では、「荘子」の全体像を紹介しつつ、人間の小賢しい「人為」の空しさと、人為の働かない「無為自然」の素晴らしさを伝える。

第2回 受け身こそ最強の主体性

周囲に振り回されるマイナスなイメージがつきまとう「受け身」。だが「荘子」では、「片肘が鶏に変化してもその姿を明るく受け止めようとする男」「妻の死を飄々と受け止める荘周」といったエピソードを通して、「受け身」にこそ最強の主体性が宿ると説く。玄侑宗久さんは、こうした境地が「禅の修行」と共通性しているという。「荘子」では、主観や知のはたらきから離れて大いなる自然を受け容れ合一する「坐忘」という方法を説く。これは、坐禅により宇宙大に広がった「我」と「自然」が和した状態と共通するあり方、究極の「受け身」だ。第2回は、「荘子」が説く「全てを受け容れたとき人は最も強くなれる」という「受け身」の極意を禅と比較しながら明らかにする。

名著、げすとこらむ。ゲスト講師:玄侑宗久「心はいかにして自由になれるのか」

◯『荘子』ゲスト講師 玄侑宗久

「心はいかにして自由になれるのか」

『荘子』は今から約二千三百年前、中国の戦国時代中期に成立したとされる思想書です。著者の名前も荘子(荘周)ですが、この書は彼とその弟子たちが書き継いだものが一つにまとまった本です。歴史に名を遺す思想家たちを見てみると、孔子もお釈迦様もソクラテスも、自著というものを遺していません。その思想を弟子たちが書き遺したことで師匠の名前が残ったわけですが、『荘子』の場合は明らかに荘子自身も書いており、師匠と弟子の合作という珍しいスタイルの本になっています。

ちなみに荘子の読み方ですが、儒家の曾子と区別するため、日本では「そうじ」と濁って読むのが中国文学や中国哲学関係者の習慣となっています。

『荘子』は、一切をあるがままに受け容れるところに真の自由が成立するという思想を、多くの寓話を用いながら説いています。「心はいかにして自由になれるのか」。その思想は、のちの中国仏教、即ち禅の形成に大きな影響を与えました。寓話を使っていることからも分かるように、『荘子』は思想書でありながら非常に小説的です。じつは、「小説」という言葉の起源も『荘子』にあって、外物篇の「小説を飾りて以て県令を干(もと)む」という一節がそれです。「つまらない論説をもっともらしく飾り立てて、それによって県令の職を求める」という意味で、そのような輩は大きな栄達には縁がないと言っています。あまりいい意味ではないのですが、これが小説という言葉の最古の用例です。

実際に、日本でも作家や文筆家など、多くの人々が『荘子』から創作への刺激を受けています。よく知られたところでは、西行法師、鴨長明、松尾芭蕉、仙厓義梵。良寛も常に二冊組の『荘子』を持ち歩いていたと言われています。近代では森鷗外、夏目漱石、そして分野は違いますが、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士も『荘子』を愛読していました。中間子理論を考えていた時に、『荘子』応帝王篇の「渾沌七竅(しちきょう)に死す」の物語を夢に見て、大きなヒントを得たといいます。

『荘子』は反常識の書だ、ただ奇抜なだけだ、という人もありますが、私にとっては常に鞄に入れて持ち歩くほど大切な本です。ふと思いついてパッと開いたところを読むだけで、何かがほどけるような気分になります。とかく管理や罰則など、いわゆる儒家や法家的な考え方が支配的な世の中です。社会秩序とはそういうものかもしれませんが、果たしてそれは個人の幸せにつながるのか……。『荘子』には常にその視点があります。個人の幸せというものをどう考えるかという視点に立つと、荘子の思想は欠かせないものなのです。

今、人々は、言葉や思想というものが大変恣意的な都合でできあがっている、暫定的なものであるという認識を失くしているように思います。たとえば、いわゆるグローバリズムの名の下に行なわれていることは、汎地球主義ではなく、欧米的価値観の押しつけだったりもするわけです。じつはさまざまな民族や宗教による考え方は非常に相対的なものであり、何かが絶対的に正しいというものではない──と、徹底的に笑いながら話しているのがこの『荘子』です。

また、東日本大震災を経た今、私たちは「自然」というものをもう一度とらえ直すべきではないかとも思います。いつしか人間は、自然というものは、自分たちが全貌を理解して制御することが可能なものだと思い込んでいたのではないでしょうか。自然とは恐ろしいものであり、人間がその全てを把握することなどできないという認識が、なくなっていたのだと思います。荘子は、人知を超えたあらゆるもののありようを「道」ととらえました。言い換えればそれが「自然」でもあります。自然とは何か。それをもう一度考え直す時に、『荘子』は最良のテキストになると思います。

『荘子』の徳充符篇に、「常に自然に因(よ)りて生を益(ま)さざる」べしという言葉があります。「自分の生にとってよかれという私情こそがよくない、それが却って身のうちを傷つけるのだから、私情なく自然に従うべきだ」という意味ですが、今の世の中はその正反対で、自分の生にとってよかれという情報ばかりが欲望されています。また応帝王篇には、「物の自然に順(したが)いて私(し)を容るることなければ、而(すなわ)ち天下治まらん」という言葉もあります。「私情を差し挟まなければ、天下はうまく治まる」ということです。ところが今の世界は、国家と国家がエゴをぶつけあう緊迫状態にあります。このように、個人も国家もエゴを主張しあう現在だからこそ、肩の力を抜いて「和」を目指すことを説く『荘子』が、とても重要な書だと思うのです。

じつは、荘子は「言葉」というものを信用していません。「夫(そ)れ言とは風波(ふうは)なり」(言葉は風や波のように一定せず当てにならないものだ)という人間世篇の言葉が、荘子の基本的な態度で、これは禅の「不立文字」にもつながっていく思想です。しかし荘子がそう言っているからといって、努力なしにいきなり「言葉はダメだ」と言っても仕方がない。言葉がどこまで役立つか、私なりに挑んでみましょう。「妄言」しますから「妄聴」してね──というのが荘子の態度です(「予(わ)れ嘗(こころみ)に女(なんじ)の為めにこれを妄言せん。女以(もっ)てこれを妄聴せよ」斉物論篇)。この番組テキストも、「妄読」していただければ幸いです。

第3回 自在の境地「遊」

「荘子」では、自在に躍動する生き方の極意が説かれている。天理に従う無意識の境地の素晴らしさを伝える「牛肉解体の達人の逸話」。常識では全く無用の存在に豊かな意味を与える「無用の用」のエピソード。それらは、世間的な価値でははかれない「遊」の境地を教える。一見役立たずの大木も、舟遊びや昼寝といった「遊」の立場に立てば、一気に「大用」に転換する。それは「人の役に立つことで却って自分の身を苦しめる」状況からの解放だ。第3回は、「用」から「遊」への価値転換を説く「荘子」から、何物にもとらわれない自在の境地の素晴らしさ、伸びやかに生を謳歌する極意を読み解く。

第4回 万物はみなひとしい

万物を生み出しその働きを支配する「道」を根本原理ととらえた「荘子」。「道」からみれば万物は一体であり、人間世界の価値は全て相対的で優劣などない。「万物斉同」と呼ばれるこの思想は、世俗的な価値にとらわれ、つまらないことで争いを続ける人間の愚かさを笑い飛ばす。「胡蝶の夢」「道は屎尿にあり」といった卓抜なエピソードは「万物斉同」の思想をわかりやすく伝えるともに、あるがままを受け容れ真に自由に生きる極意を私達に教えてくれる。第4回では、これまで展開してきた全ての思想を支える「荘子」の要、「万物斉同」の思想を明らかにする。

こぼれ話。

わくわくするような「知の冒険」!

こういうと講師の玄侑宗久さんからは怒られてしまうかもしれません。「荘子」を書いた荘周さんは、人間の「知」というものにとても懐疑的な人でしたから。ですが、私は、今回の番組制作での体験が、類まれなる「知の冒険」であったと、あえていってみたいのです。

「知る」という経験は、自分をがんじがらめにしていた「常識」をこんなにもひっくり返してくれるものなのか! そして、こんなにも生き生きと自分を解放してくれるものなのか! それが「荘子」という名著を一読したときの私の第一印象でした。ですが、あまりにも常識を超えていて、私のようなちっぽけな「物差し」しか持ち合わせない人間にはどうしても理解できないところも多々ありました。そんなところに、ひょいと現れてくれた最高の案内人が玄侑宗久さんだったのです。

玄侑さんの解説の妙の一つは、「言葉が本来もつ意味」の「読みほぐし」というところにあると思います。「主人公」という言葉の読み解きはみなさんも驚かれたと思いますが、時間の関係でどうしてもご紹介できなかった解説を二つほどご紹介させていただきます。

一つ目は、「解釈」という言葉の語源について。実は、この言葉、第三回でご紹介した牛肉解体の達人、「庖丁(ほうてい)」のエピソードが元になっているという説があるのだそうです。これは玄侑さんに教えられるまで知りませんでした。

「解」という字、よくみると「牛」の体から「刀」を使って「角」を切り離す、という形になっていますよね。そして、「釈」は「分け取る」という意味なのだそうです。つまり、角を切り離した残りの部分から肉を分け取る。ここから「解釈」という言葉が生まれたというのです。エピソードにからめてちょっと深読みしてみると、「庖丁」のように、自然の筋目にすっと刀をいれるがごとく、無意識かつ自在の境地で行われるものこそが、本当の「解釈」なのかもしれませんね。私など、「100分de名著」のプロデューサーをしていながら、力技ばかりが先にたち、間違った解釈をしてばかりで四苦八苦しております(笑)。

二つ目は「天鈞(てんきん)」という言葉。あまり耳慣れない言葉ですが、第四回でご紹介した「万物斉同」の立場を表す言葉なのだそうです。「鈞」というのは金偏(かねへん)ですが、平均の「均」を使った箇所もあるのだとか。

玄侑さんによれば、「天鈞」は、天から見れば、全てのものは釣り合っているということを意味します。つまり、天の高さから眺めれば、区別や対立などというものはおよそちっぽけでつまらないものになるという意味です。この「天鈞」という見方を獲得して、余計な対立や差別を解消しようというのが、荘子が説こうとしたことでないかと玄侑さんはいいます。番組でもおっしゃっていましたが、まさに「宇宙的なまなざし」ですよね。

こうした例からもわかるように、玄侑さんと一緒に番組を作っていくことは、とんでもない「発見」と「驚き」の連続でした。企画を練っているとき、玄侑さんとの電話での話し合いを今でも思い出します。実は私の最初の企画書では、第四回「万物はひとしい」は、第一回の放送に位置づけられていました。この企画書を読んでくださった玄侑さんは…

「すごくよくできた構成だと思うんですが、『万物はひとしい』の回は、最後にもってきませんか? おそらくあまりにもスケールが大きすぎて、いきなりお話しても視聴者のみなさんがついてこられないのではないかと思うんです。ゆっくり各論を噛み砕いて理解を少しずつ深めていってからのほうがよいと思います」

記憶から再現していますので、一言一句同じではないのですが、こんな言葉を投げかけられました。その瞬間、ばあーっと視界が開かれるような気持ちになりました。私の意図は、まず最初に「荘子」の第一原理たる「万物斉同」をきっちり理解させ、各論に入っていくというものでしたが、今、考えると、私が最初に考えた順番は、逆に生き生きとした「荘子」という書物の「いのち」を殺すことになっていたと思います。まさに「渾沌を殺す」ことになっていたかも。「荘子」を知り尽くした玄侑さんならではの見事なアドバイスでした。

その打ち合わせの中で、とてもうれしいこともありました。再び記憶からたどって会話を再現します(細かいところは違うかもしれません。玄侑さん、ごめんなさい)。

A「全四回のどのテーマにもあてはまらないのですが、どうしても入れたいエピソードがあるんです」

玄侑「もしかしたら《あれ》じゃないですか?」

A「玄侑さんの《あれ》と合っているかどうかわかりませんが、『荘子』の冒頭に出てくるエピソード、北の果てにある海に棲む魚『鯤(こん)』が、数千里にも及ぶ巨大な鳥『鵬(ほう)』に変身して南海の果てに飛んでいくという《あれ》です」

玄侑「そうでしょ、そうでしょ! 《あれ》はいれなきゃいけません。で、《あれ》を入れるんだったらラストでしょ、やっぱり!」

二人のいう《あれ》が全く同じだったこともうれしかったのですが、私自身も《あれ》を入れるんだったら絶対ラストだと思っていたので、そこが一致したことも、とてもうれしかった。そして、できあがりは、皆さんが最終回でご覧いただいた通り。まさに私達の企み通り、司会の伊集院光さんは「これを第一回目で見せられたらついていけなかったかも。最後に見せてもらったおかげで、今回勉強したことを一気に味わわせてもらった感じです」とおっしゃっていました。

私が冒頭で、今回の番組が「わくわくするような『知の冒険』」と書いた意味、少しだけわかっていただけたでしょうか?

まだご覧になっていない方、NHKオンデマンドでも全話が順次配信されています。一度ご覧になった方もぜひ繰り返しご覧ください。きっと新しい発見があるはずです

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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