Facebook・一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)さん投稿記事
体や心がなんだかラクじゃないと感じるときは理由があります。
そんなときは、医療の助けを借りて顕在化した症状を解決するもの大事ですが
症状の根本的な原因を考えてみる必要があります。
日常生活を振り返り体と心のバランスを乱すような習慣や生活パターンを注意深く探してみましょう。
医師や薬剤師は健康についてアドバイスはできますがあなたの体と心に関心を傾け親切にケアできるのはあなただけなのです。
私たちの内面にある自然治癒力とバランス感覚は人間がつくったものではありません。
空気や水のように私たちの生命が始まったときからすべての人に与えられていました。
誰にもあるこの感覚を回復すると自分の体をケアすることができ山や川などの自然もケアできます。
体の声に耳を傾け体の感覚を目覚めさせると自然と通じ合う感覚が呼び覚まされます。
私たちの体が自然だからです。呼吸やエネルギーを感じると内なる自然が感じられます。
何かに集中しすぎたり絶えず考えたり悩んだりしていると脳が休まずに働き続けオーバーヒートします。
頭が熱く、重くなりひどいときは頭痛がすることもあります。
こんなときは、少し手を休めて脳の気力を回復する必要があります。
オーバーヒートした脳を冷ますには滞っている頭のエネルギーをほぐします。
指先を立てて頭をトントンと叩きます。
頭頂部を30回くらい叩いてから頭の真ん中を通って額まで叩きます。
また、頭の上、横、後ろを叩きます。
息を吐き出しながら叩くとさらに効果的です。
脳の主として脳がオーバーヒートしないようによく管理しましょう。
私たちの心はそれがポジティブであってもネガティブであっても思考でいっぱいです。
思考が過去にとどまっていてネガティブなときは後悔と言いポジティブなときは思い出と言います。
思考が未来にとどまっていてネガティブなときは心配と言いポジティブなときは希望と言います。
瞑想は今この瞬間現在に完全にとどまるところから始まります。
そのために必要なのはただ呼吸だけです。
http://seneca21st.eco.coocan.jp/working/nakamichi/33_3_01.html 【 内なる自然の喪失】.より
高度経済成長期以降急激に工業化、都市化が進行し、併せて農業も工業化し、農村生活も都市化した。これは国土経営を不安定にするばかりでなく、人間性の形成にも大きく影響を与えた。脳学者養老孟司は次のように指摘している1)。
・ 人工とは、人間の意識がつくり出したものを言う。都市はその典型である。都会には、人間のつくらなかったものは置かれていない。樹木ですら都会では人間が「考え」て植える。
・ 自然と人工が対立するものとなり、世界が二つに分かれるようになったのは、都市化が進んだためである。
私の見方は意識対身体、都市対自然ということである。意識と都市は同じもので、身体と外の自然は同じものである。
・ 意識がつくり出した世界、頭で考えてつくった世界を、私は「脳化社会」と呼んでいる。具体的には都市のことである。
・ 「ああすれば、こうなる」型の思考が、脳化社会の基本である。「ああすれば、こうなる」式の思考がはびこるようになったのは、人間が自然とつきあわなくなったからである。自然はたくさんの要素が絡み合う複雑なシステムである。だから、自然に本気でつきあっていれば、「ああすれば、こうならない」ことが体験できる。
でも人工環境では、そのことに気づかない。教わる機会を逸するからである。人工環境とは、むしろ「ああすれば、こうなる」が成り立つ世界のことである。
1(1)で述べたように、かつては「都市は大きな村落」であり、また周りに農村が共存していたので、都市の人間にも農村や農業が身近にあった。また農村は自然のなかにあり、そこでの営為も含め、自然のリズムに従っていたことから、巧まずして自然とつきあう機会に恵まれていた。
都市の急激な膨張は、都市からこの機会を奪っただけではなく、工業化した農業が営まれる、生活が都市化した農村でもこの機会は減少し、国民は内なる自然と外なる自然の両方を失くした。
JT 生命誌館館長の中村桂子2)は
外なる自然として
①面倒で脅威になるので、それを制御・支配下に置きたいと考える自然
②便利さを支える建造物や機械などをつくるために必要な物質やエネルギーを供給してくれる自然
③花鳥風月、心を慰め、体を休ませてくれる自然
を挙げ、自然はこの使い分けを許してくれないとしている。
また、内なる自然として生命誌の立場から
④人間
を挙げ、
「環境問題とは、自然を勝手に使い分ける対処の仕方に限界が見えてきたということであり、それは単なる限界ではなく、内にある自然を含めた自然の破壊につながる危険を見せている・・・。本来自然は一つのものであり、しかもヒトはその一部であると言う事実を再認識し、価値観や暮らし方を変える必要がある。」
と指摘している。
2 つ例を挙げよう。
① 昭和40 年代の電子計算機の急激な進歩にあわせて、農業水利の計画・設計・管理技術に資するため数理モデル・シミュレーション手法の開発にかかわったことがあるが、聞きなれない「シミュレーション」を説明する例示に「インスタント・コーヒー」を用いた。インスタント・コーヒーは本物のコーヒーを淹れるのに比べ効率的で、しかも本物に近い味がする、しかし本物のコーヒーの代替にすぎない。高度経済成長と科学技術の進歩は多く代替品をもたらし、私達はそれを享受し、一見豊かな生活を愉しんでいる。
かつては海や川で泳いだが、現在はプールが主である。プールは都市の中にあり、いつでも泳げるし、安全であり、早く泳ぎを覚え、どこもいつも均一の条件であるので記録も比べやすく、泳ぐという単一機能を達成するには確かに効率的である。しかし、海や川での泳ぎに比べ、生物を観察する、干満や流れの速さを感知し、お互いに危険に備える等を習うことがない。
このように単一機能達成の効率を追求した結果、ヒトは自然から離れ、またヒトが自然の一部であることを忘れ、ヒトとしての感性を喪失してきている。
② この傾向は一見豊かな生活を享受している世代の子どもに顕著に現われている。表1、資料1は、このことを的確に示している。
高層階に住む幼児は、低層階に住む幼児に比べ生活が自立できていない割合が格段に高い。これは表2 にみるように高層階が利便性に優れ(一般購入価格も高い)ているが、外部に、特に自然や人に接する機会が恵まれないことによるのであろう。残念ながら、庭付き戸建てや農村居住との比較がないが、そこに大きな格差があることは容易に想像できる。
表1 居住階層別にみたよう時の生活習慣の非自立状況3)
資料1 国立青少年教育振興機構「子どもの体験活動の実態に関する調査研究」(中間報告)
(平成22 年5 月)抜粋)
幼少期から中学生期までに「動植物とのかかわり」、「地域活動」「家事手伝い」等の体験が豊富な高校生ほど、「友達がとても幸せな体験をしたことを知ったら、私までうれしくなる」といった「共生感」、「経験したことのないことには何でもチャレンジしてみたい」といった「意欲・関心」、「けんかをした友達を仲直りさせることができる」といった「人間関係能力」が高い。
子どもの頃の「自然体験」や「友達との遊び」、「地域活動」等の体験が豊富な人ほど、「経験したことのないことには何でもチャレンジしてみたい」といった「意欲・関心」や「電車やバスに乗ったときお年寄りや身体の不自由な人には席を譲ろうと思う」といった「規範意識」、「友達に相談されることがよくある」といった「人間関係能力」が高い。
高度経済成長期以降核家族化が進み、地域社会との結びつきが弱くなった。これは国民や地域に長く培われてきた先祖教4)の力が弱くなり、人や他の生きものとのつながりで人は生かされている実感を失い、先祖教の伝統である正月、七夕、お盆の行事も形骸化してきた。都市にはこれに変わるものを醸成されず、人や社会を極めて不安定なものにしている。
また地域や兄弟姉妹間における交わりや野外遊びがなくなり、親はこれを補うことなく、漠然と学校教育に委ね、学校は全人教育に腰が引ける等の悪循環が生じている。これらは都市に限られたことではない。いまや農村でもプールで泳ぎ、先祖教に由来する行事・習慣も消えかかっており、生活も都市化している。
かつて農村には、家族総出で複合経営をする、家畜も飼う、農閑期には山仕事をやる等賑いがあったが、今は機械化・化学化・単作化された農業が休日に世帯主により静かに営まれている。農家の子弟は農作業、地域の管理に関わることもなく、唱歌「故郷」に謳われた「兎追ひし かの山 小鮒釣りし かの川」の情景も思い浮かべることはできない。野外体験活動は農村在住者にも必要となっている。
中道 宏 H21.3.3
*1 養老孟司「いちばん大事なこと」集英社新書 2003
*2 中村桂子「“いのち”を基盤とする社会」 草思社「草思」特集「環境問題」の真実
*3 日暮眞「都市生活と子ども」東京大学公開講座 54 有馬朗人著者代表「都市」 東京大学出版会
*4 梶田真幸「日本人の自然観~仏教と先祖教~」
(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/archives/news/yomiuri/1_kousin/13_re1.doc 22.9.15)
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