いのちは誰のものか

http://mariko-inochi.com/blog/2019/01/07/%e3%81%84%e3%81%ae%e3%81%a1%e3%81%af%e8%aa%b0%e3%81%ae%e3%82%82%e3%81%ae%e3%81%8b/ 【いのちは誰のものか】より

「僧の来参するを見て呵斥す。僧曰く、「某、特に生死事大、無常迅速なるが為にして来る」と。師、罵りて曰く、「慧玄が会裏に生死無し」と。便ち打ちておい出す。 【正法山六祖伝、関山慧玄章】   開山様は、「慧玄が会裏に生死無し」と言われました。だから、常に「生死無きいのち」つまり「永遠のいのち」あるいは「見えないいのち」に生きておられたと考えます。 殆どの人が「命は誰のものか」という点に関して「命とは自分のものだ」と思っています。そのことは余りにも白明のことで、それゆえにそのことについて改めて真剣に問うこともありません。 実際、私たち自身そのように思っているし、社会全体も、そして肝心の教育や宗教の世界においても同様であります。したがって生命とは自分のものであるから、その自分の生命を自分勝手に生きればよい、ということになります。最近、援助交際という言葉も流行語になっていますが、本人たちもそうですが、またそれを糾す側もそれが間違いであるとして示す恨拠を明らかにすることもできず、結局なりゆきまかせで、人間としての守るべき道徳もますます崩壊してゆくばかりです。  確かに自分を離れて自分の生命があるわけではないのでそのように考えてしまうのも、一面、無埋からぬところもないとはいえます。しかしながらまさにそこに致命的とも云える盲点があるのです。そしてそのことが人間を根底から駄目にしているともいえます。 そして人間は自らがその背景に「生死なきいのち」を前提している限りにおいて、人間の行為は正しく作動するのでありますが、この「生死なきいのち」、「永遠のいのち」、「仏」あるいは「神」が消えてしまう時、人間はその自制力を失い、その行為は勝手気儘になり放逸になってゆくのです。そして人間は生命の(尊さ)の由来する根源(「生死なきいのち」)からみずからを遮断し、そして生命そのものの本質とその意義を見失ってゆくのです。その結果、生命とは自分のもの-自分勝手にできるもの、といった軽薄な思想をもつようになるのです。そしてそれは何よりも教育界において極めて顕著にみられるのです。今や教育とは単なる技術でしかなくなり、受験勉強の手段になり果て、真の生命の尊さに触れてゆくことは殆どありません。教育の最も根幹のところで肝心なものが欠けているとしか云いようがありません。 およそ宗教的内容のない教育は、そして思想、文化等も同様に軽薄たらざるをえません。命そのものについても「命とは自分のもの」と考えることによって生命そのものへの深い洞察は失われ、空しいものとなっているのが現状であります。以下、いのちについて科学的視点を交えて考察いたします。

「葉っぱのフレディ」の喜びと苦しみそして目覚め

山陰中央新報 平成30年5月28日 「教えの庭から」

        「葉っぱのフレディ」の目覚め

出雲市斐川町・仁照寺住職 江角弘道

絵本「葉っぱのフレディ~いのちの旅~」は、アメリカの哲学者レオ・バスカリーアが生涯でただ一冊書いた童話です。絵本の内容は,擬人化した大きな木にある葉っぱ(フレディと呼ぶ)の一生の喜びや悲しみ、そして苦悩と“いのち”への目覚めを描いています。子どもに「死」を考えさせる絵本ですが、大人にも好評でベストセラーになりました。医師・日野原重明先生は、この絵本をミュージカル化されました。

春に大きな木の太い枝に生まれたフレディは大きく育ち、仲間の葉っぱ達と幸せに生きてきましたが、秋が来て紅葉し、やがて散って死んでいくことに大きく悩みます。「こわいよう、ぼくも死ぬの?」とおびえるフレディに、友人の尊敬できる兄のような存在であるダニエルは教えました。「その通りさ、でも世界は変化しつづけているんだ。変化しないものはひとつもないんだよ。死ぬというのも、変わることのひとつなんだ。だれでもいつかは死ぬ。でも“いのち”は永遠に生きている」 そして、秋の夕暮れ金色の光の中をダニエルは、満足そうな微笑みを浮かべ枝を離れていきました。フレディは、初雪の日に枝から離れ、地面に落ちました。その時、ダニエルから聞いた 「“いのち”というのは永遠に生きているのだ」という言葉を思い出しました。絵本の最後に作者は、「“いのち”は土や根や木の中の目に見えないところで、新しい葉っぱを生み出そうと準備をしています。大自然の設計図は,寸分の狂いもなく“いのち”を変化させ続けているのです」と結んでいます。

絵本の中では、“いのち”には、「死ぬいのち」ともう一つ「永遠に生きているいのち」の二種あることが示唆されていると考えられます。ここで言う「永遠に生きているいのち」は、「大自然のいのち」と言えるでしょう。

「大自然のいのち」は、何十億年以上の時をかけて人間を産み出してきました。仏教では、眼耳鼻舌身意という六つの感覚器官は、「六根」と言われています。人は眼があって太陽を見ていると思っていますが、何億年にわたる太陽の照射の中で,次第に視覚細胞が作られてきました。植物は光に向かって成長します。これは植物の中に“眼なるもの”があるということになります。人間にも特に光に対して敏感な細胞が発達してきます。やがて視覚をつかさどる細胞が出来てきます。そうして眼が出来てきました。眼は、太陽のおかげでできています。だから眼の親様は太陽です。また耳は、空気のおかげで出来ています。音は空気の振動(音波)です。空気があるから音波が生じ,その音波が耳の鼓膜を振動させた時、それを音と感ずる細胞が出来てきます。だから耳の親様は空気です。同じように鼻・舌・身も大自然のおかげで、それらが発達し出来上がっています。作者が言うように、大自然の設計図は、このように“いのち”を変化させ続けています。さらに「意」つまり「心」は、このような「大自然のいのち」のおかげに目覚めるため、仏教的には、仏性(仏心)に目覚めるためにあると言えるのではないでしょうか。「大自然のいのち」は、人間が仏心に目覚めることを念じていると考えられます。

フレディは、永遠に生きている大自然の“いのち”に目覚めたからこそ、大きな安心の中で目を閉じ、ねむりに入れたのです。

コズミックホリステック医療 俳句療法

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