Facebook竹元 久了さん投稿記事
🔵日本の「美意識」や「美の概念」~自然に対する「移り変わり」や「滅び」という時間概念「侘び」「寂び」のような日本の伝統的な美意識は日本人が物事に対して感じる美の概念の一部です。
古来の日本人は職人気質でありながら、精神的で哲学的な内側の世界へ美に対する思想を抱き、完璧な空間を演出しながらも「移り変わり」や「滅び」に対して抵抗することなく自然のままに受け入れる変化を好む性質がありました。
そして、日本人はモノや空間だけでなく、その場の雰囲気や精神的な心構えに対して「美」を感じ追求していきました。
今回は、そんな日本人が抱く美意識を紹介していきます。
【日本人の自然観と神道】
まず初めに、日本人の美意識の根本にある概念として「自然」があります。
「花鳥風月」や「雪月花」という言葉から日本人は太古の時代より「自然」に対して「美」を見出してきました。自然を愛する日本人の美意識の特徴として「移り変わり」という時間の流れによる経年変化が挙げられます。
例えば日本庭園は自然をあるがままに作り出すことに重きを置いています。西洋の庭園に見られる調和の取れた景観とは異なり、自然的で混沌としている特徴があります。これは日本人が「自然のままに変化する景観を楽しむ」特徴があった事が挙げられます。
桜の花を美しいと感じるのは「刹那的に美しさと滅びていく儚さ」にあるように、日本人の美意識は「変化」や「空間」に左右されることが多く、自然の持つ得体のしれない大きなエネルギーをベースに価値観や思想が構築されています。そして、自然への畏れは日本人の思考のベースとなる神道へと発展していきます。
日本は島国で弓型の形をしており、中央に山脈が連なります。日本の気候は縦走する山岳地帯を境に太平洋に面している地域と日本海に面している地域とで大きく異なり、北海道と本州の高原地帯が亜寒帯、南西諸島の一部は熱帯、他地域は温帯に属しており、南北で寒暖差が大きく、地域ごとに自然の見せる姿が変わります。
山岳地帯から流れる河川の量も多く、水に恵まれております。また、同時に水害も多い傾向にあり、太古より日本人は自然の持つコントロール不能な強大な力に畏怖の念を抱きながら生活していました。
ある時は恵みを与えてくれる自然への感謝、またある時は全てを奪い去る自然への畏れはいつしか日本の信仰へと結びつきます。
日本はアニミズムによる自然崇拝がベースとなった神道を中心に文化が形成されました。そのため日本人にとって物事の判断基準は「神道」による信仰から生み出されてきました。
また、自然の美しさや自然の猛威と身近であったことから美意識の基盤には「自然」がもたらす変化に対して美を見出しました。
また、仏教の伝来により仏教の持つ思想や価値観が広がり日本の美意識は精神世界へと向けられていきます。特に「無常」は日本人の本来持っていた自然観と混ざり、「花鳥風月」のような自然の変化や移ろいの美を生み出していきます。
日本人は古代の時代より自然の音を雑音ではなく1つの音として捉えていたほど繊細な美意識を持っていました。
現代にも受け継がれている日本の美意識は日本という風土が生んだ文化によって独自に形成され、大陸から渡来した思想と溶け合い日本化させることで研ぎ澄まされていきました。
【無常】
無常とは「滅びゆく儚さに見える生き様の美」であり、日本人の思想や美意識において最も根本に近い概念の1つです。
「無常」とは仏教において中核教義の1つで仏教の根本思想である「無常」「苦」「無我」の三相にも含まれている思想で、飛鳥時代に仏教は日本に渡来し、国の中心的な宗教として人々の生活の中に現れました。
古代の日本ではアニミズムによる山や川、森や自然現象に神が宿ると考える自然崇拝の民族で神の依代として自然を奉ってきました。古代神道が主流の生活をしている中に異国神の教えである仏教が渡来し、日本の宗教文化に組み込まれました。
「無常」のもつ「死生観」や「儚さ」「移りゆくもの」が日本人の自然観と一致したこともあり、日本人は無常に「美」を感じるようになったのではないかと思われます。特に中世における日本文学では「無常」抜きに語ることができないほど思想の中心的な役割を担っていることから、日本人の基本的な価値観として「無常」は真ん中に位置していたと考えられます。
「無常」を代表するモチーフの1つに「桜」があります。日本人は古代より桜の花を愛していますが、桜の花が愛される理由の1つに「桜の生き様」に共感し、「美しく咲く姿は永遠ではない」という儚さや残酷さに無常を感じ取ったからであると言われています。
日本人は「移ろい」や「変化」に対して美を見出す傾向があり、西洋に多く見られる「永遠の美しさ」や「悠久の美」という姿勢とは真逆の考え方です。
「一瞬の美学」「刹那の美」「朽ちていく美学」は無常という美意識によって培ってきた日本人独特の美意識となります。
【もののあはれ】
「もののあはれ(物の哀れ)」は「をかし」と並んで平安時代における日本の美意識の中で中心的な美の概念で、平安時代の王朝文学を理解する上では避けては通れない文学的・美的理念の1つとなります。
「もののあはれ」は「哀愁さ」を指し、五感を通じて「見たもの・触れたもの・聞こえたもの・香るもの・感じるもの」によって生ずる「しみじみ」とした深く心に感じる「しんみり」とする感情を意味します。そして、その切なさや儚さは「無常」にも通じる写実的な哀愁に近い感情です。
苦悩にみちた王朝女性の心から生まれた思想であり、叶わない想い・願いに対して感嘆する心の動きと「無常観」を合わせた美意識として世に生まれました。
そのため王朝文学で使用される「あはれ」には悲しみが付きまといます。自分の思いが届かない悲しみや、形あるものはやがて滅びゆくという自然の摂理に感じられる無常観こそが「あはれ」という美意識に深みをもたせ「傷心的な心の動き」に美しさを感じさせてくれるのです。
歌人の西行は「都にて 月をあはれと おもひしは 数よりほかの すさびなりけり(都にいた折に、月を“あはれ”と思っていたのは物の数ではない すさび(遊び,暇つぶし)であった)」と「あはれ」について詠んでいます。この歌で西行は月に「あはれ」を感じ、神秘的で奥深い趣きから後の「幽玄」の境地を拓き、東洋的な表現である何もない空間「虚空」を表現しました。
「月の満ち欠け」「桜の花」「人の優しさ」「時間の流れ」といった移ろいの中で感じる哀愁さに「美」を見出した「もののあはれ」は「花鳥風月」のような自然の変化を鑑賞する自然観と、仏教思想の栄える者もやがては滅びゆく「無常」が人々の生活の中に溶け込み、戦や権力争いといった時代背景と、貴族文化と色恋のような文化的背景によって育まれました。この「あはれ」の美学は後の時代でも美意識の基盤として引き継がれていきます。
現代でも「儚さ」や「哀愁」は日本人の感情を突き動かす美意識の1つで、どこかノスタルジーを感じさせるものに惹かれる傾向にあります。今も昔も日本人は「もののあはれ」に心を動かされ続けているのかもしれません。
【をかし】
「をかし」は「もののあはれ」と並んで平安時代における日本の美意識の中でも重要な美の概念となります。
平安時代における王朝文学の中で「をかし」は重要な文学的・美的思想の1つで、もののあはれが「しみじみとした情緒美」であるのに対して、をかしは「明るい知性的な美」と位置付けられています。
「をかし」は「趣がある」という意味を持ち、感覚的に物事を捉える性質があります。物事や景観に対して「物事や事象が感じさせる風情」「しみじみとした味わいが深いもの」に対して「趣き」を感じる心を指します。
カラッとした暑さが続く暑の日に、窓辺で内輪を仰ぎながら青い空と真っ白な雲を見上げる。その時「チーン」と風鈴の音が聞こえてきた時「なんかいいなぁ」と感じる心の動きが「をかし」です。
平安時代における「をかし」を読み解くことで日本人が何に対して「美」を感じていたのかを想像する事ができます。
源氏物語に「けづることをうるさがり給(たま)へど、をかしの御髪や」という一文があります。これは「髪をとかすのを嫌がるけれど、美しい御髪(おぐし)ですね」と現代語訳されます。また、枕草子では「また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし」では「また、ただ一つ二つと、(ホタルが)かすかに光って飛んでいるのも趣がある」と訳されます。
当時の日本人が感じていた「美しい」「素晴らしい」「綺麗だ」「物凄い」という風情に対して使われていた言葉であると思われるため。「をかし」は日本人の「ふとした時に感じる美」を表現する美意識の1つになります。
現代で言う「ヤバい」とか「エモい」にはどことなく「をかし」のニュアンスが含まれているようにも感じます。
ちなみに、室町時代では同じ「をかし」という言葉でも意味合いが変化し「滑稽である」「笑いたくなる」という意味を持つようになりました。能を大成させた世阿弥の能楽論の中に狂言の滑稽な様を「をかし」と表現していることからも言葉の意味が変化したことを裏付けています。
【雅】
「雅(みやび)」とは平安時代の王朝文化の中で生まれた美意識で、日本の伝統的な美的概念となります。「優雅さ」「洗練さ」という意味を持ち、平安時代の王朝文化や貴族の思想の中心的な美意識でもあります。
「みやび」の「みや」は「宮」を指し、「宮廷」を意味します。つまり宮廷好みの優美で優雅な美意識とそれに伴う「立ち振舞い」「姿勢」「所作」「博識さ」「マナー」「美的センス」を指します。
また、「雅」にも「無常」の思想は強く反映されており、「もののあはれ」や「移り変わり」という概念にも深く結びついていました。特に女性の装束、調度、絵画、建築、音楽の中で「雅な無常さ」は表現されます。
宮廷の女性の装束には四季折々の景色や色合いに合わせて、その彩りを装束の重ね目に表し色の変化を楽しんでいました。四季に合わせて変化させる色の重ねは貴族が女性に対して好意を抱く際の重要な要素でもありました。季節に合わせた色選びが教養として重要視されていた時代です。その変化を楽しむ様は「無常」や「あはれ」「をかし」の美意識が複雑に混ざり合った結果生まれたと想像されます。
また芸能面では雅楽が「雅」の世界を色濃く表しています。大陸文化のエキゾチックな装束と優雅さを表した舞踊と音楽は雅の持つ思想を強く反映しています。現在でも雅楽は当時の文化を維持したまま伝承され、演奏されているため平安時代の「雅」を感じることができます。
「雅」は文化的なものだけに収まらず、立ち振舞いや姿勢を表す哲学的思想としても発展をしました。優雅で博識な姿勢は貴族の教養であり、貴族社会において重要な行動指針でした。中世の日本文化の根本にある美意識であるため、後の世にも文化的にも思想的にも大きな影響を与えました。
宮廷文化で繁栄した「雅」は戦乱の世を経て一度滅びてしまいます。武士を中心とする乱世では「雅」という美意識はそぐわない価値観だった事が要因だと思われます。
しかし、乱世が終わり平和な時代が到来した安土桃山時代から江戸時代にかけて「雅」は復活します。雅を復活させた要因の一つに当時起こった芸術活動の1つ「琳派」が挙げあれます。琳派は「雅」の美意識を再現した芸術作品を多く生み出しました。
「雅」という平安時代に生まれた太古の美意識が持つ豪華絢爛な美しさは、現在においてもデザインや芸術活動、営みの中で生じる文化活動の中で影響を与え続けており、「豪華で美しいもの」「洗練されており優雅なもの」に対する美しいと感じる美意識は生き続けているのです。
【幽玄】
「幽玄」とは、日本の美意識の1つで、数多くの日本文化に影響を与えた最も重要な美の概念の1つとなります。「幽玄」は神秘的であること、奥深く味わい深い領域を指します。
幽玄とは目に見えるものではなく、目に見えない深い世界の領域から醸し出される美であり、感じるものであるため精神的であり哲学的思想の概念でもあります。そのため「幽玄」という美の感覚を言葉で伝えるのは難しく、実際にその奥深い味わいを体験したものにしか感じる事ができない感覚的な美の領域になります。一般的に「静寂さや神秘的な趣きの中で感じる心の動き」を指す事が多い美的概念です。
中世日本における文学、絵画、芸能などの芸術分野では「幽玄」は代表的な美意識で、芸術活動の中で開花した美しさの概念です。
幽玄は平安時代後期には概念として生まれており、「千載和歌集」の中で藤原俊成が歌論の中で西行の歌に対して「心幽玄に姿及びがたし」と論じられています。また、鎌倉時代に記された「方丈記」には「詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし」と論じられており「幽玄」は姿形で表すことができない余情であると表現しています。
幽玄は目に見えないが姿形からにじみ出ているオーラにも近い精神的なもので、天台宗僧侶で連歌作家の心敬は「ささめごと」の中で幽玄を「心の艶」と表現しています。幽玄は雅であることではなく、その奥にある「心の艶」であり、寒くやせたる「冷えさび」を表していると論じています。
この「冷えさび」を具体的な芸術の中で表現したのが世阿弥によって大成された「能(幽玄能)」となります。世阿弥は能を「老・女・軍」の三体と考え、老体を「神さび」、女性を幽玄に当てはめ「花鳥風月」「みやび」と考え、軍体を「身動き」と定義づけしました
世阿弥は幽玄を「優美」と解釈し、女性の優美な姿に幽玄を世阿弥は見ていました。静寂で神秘的な深い趣があり、優美で奥行きのある目に見えない「何か」を能の世界で表現しています。
「幽玄」は華道や茶道に代表される芸道や、和歌や俳諧などの歌、後の世に生まれる「侘び」「寂び」といった美意識など多くの文化に影響を与えていきます。
「幽玄」とは姿形で表現できるものではなく「奥深い趣き」「高尚で優美」「雅である」「上品である」という事柄であり、「そのさま」を指すため、美的理念として後世まであらゆる芸術のインスピレーション源として追求されていきました。
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