https://core.ac.uk/download/pdf/291347674.pdf 【内なる自然と外なる自然】 より
東洋大学「エコ・フィロソフィ」研究 Vbl.2 別冊 シンポジウム・講演会・セミ+一 編 153内なる自然と外なる自然 小坂国継(日本大学教授)
一、今日、人類がかかえている最大の課題は地球環境問題であろう。地球環境の問題は、
その対処の仕方を・歩間違えると、人類の滅亡にもつながりかねない由々しい問題である,
しかも環境の悪化は、表面上はなかなかその症状が見えづらい、という特性を有している。
それは、あたかも歯周病のように、ひっそりと気づかれることなく進行して行き、その異
変に気づいたときには、すでに屋台骨が犯されてしまって、どうにも対処の仕様のない状
態になっている。政治的紛争や宗教.ヒの対立は、はっきりと目に見えるが、環境問題はな
かなかその症状が目に見えないので、それだけ対策が難しい。地球温暖化の問題が指摘さ
れてもう久しいが、いまだに多くの人が、この問題の重要性を自覚していないし、またそ
れと真剣に対峙しようともしていない=それどころか、地球温暖化という現象そのものを
似非問題として疑問視する識者もいるほどである。
地球環境の急激な悪化の一因が人口の爆発的な増加にあることは論を侯たない 世界の
人口は、長い間、五・六億という定常状態にあった。それが、産業革命期以後、急速に増
加傾向を示していった。ただ単に人口が幾何級数的に増加するだけでなく、増加率そのも
のも増加するという形で驚異的な伸張を示してきた。まさしく、それは、P.エーリック
が「人口爆発」(population bomb)と呼んだ事態であった、.今日では、世界人口は六十七億人に達し、今世紀の中頃には百億人を突破すると見られている。生物学者によると、世界の適正人口は五・六億人と算定されているので、まもなく人類はその二十倍もの人口を擁
することになる。こうした途方もない数の人間を養うために必要な食糧と資源をどうやっ
て調達し確保していくか、これは生半可な問題ではない..
二、けれども、地球環境の悪化という問題を考える際、人口増加の問題よりももっと深刻
なのは商業主義的イデオロギーの顕雇という問題であろう、今日、「豊かさの追求」は人類
共通の目標になっており、表向きは、誰もこれに異論を唱えることはできないLt誰もが豊
かな生活を享受する権利を有している、と信じている、たしかに、それはそのとおりであ
ろう.実際、豊かな生活をのぞまないものなどいるだろうか。豊かに生きるということは、
誰にとってものぞましいことであるにちがいない.
しかし、現実を見ると、その「豊かさ」の中味は商業主義によって毒されている。それ
は営利主義やコマーシャリズムによって作為的に作られた豊かさである.そして、その特
徴を一言でいえば、数値でもって計量することのできる豊かさである。商業主義のスロー
ガンは「大量生産・大量消費・大量廃棄」にある。そして、そのメカニズムは際限のない
自然からの搾取である=われわれの今日の豊かさは、ひたすら自然を破壊し浪費しつづけ
ることによって維持されている。われわれはひたすら量的拡大を追いもとめ、何事につけ
ても分量的に増加することが、すなわち豊かになることだと信じている.けれども、それ
はいたずらに人々の欲望を掻き立て、嫉妬心を煽るだけで、けっして「心の満足」(animi
acquiescentia)をあたえることはない。逆に「もっと、もっと」と、満たされない思いを
募らせるばかりである、それと同時に、容赦なく自然を躁躍し、破壊していく。
今日、われわれ人類は、地球が四十億年以上もの長大な年月をかけて、徐々に貯えてき
た化石燃料を、それが貯蔵される百万倍もの速さで消費している。これほど愚かな行為は
ないようにも見える。しかし、われわれはそれを豊かさの証と看倣し、それが環境悪化の
最大の要因であることを自覚することなく、得意げに浪費をしつづけている,
三、ところで、現代の商業主義は科学・技術万能主義のイデオロギーと結託している、と
いうよりもそれを巧妙に利用している。近代の自然科学は人間生活の改善と向上に資する
ための手段・道具としての科学であった。周知のように、近代科学に理論的基礎をあたえ
たのはF、べ一コンとR.デカルトである一ベーコンは科学の方法として実験と観察にも
とつく帰納法を提唱し、それをノヴム・オルガヌムすなわち新オルガノンとして、アリス
トテレスの古いオルガノンすなわち演繹法に対置した。彼のオルガノンは、もはや真理の
ために真理をもとめるオルガノンではなく、自然を支配し、それを有効に利用するための
道具としてのオルガノンであった。彼の著書『ノヴム・オルガヌム』の副題は「自然の解
明と人間の支配についてのアフォリズム」となっているeそして、そこでは、人類の生活
を豊かにし安楽にするための方法として帰納法が提唱されている。
また、デカルトは、自然を自己の外にあって、自己に対立する客観的世界と見、またそ
れを、生命的原理を欠いた物質的世界と考えた。自然は、精神や生命はおろか、色や音や
香りをも欠いた、単なる延長と運動からなる一種の大仕掛けの機械である。だとすれば、
自然は、もはやその美しさと神秘でもってわれわれを魅了する対象ではない。したがって
われわれは自然を愛したり崇めたりする必要はどこにもないのである。それどころか、わ
れわれは自分の意のままに自然にメスを入れ、それを「大きさ」「形」「運動」等の要素に
分解することによって、そこに法則や原理を見出すことができ、こうして自然の支配者に
して所有者になることができる。そうした趣旨のことを、デカルトは学問の方法論を説い
た『方法序説』のなかで説いている。
四、このように近代の自然科学は自然と人間を分離し、自然を人間の外にあって、人間に
対立する物質的世界と考えた。自然は生命を欠いた単なる機械的物質的世界と考えられ、
また人間による支配と利用の対象と看倣された。そこには、人間を「神の似像」(imago Dei)として位置づけ、自然を搾取することが神の意志であると考える人間中心主義的な物の見方の残津がみとめられる。
・一方、東洋では、伝統的に自然崇拝の思想があった、自然は生命に満ちた、美しく愛す
べき対象と考えられてきたc一般に、西洋の自然観が「自然は神聖に非ず」という考えを
基本にしているとすれば、反対に東洋のそれは、一貫して「自然は神聖なり」とする考え
を基本にしていたように思われる。東洋においては、古くから一種のアニミズム(精霊信仰)の伝統があり、樹木や岩や山のような自然物に霊が宿っているという考えかたが浸透してしめなわ いた。今でも神社の樹木や岩石に標縄を張るのはその故である。そもそも標縄は不浄なもまよ のの進入を防ぐために張る一種の魔除けであるから、樹木や岩石に標縄を張るということは、それらが神聖なものであると考えられているということの証である。実際、そうした樹木や岩石は神木や神石と考えられてきたのである。一方、こうしたアニミズムはユダヤ教やキリスト教の伝統においては一種の「偶像崇拝」(idolatry)として斥けられた。
「自然は神聖なり」とする自然観は、いきおい自然と一体になり、自然に随順して生き
ようとする考えに傾きやすい。東洋に自然支配の思想が生じにくかったのは理由のないこ
とではなかったのである。あるいは、またそれはモンスーン地帯が生命に満ちあふれた風
土であるということとも深く関連しているであろう。自然が生命に満ちたものであれば、
何もそれに敵対する必要はなく、自然と協和し、自然にしたがって生きていきさすればい
いという考えかたが起こりやすい。
また、特に日本において見られるような、台風や地震などの自然災害は、その猛威性と
突発性によって、人間を従順にさせる。人間はこうした天変地異に逆らいがたい。それは
R,オットーのいうヌミノーゼ(Numinose)のように、人間の力でもって制御できる類のも
のではない。人間はその前に屈服せざるを得ない。東洋においては、自然はこうした二面
性を有しており、人間はそのどちらにも抗いがたい。文化的にきわめて高い水準にあった
東洋において、自然の支配と利用のための自然科学が発達しなかったのは、こうした理由
によると思われる。
五、けれども、こうした伝統的な自然観は、その近代化とともに徐々に変質してきた。東
洋においては、一般に、近代化は西洋化を意味していたから、近代化の進展とともに自然
支配の思想も浸透していった。そして、従来の伝統的な自然崇拝の思想は個々人の内的感
性の世界に閉じ込められていった。けっしてそれはイデオロギーのレベルに高められるこ
とはなかった。そして、これが、日本において、世界にも類例のないような自然破壊すな
わち公害を生じさせた理由である。日本人の自然に対する愛情や尊敬がなくなったのでは
けっしてない。そうした自然愛はなお日本の家庭の庭園や、花見・月見の習慣に残ってい
る。春には桜前線を、秋には紅葉前線を毎日テレビで放映するような国は他にないであろ
う。それは日本人の自然愛が、なお息づいている証拠である。けれども、それは個人の感
性の領域に留まって、イデオロギーのレベルにまで達していないことが問題であるc日本
人は自然と環境を別のものだと考えているrそして、自然には愛着を感ずるが、環境には
至って無関心である。われわれは自然というのは内なるものであるが、環境は外なるもの
だと考えているのである。
こうしたアンバランスの原因は、われわれが、一方では、自然に対する愛情をいだきな
がら、他方では、科学・技術万能主義と結託した商業主義というイデオロギーに屈服して
いるところにある、そして、自分の意識の上で自然と環境を分離することによって、そう
した矛盾を感じないようにしているように思われる。しかし、単なる個人的な感情は普遍
的なイデオロギーには打ち克つことができない。われわれが商業主義や営利主義というイ
デオロギーの呪縛から解放されないかぎり、地球環境問題は真の解決を得ることはないの
である。しかも、この商業主義は人間の自然的本性に深く根差しているので、これに打ち
克っことはなかなかの難事である。
六、では、われわれはこの解決策をどこにもとめたらいいのであろうか。そのためには「豊
かさとは何か」ということを真剣に考えてみる必要があるように思われる。真の豊かさは
計量的な数値の大きさにあるのではなく、質的に高い心理的な充実感にある。われわれは
二倍の給料を取れば、二倍豊かになるわけではけっしてないe二倍の広さの家に住めば二
倍豊かになるわけでもない。豊かさは量で以て測れるものではない。それはわれわれの生
きかたの質にかかわるものである。現代人は商業主義に踊らされて、ひたすら分量的な豊
かさを追いもとめているように思われる。われわれの共通の疾患は「もっともっと」病で
ある。「もっともっと」と欲望を膨らませ、他人に対して嫉妬心を募らせながら、自分の神
経を衰弱させていっている。現在の自分に満足しているものはきわめて少ないのである。
一見、豊かな生活をしているように見えて、その実は不足感につきまとわれている。
道元は「学道の人は須く貧なるべし。財多ければ、必ずその志をうしなう」と説いた。
聖フランチェスコやスピノザもまた清貧の思想を説いている。彼らはまた自然を愛し、自
然と和して生きることを説いている。科学万能主義と結託した商業主義と自然愛は、おそ
らく両立することはできないであろう。商業主義のイデオロギーからは真の「心の満足」
を得ることはできない。われわれはこれまでの生活スタイルを転換して、内なる自然にし
たがった生きかたを選ぶべきではなかろうか。
自然は本来、自己の外に、自己に対立してあるものではない。反対に、自己の内なる本
性である。だとすれば、われわれは自然をどこまでも内面化し、また内面化された自然の
内に自己を主体的に解き放っていくべきではなかろうか。そして、それと同時に、古賢の
いう「少欲知足」の精神を学ぶべきではなかろうか。スピノザは、「自然はごくわずかなも
ので満足している。私もわずかなもので満足する」といった。こうした少欲知足の精神こ
そ、まさしく今日の商業主義が、巧妙な手口でもって、われわれから奪い去ろうとした当
のものである。
人類は、現在、未曾有の岐路に差し掛かっている。外なる自然と対立し、これを搾取し
つづけていくのか、それとも自らを反省して、内なる自然と相和し、主体的に、これに随
順していくのか。人類はまさにその真価を問われているように思われる。
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