俳句の不可能性への架橋~「第二芸術」論を読む 〔後編〕

https://weekly-haiku.blogspot.com/2008/06/blog-post_01.html 【俳句の不可能性への架橋~「第二芸術」論を読む 〔後編〕】

田島健一

『炎環』2008年1月・20周年記念号より転載

承 前

●「師弟関係」とは何か

神秘団体においては上位者が新しい入団者に常に説教することが必要とされる。かくすることによってその権威が保たれるのである。じじつ、俳人ほど指導の好きなものを私は知らない。俳三昧、誠をせめる、松の事は松に習え、人間の完成、等々。ところで行住坐臥すべて俳諧というような境地は、封建時代においてさえも有名な専門俳人以外には実行不可能なことであった。そういわれた人は、その教えが自分たちには不可能と思われるので、却ってそれを説く人を尊敬するということになる。しかし、そうしたことを教える人がみずからそれを実践し得るものかどうか。(『第二芸術』桑原武夫著)

桑原は「不可能と思われる」ことを説くことで、説かれた人は、それを説く人を「尊敬する」が、それを説いた人みずからが、「それを実践し得るものか」と批判している。

つまり、俳句の世界において「師」と呼ばれるものが、みずから実践し得ないことを説くことで、「弟子の多少」や「主宰する雑誌の発行部数」によって、芸術的評価とは異なるところで、作品の地位が決まっている、というのである。

ところで、なぜ俳句の世界には、「師弟関係」というものがあるのだろうか。小川軽舟氏は、その著書『魅了する詩型─現代俳句私論』の中で「師弟関係」について次のように書いている。

俳句結社における選者と投句者の関係は、カルチャーセンターの講師と受講者の関係とは本質的に違う。投句者は選者に読んでもらうことを目的として俳句を作るのである。選ばれた作品は結社誌に掲載されるが、それをみんなに読んでもらうために俳句を作っているわけではない。あくまで、選者に選んでもらうことが第一の目的なのだ。これが俳句における師弟関係の原点である。つまり、俳句作者が自らの作品を読んでくれる最高の読み手として選んだ相手が師なのであり、俳句を作って師にそれを読んでもらうことが俳句における師弟関係なのである。

(『魅了する詩型─現代俳句私論』小川軽舟著)

小川氏は、師を「最高の読者」として想定することで、「師弟関係」を基礎付けしようと試みている。

確かに、「師」というものの機能的な側面としてはそのとおりだと思われる。けれども「弟子」が「師」から学ぶのは、そのような機能的な側面からのものだけではなく、むしろ、その「立ち位置」の問題なのである。

「私には知られていないゲーム」のルールを知っていると想定された人間、それが「師」である。「気がついたら自分がそのルールを知らないゲームのプレーヤーになっている」人間、それが「弟子」である。そして、「ゲームのルール」を知りたいと望むこと、それが「欲望」である。(内田樹著『死者と他者 ラカンによるレヴィナス』)

これは、まさに前述の「作者」と「読者」の関係と同じである。

つまり、『「私には知られていないゲーム」のルールを知っていると想定された人間』が、「師」であり「作者」である。そして、常にそれを後ろから追う立場に立たされるものが、「弟子」であり「読者」である。

弟子が師から学ぶのは実定的な知識や情報ではない。聖句から無限の叡智を引き出すための「作法」である。もし師が知識や情報を教えたのであれば、優れた弟子であれば、どこかの段階で師を凌駕し、師を軽んじることもありうる。しかし、タルムードの師弟関係ではそのようなことは起こり得ない。というのは、弟子が師から学ぶのは、師がさらにその師から作法を学んだときの「学ぶ作法」だからである。(同書)

つまり、俳句における「師弟関係」とは、「弟子」を「読者」の立場に立たせるための仕組まれた機構なのである。なぜ、そのような機構を必要とするのか。内田氏によれば、それは、「テクストから無限の意味を汲み出すためには、読み手は師について「正しい読み方」を学習しなければならない」からである。

弟子はまず「師としての他者」に就いてテクストの読み方を学ばなければならない。「師としての他者」とは、無限の叡智を蔵した完全なる叡智、「知っていると想定された主体」のことである。

なぜ「まず」師なのか?

それは弟子が師に就いて学ぶ仕方と、読み手がテクストから無限の意味を読み出す仕方は構造的に同一だからである。(同書)

つまり、俳句という不可能性によって分断された「作者」という彼岸に対して、此岸に立つ「読者」は、「師弟関係」を通して、その不可能性に対峙する「読み方」を学ぶ。それは、「技術」や「方法」と呼ばれるような情報として学ぶのではなく、「師弟関係」という「作者」と「読者」の関係と相似形の関係性から、その「立ち位置」を学ぶのである。さらに、内田氏は「師」を持たない者を「独学者」と呼び、次のように述べている。

独学者とは誰のことか? それは「他者」に双数的=想像的構えで立ち向かう者のことである。独学者もまた異論と対話を試みるし、テクストからの呼びかけに耳を傾けることがあるだろう。けれども、彼の努力は「自分がすでに知っていること」を他者のパロールのうちに「再発見」するためにしか行使されない。それは独学者が「他者」を知らないからだ。彼の目の前にいるのは、彼と同類等格の「他我」、彼自身の「鏡像」(image)にすぎない。「想像界」(I'imaginaire)の住人であるというのは、そのことである。(同書)

注目していただきたいのは、この「彼の努力は「自分がすでに知っていること」を他者のパロールのうちに「再発見」するためにしか行使されない」という点である。桑原が「第二芸術」論で述べた、「作品を通して作者の経験が鑑賞者のうちに再生産される」という態度、これは、まさに「独学者」のそれである。

このとき、桑原は「独学者」として、俳句という「他者」の前に立たされてしまったのである。

読者にとって「作品」は、それが初めて出会うものであるにも関わらず、桑原は作者の経験を「再」生産しようと試みる。

なぜ「再」なのか。

桑原にとって、「作者の経験」は既に生産されている、と想定されているからである。桑原にとって「芸術」は、「すでに経験されたこと」でなければならないのである。

けれども、ここまで述べたとおり、俳句は私たちが理解不能な「不可能性」によって「作者」と「読者」の前に横たわっている。いわば、俳句は「再生産」不可能な、常に新しい出来事なのである。

「独学者」としての桑原には「俳句」という川を、理解することができない。

つまり、「第二芸術」論とは、俳句への辛辣な批判、というよりもむしろ、「俳句」がその力を最大限に発揮した結果、完全なる「読者」としてからめとられてしまった、桑原武夫によって書かれた、「独学者」の悲鳴なのである。

けれども、私がここで問題としたいことは、桑原武夫に「俳句」が理解できない、というような、反論ではない。

むしろ、「第二芸術」論という評論は、これまで述べたように「意味が意味するレベル」において、余すところなく「俳句の不可能性」について語ってしまっているのである。

我々が、いま考えなければならないこと、それは、俳句における「不可能性」の川を「越える」ということが、どういうことなのか、という点にある。

●人間探究派~「不可能性」に対する「作者側からの要請」

桑原武夫に限らず、ほとんどの「読者」は「俳句」という不可能性の川の前で、呆然と立ち尽くすしかない。いわば「第二芸術」論は俳句の不可能性に対する「読者側からの要請」と言うことができるかも知れない。

しかし、このような要請は、非常な困難を伴う。既に述べたように、俳句の「不可能性」は、それを「既知」に還元しようとしたとたんに、私立ちのもとから飛び去ってしまうからである。

戦後の俳壇の歴史は、この「俳句の不可能性」へのあくなき挑戦の歴史であったと言っても過言ではない。

昭和十四年、『俳句研究』八月号に「新しい俳句の課題」という題の座談会が掲載された。周知のとおり「人間探求派」誕生のきっかけとなった座談会である。

この座談会は、『俳句研究』編集者の山本健吉が、「難解な句」を作ると言われていた四人の若手俳人(中村草田男、加藤楸邨、石田波郷、篠原梵)に俳句を語らせることで、俳句の「中心的課題」を浮き上がらせるために企図した、当時としては画期的なものであった。

ところで、「人間探求派」が求めたものを、文字通り『俳句において「人間」を詠んだ』と解釈するのは、決して間違いではないが、正確ではない。むしろ誤解を招く表現だと言えるだろう。

この座談会で、山本健吉が特に意図していたのは、当時、俳句の固有性を、題材や方法によって基礎付けようとした新興俳句に対するアンチテーゼであった。座談会に出席した四人の若手俳人のうち、篠原梵は、俳句の本質をその形式で説明しようとしたが、それはむしろ当時の新興俳句と近い立場に立つものであり、やがて梵は人間探求派からはずされることになってしまう。健吉の意図に応えたのは、残りの三人。中村草田男、加藤楸邨、石田波郷であった。

このとき、彼らが主張したのは、俳句の形式や方法論とは次元を異にしたものであった。それは、波郷の次の発言に集約されている。

石田「俳句をやつて居るから俳句で表はす、さうでなくて、俳句といふものには俳句としての何物かがある、それから捉へ方がある筈なのに、実際の表はしたものは俳句らしくないものを俳句の形で表はして居ることがある・・・。」

(『俳句研究』昭和十四年八月号 改造社)

つまり、波郷は、「俳句にしか詠めないことってあるじゃん」と言っているわけである。それに対して、「俳句にしか詠めないことって、何?」と問うことは、野暮というものである。

なぜなら、仮に「それはね、これこれ、こういうものだよ」と散文として説明可能であるとすれば、それは、もはや「俳句にしか詠めないこと」ではないから、である。

ここで波郷が言う「俳句にしか詠めないこと」こそが、「俳句の不可能性」と呼ぶものである。昭和十四年当時、俳壇における「俳句の不可能性」に対する問題提示は既にされていた、ということができるだろう。「第二芸術」論が発表された当時、それに対する強力な反論が、草田男や楸邨、そして山本健吉といった人々から提出されたのは、偶然ではないのである。

「第二芸術」論が「俳句の不可能性」に対する「読者側からの要請」であったとすれば、人間探求派は「俳句の不可能性」に対する「作者側からの要請」だったと言うことができるだろう。

この座談会で提示された問題は、そのまま戦後の大きな課題として展開されることになる。「第二芸術」論も、その課題を浮き上がらせるための、大きな原動力のひとつとなったことは言うまでもない。

さて、それでは、戦後、人間探求派が向かい合った問題。「俳句の不可能性」を越える、とは一体、どういうことなのか。「俳句の不可能性」に対して、我々はどのように向き合えばよいのだろうか。

●俳句の不可能性を越えるもの~架橋

「俳句」という不可能性の川にどのように「架橋」するか。

ここまで、何度も述べているように、それは非常な困難を伴う。なぜなら「不可能性」とは、「これこれ、こうすれば、できますよ」という「可能性」として語ることができないからである。

何かしら再現可能な「方法論」に落とした瞬間に、「不可能性」は我々の手元を離れてしまう。「不可能性」という川に「架橋」した途端に、その橋によって川はせき止められ、川そのものが無くなってしまうのである。

「俳句の不可能性」を損傷することなく、「俳句の不可能性」を示すには、どうしたらよいか。いわば、「わからない(不可能性)」と「わかる(架橋)」を同時に実現すること。これが、俳句の中心課題なのである。

その課題に対するヒントとして、再びフランスのユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナスの言葉を紹介したい。

主題のうちに宿ることができないということ、現われることができないということ、─このような不可視性が「接触」と化し、強迫と化す。とはいえ、この不可視性は、接近されるものが「意味しないこと」に由来するのではなく、顕示と視覚を結びつけつつ意味する仕方とはまったく別の意味する仕方に由来するのであって、そこでは、記号としてなおも主題化されるような何らかの意味が、可視性の彼方で提示されることはまったくない。彼方へと超越すること、それこそが意味そのものなのだ。意味とは言い換えるなら、他人のために身代わりになる一者という、矛盾をはらんだ向性である。他人のために身代わりになる一者は直観の欠如ではなく、責任の剰余である。他人に対する私の責任は「~のために身代わりになる」という関係であり、意味の意味することにほかならず、意味の意味することは、〈語られたこと〉のうちで現出するよりも前に、〈語ること〉のうちで意味する。他人のために身代わりになる一者とは、言い換えるなら、意味の意味することそのものなのだ!

(「存在の彼方へ」E・レヴィナス著/合田正人訳)

まず、ここまで見てきたように、「第二芸術」論における桑原武夫の主張を読むにあたって「顕示と視覚を結びつけつつ意味する仕方」で読むのではなく、その「主題のうちに宿ることができない」、ある種の「不可能性」へと「接近」するように読むことで、「意味の意味すること」が、「〈語られたこと〉のうちで現出するよりも前に、〈語ること〉のうちで意味」しているのである。

このような「読み」の仕方は、まさに我々が「俳句」を読むときの仕方と、まったく同じ構造と言えるのではなかろうか。

つまり、俳句と、俳句を読む桑原武夫に対して、「第二芸術」論と「第二芸術」論を読む我々は、その関係性において相似形なのである。

そして、そのような関係性とは、レヴィナスの言うところの「他人のために身代わりになる一者」としての関係性なのである。

レヴィナスは一九三九年に応召して、軍事通訳として捕虜になったために、ユダヤ人でありながら、強制収容所に送られることをまぬかれた。しかし、彼が捕虜であった間に、リトアニアに残してきた家族は違う運命をたどった。

(内田樹著『死者と他者 ラカンによるレヴィナス』)

自らがフランス人捕虜として捕虜収容所で過ごしている間に、ホロコーストで彼の家族を含む何百万の人々が殺害された、という事実の中から、意味無く死んだのが「私」ではなく「彼」であった、という答えのない問いを見つめることで、レヴィナスの哲学は生き残った者たちの「有責性」へと目を向ける。

レヴィナスたち「ホロコーストの生き残り」が、生き残ったことをそれでも自分に向けて合理化することばがあるとすれば、それは「私たちは自分たちの責務に加えて、あなたたちの責務をもあわせて引き受け、それによってあなたたちが死んだことによってこの世界にもたらされた欠如を最小化するつもりである」という決意を述べることの他にない。

生き残ったことに意味を与えるとすれば、それは生き残った者は、より多くの責務を果たし、より多くの受苦に耐えるために、つまり特権のゆえではなく、より多くの義務を引き受けるために選ばれたのだ、という自己規定をみずから引き受けることの他に道がない。(同書)

このレヴィナスが経験した、ある種の苦しみを、同時期の日本人も同様に感じたに違いない。戦争は当時の人々に対して「生」の無起源性についての問いを突きつけた。それによって人間探求派に代表される戦後の作家たちもまた、レヴィナス同様、ある種の「有責性」を引き受けることで、自らの作品の基礎付けようとした、ということが言えないだろうか。

「第二芸術」論が書かれた時期を鑑みると、それは俳句の外部から要請された、俳句の「有責性」に対する疑問であった、と読むことができるのではないだろうか。

「第二芸術」論を、その〈語られたこと〉のうちで、悪意と偏見に満ちた評論である、と読むべきではなく、「俳句」に関わる人々の「~のために身代わりになる」という「有責性」についての問いかけとして、読むべきなのではないだろうか。

そして、同じ相似形としての「俳句を読む」という行為もまた、「〈語ること〉のうちで意味する」意味を読むということなのではないだろうか。

ここで言う「有責性」とは、日常的な意味での「道徳性」とは異なる次元のものである。

人間はまず何かをして、それについて有責なのではない。人間はあらゆる行動に先んじてすでに有責なのである。貧しい人々を歓待すれば「主」に祝福され、貧しい人々を追放すれば「主」に呪われる、というように人間の主体的決断を「主」が事後に査定するということは起こらない。人間は歓待か追放かを選択するに先んじて、追放したことについてすでに有責なのである。 (中略) 私は、歴史的にどのような事実があったかどうかにかかわらず、私としてある限り、すでに有責である。それは、隣人を歓待するか追放するかの選択をなす「以前」の「過去」において私がすでに「主」を追放したということである。しかし、この「私が主を追い払った過去」は、「いまだ到来しておらず、一度として現在になったことのない」時間における出来事なのである。(同書)

このような「いまだ到来しておらず、一度として現在になったことのない」過去に対する「有責性」を我々は「倫理」と呼び、そのような「倫理」を無条件に請け負う者の「構え」のことを「主体性」と呼ぶのである。

俳句の「不可能性」へ接近するための「構え」、それは、「倫理的な主体性」のことである。

言うまでもないが、「そのような「構え」はどのように可能か」というような「方法」として、それを語ることはできない。

俳句に対する我々「作者」が、そして「読者」が、自らのうちにある種の「責務」を無条件に引き受けるとき、俳句の「不可能性」は、「意味の意味」を開示し、我々に対して初めてその門戸を開くのである。

●おわりに

桑原武夫の「第二芸術」論と、それにまつわるさまざまな言説は、必然的に俳句における「不可能性」の問題に突きあたる。

この「不可能性」の問題は、戦後の俳壇が中心的な課題としたものであり、いまだにその課題は乗り越えられているとは言い難い。

そもそも、この課題を乗り越える以前に、この俳句の「不可能性」についての認識を共有し、同意することがまだまだ困難な時代であると言わざるを得ない。

「第二芸術」論という、戦後の俳壇においてエポックメーキングなテクストを読むことを通じて、俳句の「不可能性」そして、それに「架橋」するということ、について論じてみたが、それは俳句において否定されがちな「主体性」というものが、どのように俳句に到来するか、という倫理的な問題に収束するものであった。

雑然とした時代の中で、「なぜ俳句を創るのか」という動機そのものが希薄にならざるを得ない今、このような「倫理」に基づいた「主体性」の表出こそが、俳句を私たちの「生」そのものに結びつける唯一の鍵であるような気がしてならない。

(了)

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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