https://ivory.ap.teacup.com/tuneaki/418.html 【「俳句における自己主張とは…何なのか」】より その歴史と展開 児 島 庸 晃
…言葉は人に自分を理解してもらためにある。
この一文は書物の一部分の抜き書きではない。ある日だった。テレビを見ていてのこと。多くの大学生が会場に入りきれないでいる日の出来事だった。何ゆえにこれほどの大学生がこれほどまでに集まるのかと私は思っていたのだ。ある著名人の特別講義のある大学での話である。詰まるところこれは閉塞社会を切り開く思考そのものが言葉そのものにあることを大学生は敏感に察知してのことのように思われる。ふと、私は思った。俳句においても言葉そのものも理解ができてはいないのではないかとも…。俳句にも閉塞社会はある。このことは一般社会のことだが殊に言葉で物事を語る文芸にこそ考慮されねばならないことでもある。私たちは言葉そのもののもつ機能についてはあまりにも無頓着であったのではなかろうか。そのように思う私である。この言葉の発信者は中国の企業、アリババの創始者ジャック・マー氏の言葉である。IT企業の巨人と言われる企業人の思考である。一日の売上が二兆八千億円という企業の企業戦略の基本理念の一文である。自分自身の話す言葉を他人に理解してもらえるのに世の人々は苦しんでいるのかもしれない。そのことに大学生、青年少女たちは特に敏感に反応したのであろうと私は思った。
言葉を理解するとは何なんだろうかと、私は言葉を主体とする文芸人・俳句人なのだがと思っていた。俳句に使用される言葉とは何なんだろうと考え込んでしまっていた私。悩みは深い。言葉には話し言葉と書き言葉がある。話し言葉とは一般には会話である。会話とはお互いの目を見ながら、お互いがお互いの心を読み取りながら言葉を選ぶこと。もう一つが書き言葉である。所謂俳句での使用はこの書き言葉である。書き言葉は、お互いの目を見ての心を思ったり探ったりは出来ない。ただひたすら心を想像しながら書くだけである。書いてすぐの反応はない。書き言葉を読んだ人の返答はすぐには得られないのだ。書き手の勝手な想いだけがその先へと思考を続けるだけである。この書いた言葉がどのように相手に伝わったのかは書き手には書いた瞬時には返答はないのだ。このような条件のなかの不利を知り抜いての所作が俳句の書き言葉なのである。
だから、俳句は連歌からの発句としての独立の際に切れる事を重視したのである。それが現在でも使用されている〈切れ〉なのである。〈切れ〉とは、や・かな・けり…に代表される俳句言葉が必要であった。この、や・かな・けり…の切れは自己の主張を強調するための意思としての使用言葉であった。句を読んだものからの反応が瞬時には得られないので念を押して強調していたのではないのかと私はひそかに今は思うようになった。発句が独立性を持つために句末や句中に用いた切れの働きのある助詞・ 助動詞のこと。次のような言葉がある。かな、けり、もがな、らん、 し、ぞ、か、よ、せ、や、つ、れ、ぬ、ず、に、へ、け、じ、などの語。
編棒や愛の形が出来てゆく 宮川三保子
「歯車」381号より。この句に季語はない。しかしだが「編棒」より毛糸を使って編んでいるとすれば冬の季感は感じられるし、レースであるとすれば夏の感じなのだが「愛の形」と書かれているので冬だろうと思う。寒くなってきたので愛情の籠った細かい神経の施された形のセーターなのかもしれない。ここでの〈切れ〉とは「や」のこと。「編棒」と「愛の形が出来てゆく」には何らの関わりも繋がりもない。これを強制的に結ぶためにこの「や」の使用が必要であったのだ。切れ字とは、強く言い切ることで句を強制的に切るために使われる助詞のことである。ふたつ以上の言葉を強制的に繋いでおいて、また強引に切る…これが「や」なのである。その繋ぎが強引に切れることで俳句に余韻を感じさせることが出来てその効果が広がるのである。ここで必要なことは、この〈切れ〉の前後では全く違った事柄や景色の出現が明示していることがなされていなければ〈切れ〉の役目は果たせず、その効果は出てきません。この「編棒」の句は「や」の前後のイメージが完全に異なっていてイメージとイメージの衝突によるところの増幅・共鳴効果を生んでいるのです。同じイメージ同士の間に使用される「や」などは切れ字を用いていても、〈切れ〉とは言わないのである。この句は〈切れ〉の効果がよく果たせていて、そのため自己主張が句に結びついている。説得力のあることに努力されている事が理解出来る
この〈切れ〉なのだが句文中のいろんな場所に用いられていて、その効果にも様々な強弱がある。フリー百科辞典「ウィキペディア」よると、上五の末尾で切る初句切れ、中七の途中で切る中切れ、下五の前で切る二句切れ、などがある。この中でも中七の途中で切る中切れは、後に俳句文体の改革俳人伊丹三樹彦へ引き継がれ分かち書き文体と言う誰も作し遂げる事の出来ぬ文体へと変革されたのであった。そして二句一章の俳句形式をも生む。
妻をあとさきに 加減の杖歩行 伊丹三樹彦
句集「知見」2007年12月発行。この句は脳梗塞と言う大変な病からのリハビリ中の句である。この句のここでの「妻」とは伊丹公子さんであるが、ここでの公子さんは俳人、詩人としての一個人ではない。日々の生活者としての一個人である。ならば生活者としての「妻」としての日々、三樹彦自身も伴侶としての支えを受けている暖かな心を強調しなければならなかったのだろうと思う。それ故に自己主張が、この分かち書きの強調を生むことになってゆくのである。「加減の杖歩行」の俳句言葉は三樹彦自身の事、「妻をあとさきに」は伊丹公子さんの事、別々のイメージの異なるものを対比させての二句一章の形で緊張感を高めているのでる。二句一章は切れの見事さを表現し、切れ独特のイメージとイメージの衝突によるところの増幅・共鳴効果を生んでいるのではと私は思う。このような分かち書きの効果を文体改革へ発信させてきた俳人三樹彦も、もう99歳である。
中七の途中で切る中切れだが、切れに助詞や助動詞を使わないでもイメージとイメージの衝突は出来る。
一月の川一月の谷の中 飯田龍太
「現代俳句」平成30年3月号より。切れると言う俳句独特の表現は、や、けり、かな、等の助詞や助動詞と言う古典的使用ばかりではないのだ。名詞と名詞と言う配合でも充分に切れる効果は果たせるのである。この句の場合その〈切れ〉が何処にあるかと言えば中七の部分にあり、「一月の川」と「一月の谷の中」の二つの情景を区切り、ここが切れているのである。切れることにより、二つの異なるイメージがもう一つ異なるイメージと衝突して、この間において共鳴・増幅を引き出し緊張感が高まるのである。俳句の自己主張を表現するのには、切れると言う表現手法上の大切な方法があり、連歌から発句として独立したことを思うと、今も現代俳句の今日に至るまで基本理念は、形こそ異なるものの引き継がれ発展進化しているのである。何げなく使っている方法にも過去の蓄積がなされていることが理解出来る。
手のひらに春の夕日の一人分 前田 弘
「第72回歯車東京句会」より。この句は下五の前で切れる二句切れの句である。そして自己主張が、この二句切れの部分にある句である。どこの部分かと言えば「手のひらに春の夕日の」と「一人分」の区別される部分にあり、ここが二句切れされているのである。何故ここが切れなければならなかったかであるが、それは「一人分」の自己主張を特に強調して主張したかったのあろう。私はひそかに思った。…「一人分」と言い切ることの主観が特に大切であったのであろう。ならば、ここに切れると言う〈切れ〉を意識していたのでは、と思った。連歌からの発句の独立は、自己主張をするためには、句文中のいろんな場所に施して置くことは、最も必要なことであったのだろう。この「一人分」の句は〈切れ〉の大切な必要性を思う上に現代俳句の重要な示唆を含んでいるようにも思う。
すべってもころんでも来るお正月 石津恵子
「歯車」380号より。この句は句文中に切れると言う場所が二箇所ある句である。つまり〈切れ〉が二つある。上五の前で切れる初句切れ、下五の前で切る二句切れ、である。同時に二つの自己主張を維持し、また二つを同時に切れるようにすると言う、特殊な〈切れ〉である。「すべっても」と「ころんでも来る」の間で切れる。そして「すべってもころんでも来る」と「お正月」の間 でも切れる。大変難しいことへの試みである。何故かと言えば一句のなかに二箇所の〈切れ〉を入れると自己主張が分散するからである。…と一般には思われているのである。しかしこの句は成功していて見事なまでに進化させているのである。その理由はリフレインの重みを上手く作動させているから…。しかも自己主張の仕方に主従の感情を思わせる表現が出来ているのである。「来る」と言う俳句言葉が、「も」の繰り返し助詞で強調するための自己の感情移入が自然に出来ている。他では類を見ない表現なのではないかと思われる。
〈切れ〉の必然性を発句のころからの歴史的事実に基づき紐解いてきたのだが、それには自己主張が俳句の中でどれほど大切にされてきたかを述べた。何故過去よりの手法に〈切れ〉が俳句の句文のなかで、未だに重宝され現代に至るまで使われてきたかを述べてきた。一言で言ってしまえば、自己主張を句文の中において作すときには〈切れ〉を入れる事であったのではないかと、いま私は思うようになった。自己主張は説明言葉としての俳句言葉ではない。ましてやコピーであってはならないのである。〈切れ〉は異なるイメージとイメージの間にあって、そこが切れることによる衝撃を起こし、そこより生まれる感情を自己主張する事であったのではないかとも思う。
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