https://ivory.ap.teacup.com/tuneaki/388.html 【「俳句における感情表現②」感情は感覚に左右する】
児島庸晃
・理性が先行すれば感性が鈍る
毎日、毎日いろんな俳句の総合誌、それに同人誌を読んでいて不思議に思うことがある。現代という社会生活のなかに生存していながら、社会感覚や生活感覚のうすい句のなんと多いことか。個人の生活を詠うにしてももっと心の底へつき刺してくるエスプリがあってもいいのではないか。不思議でならない現象なのである。短詩形をはじめとして、文化的な創造の遅れはなんとしてでもとりもどさねばならない。いまの生活が理性を先行させるために感覚的なことがらを考えるゆとりもないのかもしれない。自然に身についてしまった生きるための技術は文化的創造を遅らせてしまったのだ。いまや大メーカーのオフイスは理性先行族のあつまりだそうである。しかしその多くが無用の人間になりつつあるとか。びっくりするのだがこのような本があちらこちらで出回っているのである。商品販売競争のなかで勝ち抜くには理性だけではどうにもならないものがあるらしく、いまや感覚的人間の養成が急務だという。人間の生活感や社会感というものが必要なのである。わかりやすくいうと感性人間の誕生を望む声がいろんなところで聞かれるのである。このことはなにも産業界だけのことではない。俳壇でも同じことである。理性先行形の俳人が急増しているのである。理性が先行すればどういうことがおこるか。考えるまでもないことだが、理屈っぽくなり、無感情になり、コトバがギスギスして詩にならないのである。一方、感性は人の心をうるおす。豊かにする。表情のよろこびを広げてゆくのである。その感性とは五感のこと。つまり視覚、味覚、聴覚、触覚、嗅覚のことであって、このうち視覚が80%を占める。感情のほとんどなのである。よって俳句は生活にうるおいをもたらし、生活力を強くする感情を育てる。俳句はもっとも生活に即した文学なのである。しかしいま俳句はますます理性的であろうとしているかの動きなのだ。どこかおかしい。もっと感性を必要としなければならないのにあたりまえ俳句の流行なのである。ぼくたち俳句現代派は…もう20年近く前から、より感性的であろうとしてきた。もっと現代の感情をたいせつにしようとしてきた。現代の生活にそった文体たろうとしてきた。
・感情は文体をつくる
第六感ということばがある。これは五感以外のことで、これから先の何か起りうる現象を予知することである。が、現実にはありえない。したがってぼくたちはこの五感に頼って生活しているのである。その五感の中で俳句は視覚の部分を利用して感情にうったえる文学なのである。そして五感より現実に感じたものをさらに発展させ、第六感を導きださせねばならないのだが、それはひとそれぞれによって異なる。この異なったときのコトバなり感覚が個性ではないか、とも思うのだ。
青玄181号にのった青玄前記8と、その下の伊丹三樹彦撮影の写真であった。
現代の感情は 現代の文体を 欲する 俳句も 亦
しぐさ父似で 湖へ向く椅子 きしらせる
この三樹彦の句、現代俳句協会年刊句集(1956年版)発表作品である。現代語によるところの感情を駆使した文体であった。この句には人間の生きるすべての機知がふくまれていて喜怒哀楽を左右する三樹彦の姿ですらあった。俳壇のアンソロジーとして傾向をみるにはもっとも適していて、また結社誌の仕事ぶりをみるのに誰もが注目していたものなのである。だがこの句を問うてゆくとき俳句現代派としての文体の必要性を思ってしまうのだ。三樹彦のこの句は七、七、五音である。定型からすれば二音多い。かって青玄では基本定型、準定型、活用定型とを区別して音律の問題を検討した時期があった。ここではこの句の音律について考えてみたい。全体からすれば十九音であり、用言止メ(動詞止メ)である。既成俳壇からすれば「しぐさ父似で」の「で」は無駄なものと思われ、当時散文的な扱いを受けていた。だが、この句の決め手はこの「で」の使用によって生かされているのである。それは結句の五音、「きしらせる」へ導いてゆくための「序」の役目をもっている。「で…きしらせる」と感情を強めるための心の動きなのであって、中七音の「湖へ向く椅子」は挿入部である。この挿入部分はワカチガキによって一層効果をあげ、散文的になるのをせきとめている。感情の流れを強めたり弱めたりしているのである。感情が人の心をとらえるのは説明であってはならないし、ムリな押しつけであってもならない。自然に話すように、人の心にとけ入らねばならない。そういう意味では既成俳句の屈折感、つまり「しぐさ父似」という「で」のない文体では、現代にそぐわない面もでてくるのである。三樹彦は感情を文体にするとき、一字も一語もムダにはしていないという証なのである。現代の生きことばが散文的なものが多いだけに、一語も一字もおろそかにはできないという教訓であった。
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