https://forbesjapan.com/articles/detail/35662/1/1/1 【音楽は宇宙の調和を語る言葉】より
朝日新聞の創刊以来の新聞記事を検索できる「聞蔵Ⅱ」というサービスがあるのをご存知だろうか。新聞の「聞」という字を使った名前で「きくぞう」と読むのだが、最初にその名前を聞いたとき、「なんで聞くのか?」と違和感を覚えたものだ。検索結果は文字や紙面イメージで、記事を読み上げてくれるわけでもないのに……。
新聞という言葉が主に新聞紙を指し、ニュースを活字で読むことに慣れているわれわれは、中国語で「新聞」という言葉がニュースを意味すると聞いて一瞬考え込む。しかし確かに、「新しく聞く」とはニュースそのものだ。とすると、もともとニュースはどのように伝えられてきたのか?
ニュースは読むのではなく聞くもの
近代のマスメディアとしての新聞が成立したのは19世紀末で、それまでの新聞は主に知識階級や貴族が郵便などで不定期に受け取るオピニオン主体のニュースレターで、それ以外の一般庶民はほとんど字も読めず、日々のニュースは口伝えによる噂で聞いたものだった。
そう考えると、人類の文明数千年の歴史の中で、ニュースが日々読むものとして流通するようになったのは、ごく最近の100年程度でしかないことに気づく。何かの事件や異変が起きたとき、人はまず声をあげ、それから字や絵にして詳細に遠くにまで伝えようとする。
人間もまず生まれてすぐ鳴き声をあげ、声や音を聞いて自分の環境を理解するようになり、自然に話し言葉を覚えるが、文字を読み書きするのはずっと後で、こちらは学習しないと使えない(おまけに文字の読み書きを覚えたのはたった数千年で、人類の歴史の千分の1)。
そもそも動物にとっては、音や鳴き声こそがニュースであり、それが自分の存在を示し、仲間と情報を一瞬にして共有する手段だった。耳は目のように眠っている間も自然に閉じることはできず、あたりの異変を伝える騒音で目を覚まさなければ生死に関わる。音というニュースを正しく理解することが生存の基本にあった。
そのためか、音は情動や感情と切り離すことが難しい。例えば書かれた台本を読む方法は何十通りもあり、それを声で表現する人の性や性格や精神状態までをも暴露してしまう。目で見た情報は相手を瞬時に捉え選別するのに有効だが、耳で聞いた情報はそれから先の相手の内面の理解にまで踏み込むより深いものだ。顔を知っているだけの相手でも、話しを聞いて初めてどういう人かわかるという経験は誰もがするだろう。
デジタルのコンテンツは、最初はきれいなビジュアルばかりに注目して音は付け足しだったが、音が良いコンテンツはビジュアルが実際よりよく見えるという実験結果もある。音は深層心理に呼びかけるよりリアルなメディアなのだろう。
ナチスのラジオ受信機「国民ラジオ」のプロパガンダポスター(360b / Shutterstock.com)
テレビが普及する前にナチスは安価な「国民ラジオ」を普及させてヒトラーの演説を日々全国民に聞かせようとしたが、声によるプロパガンダは人々を熱狂させるのに効果があったという。一方のアメリカではルーズベルト大統領がラジオで炉辺談話を放送していたが、声を使ったマスメディアは国民を感情的にまとめるために役立った。
ラジオ放送はもともと、20世紀初頭に無線電話として1対1で使われていた無線の機能を、マルコーニ電信会社のデビッド・サーノフが単独の発信者の声を不特定多数に広く撒く「ブロードキャスト」(放送)という方式に変更して普及させたもので、第一次世界大戦が終わった1920年代にはアメリカで商業放送が開始された。ラジオが伝えるのはニュースばかりでなく、最初からドラマや音楽などのエンターテインメント番組も流された。
1920年代のニューヨークの動物園のホッキョクグマの檻の前で演奏する「オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド」(Photo by Mondadori via Getty Images)
ラジオに大きく反応したのは若者世代で、この時代が「ジャズ・エイジ」と呼ばれるほどジャズの人気が高まった。ちょうど出始めたレコードと電気式蓄音器でブームがやってきた。テレビ時代を開花させたのも、若者が支持したロックを扱った歌番組やMTVのようなミュージックビデオだったが、ネット時代を牽引するのはミニマルやR&Bやヒップホップなのだろうか。
歌は人類の記憶を伝える
同じ音でも、音楽は音声と違って明確なメッセージを感じ取ることが難しく、現在ではもっぱらエンターテインメントとして捉えられることが多い。
音楽の起源は定かではないが、原始時代から石器をたたいたり、動物の骨を吹いたりして音を出す習慣があったと考えられ、古代のメソポタミアやエジプトの遺跡では楽器も発見されている。そして話し言葉に節をつけた歌も古くからあったと考えられる。
話し言葉の音の高さに一定のメロディーやリズムを付けた歌は、労働時や祭礼の際に使われただろうが、それは言葉の記憶と伝承に有効だった。長い文章を記憶するときには、一定の長さに切って、韻を踏むように音の類似性を利用し、節回しを付けるとどういうわけか自然と覚えられる。好きなアーチストの歌の歌詞は特段覚えようと努力しなくても、何回も聴いているうちにメロディーが流れると無意識に出て来るようになる。
明治時代に作られた鉄道唱歌は、全国の鉄道の駅名を読み込んだ300番以上の唱歌で、これによって駅名を暗記できるようになった。そのほか都市名や歴代天皇の名前を読み込んだものも古くからあった。アメリカでも全州の名前や歴代大統領の名前を覚えるための歌があり、歌を使った記憶術は世界的に使われてきたものだと言える。
ホメロスやイリアッドのような古代ギリシア時代の長編の物語も、吟遊詩人の記憶によって後世に伝えられたとされるが、きっと人類が最も古くから伝えようとした言葉は、石碑などに刻まれたものより、民謡などにその命を託しているようにも思える。
エジソンと蓄音機 1928年(Photo by Keystone-France/Gamma-Rapho via Getty Images)
しかし音楽は現在、プロのミュージシャンと呼ばれる人が、いろいろなレーベルからCDやデジタルでリスナーに配信しているのが普通だ。19世紀末にエジソンの蓄音器ができて、その後グラモフォンなどのレコード盤に録音した音楽がマス商品化し、演奏する人と聴く人が分離した。昔からプロのミュージシャンはいたが、音楽はもっと家庭や地域で誰もが参加して楽しむものだった。初等教育の時期から情操教育の一環として、音楽の授業で楽器を演奏したり歌ったりすることはあっても、「読み書きソロバン」が中心の教科の中で、音楽や体育は余技のような扱いでしかない。
富国強兵のための義務教育から始まったカリキュラムは、きちんとマニュアルを読んで間違いなく仕事をこなす官僚や工場労働者を育てるには向いているが、個性的な表現を育てるには不十分で、受験に関係ない音楽をずっと続ける人は音楽大学に行ってプロを目指す特殊な人という扱いだ。
最も古い基礎教養科目としての音楽
パフォーミング・アートとしての音楽には職人的な訓練も要求されるが、音を扱う学問としての音楽(音学?)は古代ギリシアの時代から、学問の中の学問として必須科目だった。
最近は国立大学を中心に、文学部などの文系の学部が社会に役に立たないと不要論が出され、文理の区別をせずにリベラルアーツ(教養)を復権させるべきだという論議も話題になっている。
ラファエロ「アテナイの学堂」(serato / Shutterstock.com)
教養と言うと、専門分野を深める前の入門段階を指すように聞こえるが、もともとは古代のギリシアやローマで教えられていた学問と呼ばれるものの原型を指す言葉で、リベラルは自由を意味し、(奴隷ではない)自由人として生きるための素養を意味していたものだが、日本では当初これに「芸術」という訳語を充てたため、アーチスト教育のように受け取られている面もあった。
リベラルアーツは中世以降の学問の基本とされ、現在では「自由七科」とも訳されており、文法、修辞、弁証、算術、幾何、天文、音楽の7つの学問ジャンルからなる。それらのうち、最初の文法、修辞、弁証はいわゆる言語に関わる文系の素養で、3科(trivium:トリウィウム)と分類され、その複数形のトリビアは雑学や常識を指す言葉の語源にもなっている。
そして残りの「科学の4姉妹」とも言われる4科(quadrivium:クワードリウィウム)は、7科を統合する哲学に通じていく理系の学問だが、算術、幾何、天文に混じって、なんと音楽が入っている。なぜ音楽が理系の基礎学問なのか?
順番に見ていくと、まず算術の基本は数を数えることから始まり、数の比も扱う1次元の世界。そして幾何は2次元の量を対象にする。そして天文は天体の運行を理解するための3次元的な数学的構造を扱う、算術と幾何学の応用だ。
万物が数であると主張するピタゴラス学派は、音の高さや調和(ハーモニー)を数学的な構造が現実に反映したものだと考え、数と宇宙を結び付けている基本が音楽だと主張した。つまり宇宙に象徴される自然界の構造は数学的な論理を反映したもので、それは琴の弦を分割すると音の高さが変化して調和するのと同じ原理に支配されていると考えたわけだ。
天体の動きを見ていても、何の音楽も聞こえてはこないが、ここで言う音楽とは心地よい楽曲と言うより、音楽という喩えで人間が感覚的に世界を理解しようとするメタファーだ。
Marina Sun / Shutterstock.com
そして16世紀以降の科学の発達の中で、有数の科学者たちはアリストテレスや聖書の教えから離れて、自然界を数学的な方法で解明しながら、物事の関連の調和を音楽的な発想で解析していった。
デカルトやケプラー、ニュートンに始まり、オイラー、ヘルムホルツ、リーマン、アインシュタインに至るまで、優秀な哲学者や科学者(当初は自然哲学者と呼ばれた)たちは、音楽に傾倒し、音の調和と自然現象の調和のアナロジーを駆使して理論を構築してきた。
音の発生から複数の調和のメカニズムを探る音楽的な研究は、波の周期や形状を数学的に体系化することにつながり、さらにそれが光の色や干渉や屈折などの現象解明の際にアナロジーとして使われ、次の時代には電気や磁気の電磁波としての振る舞いの理解にも応用され、ついには原子や電子の構造解明にまで連なった。
音という物理的現象の数学的な理解が、それ以外のありとあらゆる自然現象の体系を考えるヒントとなり近代科学全般に影響を与えたとなると、音楽を単なる楽しみの道具と考えるのはあまりに狭い見方であることがわかるだろう。
逆に数学的・理論的な見地を、作曲に応用しようとする動きもあり、いろいろな数列と音を組み合わせて作曲をする試みがあり、モーツァルトもサイコロを振って出た目から展開する楽曲を作ったことがある。現代音楽ではライヒやクセナキスが、偶然や確率、アルゴリズムを駆使した楽曲を作ったことが有名だ。
現在のテクノロジーが支配する世界では、メディアアートの分野で、コンピューターが作ったCGを操作すると音がでるビジュアル楽器のような作品がよく作られるが、それらが大々的に話題になることはない。
ブライアン・イーノ(Photo by Valeriano Di Domenico/Getty Images for Kaspersky)
NASAはときどき、宇宙からやってくる電波の振動を音に変換したデータを公開しており、ブライアン・イーノは天体物理学者と組んで星の内部で発生した音で宇宙オーケストラを作ろうとしているというが、それらは天文学者の啓蒙運動の一環のようにしか思えない。
古代から人類を魅了してきた、世界や宇宙を理解する手がかりとしての音楽という視点は、いまでは忘れ去られているようにも感じる。
音楽は宇宙を語る言葉
30年前に初めてVR機器を発売したVPL社は、もともと画面に並べたアイコンを組み合わせてプログラムや音楽を生成するソフトを作っている会社で、エアーギターのパフォーマンスで実際に音を連動して出すための手に着けるセンサーを開発してからVRの世界に本格的に参入した。
ジャロン・ラニアー(Photo by Mike Coppola/Getty Images for Tribeca Film Festival)
この会社の創業者で、まさにVR(Virtual Reality)という言葉を作ったジャロン・ラニアーは、民族楽器のコレクターかつ演奏家でもあるが、最近のVRブームを受けて行われたWIREDのインタビューでVRの定義を尋ねられて、「音楽と知覚の中間に位置するもの」と答えている。
VRの世界ではゲームをプレーしたり、想像上の世界を旅したり、理論上のモデルを操作したりと、われわれの認識する世界のイメージと言葉というより身体を使って対話する。ラニアーはそれを「ポスト・シンボリック・コミュニケーション」とも表現するが、古代に考えられた音楽は、こうした世界の秩序や調和を操作したり理解したりすることを、感覚的に捉えたもっと広い概念だった。そういう意味ではラニアーの言うVRの定義は示唆に富む。
音楽好きだったAIのパイオニアのマービン・ミンスキーは、コンピューターに出合ったのは、自動ピアノで遊んだとき、シートに穴を開けるだけですばらしい音楽が生まれる不思議に感動した記憶を、プログラミングに重ねたからだと言っていた。
インターネットでは当初、旧来のマスメディアがニュースサイトを作り同じ声が一方的に広く流れたが、現在では誰もがSNSの発信者となり、ツイッターの「つぶやき」やユーチューバーのパフォーマンスが、声のニュースのように世界中に響いている。それは書かれたニュースのコピーが流布していると言うより、地球全体が一つの空間となり、世界中の人々の現場の声や音が同時に鳴り響いている交響曲が流れているような状況だ。
われわれは現在、音楽を有名アーチストが作っている流行のようにしか捉えていないが、日々の暮らしに関係する話し言葉や雑音を含めた、世界の音全体が構成する広い意味での音の世界を扱うものだと考えてみると、もっと違うメロディーが聞こえてくるのではないだろうか?
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