https://www.shiga-kinbi.jp/?p=17024 【カオス(渾沌)とコスモス(秩序)】より
常設展示室2では、戦後日本とアメリカを中心とした美術作品を展示替えを行いながら紹介しています。今回は『渾沌と秩序』と題し、「渾沌≒暴力性≒偶然と無意識の発露」と「秩序≒純粋性≒人間性の否定」という、美術が内在する「相反する二つの方向性」を検証する展示を行ないます。
■ミクロコスモス(小宇宙)とマクロコスモス(大宇宙)
古代ギリシャの哲学者ピュタゴラスは、宇宙を秩序ある調和のとれたシステムと考え、これを「コスモス」と名付けました。ルネサンス時代のイタリアはこの宇宙観を継承しつつ、人間存在を大宇宙(マクロコスモス)に呼応する秩序ある小宇宙(ミクロコスモス)だと考えました。現在では、人間の深遠な内面世界とその表現をもって「内なる小宇宙」と呼ぶことがあります。
抽象絵画の父と呼ばれるカンディンスキーは、自己の内面を感覚を通して外界と共感するものとして捉え、色と形の組み合わせで小宇宙の表現を試みました。一方、路上で拾い集めた紙くずを無造作に貼り合わせたシュヴィタスの作品にも、偶然が作る渾沌の中に生物の細胞や精密機械めいた秩序だった構造が見え隠れしており、やはり小宇宙の表現と見なすことができます。古い木箱の中にオブジェを詰め込んで小宇宙を作るコーネルの作品には、大宇宙との交感を感じさせるテーマが頻繁に現れます。逆に、太陽の通り道を一年間通して一枚の写真に記録した野村仁(のむら・ひとし)の作品には、大宇宙の秩序と小宇宙(=人間)との関係についての哲学的な問いが隠されています。
■20世紀・先鋭化するカオス(渾沌)とコスモス(秩序)
戦後のアメリカ現代美術は、1940年代末のニューヨークに現れた「抽象表現主義」によって幕を上げました、人間のスケールを超えた圧倒的な大画面に、画家の内面世界(=ミクロコスモス)を抽象的に表現するこの流派の中には、ジャクソン・ポロックやサム・フランシスのように迸る内面の情熱を、偶然性を伴った絵具と筆の激しいアクションによって野性的・暴力的に表現する「アクション・ペインティング」派と、マーク・ロスコのように祈りにも似た崇高な感情を、広大で静謐な色面によって表現する「カラー・フィールド・ペインティング」派の二つの流れがありました。
両者の特徴を併せ持つマーク・トビーのような例もありましたが、前者(カオス)の系譜はやがて、足で絵を描く具体美術協会の白髪一雄(しらが・かずお)のように作者の肉体の動きを直接反映させた作品や、偶然性を介入させたり観客を作品に参加させるパフォーマンス・アート等、カオス(渾沌)面を強調する方向へと発展してゆきました。一方で後者(コスモス)の系譜は、作品の中から内面表現や手わざを徹底的に排除し、極度に秩序立った数学的で非人間的な表現を求める、フランク・ステラ、カール・アンドレ、ドナルド・ジャド等のミニマル・アート(最小限芸術)という一大ムーヴメントを生み出しました。
理性に抑圧された近代的束縛からの解放を目指す動きと、理性と科学を崇拝し純粋さに価値を置く動き。20世紀の文化が抱えた二種類の動向が、芸術の世界で先鋭化を目指した結果と言えましょう。
■カオスの中のコスモス、コスモスの中のカオス
現代の多くの作品の中には、渾沌と秩序という相反する二つの力がせめぎ合いを見せながら共存しています。例えば、人間存在を無意味とも思える運動を繰り返すが機械として捉えたジャン・ティンゲリーの作品には、秩序と渾沌の両要素が混在しています。偶然の要素を生かして音楽家ジョン・ケージが作った版画作品は、楽譜として使用すると時間の流れの中である種の秩序を生み出します。一方、同じ描き方、描き順を繰り返して複数の作品を作る中西夏之(なかにし・なつゆき)の作品には、よく見ると作品ごとに作者の身体状況の変化に伴う無意識的な変化が現れており、秩序の中の渾沌をかい間見せてくれます
http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/2K/ka_chaos_nomos_cosmos.html 【カオス/ノモス/コスモス(chaos/nomos/cosmos)】より
◆概要
□「いずれの語も古代ギリシャの語の語彙で、カオスはすべてのかたちあるものが生じる以前の原初の混沌とした闇の世界を、ノモスは社会習慣や規範や法によって調和的に秩序づけられた社会や共同体のあり方を、そしてコスモスは調和と均衡に満ちた宇宙や自然界の秩序を意味した。これらの概念は現象社会学者 P. L. バーガー Peter L. Berger により、人間による意味世界、規範世界の構築活動のプロセスにかかわる一連の主要な局面として読み換えられた。人間は他の動物の本能に見られるような環境に対する十分な生得的な適応機構を欠いているため、自分達自身で象徴を駆使して意味や規範の世界を構築することにより周囲と世界との関係を秩序づける。そうした活動を通して構築される意味、規範秩序の世界のうち、あくまで日常的、世俗的、人間的な次元、根拠で正当化されるものがノモスである。しかし人間はしばしば死や思いがけない自然災害など、ノモスのレベルの意味、規範の秩序の枠内では十分了解できない非日常的な限界状況に遭遇する。こうした出来事は人々のそれまでの意味秩序の世界に対する自明視や信頼感を揺るがし、彼らをアノミー(規範喪失)の不安に陥れるという意味で混沌としたカオスの世界の顕在化といえる。こうした状況に直面して、人間は日常的、世俗的次元を超えた聖なるあるいは超人間的レベルを含むようなより包括的で宇宙的な意味秩序、規範秩序を構築することで、こうした現象を意味の秩序のなかに再包摂し、何とか了解可能なものにしようと試みる。コスモスとは、こうした企てを通して生み出される超越的で聖なる次元、根拠で正当化されるような全体的、宇宙的な意味、規範秩序の世界を指す。そしてバーガーはカオスを乗り越えコスモスを回復させるこうした営みこそ宗教にほかならないとした」(対馬[2002:157])
▼バーガー
□「バーガー、P. が示した、社会的現実をめぐって影響しあう3概念のタイポロジー。彼が採用するゲーレン、A. の哲学的人間学によると、人間は先天的な認識装置である本能に大きな欠如を抱える「欠陥動物」であり、その「欠陥」を人為的に構成した文化によって埋め合わせようとする。その結果、文化にもとづく人間社会の秩序であるノモスには、本来的に不安定で可変的な性質がつきまとうのである。もしも、この不安定な性質が全面的に露わとなれば、ノモスは崩壊し、社会はアノミー状態となって混沌と無秩序であるカオスにのみ込まれかねない。そこで、人間は、こうした事態を避けるために、宗教的権威づけられた神話や世界観であるコスモスによって、ノ・・437 モスを正当化し、その信憑性を擁護しようとする。うまくいけば、ノモスはコスモスの支えによって、その人為性を隠蔽することに成功し、社会はカオスの脅威から解放される」(芳賀[2012:437-438])
▼文献
●対馬路人、2002「カオス/ノモス/コスモス」北川・須藤・西垣・浜田・吉見・米本編集委員[2002:157]
●芳賀学、2012「コスモス/ノモス/カオス」大澤・吉見・鷲田編集委員・見田編集顧問[2012:437-438]
■北川高嗣・須藤修・西垣通・浜田純一・吉見俊哉・米本昌平編集委員、2002『情報学事典』弘文堂.
■大澤真幸・吉見俊哉・鷲田清一編集委員・見田宗介編集顧問、2012『現代社会学事典』弘文堂.
https://philosophy.hix05.com/izutsu/izutsu20.chaos.html 【コスモス・カオス・アンチコスモス】より
井筒俊彦の論文集「コスモスとアンチコスモス」のうち、同じタイトルを冠した小論「コスモスとアンチコスモス」は、コスモスとカオスの対立について論じたものである。コスモスというのは、井筒の定義によれば、「有意味的存在秩序」を意味する。有意味的存在秩序というのは、世界を存在者の意味のある秩序としてとらえることを意味している。世界の無数の存在が、それらの意味単位が、「一つの調和ある全体の中に配置され構造的に組みこまれることによって成立する存在秩序、それを『コスモス』と呼ぶのである」、と井筒はいうのである。どの民族にもそれ固有のコスモスがある。このコスモスがあるおかげで、当該コスモスの中に生きている人々は安心して生きることができる。これに対してカオスとは、そうした秩序が全くない混沌として受け取られて来た。その混沌は、とりあえずは、コスモスが成立する以前の状態をさすのが普通だった。というか歴史的な事実だった。世界は混沌から秩序へ、カオスからコスモスへ向かって進む、というのが、どの民族においても、歴史的な(あるいは神話的な)趨勢だったわけだ。
だがカオスには、コスモス以前の混沌を意味する場合のほか、コスモスが成立して以降、そのコスモスを混乱させるようなものもある。現代社会においては、むしろこうした意味あいのカオスの方が重要性を持つ。そういう意味合いのカオスは、コスモスが何らかの事情で正常に機能しなくなり、その結果一時的に起こる混乱をさすことが多いが、したがって人為的というよりは自然的といった方がふさわしい場合が多いのだが、なかには人為的に、あるいは意図的に引き起こされる場合もある。なぜそうなるのか。井筒は、人間には秩序を求める傾向と並んで、破壊を求める傾向もあり、そうした傾向が現存する秩序を堪え難い桎梏と強く感じるようになった場合に、カオスを引き起こそうとする人為的な力が働くのだという。現代のヨーロッパはちょうどそういう動きが強まっている時期であり、ポストモダンといった思想潮流が、意図的にカオスの現出を試みている。デリダの存在解体はその最たるものだ、と井筒はいうのである。
井筒によれば、西欧でカオスを追求する動きが出て来たのは、ニーチェ以降だという。ニーチェは、神は死んだと言って、既成秩序の無効性を唱えた。キリスト教の神は、西洋的なコスモスを基盤として支えてきたものであるから、それが無効になったということは、既存のコスモスが崩壊したということを意味する。ニーチェはつまり、西洋的なコスモスの全面的な崩壊と、それによるカオスの到来を主張したわけである。こうしたニーチェの思想は、その後実存主義哲学などに影響を与えもしたが、その範囲は限られていたといってよい。西洋的なコスモスはそう簡単には崩壊しないと、大多数の人には受け取られていたのである。そのコスモスへの挑戦が本格化したのは、ポストモダン以降であると井筒は見る。さきほど触れたデリダの存在解体の理論とか、ドルーズ・ガタリのリゾーム理論などは、その先鋭部分をなす。
こういう意味でのカオスを、井筒はコスモスの否定、あるいはそれへの挑戦という意味合いで、アンチコスモスと名づける。現代社会は、そのアンチコスモスによるコスモスへの挑戦あるいは否定が広範な動きとして強まっている時代だ、というのが井筒の基本的な認識である。なぜ現代の西欧社会にそのような動きが強まったのか、その原因なり背景について、井筒はくわしく分析することはしない。ただ人間の中にあるコスモスに反発する傾向が、現代社会ではたまたま高まりを見せている、というふうに認識しているようである。
東洋にもコスモスとカオスの対立はある。しかしその位相が西洋とはまったく逆である、と井筒はいう。西洋では、コスモスがプラス、カオスはマイナスと捉えられていたのに対して、東洋ではその逆に、コスモスつまり秩序はマイナス、カオスつまり混沌はプラスというふうにとらえられて来た。東洋では、秩序付けられた我々の経験世界は仮象であって、真実在は空あるいは無だとする考えが根強い。荘子はいわゆる現実世界は夢のなかの出来事と同じであるといい、イスラム神秘主義は幻想だといい、ヴェーダーンタ哲学は幻だという。真実在は、そうした経験的な認識では得られないのであって、人間の意識の深層部分で見られる分節以前の混沌としたカオスのようなもののうちにある、と考えた。人間の経験的な認識は、そのカオスが自己分節することであらわれるというのである。
このカオスのことを無とか空とかいう。「西洋思想では、『有』の論理的否定としての『無』ではない『無』(つまりいわゆる東洋的『無』)は、多くの場合『虚無』として体験され、『死』を意味します。ところが東洋では、『無』こそ生命の根源であり、存在の根源であって、『有』がかえって『死』なのです」。井筒はこういって、東洋思想がそもそも「無」優先の考え方に立っていることを強調している。井筒はこうした東洋思想を横断的に究明し、西洋思想に対する東洋思想の基本的な特徴とその優位性を追求してきたわけだが、そうした東洋思想の優位性を、いち早くカオスとしてのアンチコスモスに着目し、それに大きな意義を認めて来たことに求めている。西洋思想が最近になってやっと取り組み始めたことに、東洋思想はずっと昔から取り組んでおり、したがって思想的な蓄積も多いだろうから、現在こそ東洋思想の出番が来たというふうに井筒は思っているようである。
そこで、東洋思想はどのような点で、これからの人間社会のあり方に貢献できるのか、そこが問題となる。というのも、そういう貢献ができなければ、東洋思想の特徴を云々する理由はないだろうからである。井筒としては、西洋思想の基本的な特徴であるロゴス中心主義には限界があり、その限界を東洋思想が乗り越える鍵を持っている、というふうに考えているようである。ロゴス中心主義とは、言葉によって現実を分節し、論理的に世界を理解しようとする態度をいうが、世界には、論理的に割り切れぬものが多くある。これまでの西洋思想は、そういうものを切り捨てて、コスモスを脅かすもの、つまりアンチコスモスを抑圧するためにノモスを立てて来たのだったが、ノモスは秩序を与える一方、人間を閉塞させる効果も持つ。そういう閉塞は人間の可能性を抑圧する働きをする。そういう抑圧を排除して、新たな可能性を求めるためには、やはりアンチコスモス的なスタンスは必要なのであり、そうした必要性に東洋哲学は応えるものを持っている。
こんな理由から井筒は、今後の人類は、その可能性を拡大するためにも、東洋思想の考え方を広く深く取り入れていくべきだと考えているように見える。その際井筒が考えている方向性は、東洋思想のパラダイムこそが全体の枠組みを決定すべきであって、西洋思想のロゴス中心主義は、その一部に組み入れられるべきであるとするもののようである。東洋こそが普遍であって、西洋は特殊である、そう井筒は言いたいようだ。だから今後の人類は、もっと意識的に東洋的なものの見方・考え方を取り入れ、世界を複合的にとらえる努力をしなければならない、というわけなのだろう。
https://philosophy.hix05.com/izutsu/izutsu16.cosmos.html 【カオスとコスモス:井筒俊彦「コスモスとアンチコスモス」を読む】より
カオスとコスモスといえば、通常浮かんでくるイメージは、混沌と秩序の対立である。その対立においては、カオスはマイナスイメージ、コスモスはプラスイメージとして捉えられる。混沌として形が定まらぬカオスに、秩序が与えられて形ある世界としてのコスモスが形成される、というのが普通の(西洋的な、したがって今日における地球支配的な)考え方だ。その考え方は、旧約聖書にも示されている。
創世記は世界の創造を次のように記している。「地は(いまだ地としては存在せず、見渡す限り、ただ)曠々漠々、暗闇が底知れぬ水を覆い、神の気息(飆風)がその水面を吹き渡っていた。神が、光あれというと、光があった。神は光をよしと見て、光を闇から分けた。神は光を日と名づけ、闇を夜と名づけた」(井筒訳)。ふつう、ユダヤ・キリスト教においては、神はまったくの無から世界を創造したということになっているが、聖書を厳密に読めばそうではない。全くの無というのは、それこそ何もないことを意味するが、神はそういう意味での無から世界を創造したわけではない。神の前に原初にあったのは、無ではなく混沌である。神はその混沌に働きかけて、世界に形を与えた。つまり神は、無から世界を新たに想像したのではなく、混沌に形を与えて、今見るような世界に作り替えたのである。このプロセスを一言で表現すれば、神はカオスからコスモスを作り出したということになる。
以上のことは、聖書をきちんと読めば明らかなことであるが、なぜかキリスト教の伝統にあっては、この世界は神が無から新たに創造したということにされた。そういう想念を井筒は批判して、ユダヤ・キリスト教の世界観を、聖書に立ち戻って捉え直す必要があると言いたいわけであろう。その結果どういうことが生じるか。ユダヤ・キリスト教の世界観も、カオスとコスモスの対立という観念から成り立っているということの確認である。世界をカオスとコスモスの対立として捉える見方は、東洋的な世界観に通じるものがある。東洋的な世界観というのは、井筒によれば、無(あるいは非有)と有の対立、未発と已発の対立、無分節と分節の対立というようなことを根本にしている。無から有が生じ、未発が已発となり、無分節のものが分節されて形を得る、というふうに考える。これらの対立は、カオスとコスモスの対立に通じるものがある。
しかし、この指摘はあくまでも井筒の所見にもとづくものであって、幅広い支持を集めているわけではない。少なくともキリスト教圏の人びとは(無神論者でない限り)、あいかわらず神が無から世界を創造したと考えている。そんな具合だから、キリスト教圏においては、世界をカオスとコスモスの対立という観点から考えるような思考スタイルはほとんど認知されていない。せいぜい文化人類学とかある種の記号論とか、狭い分野で論じられているにすぎない。とは言っても、井筒にとってこの概念セットは、捨てがたいものがあるようで、これを用いて、旧約聖書の世界観を分析してみたいという意欲を見せてくれる。
井筒によれば、神は全くの無から世界を創造したのではない。神の前にはすでに混沌というカオスがあった。神はそのカオスに働きかけて、それに秩序を与えた。その結果、我々が生きている世界が形成された。それをコスモスという。つまり世界は、カオスがコスモスへと転化したもの。そういうふうに考え直すわけである。その場合、神が最初に創ったものは光であった。神が光あれという言葉を発すると光が生じた。ということは、光そのものの前に、光というコトバが発せられ、それに従って光が生まれたことになる。つまり、光を作ったものは神のコトバなのである。コトバが光をつくり、そのほか様々なものを創った。コトバは存在に先立つということになる。
コトバが存在に先立つ、という考えは、ほかにも例がある。イスラーム神秘主義の一派ファズル・ッ・ラーの文字象徴主義がそうであるし、またユダヤ教のカッバーラーも同じような考え方をする。カッバーラーの場合については、井筒は、正統派のユダヤ教より聖書に忠実な結果、コトバを存在の原因と考えるようになったと思っているようである。
ともあれ、カオスからコスモスが生じるという考え方には、ほかの東洋思想と共通するものがある。たとえば荘子の思想。荘子は混沌を存在の原点とする。荘子の混沌はカオスにほとんど同じといっていいほど似た概念だ。混沌から日常的経験世界が生まれて来る。それが一応コスモスに相当するといってよい。だが荘子の場合には、コスモスよりもカオスとしての混沌のほうを重視する。真の実在はコスモスではなくカオスにあると考えるのである。荘子は、日常的な経験世界の深層に混沌を求める。それこそが真実在と考えるからだ。それには、日常的な経験世界を解体する必要がある。この解体を荘子は「斉物」と呼ぶ。すべてのものを斉しくするという意味である。すべての者を斉しくして、物と物とを区別する境界線を取り除けてしまい、存在をその究極的な本源性に引き戻そうとするわけである。
禅の場合には、無(あるいは空)を有の原点とする。無とは、まったくなにもないという意味の虚無ではなく、有ではないもの、という意味の非有と考えたほうがわかりやすい。非有から有が生じる。非有は有(存在)の究極的な原点であって、したがって有よりも存在リアリティが高い。無にくらべれば、有すなわちこの世界は虚妄であるにすぎない、とまで禅者は言う。この無あるいは非有がカオスに相当し、有がコスモスに相当すると考えてよい。この対立する二項のうち、禅者は荘子同様、カオスのほうに究極的な存在リアリティを認めるわけである。
以上、カオスとコスモスの対立であらわされるような世界解釈のための操作概念は、西洋と東洋とでは、違う方向にベクトルが向いている。西洋的な世界観にあっては、カオスに神が働きかけてコスモスを作ったという点から、コスモスを重視する。コスモスは神の賜物であって、しかも人間の知性がロゴス的にとらえることができる。人間をロゴスの動物と考えるアリストテレス以来の西洋的な考え方にあっては、コスモスこそが人間にとってふさわしい環境ということになる。それに対して東洋的な考え方にあっては、カオスこそが存在の原点であって、コスモスはそれの表層的な表れであるに過ぎないということになる。禅者などは、コスモスを虚妄と言っているくらいである。こうしたベクトルの相違は、西洋と東洋の相互理解にどう働くか。そのへんに、井筒の問題意識は集約されていくようである。
https://philosophy.hix05.com/izutsu/izutsu19.dogen.html 【道元の時間論:井筒俊彦「コスモスとアンチコスモス」】より
井筒俊彦の著書「コスモスとアンチコスモス」の第二論文「創造不断」は、道元の時間論をテーマとする。道元の時間論といっても、道元だけに特有の時間論ではない。道元を含めた東洋思想に共通する時間論の特徴を明らかにしようとするものだ。東洋的な時間論の特徴を井筒は、時間を切れ目なく連続した流れとしてではなく、瞬間ごとに断続していると見るところに求める。西洋では、絶対時間といって、事物の存在とは別に純粋な時間の流れがあって、それが絶え間なく続いて行くと見るわけだが、東洋の時間意識はそれとは真逆で、純粋な時間というものはなく、時間と事物の存在は別物ではない、と見る。そしてその時間は、連続して流れていくものではなく、瞬間ごとに新たに生み出されるのだと考える。そうした時間についての考えを井筒は、イブヌ・ル・アラビーの「創造不断」の概念に代表させ、その概念を用いて道元の時間論を考究するのである。
「創造不断」はアラビア語で「ハルク・ジャディード」という言葉の訳だが、字義通りに訳せば「新しい創造」とか「新創造」という言葉になる。どういうことかというと、時間というものは切れ目なく流れているものではなく、「時々刻々に新しく創造」されているものだとする。時間は連続しているのではなく、途切れ途切れの、独立した時間単位(刹那)の連鎖からなる。「時間は、その真相において、一つひとつが前後から切り離されて独立した無数の瞬間の断続、つまり非連続の連続である、というのだ」(時間が右回りの渦・現象界 故に新しい創造と言えるのでしょうか?)
そうした断続した、非連続の時間は、存在と密接不離の関係にある。西洋思想のように、時間はそれ自体が独立したもので、つまり絶対時間というものがあって、その中を事物が存在するという考えはとらない。西洋の絶対時間の考えは、空間にも応用されて、絶対空間という概念が生み出される。西洋思想では、絶対的な時空概念が支配的だったのである。これに対して「創造不断」の考えにおいては、時(時間)と有(事物の存在)は究極的には同じものとされる。時が時々刻々と新たに創造されるのと同時的に、有も時々刻々と創造される。そのような創造を井筒は「念々起滅」と名づけている。時間も事物も「念々起滅」しながら、その都度時々刻々と新たに創造されていると考えるのである。
したがって「時々刻々の新創造」は、時々刻々の新しい世界現出を意味する。「つまり、時々刻々の念々起滅とともに有の念々起滅が現成し、刻々に新しい世界が、いつも新しく始まる。始まっては終り、終わってはまた新しく始まっていく、というのである」
ところで、イブヌ・ル・アラビーの哲学は、イスラーム教に立脚しているから、当然イスラームの神による世界創造ということを無視するわけにはいかない。そこでアラビーは、時々刻々に新たに創造される事態、時と有にまたがる念々起滅の主体として神を指定する。つまり、この世界は、神によって絶えず新たに創造されているとするわけである。
以上が、イブヌ・ル・アラビーの「創造不断」の概要だが、その創造不断の概念を井筒は、道元にも適用して、道元の時間概念や存在概念が、アラビーを代表とする東洋哲学の考え方と通底しあっているということを証明しようとするのである。
道元も又、時間が連続した流れではなく、瞬間ごとに断続したものであること、その瞬間ごとにおいて、時間(時)と存在(有)とは別物ではなく同じものであること、それを道元は「有時(うじ)」と呼んだが、言葉はともかく、考え方の実質はイブヌ・ル・アラビーとほとんど同じである。というか、イブヌ・ル・アラビーをその一つの例とする東洋思想の時空についての根本的な考え方を共有しているということである。そこでイブヌ・ル・アラビーの神に相当するものが問題となるわけだが、神を持ち出さないとすれば、その選択肢は二つある。一つは神に相当するが、それとは違うものを神の地位に据えること、もう一つは、そもそも神なしですませることである。道元は、前者を選択した。といっても、道元自身にはイブヌ・ル・アラビーの説についての認識はないから、井筒がそう捉えたということである。
道元が、神のかわりに持ち出すのは「我」だと井筒は言う。「我」の一念によって、時間と存在からなる世界が、時々刻々と新しく創造されていくと考えるわけである。そこで、この「我」がどのようなものかが問題となるが、道元はこの我を個別の人間と関連付けるわけではなく、個別の人間を超越した巨大な「我」として構想する。巨大な「我」といってもなかなかイメージがわかないが、どうやら道元は、密教の大日如来に相当するようなものをイメージしている可能性はある。道元は禅者であって密教とは無縁のようにも思えるが、密教の大日如来が、人間の意識の最深層における存在の究極的根拠をあらわしているとしたら、道元が存在の究極的根拠を、大日如来のようなものとしてイメージすることに不思議はない。
禅の基本的な考えは、我々の日常意識に現われる世界は虚妄だとするものである。真実の存在は我々の深層意識によってしかとらえられない。それにはひたすら座禅する必要がある。その結果とらえた真実在こそ、究極の存在である。我々はその究極の存在と一体化・同化することで、涅槃の境地に達することができる。禅者はそう考える。道元も当然そう考えるのだと思うのだが、だからといって、世界の存在性について、全く無関心だというわけではない。道元は道元なりに、世界の存在のあり方について、思索を巡らせたのである。その道元の、世界のあり方についての思索は、先ほども触れた「有時(うじ)」の思想に集約されている。
「有時」の思想は、「正法眼蔵」の一節の中で展開されているが、その要旨は、有(存在)と時(時間)は別物ではなく、同じものを意味しているというものである。時間から切り離された存在があるわけではなく、存在を離れた時間があるわけでもない。存在のあり方それ自体が時間そのものなのだ。存在は時間と切り離してはありえない。存在とは時間としての存在なのだ。これが「有時」という言葉に道元が込めた意味である。
その「有時」としての時空が、あるいは時空としてあらわれる世界が、時々刻々と新たに創造されると考える点では、道元はイブヌ・ル・アラビーと共通した思考パターンに従っているということになる。それをアラビーは、「創造不断」という言葉で表現したが、道元は「有時経歴(うじきょうりゃく)」という言葉で表現する。「有時経歴」とは、「有時」としての世界が時々刻々と創造される事態を言い現わしているのである。
そこで、この「有時経歴」が、人間の意識のどのレベルに対応しているかが問題となる。井筒は明示していないが、当然深層意識のレベルで起こることなのだろう。深層レベルでは、事物と事物を隔てる境界線は取り除かれて、あらゆるものが渾然一体と化す。世界は分節されたあり方ではなく、無分節の状態で、しかも一気に全体があらわれる。その全体のイメージは、あらゆる分節に先立つ混沌としたものであり、時空もまた分節以前である。時空は、混沌が分節されることで初めて現出するものなのだ。あたかも聖書が、世界の始めに光を分節したのと同じように。
道元も又、意識の最深層に起こる事態として、「有時経歴」を考えていたに違いないのである。
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