『近代俳句の諸相-正岡子規、高浜虚子、山口誓子など

http://info.e-nhkk.net/?eid=1350481 【青木亮人『近代俳句の諸相-正岡子規、高浜虚子、山口誓子など-』】より

これまでの認識を覆されるような新しさに満ちた評論集。題名通り、近代俳句で外せない俳人たちの俳句や功績が丁寧に論じられていきます。

子規の時代精神を帯びた独断的な俳句観を、小説家や従軍記者などの夢に破れ、挫折と、屈託を味わうことで誕生したと指摘する本書。煩悶に苛まれる故に、俳句に煩悶など盛り込みえず、風景の断片しか詠みえないことに気付いた子規。業病に苛まれる日々に「理」を付けず、想像を絶する痛みや「精神の煩悶」に襲われるあられもない姿を、そのまま活写するのが子規の「写生」であり「美」であると説かれていきます。「写生」が、先入観や空想の陳腐を打破し、実景を掴み出し、身も蓋もない生身の人間の姿をいきいきと記すものならば、子規の「俳句」は文字通り近代的だったのだなと納得させられました。

また、現代の私たちにとっては、正統そのものと思われている虚子選の句が、当時としては類例のない奇妙な句であったという考察もとても新鮮でした。虚子の「写生」を基準にした選が、当時の月並み俳句の陳腐さと一線を画したものであり、虚子選が俳句観そのものを創造していったということ。さらには、「選と云ふことは一つの創作」という宣言。現代の私たちの俳句観の源流を見た気がしました。

さらに、「連作」で知られる山口誓子の「写生」が、「写真」ではなく「映画」を念頭においた写生であり、映画のように連作を詠んだという分析にもなるほどと思わされました。その他、尾崎放哉、石田波郷に加え、高野素十の例なども出てきますが、中村草田男の章は必読です。

著者は草田男が好きなのだろう、と感じずにはいられない、熱量が伝わってくる鑑賞の濃厚さで、「万緑」の句をはじめ、数々の句が語られていきます。「互いに齟齬を来しかねない妙な生々しさ」を持つ草田男俳句を、「慈しみに満ちた共感や同情と、ほろ苦いユーモア」とする把握には、新たな草田男の魅力を見た気がしました。

そして、傑作や潮流をなした俳人たちだけに留まらず、わたし達が仰ぐべき俳人のシルエットとして紹介されるのが菖蒲あやです。しがない庶民のつつましい暮らしぶりを詠んだ彼女の俳句の持つ「貧しい自分自身を朗々と詠んだ強さや飄逸さ」。華々しくはなくとも、俳句に作者自身の「履歴書」を見つけられる魅力。俳句との新しい関わり方を提案された気がし、もっと彼女の句を読んでみたくなりました。

https://blog.goo.ne.jp/kitamitakatta/e/96d62533aa2483a35a2b255921390758 【俳句2月号夏井いつきを読む】より

「俳句」2月号で夏井いつきさんが「さえずる」という題で発表した12句を鑑賞する。

水行十日ここより朽野のこんじき

朽野は<くだらの>と読み、枯野を意味する。小生ははじめてお目にかかる言葉である。

水行は<すいこう>なら船で行く旅、<すいぎょう>なら水で身を清めること。さて、どちらだろう。

どちらでも成り立つが小生は滝の水に打たれる修行をしていて、そこから、枯野の向こうに沈んでゆく太陽が枯野一面を黄金色にしていると取る。こんじきは<金色>と表記してくれたほうがわかりやすいが、水の冷たさと夕日の輝きをぶつけて勇壮である。

説明的な「ここより」を消せればなお締まると思う。

横たえて仏像運びゆく枯野

西遊記ではないが古い昔、修行僧がシルクロードにいるような景色を思った。仏像が見えるのはいいが、枯野と体言止めで終ると余情が出にくいうらみがある。スキージャンプにおいてテレマーク姿勢が採れないでガツンと着地するような感じ。

「鷹」で長いこと過ごしてくると、ここは「枯野かな」という着地をしたくなる。すなわち<横たえて仏を運ぶ枯野かな>のように。

身の骨の鳴れり木枯かがやけり

年を取ると身体の骨が鳴ることは珍しくない。小生はハンバーガーを食べようと口をひらくと顎の骨が鳴る。「木枯」を光で表現して味わいがあり、いかにも冬の、人とそれを囲む自然とのありようが的確にとらえられている。

白菜は頭蓋の如く凍りたり

白菜に雪が降ったのかもしれない。もともと白い白菜がよけい白く凍りついた。されこうべを出したことで野晒なる無常感も加味されて、凄まじい一句になった。

賽銭箱へ霰つぎつぎ跳ねて入る

銭ではなくて霰が意表をついておもしろい。吹き降りのときは軒下でもかような光景はありそう。説明が嫌いでファンタジーに飛び込みたい夏井さんにしては、「つぎつぎ」はやや説明的。霰ならそう言わなくてもそんなものだという気もする。ここが俳句のむつかしいところ。

本殿の前に蒲団を干し並べ

本殿ということはすでに神社の境内である。本殿にいたるまでに長い石畳があるような空間。「本殿の裏」ならばまだしもそんなところに蒲団を干すのだろうかという疑問が生じた。座布団にしても神社関係者はまず干さないのではないか。市井の人が干しに来たというのはよけい考えにくい。<横たえて仏像運びゆく枯野>のほうがはるかにリアリティがあると思うのだが……。

鴉百羽しずかに増えてくる寒さ

やつらは黒い。鳴くとうるさいが鳴かないのは不気味であり寒い。あまり経験したくない景色である。

枯蘆や太陽すな色に凝る

この句は白菜の句と同じくらい気に入った。「太陽すな色に凝る」は写生する目がはたらいていて引き込まれた。すな色は<砂色>であり、「凝る」で昼の月のような死に体の天体の表現にも技がある。もしかして太陽にうっすら雲がかかっているのかもしれない。季語がベースとしてこの景を支えている。

無人島三十風花のしきり

瀬戸内海を思った。高いところから島々を俯瞰している。おおむね納得できる景だが「しきり」が取って付けたようで気になる。水行の句の「ここより」のようにゆるむ。

春愁や長き海岸線に波

藤田湘子が提唱した「型・その1」の句である。しかし、「海岸線に波」は言わずもがなではないか。これは当然のことであり、むしろ波がないほうがおもしろくなる要素を含む。もう少し私はこれを見たという発見ないし個性が欲しい。

むっしりと椿は眼ひらきけり

花が眼にたとえた句は多々ある。また目をひらいたという発想も珍しくない。作者はそれを知っているだろう。そのうえで、「むっしり」という擬態表現に賭けた。それが成功したかどうかだが、ぼくはわからない。

さかしまにさえずるさえずるさみしいか

一読してこの句は「さ」の頭韻を踏むことを楽しんだ句作りを意識したことがわかる。しかし、逆さになって囀るという景をあまり見ない。中七での「さえずる」のリフレインは音感遊びには必要だがそれよりもこの景を納得させるために使ったほうがいいのでは。

何鳥がどういう場面で逆さになっているのか。そういった手がかりをもう少し見せて欲しい。「さみしいか」もいたずらに情緒に溺れている。

ぼくは、<枯蘆や太陽すな色に凝る>のような手堅い写生句を上位に見る。

夏井さんのファンタジーや浪漫性に大いに興味を持っているが、この句は写生の基礎を踏まえることが足りていないように思う。

https://ameblo.jp/kotobuki926/entry-12684714267.html  【『子規365日』夏井いつき     朝日文庫】より

 絶版になっていた新書が文庫本として再販されたのを機に読んでみました。筆者はテレビ等でおなじみの俳人。テレビでは辛口の批評が印象的ですが、同郷の正岡子規の俳句を丹念に読み、温かいコメントを書いていらしゃいます。

 正岡子規は、短歌と俳句を近代化した巨人で、「写生」を唱え、『歌よみに与ふる書』などを著しました。夏目漱石と親友でした。34年の生涯で24000句を作ったそうです。

 本書は大変野心的な内容で、1日1句、すべて異なる季語の句を紹介し、そこに筆者のコメントを加えるという形です。コメントはごく短いので、バスや電車の中で読めば、わずかな空き時間を有効に使えると思います。

 基本は、採り上げたその日の句を解説することです。子規の境遇や、同じ俳人としての視点、故郷の話などを交えて書かれているので、多彩で退屈しません。エッセイ風でもあり、子規の俳句から思い出した幼少期の思い出だけで、終わってしまうこともあります。そのあたりは、大変自由でこだわりがないようです。おかげで、幼いころ、筆者が父親と釣りをしていたこと、父親は郵便局長だったこと、2人の娘がいるシングルマザーだったこと、お酒が好きらしいこと、お使いによく行っていたこと、小学校で俳句を教えていること、中学校の国語教師だったことなどがわかりました。

 さすがに子規の俳句を365句も読むと、子規の多彩な面を発見することができました。脊椎カリエスを病んでも子規が大食漢であることは有名ですが、改めて見ると、食べ物の句は魅力的なものが圧倒的に多く感じられました。

 子規が人を待っていたことをよく表す句も多くありました。「漱石が来て虚子が来て大三十日」「碧梧桐のわれをいたはる湯たんぽかな」では、夏目漱石、弟子の高浜虚子、河東碧梧桐が登場しています。

 「写生」の神髄を示すような「春雨やお堂の中は鳩だらけ」、故郷への愛を感じる「故郷やどちらを見ても山笑ふ」なども印象的でした。

 筆者は、類句や推敲のあとにも触れ、優劣を述べているので、句の鑑賞法なども大変勉強になると思います。俳人ならではの視線です。

 1月から並んだ句では、日本の季節の伝統行事などを改めて思い出すことができました。初荷、門付け芸、左義長(どんど焼き)、寒念仏、涅槃会などなど。今はすたれてしまった習俗が懐かしく感じられました。蚊帳なども久しぶりで思い出しました。

筆者の子規愛が感じられる温かい本でした。

https://www.yuichihirayama.jp/2020/02/24/407/ 【テレビ番組『575でカガク!』ナビゲーター・夏井いつき NHK・Eテレ】より

 何かと大活躍の夏井いつきだが、昨年の夏にも面白い俳句番組を見事に取り仕切っていた。

『575でカガク!』は最先端科学の現場に夏井さんが足を運んで、科学を詠んだ俳句をその分野の専門家と一緒に味わうというもの。科学と俳句は、一見、かけ離れているように思われるが、夏井曰く「俳句における『見る』という行為は、まさに科学における『観察』なのです」。確かに優れた写生句は、予断を排して観察するときに生れる。

「翅わつててんとう虫の飛びいづる 素十」(季語:てんとう虫 夏)が、まさにそれ。天道虫は赤くて硬い翅を割って引っ張り上げ、その下にある羽を使って飛び立っていく。そうした精妙な動きの描写がこの句の命なのだが、これはもう科学と言っていいほどの『見る』になっている。

実はこの『575でカガク!』は一昨年の夏、Eテレの科学番組『サイエンスZERO』の特別編としてオンエアされ、大好評(たぶん)だったため、今年も放送されることになった。一昨年のテーマは「ニュートリノ」と「チバニアン」で、昨年のテーマは「恐竜」と「はやぶさ2」だった。特に恐竜はわかりやすかったせいか、千句もの応募が集まったという。この回は国立科学博物館の恐竜研究の第一人者、真鍋真が科学側の解説者を務め、夏井と楽しい論争を繰り広げた。

「小鳥来てひろびろ恐竜の眉間  香野さとみZ」(季語:小鳥来る 秋)

番組での特選句。最新の研究では、恐竜が進化して鳥類になったことが分かっている。あの巨大な生き物が軽々と空を飛ぶ小鳥に進化するとは俄かに信じ難いものがあるが、これが科学というものだろう。

ただし科学の側からすれば、恐竜と小鳥は同時代にはいないから、この句を実際の景色と捉えるわけにはいかないと真鍋は言う。それでも真鍋は続ける。「始祖鳥が登場するのは白亜紀なので、小鳥とはいかないまでも、白亜紀限定ならこの句は実景として成り立つ可能性がある」。

進化の研究には柔軟な想像力が必要とされる。この句にあるイメージの飛躍は、科学者にとっては天の啓示のようなものだろう。恐ろしい恐竜の眉間に、美しい小鳥が飛んで来て留まるシーンは、想像するだに微笑ましい。この番組ならではの句の評価である。夏井と科学者は、句についてそれぞれの立場で真剣に検証を行なう。それがこの番組の第一の意義だ。

「恐竜は死んだ蛙は生き延びた 平本魚水」(季語:蛙 春)

大きな恐竜と小さな蛙の対比を思うと、とても素朴な感慨のある句だ。恐竜は大きな隕石が地球に衝突して絶滅したとされる。その後、大量の食糧を必要としない小さな蛙が爆発的に繁栄したという科学的事実を踏まえると、恐竜のいなくなった地球で勝ち誇ったようにケロケロ鳴く蛙に、にわかにリアリティが生まれてくるのが面白い。ただし、この句で蛙が季語としてしっかり働いているかには疑問が残る。

「遠花火今なお卵抱く化石  桑島幹」(季語:花火 夏)

化石が物語る科学的真実を、やや距離を置いたところから眺める視点が面白い。科学のもたらす成果と、作者の日常生活との隔たりが、身近な成功を生んでいる。卵を抱いたまま化石となった恐竜に、遠く思いを馳せる優しさは、いつか進化の謎を解く一助となるだろう。

科学の最先端と俳句の出会いは非常に刺激的なことではあるが、一方で危険も孕んでいる。生物学や植物学などの自然科学であれば季節は重要なテーマになり得るが、物理学や宇宙を相手にするとなると抽象的な句や観念句に陥り易くなる。夏井はその危険を承知で、この企画に挑んだ。もしかすると、こうした角度からの挑戦が、俳句の未知の可能性を拓くことになるかもしれないからだ。そのバイタリティには、本当に感心する。

「夏濤の記憶星にも子宮にも  青海也緒」(季語:夏濤 夏)

「はやぶさ2」の回の特選句。小惑星リュウグウで、水の存在を思わせる発見があるかもしれないとのニュースが流れた。広大な宇宙で生命体を探すとき、水の存在は欠かせない条件の一つになる。この句はそれを子宮の記憶と並べて詠んでいる。生命をキーワードに置くことで、「星」をリュウグウに限定しなくとも、この句は成り立っている。ぎりぎりで観念句とはならず、壮大な宇宙を一句に蔵することに成功している。

「冷奴星に触れても良い時代  北野きのこ」(季語:冷奴 夏)

小惑星に辿り着けるようになった時代の日常の点景。「星に触れても良い時代」というフレーズで、具体的な内容が読者にどこまで伝わるかは断言できないが、「冷奴」という大変わかり易い季語の働きで、作者の感慨の質は感じ取れると思う。もしこの句の主人公を科学者とすれば、より一層面白味が増すだろう。

今、科学の進歩は目覚ましく、我々の日常に知的な楽しみを与えてくれる。それを俳句を通して味わうのは、今までになかった詩情との出会いになるのかもしれない。また今年も、ぜひ『575でカカグ!』を見たいものだ。

「りゅうぐうに初めての客秋の風  あさふろ」(季語:秋の風 秋)

俳句結社誌『鴻』2019年10月号より加筆・転載

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000