心の眼

https://ameblo.jp/tudukigoto/entry-12254768736.html 【ダグラス・ハーディングの本】より

最近、再びダグラス・ハーディングの『心眼を得る』を読んでいる

“得る”といっても、新しい何かを手に入れるとかではなくて、自然にそのままに見ること、と言った方がしっくりくるような。

彼は「自分は何者なのか」という疑問を抱き続けていたある日、自らの頭がなくなる、という体験をする。

初めて本書を手に取ったときは(3年前くらいかな?)、さらっと通読して「う~ん、興味深い体験が載っているけど、同じ頭がなくなる体験とやらを味わわなきゃ、ピンとこないな…」という印象だった。でも、この本には不思議にひかれるものを感じた。

手元に置いてたまにパラパラ読み返している内に、この本で示されていることはもしかして、凄くシンプルなことなんじゃないかと気付いた。頭がない、ということ。

それは当たり前過ぎて普段見過ごされている。

“自分は何者なのか”鏡や人の眼や、あらゆる観念を抜きにして、そのままにあるものを直接見てみるだけで・・空っぽな感覚に、目の前のあらゆる色や形が現れている。

境界なしの自然。

https://www.kendo.or.jp/knowledge/books/kendohyakkashin_30/ 【現代剣道百家箴

心の眼】より

小梛おなぎ 敏とし(剣道範士八段)

 剣をとって60年、72歳に達する今日まで殆んど毎日竹力を執らない日はなく剣道の命数めいすうの長さにはつくづく感じさせられるものがあります。所が私は10数年前より視力に異状を来たし、都内のあらゆる名医の診断を受けましたが異口同音いくどうおんに視力減退の原因について発見することが出来ないと宣告されました。

 私は、眼鏡による調節も不可能であるため総てを断念しました。現在においては相対する人の容貌ようぼうすら判然とせず、物腰・声音等によりその人を判断するような状態で、大方の人に失礼をすることがしばしばあります。

 剣道をする場合において視力の衰え初めた頃には若い学生などの渡り技の早技にはしばしば悩まされました。そこで私は昔の文献或は口傳などに見けん・観かん或は心眼しんがんと云いうことのあるのを思い起しました。見とは即ち肉眼で見ること観とは心でみる即ち心眼であります。

 昔の剣聖けんせいが殺気を感ずると云うことをよく云われました。柳生但馬たじま(柳生但馬守宗矩むねのり)が庭前の桜を漫然と見ていた時小姓が如何いかに先生が達人であろうともこうした隙に打込むことが出来ようと思った。ところが但馬は突然形を改め屋内に入り不審そうに小首をかしげていた。そこで小姓が先生何事でございましょうかとうかがいを立てた所、庭前で殺気を感じたが振り返って何もないのは私の心の乱れであると思案げに云った。そこで小姓は先程の自分の心の内を申述べた所、但馬は、あそれだ、と云ってもとの平常心にもどられた。こうした殺気を感ずると云うことが果して現代の剣道界において出来得ることでしょうか。私は出来ると信じたい。前述の如く私は相手と相対して殆んど相手の姿・剣の動きが茫漠として、さだかでなかったのですが、最近においてあらゆる心気の苦労の結果、相手の体・足捌あしさばき、剣の動き等が見えるようになって来ました。それは視力ではないのです。私に云わせれば之これが心の眼であると思われるのです。現在では高段の人と相対しても学生の早技に向っても決しておくれをとるようなことはありません。

 おこり・出頭でがしら・すり上げ・応じ返し等の技が眼をわずらう前と同じように出来るようになりました。剣は心なりと申す言葉がありますが心の持ち方で如何様いかようにも修業は出来得るものと思われます。幸にして肉体的には至極健康なので死ぬまで剣を心の友として生き甲斐を感じて行きます。いささか参考になればと思い私の体験を述べました。

http://www.nknet-service.com/hayakawa/essay/katsugan.html 【活眼・心眼】より

 8月5日から15日(注・1993年)、スウェーデン・アルイェプログで行われた「第3回連珠世界選手権大会」に日本選手団団長として参加した。「連珠」といってもピンと来ない人があるかもしれないが、「五目並べ」いえば納得される方も多いと思う。この連珠がRENJUとして、世界に浸透しつつあるといってもあながち誤りではない。事実、今大会に16カ国、150人ものファンが、人口3,800人の北極圏のすぐ近くの田舎町に集まったのである。

 思えば16年前、万博会場跡で催された「建国60周年記念・ソ連邦展覧会」に来日していた一人のロシア人(ウラジミール・サプロノフさん)との出会いが、私に連珠の世界普及という途方もない夢を描かせることになった。たった1局の指導のあと彼はこう言った。

「連珠は石は動きませんが、ゲームは非常に厳しい。一つ間違ったら名人でもダメです。それに覚えやすい、すばらしいゲームです。ソ連でも、個人的に五目並べを楽しんでいる人はいます。でも組織をつくってしないと普及しません。モスクワに連珠クラブを設立して、連珠をひろめたいです。連珠は世界に通じるゲームです。」 これをきっかけに、京都とモスクワを結んだ指導対局(手紙による対局)が始まった。1局終わるのに早くて6カ月という気の長い対局である。ペレストロイカ以前のことだから、幾度か封書が行方不明になったり、開封されていると思われるものもあった。

 このあとの動きは一切割愛するとして、今回16カ国が集まったのは壮観であり、感無量であった。

 連珠が柔道と同じようにRENJUとして国際社会に認められる日も近い。

 来夏、京都は建都1200年を迎える。これに呼応して「平安建都1200年記念 国際連珠大会in KYOTO」と銘うって、国際大会の企画をすすめている。早くも海外から20名のエントリーが届いているが、資金の乏しさを考えると嬉しいやら、心配やら?。

 ところで表題の『活眼・心眼』

イヴ・スンドストロム女史

イヴ・スンドストロム女史  日本選手団団長として開会挨拶のあと大会名誉会長のイヴ・スンドストロム女史(自治郡評議会議長=日本での府県議会議長にあたるのだろう)に『活眼・心眼』を揮毫した色紙をプレゼントした。

お世辞にも上手といえない書であったが、スンドストロム女史にいたく気に入られて「どういう意味か」と尋ねられる。話せぬ英語で四苦八苦しながら説明すると、さらに気に入られ、詳しく書いて欲しいとの要望。

資料を持ちあわせなかったので、苦しみながら書きあげたのが次の解説。これを英訳してもらい、お渡ししてきたのである。皆さんに披露して、ご批判に耐えられるものであるかどうか。

「人はものの判断をする時、自分の目で見ます。

 でも、目で見えるからといって正しいものとは限りません。また目に見えないからといって間違っているとも言えません。

 自分の年齢、経験などによって自分の目(肉眼)以外の目で正しく判断する必要があります。これが“活眼”です。

 さらに深く考えてみると自分自身の判断を超えたところで、いわば神のような心で見つめられる“心の目”が大切だと悟ります。勝ちたいとか、負けたくないではありません。

 自然のままで正しい判断ができるようでありたいのです。これが“心眼”です。

 日本の聖人のひとしく目標とするところです。

 連珠の対局もいきつくところ、こうありたいと思うのです。」

 税理士となって21年目、連珠の世界普及をめざして17年目。これからも活眼・心眼を大切にしながら活動していきたいと思う今日この頃である。

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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