https://rubyring-books.site/bookreview/post-1018/ 【「よみがえる日本語 ことばのみなもと「ヲシテ」」】 池田 満 監修/青木 純雄・平岡 憲人著(明治書院 2009年5月)より
日本語を見直す上で示唆に富んだ語学書
『アワ歌で元気になる』を読んで「ホツマツタヱ」に興味を持ち、調べてみたところ池田満さんという方が精力的に研究されているとわかりました。
図書館で探していると、この本が置いてあったので借りてきました。
内容は、ホツマツタヱなどを記述している「ヲシテ」文字についての語学書といえるものでした。
ヲシテの基本である相(子音)と態(母音)については、「ヲシテ文献」の勉強~ホツマ編~のページに非常によくまとめられています。
江戸時代の創作である可能性がおおいにあるヲシテ文献ですが、ヲシテは、「っ」「ん」を除いて母音で終わる開音節言語の性格が強いという日本語の特徴によく即しており、また、相と態によって一つ一つの文字が意味を持つととらえることで、日本語の姿が今までとは違って見えてくるという機能を持っているようです。
たとえば、「うみ」と「ゆり」を並べてもすぐには共通性が見えてきませんが、ヲシテで記せば、いずれも母音が「うい」であることが一目瞭然になります。
また、文の韻律も、ヲシテによって視覚的になります。
さらに、本書で紹介されているように、助詞の機能に、これまでの国文法では述べられていない共通点が見つかってもいます。
ヲシテ文献が、江戸時代に創作されたかどうかを問わず、日本語について再考するためにも、本書を一読することをお勧めします。態(母音)の意味を考えながら発音してみるだけでも、少し日本語が違ってみえるような気がします。
ただ、私の場合は、ヲシテは面白いと思う一方で、ヲシテ文字で書かれた文を見てもUFOが並んでいるようでしっくり来ず、相(子音)のそれぞれの意味を読んでもピンと来ないのもまた事実です。
内容の紹介
ヲシテ文献は、高度な文学書であり、思想書でもある。たとえ、ヲシテ文献が江戸時代の作品であったと仮定しても、文学書として独創的な内容と韻律を持っていることは否定できない。なぜ文学者がこの書に注目しないのかは、我々にとって大きな謎である。 – 115ページ
本書ではヲシテ文献(ホツマツタヱ、ミカサフミ、フトマニ)の詳しい内容は記されていませんが、この記述はまったく同意できます。
枕草子、徒然草、源氏物語、東海道中膝栗毛などと並んで高い評価を受けてよい資料であると思います。
本章では、助詞とは何かについて説明する。もし、国文法の側面から言って助詞とは何か確認しておきたいという方は、国文法の入門書を御一読いただきたい。例えば、
「国文法ちかみち」、小西甚一著、洛陽社刊
をお勧めしよう。 – 301ページ
『国文法ちかみち』は、「日本語そのものを考察する稀有な一冊」との評を受けている良書のようです。
(「くすりを飲む」、「家を出る」、「私の机」、「君と僕」、「明日も雨」、「ほんとにうれしいよ」、「すごいぞ」、「今こそチャンス」の黄色い背景で示した助詞について)
ところで、これらには、助詞であるという以外に何か共通点はないのだろうか。国文法ではさまざまに分類してあって、共通点は見つからない。
(中略)
しかしながら、実は、国文法では述べられていない大きな共通点があるのだ。
「母音がオ」であるという共通点である。
(中略)
これらの例文はすべてオ段の助詞でできている。そして、「オ」のイメージは「固まったもの、変化が成熟して安定に至ったもの」、もっと煎じ詰めると「固める」というイメージである。となると、ヲシテ文法で考えるなら、直前の言葉(上詞)を「固める」というイメージでとらえて見るわけだ。 – 322-323ページ
この後、「あ」段の助詞に共通する「ありのまま、心に響くまま」というイメージの説明があります。
http://matocayamato.blog62.fc2.com/blog-entry-222.html 【ホツマツタヱと日本書紀のどちらが古いのか】より
ホツマツタヱと日本書紀のどちらが古いのでしょう?
このテーマについて「よみがえる日本語―ことばのみなもとヲシテ」の著者であられる
青木純雄さんが、昨年の「ヲシテ講座」の際に記されておられまして
承諾をいただきましたのでここにご紹介させていただきます。
尚、原文は数回に分れて書かれたものをまとめておりますことをご了承ください。
以下転載。
今回は、「ホツマツタヱと日本書紀とのどちらが古いのか?」という問題を考えてみます。
ホツマツタヱと日本書紀の先後関係は、僕が、初音ミクさんの次の次くらいに興味をもっているテーマです。
もちろん、世間の常識では、ホツマツタヱの成立は江戸時代ですから、先後関係など考えるまでもありません。
もし、「ホツマツタヱやミカサフミが縄文時代の文献である」と主張するのであれば、
こうした世間の常識を否定する根拠を示すことが必要です。
そのためには、「ホツマツタヱが日本書紀より古い」という、
文献比較上の議論と証拠とを示す必要があるわけです。
まあ、僕個人としては、どちらが先でも、かまわないんですが、いろいろパズルを考えていくうちに、ホツマツタヱの(少なくとも一部分およびヲシテ文字)が、日本書紀より先に成立したと考えるほうが、その逆よりも可能性が高いという結論に至りました。
その一部をみなさんに示す予定です。
ホツマツタヱと日本書紀を比べる前の前提
「ホツマツタヱと日本書紀とのどちらが古いのか?」という問題を考えるには、次の二つが必須です。
(1) 立場、スタンスが公平であること
(2) 比較のための方法論がはっきりしていること
まず、この二つがなければ、そもそも、スタートラインに立つことはできません。
(1)「公平」というのは、一方に最初から肩入れしてはいけないということです。
学問を名乗る以上、比較の前に結論をだしてはいけません。
また、イデオロギーや政治思想を入れてはいけません。
(1)については、当たり前のことなので、これ以上言うべきことはありません。
(2)「方法論」も当たり前の条件です。
学問で大事なのは、「結論」ではなく、「方法論」を守ることです。
「方法論」について語ります。
ホツマツタヱと日本書紀とを比べる方法論(1)
それでは今回は「方法論」の(1)について述べます。
(1)は、「ホツマツタヱの原文と日本書記の原文とを比較しなければならない」というものです。原文どうしの比較でないと、意味がありません。
ところが、これが「言うは易し」でして、意外にできないものなのです。
日本書紀の原文は漢文です。漢字だけです。平仮名も片仮名もありません。
漢字かな混じり文は、後世につくられたものです。ただ、こちらはまだ分かりやすいですね。問題はホツマツタヱのほうです。ヲシテ文字で書かれています。
これを無意識のうちに漢字や平仮名にしてしまうわけです。
例えば日本書紀に「日高見」という言葉があります。「ひたかみ」と読みます。
「日高見」の意味は、「太陽(日)が高く登るような国、場所」という意味だそうです。
漢字のとおりになっています。
ホツマツタヱでは「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」と書きます。
ひたかみ比較のときには、もちろん、「日高見」と「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」とを比較しないといけません。
ところが、無意識のうちに、「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」を「日高見」「ひたかみ」に置き換えて比較してしまうものなのです。そうすると、以下のようになります。
日本書紀:「日高見」「太陽(日)が高く登るような国、場所」
ホツマツタヱ:「日高見」「太陽(日)が高く登るような国、場所」
同じ言葉になってしまいます。そうすると、普通、「日本書紀が先」ということになりますよね。「日高見」⇒「ひたかみ」⇒「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」ということです。
しかし、これではまともな比較になっていないのです。
なぜなら、「日高見」「ひたかみ」と「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」とは、意味が違うからです。その意味の違いは、「原文」を見ないと、決してわかりません。
それでは、「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」の意味は、どうやったら、わかるのでしょうか?
そこで必要なのが、「方法論(2) ヲシテの読み方を身につけること」です。
ホツマツタヱと日本書紀とを比べる方法論(2)
今回は「方法論」の(2)について述べます。
(2)は、「ホツマツタヱに出てくる単語の意味は、ヲシテ文字のイメージを把握して読みとる必要がある」というものです。
難しく言うと「ヲシテ言語学」ですが、要するに「ヲシテの読み方」ということです。
ホツマツタヱに「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」という言葉がでてきますが、これは「日」を「高」く「見る」ことではありません。
ひたかみ「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」とは、「日の出と日没とを見ること」であり、
ひいては「太陽の動きを観測すること」です。更には、「春と秋とを観測すること」という意味にもとれます。まとめると、「太陽を観測して暦をつくること」です。
また、「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)(ノ)(ク)(ニ)」とは、「暦を立国の基礎とした国」ということになります。
コヨミ
なぜそうなるかというと、ヲシテ文献では、「(タ)」は日の出であり、「(カ)」は日の入りだからです。
トホカミエヒタメ
また、「(タ)」は春の意味になり、「(カ)」は秋の意味になります。
固有暦(シワス)
画像は池田満著「ホツマ辞典」より引用
更に大本をいうと、
「(タ)」には、熱が地表に入ってきて温まってくるイメージがあり、「(カ)」には、光が去って行って暗くなっていくイメージがあります。これで、ホツマツタヱの「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」の意味が読み取れました。
これで、やっと、ホツマツタヱの「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」と日本書紀に記載の「日高見」とを比較することができるようになりました。
次は、両者を比較し、「どちらが先と考えるのが合理的か?」という問題を考えてみます。
もしもホツマツタヱが先だったら?
それでは、「日高見」と「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」とを比べてみましょう。
今回は、ホツマツタヱが先だと仮定します。
「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」は、「日の出と日没とを見ること」であり、ひいては「太陽の動きを観測すること」です。
「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」を読みくだすと、「ヒタカミ」という音声になります。
これを帰化人か帰化人の二世が聞き取って、漢字に直します。
ここで、「ヒ」「ミ」にあてた漢字「日」「見」はどちらも訓読みです。
一方、「タカ」ですが、「日の出」と「日没」という意味をとれなかったと考えることができます。すると、単純に音を当てれば「高」になるでしょう。
この段階で、「日の出と日没とを見ること」という語義は消滅します。
その代わりに、「日高見」という表記が生じます。
ここから、高く登る日を見るという語義が生じてきます。
このプロセスには不自然な点や不合理な点はありません。
次は、日本書紀が先と仮定してみましょう。
もしも日本書紀が先だったら?
引き続き、「日高見」と「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」とを比べてみましょう。
今回は、日本書紀が先だと仮定します。
「日高見」には、「高く登る日を見る」という語義があります。
この語義は漢字表記から生じています。
「日高見」をよみ下すと、「ひたかみ」という音列が生じます。
「ひたかみ」という音列をヲシテ文字に直すと、「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」となります。
ひたかみ
ホツマツタヱの文脈からは、
ヲシテ文献の「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」というヲシテ文字から、「日の出と日没とを見ること」という語義が生じます。
そして、「日の出と日没とを見ること」という語義は、「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」というヲシテ文字形のイメージと合っています。
ヲシテ文字の「(タ)」には、熱が地表に入ってきて温まってくるイメージがあります。
また、ヲシテ文字の「(カ)」には、
光が去って行って暗くなっていくイメージがあるからです。
つまり、「日高見」という漢字表記を音列にそのまま変換し、その音列をそのままヲシテ文字に変換しただけで、➀「日の出と日没とを見ること」という別個の語義が生じております。こうした語義の発生が偶然起こる確率は低いと思われます。その上で、新たに生じた語義は、
②(タ)(カ)というヲシテ文字形にリンクしています。
このように、
➀別個の語義が生じ、かつ
②生じた語義がヲシテ文字形にリンクする確率は、たいへん低いものと考えられます。
以上、日本書紀とヲシテ文献の単語の比較について、
基本パターン(➀+②)を示しました。
しかし、「(ヒ)(タ)(カ)(ミ)」の場合には、基本パターンの上に、更に別の要素③が加わります。
それは、③「世界観へのリンク」です。
以上、青木純雄さんが「ヲシテ講座」紹介用に記された文章を転載させていただきました・・が、続きの ③「世界観へのリンク」の記録がなく・・。
これについては次回作の出版に期待するしかありません・・。
ヲシテ研究の最新成果はこちら続編「よみがえる日本語Ⅱ」
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