俳句と潜在意識

https://ssl.kokucheese.com/event/index/30842/ 【俳句メソッド x 潜在意識 で 課題解決ワークショップ】より

俳句で課題が解決できるわけない!俳句メソッドって何?と思った方、まずは聞いてください。

たとえば、 「売り上げをもっと伸ばすにはどうしたらいいか」「新規商材を考えなければ」「どうやって集客しよう」 「グループ内のもっといいコミュニケーションの取り方は?」という課題を抱えていて会社で一生懸命考えたけれど、なかなか解決できなかったという経験はありませんか。

それは、あなたに解決する力がなかったからではありません。

人が何か課題を解決する時に使う脳力は顕在意識によるもので、その人が持っている力のわずか5%の脳力しか使っていないからです。

あとの95%の脳力は潜在意識に眠っているのです。

潜在意識の力をもっと使えば、誰でも、もっと簡単に、楽しく、解決できるのです。

では、どんな時に潜在意識は目覚めるのでしょう。

解決できないので諦めて家に帰って、のんびりお風呂に入っていたらふっといいアイディアが浮かんだ、なんていうことありますよね。

潜在意識は、リラックスしているときや、問題から離れたときに活躍します。

そこで、問題を離れるために、最も関係ないと思われる「俳句」を使ってみました。

俳句=季語があって、5・7・5 です。

みなさん小学校で一度くらいは作ったことがあるでしょう。

俳句のイメージといえば、・お年寄りがやるもの・単なる趣味・難しそう・・・

・・・そうかもしれません。しかし、私は15年くらい俳句をやってきて、俳句にはこんな力があることに気づきました。

*季語はその時の心理状態を表しています。

*5・7・5という「そぎ落とす力」があります。

潜在意識は言葉を理解するのが得意ではありません。

ですから、あなたが課題を抱えているときの心理状態を「季語」で無意識で感じ取ってくれた方がよく伝わります。

そして、潜在意識はいろいろ答えを返してくれますがうまく言葉で返せないので、出てきたキーワードから顕在意識が理解できる状態に「そぎ落とし」ていく作業が必要なのです。

これが「俳句メソッド」です。

このワークショップでは、それぞれお持ちいただいた課題を俳句メソッドを使って連想ゲームを行い、解決のためのアイディア出しを行っていきます。

個人ワークを行うとともに、一緒になったテーブルの方と共同ワークを行っていきます。

<このワークショップでお持ち帰りいただけるもの>

* ゲーム感覚で解決できる楽しさ* どんどん湧いてくるアイディア

* 新しい仲間* 仲間からもらったアイディア* アイディアから「実際にやってみよう!」というやる気

<参加していただいたお客様の声>

「これをずっとやってたら、直観力が鍛えられそう」

「みんなにいろいろ引き出してもらって、気づきがあった」「楽しい!」

何となく面白そう~ と思った方、

お申し込みボタンをクリックしてください。

http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/01/post-4121.html 【俳句談義(1)虚子辞世句の解釈】より

虚子の辞世の句とも言われる「春の山屍かばねを埋めて空しかり」にある「空しかり」は単なる「むなしかり」ではない。虚子は「空然り(くうしかり)」ということを念頭においてこの句を詠んだのではないか? 

この句について、小林恭二の「この俳句がスゴい!」(角川学芸出版)には次の記述がある。

「虚子の絶唱です。この句を詠んで二日後に亡くなりました。自分の死を予感してこの作品を詠んだという説もありますが、辞世の句といった気負いは感じられません。晩年の虚子の句は、膂力りょりょく的には衰えているのですが、それとはまた別種の古拙な味わいがあり、平安期の仏像を見るような趣があります。

「春の山屍を埋めて」はイメージ的にはどきりとさせられますが、さしたる実質があるとは思えない。どんな場所でも長い年月の間には遺体のひとつやふたつは埋められているはずであり、とりたてていうほどのことはない。

むしろ、この句の眼目は「空しかり」でしょう。二日後に死を迎える虚子の目にはすべてが空しく見えていたと思います。ちなみにこの空しさは、青年や敗者の感じる、惨めったらしい「虚しさ」ではありません。やるべきことはすべてやりとげた男のみが感じることができる清々とした空しさです。なんとなく素敵な境地のようにも思えますが、これだけはその齢になってみなければわからないことなのでしょうね。」       

上記の句評を読んだ時に、チュヌの主人は「掲句の屍とは誰の屍なのか?「むなしかり」とは誰が空しく思ったのか?」など、この句の下五を「むなしかり」と読んで釈然としなかったのですが、偶々数日前に「生きて死ぬ智慧」など「般若心経」に関する本を読んでいたので、ふと次のように思い付いたのです。

虚子は日頃から「般若心経」の「色即是空」を潜在意識にして「花鳥諷詠」を句にしていたに違いない。掲句の「空しかり」は「むなしかり」ではなく、「くうしかり(空然り)」と読むべきではないか?「屍」とは虚子の「屍」のことではないか?

虚子の句に「春惜しむ輪廻の月日窓にあり」がある。「『凡てのものの亡びて行く姿を見よう』私はそんな事を考へてぢっと我慢して其子供の死を待受けてゐたのである」と虚子は四女の死に際して記述しているが、「色即是空」を念頭においていたのではないか?      

因みに、坊城俊樹さんは「独り句の推敲をして遅き日を」を虚子の辞世の句としてもよいとしている(「高浜虚子の100句を読む」参照)。この淡々とした句は句仏17回忌(3月31日)に作られている。虚子の句には、「短夜や夢も現も同じこと」や「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」などもある。

辞世の句がどれかはともかく、虚子の命日が釈迦の生誕日とされる「4月8日」に当たることも不思議な縁を感じる。

コズミックホリステック医療 俳句療法

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