島田牙城氏の誤った  「写生論」に反論す

http://www1.odn.ne.jp/~cas67510/haiku/haikunoshiten2 【島田牙城氏の誤った

 「写生論」に反論す】より

角川書店の「俳句」4月号に島田牙城氏が「写生の悲劇を考える」と題し、岸本尚毅氏が、子規の絶筆「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」あげて、この凄絶までの自己客観化は文字どおり究極の写生というべきであろうと評したのを捉え、「この作品のどこが写生なのだろう」と疑問を呈している。島田氏は言う。「写生という方法が近代俳句において有効だった時期は確かにある。私はそれを否定しない。しかし、今なお多くのところで見聞きするこの『写生』という言葉が、私にはいかがわしいものとしか映らないのだ」と。

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 島田氏は、写生の句として虚子の「流れゆく大根の葉の早さかな」をあげ、「私の好きな句の一つだ。この句に大宇宙を見るまでもなく、このすきっとした清廉なる景は私に静かな心の時間をもたらしてくれる」と言う。つまり、虚子の大根の句は写生として認めるが、子規の絶筆である糸瓜の句は「微塵も写生という方法がとられていない」と断定し、そして虚子の大根の句は「もしも作者が虚子でなかったとしても、私はこの作品が好きである。写生俳句とは作者名を隠しても通用するものなのだ。翻って『糸瓜咲いて』の句が子規の絶筆でなかったとしたら、あなたはこの作品を採りますか。私は採れない」と言う。なぜなら、「痰のつまりし仏が皆目分からないからだ」と説く。

 さらに、島田氏は金子兜太氏らの生命、生を写すという写生論に対し、「子規は決してその先の『感性や心理の働き』まで写生だとは言っていない」と勝手に決めつけ、子規は「実際の有のままを写す」と言っているのだから、子規の写生はこの分かりやすい意味のままに受け取るべきであると主張する。さらに、島田氏は兜太氏の写生論に反論を加えながら、「『眼前の物を直截に受け取る』方法として『実際の有のままを写す』『写生』を見い出したのである。子規は決してその先の『感性や心理の働き』まで写生とは言っていない」と断定し、そして写生という言葉は「もう十二分に役目を果たしたものであり、すでに疲弊しきっている」と持論を展開する。

 俳句界は、仲間褒め、身内褒め、そしてわけの分からない師系図によりかかった俳人たちの過大評価、褒め合いに満ち満ちていて、息が詰まるような閉塞感にあるので、島田氏のような向う意気の強い一文は大いに刺激になっていいのだが、問題は、あまりに杜撰な論理展開にあることだ。俳句界の文藝春秋ともいうべき角川書店の「俳句」に連載する『現代俳句時評』としては、あまりにお粗末であり、こうした乱暴な評論が俳句総合誌に堂々と掲載されるところに、今日の俳句界の貧困と退廃が浮き彫りとなっている。

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 子規の「写生論」を問題にするなら、少なくとも写生論に関する子規の著作を通読すべきではないか。島田氏は子規の何を読み、そして「子規は決してその先の『感性や心理の働き』まで写生だとは言っていない」といった言葉を導き出したのか。

 また、虚子の「流れゆく大根の葉の早さかな」を写生という方法でなった作品として、「私の好きな句の一つだ。この句に大宇宙を見るまでもなく、このすきっとした清廉なる景は私に静かな心の時間をもたらしてくれる」と最大級の賛辞を贈っているが、この句のどこが優れているのか。さらに、なぜ、写生の代表句のごとく評価するのか。自分に「静かな心の時間をもたらしてくれる」。ただ、ただそれだけの理由で、虚子のこの大根の葉の句を評価しているのだったら、他愛無い小学生の物言いと変わらないではないか。

 なによりも私が、島田氏の論理に違和感を持つのは、「写生句とは作者名を隠しても通用するものなのだ」と強調している点である。俳句が文学ならば、桑原武夫の「第二芸術論」を引き合いに出すまでもなく、作者の格によって評価すべきものではない。写生の有無にかかわらず、作者の名前を消して通用するものが俳句でなければならない。作者名がなければ通用しない句は俳句ではなく、芸事の「お俳句」である。今日の俳句界はこの「お俳句」に陥っている。師系図を背景とした作者の格によって句の評価が左右されるキライがある。寝言戯言の「痴呆俳句」が俳句総合誌にあふれている堕落退廃は、俳句ではないタワゴトを作者の格によってもっともらしく評価してきた馴れ合い評価の当然の帰結である。

 島田氏に具体的に反論したい。

 虚子の「流れゆく大根の葉の早さかな」は、評価に値しない駄句凡句ではないか。「流れゆく大根の葉」で「早さ」は表現されていて、座五の「早さかな」に、むしろ虚子の俳人としての限界を見るべきではないか。

   易水にねぶか流るる寒さかな      蕪村

   うは風に蚊の流れゆく野河哉      蕪村

   枯芦の日に日に折れて流れけり     闌更

 蕪村、闌更の句に比して、俳句としての優劣は明らかである。

 虚子の句は、蕪村の「易水にねぶか流るる寒さかな」「うは風に蚊の流れゆく野河哉」を下敷きにしている、あるいは影響を受けているのは多言を要しないところだろう。

 島田牙城氏は蕪村や闌更の先行句を承知で、虚子の「大根の葉」を高く評価しているのか。例え、蕪村らの先行句がなかってとしても、虚子の大根の句は駄句だ。上五の「流れゆく」を説明して座五に「早さかな」ともってきており、こんなアホらしい句に「すきっとした清廉なる景は私に静かな心の時間をもたらしてくれる」と最大級の賛辞を惜しまない島田氏に、俳句や俳文を批評する能力があるのか、疑問を禁じ得ない。

 虚子の「大根の葉」の句の批評については、稿を改めて詳しく論じたい。ここでは、島田氏の「写生論」に絞って反論したい。

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     美を求めた子規の「写生」

 子規は「俳諧大要」のなかで次のように述べている。

 「面白くも感ぜざる山川草木を材料として幾千俳句をものしたりとて俳句になり得べくもあらず。山川草木の美を感じてしかして後始めて山川草木を詠ずべし。美を感ずること深ければ句もまた随って美なるべし。山川草木を識ること深ければ時間における山川草木の変化、即ち四時の感を起こすこと深かるべし」と。

 島田氏は、この「俳諧大要」を引用しながら、子規は決して「感性や心理の働きまで写生だとは言っていない」と断定するのか。「美を感じて後山川草木を詠ずべし」とする子規の論のどこに、感性や心理の働きを除外した「写生」があるのか。見当違いもはなはだしい。

 感性や心理の働きを否定した無機質の心理状態で、山川草木等と向き合って「俳句」が詠めるものであろうか。例え詠めたところで、そんなものは俳句ではない。単なる言葉の羅列に過ぎない。俳句の何たるかを知らず、子規の写生論に言及し、しかもその子規の写生論を荒唐無稽に曲解、歪曲したうえで「写生」を否定する島田氏の論理展開は、論理とはいえない幼稚極まる一文であり、俳人の思慮を見下し、あなどった態度以外のなにものでもない。

 掲載誌「俳句」の編集責任者に言いたい。執筆者の能力の有無を確認したうえで執筆依頼をすべきだはないか。持ち込み原稿ならば、論理構成、論理展開の妥当性を吟味すべきではないか。例え、荒唐無稽な論であっても、その論理に妥当性が備わっていればいいが、子規の写生論等を通読した人物なら、一目で論理の底の浅さ、インチキ加減が見える島田氏の一文を掲載した「俳句」は、少なくともそのことによって読者の信頼を損ねたというべきであろう。掲載誌にはそれだけの責任がある。

            ※

 私は、子規の写生論を批判する論文の掲載に異を唱えているのではない。写生論に限らず、批判・批評なくして文学としての俳句は存在し得ないと思っている。古今の名句、権威への批判・批評は、大いにすべきだし、また私自身、積極的に虚子らの批判・批評をしている。

 ただ、あまりに幼稚な寝言タワゴトを「俳句」のごとく影響力の大きな総合誌に掲載されると、事情を知らない人々は真に受けて、あやまった方向に行きかねない。そのことを危惧するのだ。

 子規は、俳句における「美」を具体的に述べている。「俳人蕪村」のなかで、子規は「美に積極的と消極的とあり。積極的美とはその意匠の壮大、雄渾、勁健、艶麗、活発、奇警なるものをいひ、消極的美とはその意匠の古雅、幽玄、悲惨、沈静、平易なるものをいふ」と。子規は主に芭蕉と蕪村の句を比しつつ、蕪村の積極的美を評価している。たとえば、芭蕉の「若葉して御目の雫ぬぐはゞや」「あらたふと青葉若葉の日の光」は「皆季の景物として応用したるに過ぎず」と指摘し、子規は蕪村の句は「皆若葉の趣味を発揮せり」として、「絶頂の城たのもしき若葉かな」「をちこちに滝の音聞く若葉かな」等蕪村の句をあげる。

 さらに子規は、俳人蕪村のなかで「客観的美」「主観的美」「人事的美」「理想的美」「複雑的美」「精細美」を委曲を尽して説く。

 子規のいう「美」とはなにか。子規の著作を一読すれば事足りるものだが、島田氏のような曲解・歪曲をまどわれないよう、私なりの解釈を述べておきたい。美とは、感覚的対象物に対する心の働きであり、個人的な営みに属するものだが、大体において美醜という感覚器官の作用は、社会を形成する集団で共有し得るものであり、その意味で客観性・普遍性がある。島田氏が否定した感性の働きが、子規の写生論の核を成す。俳句に限らず芸術作品の感動の共有は、この美によって支えられているのである。

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 斎藤茂吉は、子規の写生を「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」と捉えた。有名な「実相観入」である。

 まず、対象物に対する感動があり、その感動とは感覚器官への美的作用で、それによって対象物と向き合う。向き合う中から言葉を紡ぎ出す。あるいは言葉が自ずから紡ぎ出されてゆく。子規が唱えた写生は、まさにそのことを指している。

 島田氏の論だと、写生はまるでカメラのように機械的にその場の景色を写すような趣があるが、間違いもはなはだしい。カメラマンにしても被写体を選択するのに「美」の基準があり、しかも絞りや構図を決める心的働きは感性そのものであろう。機械的にシャッターが切られることで対象物を写すカメラにして、美によって形成される美意識が存在する。生身の人間が生身の目で耳で鼻で、感覚器官あげて対象物と接するなかから、その対象を表現してゆく写生はいつの世にあっても不変の真理を備えている。子規の唱えた「写生」が疲弊し、陳腐化することはない。陳腐化しているのは、虚子の句にみられる感動のない無機質の俳句である。俳句の大家のいかに陳腐な句の多いことか。俳句総合誌には俳句と形容するのが恥ずかしい句が大きな活字で並んでいる。

 堕落退廃した俳人からは陳腐な句しか生まれない。

 その陳腐化した近代俳句の負の代表作は虚子の「遠山に日の当りたる枯野かな」「桐一葉日当りながら落ちにけり」「流れゆく大根の葉の早さかな」等である。これについては稿を改めて書くことにする。

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