深山幽谷に身を置けば、瞑想に専念

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人跡の絶えた深山幽谷に身を置けば、誰に会うこともなく瞑想に専念することができる、修行者には深山幽谷こそが最も勝れた住処だ、というのです。

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2021年は最澄が世を去って1200年の節目の年。そんな最澄を深く知る決定版の一冊がこちらです。ぜひこの機会にお求めください。

◉最澄に秘められた古寺の謎伝教大師と辿る比叡山と天台宗  監修・編集 山折哲雄

 https://amzn.to/3mswR0I  【最澄はなぜ比叡山に延暦寺を開いたのか |大遠忌1200年で迫る伝教大師の実像】より

監修・山折哲雄

文・ウェッジ書籍編集室

今年は最澄が世を去ってから1200年という節目の年にあたります。最澄と言えば、804年に中国(唐)に渡り、天台教義を学んだことで知られ、帰国後は、日本の天台宗を開くとともに、比叡山に延暦寺をつくり弟子の育成にあたりました。

大遠忌を迎えることから、今年から来年にかけて、東京国立博物館を皮切りに、九州国立博物館、京都国立博物館で特別展「最澄と天台宗のすべて」が開催され、最澄への注目が集まっています。

この連載では、宗教研究者の山折哲雄氏が編者を務める『最澄に秘められた古寺の謎』(ウェッジ)から、内容を抜粋・再編集するかたちで最澄の実像に迫ります。

今回のテーマは最澄が修行の場として比叡山を選んだ経緯です。

『古事記』にも登場する霊山としての比叡山

 比叡山は京都府と滋賀県にまたがる山脈で、東の主峰は大比叡だいひえい(標高848メートル)、西の主峰は四明岳しめいがたけ(標高839メートル)です。叡山とか北嶺ほくれいなどとも呼ばれ、古くは「ヒエ(日枝、日吉)の山」と呼ばれていました。

画像①鴨川から見た比叡山を拡大表示

鴨川河川敷から望む比叡山(京都府)

 その山上に建つのが天台宗総本山の延暦寺で、「比叡山」を山号とし、「比叡山延暦寺」を正式名称としています。ただし「延暦寺」という寺号をもつ一個の寺院があるわけではなく、比叡山内にある諸堂塔の総称が「延暦寺」です。

 もっとも、現実には比叡山と延暦寺はほぼ同義語のようなもので、「比叡山」の意味で「延暦寺」といったり、「延暦寺」をさして「比叡山」と呼んだりするのはごく普通のことなので、この連載ではそのようにします。

 延暦寺は延暦7年(788)に伝教大師最澄が創建した一乗止観院いちじょうしかんいんをルーツとします。一乗止観院はその後、比叡山寺に発展し、最澄遷化せんげの1年後の弘仁14年(823)、嵯峨天皇の勅により延暦寺と改称されました。

 しかし比叡山は、最澄や延暦寺の登場によって広く知られるようになった山では決してありません。比叡山は、延暦寺創建以前から霊山としての信仰を受けています。

『古事記』には「日枝ひえの山」という表記がすでにあらわれていて、この山には須佐之男命スサノオミコトの孫にあたる大山咋神おおやまくいのかみが鎮座しているとされます。比叡山東麓に鎮座する古社、日吉ひよし大社(日吉社)はこの大山咋神を祀っています。

 また、天平勝宝3年(751)成立の『懐風藻かいふうそう』に収められた「藤江守とうのおうみのかみ、稗叡ひえい山の先考が旧禅処の柳樹を詠むの作に和す」は、近江国守藤原仲麻呂なかまろが比叡山に登って父武智麻呂むちまろ(不比等ふひとの子)が建立した禅処(禅定修行のための草庵)の跡を訪ねて詩を詠じたときのことを、同行した麻田陽春あさだのようしゅんが懐古した漢詩ですが、詩文には「稗叡はまことに神山」という表現もみえます。奈良時代中頃までには比叡山に修行を目的とする草庵がすでに存在し、比叡山が霊地として認識されていたことがわかります。

最澄と比叡山の深い因縁

 最澄がそんな比叡山に延暦寺を開いたいきさつについてはさまざまなことがいわれていますが、よく知られた伝説としては、『叡山大師伝』に記された次のようなものがあります。

 最澄の父百枝ももえは仏教に篤く帰依していましたが、子に恵まれないことを憂い、男子の出生を祈願しようと山に登りました。比叡山麓の日吉大社の奥まったあたりまで来ると、馥郁ふくいくたる香りが漂ってきたので、そこに草庵を建て、7日間を期日として至心に懺悔ざんげをしました。すると4日目の早朝、夢に好相こうそうを感じ、子を授かることができました。それが最澄であったのです。この草庵は日吉大社の神宮寺という意味で、のちに神宮禅院と呼ばれるようになりました。

 また後年、出家した最澄は、懺悔の期日を補うよう父に命じられて、比叡山に登る前に神宮禅院に籠って修行懺悔しました。すると香炉の中から一粒の仏舎利ぶっしゃりを感得しました。このように比叡山と最澄には、最澄出生前にさかのぼる深い因縁があったというわけです。

 これはもとより伝説ですが、最澄が比叡山を天台修行の地として選んだ現実の理由を考えてみると、まず真っ先に、近江出身の最澄にとっては比叡山が一番身近な霊山であったという事実が挙げられます。

画像②名所図会を拡大表示

名所図会に描かれた比叡山

最澄が求めた自然環境の厳しさ

 そしてもう一つ注目したいのは、天台宗が深山幽谷を修行の地として非常に重視したことです。最澄が景慕した天台大師智顗ちぎの主著『摩訶止観まかしかん』は、止観(瞑想行)のための準備として、まず第一に「静処に閑居せよ」と説きます。人跡の絶えた深山幽谷に身を置けば、誰に会うこともなく瞑想に専念することができる、修行者には深山幽谷こそが最も勝れた住処だ、というのです。

 智顗が入山した天台山はまさにそんな環境でした。最澄の念頭にはこの智顗の教えがあり、そのことが彼の足を静寂な比叡山へと誘ったのではないでしょうか。

画像③比叡山登山口(本坂)ヨコを拡大表示

比叡山登山口・本坂(滋賀県)

 比叡山の〝厳しさ〟を評する言葉に、古くから「論湿寒貧」というものがあります。論は法門論議の厳しさ、湿は湿気の多さ、寒は寒冷な気候の厳しさ、貧は文字通り貧しさをさします。とくに「湿寒」は比叡山の自然環境の厳しさを言い表したものですが、最澄にとっては、そうした峻烈な環境は、仏道修行を極めるうえでは願ってもないものであったはずです。

 そしてちょうど延暦寺の基礎が固められた時期に奇しくも平安遷都が行われ、比叡山の南西麓に新たな都が造営されました。このことは、延暦寺が国家や朝廷と深いかかわりをもちながら、日本仏教の中心として発展することに大いに寄与することになるのです。

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