写生を越える?!

https://72463743.at.webry.info/201404/article_21.html 【現代俳句の可能性・その1「くたばれ写生?!」】より

チューリップ解り過ぎてもだうかと思ふ 玉宗

仁平勝『路地裏の散歩者』(邑書林)をつらつらと読んでいるのだが、現代俳句の論客だけあって俳句定型詩への切り込みが独自、且つ鋭い。攝津幸彦という俳人を通して(つまり、その作品を通して)現代俳句のアリバイと可能性を言及しているかの如きである。

集中「ザ・ビギニング・アンド・ジ・エンド」と題された論説に「くたばれ写生」という項目がある。本編には写生が俳句の可能性を狭めたものにしているという認識が底流にあることは否めない。そのような指摘は仁平氏の言挙げを俟つまでもなく、以前から存在していることは知っていた。松尾芭蕉は写生主義ではなかった。正岡子規や高浜虚子が信奉した「写生・写実・客観写生・花鳥諷詠」の世界は今でも幅を利かせたお題目ではある。信奉者はそのお題目の真偽、実相が俳句の本質そのものであるかのように振舞っている。偶に協会の作句信条を越境して知らんぷりをしている厚顔な俳人もいるが、そもそも越境するからこその定型詩なのであり、目くじらを立てることもない。

私は今現在どこの協会にも属していないが、二つほどの結社に属している。どちらも俳人協会に属し、有季定型、写生を俳句実作の基本として、俳句文藝と云う芸の手習いに勤しんでいるかのようである。かくいう私も、そのような予定調和的な俳句実作の醍醐味、面白味に終始しているかの如くである。現代俳句とは現代を生きている私の作る俳句のことであると鵜呑みにして、その本質を顧みることさえしない。

仁平氏の論評には、私のような怠惰な現代俳句作者を笑うに足りる十分な論拠が提示されているように思える。

遅まきながら、これまで信じて疑わなかった写生、写実の偏った捉え方を再検討することも無駄ではないことを示唆してくれている。未だ全編を通読してはいないが、私自身の写生、写実手法の真相を再検討していきたいと思う。それもこれも俳句的詩世界の新境地を創り出してみたいという身のほど知らずの憧れが捨て切れないからである。

わが俳句初心は今は廃刊となった「風」故・沢木欣一主宰から始まっている。「風」と云えば「写生・写実」の典型と見られていた結社である。現代俳句をみるとき、「写生」という方法論は死語になるのではないかとさえ思えることがある。実際のところ「写生」という言葉は大雑把ではある。写生といえばなにもかも写生ではある。いずれにしても現代俳句に展開しているのは如何なる人間の感性なのであるか、或いは如何なる感性の人間なのであるか。現代俳句は月並を脱しているのだろうか。おそらくそこには現代人の言葉への感性の問題と共に、作者の人間性の問題が横たわっているのかもしれない。

https://72463743.at.webry.info/201803/article_10.html 【写生を越える?!】より

明日が見えぬと土手に上ればいぬふぐり 玉宗

わが俳句初心は今は終刊となった「風」から始まっている。「風」と云えば「写生・写実」の典型と見られていた結社である。現代俳句を管見するとき、「写生」という方法論は死語になるのではないかとさえ思えることがある。

「写生」が俳句の可能性を狭めたものにしているという認識が現代俳句の底流にあることを私は知っている。松尾芭蕉は写生主義ではなかったとか、正岡子規や高浜虚子が信奉した「写生・写実・客観写生・花鳥諷詠」はお題目のような代物であるといった指摘がある。信奉者はそのお題目の真偽、実相が俳句の本質そのものであるかのように振舞っている。要するに「写生」とは一つの方法論であり、それが俳句の前提ではないといいたいのであろう。

俳句の本質、生命線、醍醐味、面目、真骨頂とは何なのか、それは一つのものなのか、一つでなければならないのか、人の数ほどあって一向に構わないものなのかどうか、俳諧の目的、到達点といった問題をいつまでも後回しにしてよいのかどうか。といった気持ちは分からないではない。

 

私自身は今現在どこの協会にも属していないが、二つの結社に属している。どちらも俳人協会に属し、有季定型、写生を俳句実作の基本としているかのようである。かくいう私も、そのような予定調和的な俳句実作の醍醐味、面白味に終始しているかの如くである。現代俳句とは現代を生きている私の作る俳句のことであると鵜呑みにして、その本質を顧みることさえしていないない私のような怠惰な現代俳句作者を笑うに足りる十分な論拠がある。それにしても方法論に終始していていい訳もなく、実作がそれを証明するものでなければならんだろうし、実際のところは、方法論と実作が両輪の様に、或いは前後の歩みのように進んでいくといって良いのではないか。或いは、一人の天才によってある日突然に新しい俳句が世に出るといったこともあるかもしれない。

いずれにしても現代俳句に展開しているのは如何なる人間の感性なのであるか、或いは如何なる感性の人間なのであるか。現代俳句は月並を脱しているのだろうかと思わないではない。おそらくそこには現代人の言葉への感性の問題と共に、作者の人間性という古くて新しい方法論以前の問題が横たわっているだろうと思うのである。

いずれにしても私自身、実はこれまで信じて疑わなかった写生、写実の偏った捉え方、方法論を再検討することも無駄ではないのかもしれないと思うようになって久しいのだ。私自身の写生、写実の真相を再検討していきたいといった望みが捨てきれないでいる。それもこれも写生を越えた俳句的詩世界の新境地を創り出してみたいという身のほど知らずの憧れがあるからである。いずれにしても、自分の姿を映すまっさらな鏡を持たなければ何も始まらないけれどね。

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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