心を鎮めるには?

https://life-meditation.com/e-zine224/  【心を鎮めるには左脳に餌を与えないこと】より

さて、前回はメガネと認知の話でした。

そう、メガネの輪郭に段差が出るのはプリズム効果といわれるものでそんな段差を作りたくなければそれぞれの輪郭に合わせたフレームを選ぶというステップが大切です。

ポイントを押さえたメガネ選びで、今まで苦手だったメガネをかけた自分が、ぐっと好きになれるかもしれません。

とかそんなことは全く話していません。

でたらめもいいところなので信じないでください。前回はメガネが自分と一体化するお話でした。

自分のメガネの存在を知ったとしても、私たちはそれを簡単に外すことができません。

なぜならそれは知覚できないから。

どこからどこまではありのままの世界で、どこからどこまでが自分の眼鏡で見ている世界なのか、判別はとても難しいものです。

まず必要なのは、そのメガネを通して自分はどんな世界を見ているのか。

最初はとっても左脳が騒がしい状態。なぜなら、考えない時間など忙しい私たちにはないから。今日この瞬間も、日経新聞の情報は更新され続けるのですから!

この時に使うべきなのが瞑想。

しかし、眼を閉じて、左脳に余計な餌を与えなければ、左脳がその餌で思考が肥大化するのを防げます。

しかし、それでも暴れん坊の左脳はそれだけではいうことを聞いてくれません。

あなたの左脳はとっても賢く、今までの経験や学びを餌に勝手に思考を肥大化させるのです。

今こんなことをしていて、仕事しなくていいのか、怒られないか、同期に差をつけられないか。こんな起こってもない未来を予測します。

ステップ1で学びましたね。私たちは解釈によって感情が起こると。

左脳が勝手に作り出した現実は解釈の塊です。

それによってあなたの内側だけが、混乱をきたすのです。世界は何一つ変わってないのに。

それでも大丈夫。実はこれは自然なこと。

左脳が働くようになってるのは、今の社会で生きていると誰しも陥ることです。

眼を閉じて左脳のおしゃべりに気づいたら、それをただ勝手に話をさせましょう。

間違っても、考えちゃダメ、なんて思わないこと。左脳は凶暴です。

あなたの心が無理やりコントロールしようと思って大人しくなるほど、聞き分けの良いものではありません。

でも大丈夫、必要なのは聞いてあげること。ああ、今そう考えているのか、自分はそう思っているんだ。それを自分の心の眼で静かに聞いてあげましょう。

ここで必要なのは共感と受容です。自分がもう一人の自分の話を聞いてあげる感じ。

マインドフルネスで言われる、思考を考察する、客観的に捉えるというのは、こういう状態です。

マインドフルネスは、瞑想の中でも比較的やりやすい瞑想法です。

なぜなら、ここからも分かるように決して無を目指さないですよね。

瞑想というとつい、全てを達観して不動心のもとに無の境地に辿り着いた人、みたいなイメージがありますが、マインドフルネスはそんなことはお伝えしません。

ただ、今ここにあるものを観ること。それは事象や感覚だけでなく、あなたの頭の中の出来事も。そもそも、左脳が不安や恐怖を予想してしまうのは、防衛本能の一種です。

ストレスや危機は私たちの生命を脅かします。だから左脳が教えてくれるのです。

このままだと危ない、こうしたら回避できると。

そう思ったら、自分のめんどくさい左脳のお喋りも愛おしく感じられませんか。

左脳は今日もあなたを守り続けてくれているのですから。だからまずは焦らず聞いてあげましょう。

そうなんだ、今自分はこんなことに悩んでいるんだな、こんなことが心配なんだな、こんな評価を求めてたんだな、と。

ただ、そこに対して頷くことなく、ただ、聞いてあげます。肯定も否定もしない。

あなたは自分自身のカウンセラーなんですから、聞き方のトレーニングは大切です。

ただ自分の中の思考を、良いも悪いもなく自分の頭の中の声を聞くこと。

そうして繰り返していくことで、自分の左脳と仲良くなりましょう。

今日はここまで!また次回!

https://hasunoha.jp/questions/24270 【悟りとは左脳の機能を抑えること?】より

https://www.ted.com/talks/jill_bolte_taylor_s_powerful_stroke_of_insight/transcript?language=ja

上の動画で、ジル・ボルト・テイラーという脳科学者の方がある日、左脳の脳卒中により左脳の機能が著しく低下し強制的に右脳での思考をせざるを得なくなった時の体験を話しています。

・外の世界と自分をつなぐ脳のしゃべり声から完全に 切り離され頭の中が静寂に包まれた

・自分と世界の境目が無くなりエネルギーと同化する素晴らしい感覚

・あらゆるストレスから開放され平安で満ち足りた感覚

これらを脳卒中を起こしてまさしく死の瀬戸際であったのにも関わらず感じていたと語っています。

この話を聞いてその右脳のみの体験談が宗教問わず所謂「悟り」の感覚と言われるものと非常に酷似していると思いました。

そこで、これが真実なら悟りとは左脳の機能が抑えられた状態のことで、そうするためのトレーニングが座禅なんじゃないかと思ったのですが、僕は悟っていないのでわかりません。

そこでお聞きしたいですのですが、悟りのプロのお坊様から見てこの考えは全くの的外れでしょうか?

うえすと男性/20代

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悟りといっても色々な解釈があります。

私の思う悟りとは、分かることだと思います。

何が分かるのかというと、縁起が分かるということです。

縁起とは縁によって起こるということ。

この世のことは全て様々な縁によって起きているということ。

例えばあなたが今そこにいるのは、母と父によって生を受けたこと、母乳やミルクや与えられた食べ物によって育ったこと、今も毎日食事という形で他の生き物の命をもらっていること、空気がありその中に酸素があること、地球に引力があること、もっともっと沢山ありますがこれらの縁によるものなのです。

これも縁起のひとつ。

何をすればどんなことが起こるか?

それが分かるということ。

例えば、あなたが目標とする場所に行くには、どのような道をどのように歩めばよいか、それが分かるということ。

そのような、縁起が分かる、それ故に、目標のためには今何をすべきか分かる、ということです。

決して何も考えないということではないと思います。

考えることを辞めてあらゆるストレスから解放されるのでは無く、考えて分かることであらゆるストレスから解放されるのだと思います。

参考まで。

追記

そうです。

ただし、考える方向を間違えないように。

ストレスの縁、つまりストレスの様々な原因をひとつずつ明らかにするように考えるのです。

次に、その様々の原因をどうしたら無くせるのかを原因ひとつずつについてそれぞれ考えるのです。

次に、それを無くす為にするべき行動を考えるのです。

最後に考えた行動を実践するのです。

これがお釈迦様の言われた考える順番なのです。

当たり前のことと言われたらその通りなのですけど、ストレスの中にいると見失いがちですから気をつけましょうね。

右脳も左脳もわかりません

私がいま、文字を打ち込んでいますが、この時に右脳を使っているか左脳を使っているかはわかりまさん。ただスマホの感覚と文字を追って読んでいるだけです。

これが事実であり、それと間髪入れず一体となっている様子なのだと思います。

それが悟りだと思っている人すら存在しない。自分が全く抜け落ちている様子なのでしょう。

悟りに理屈はいらないのでしょう。考え方を全て手放し、事実のまんまにいることです。

坐禅はトレーニングではないですよ。坐禅そのものが悟りと言えます。鍛えて見えて来たり、鍛えて聞こえてくるようなものではないのです。

難しことは考えず、事実に生きる。考えが及ばないほどに、一体となっていること、そちらが大事なのでしょう。人は生まれながらに悟っているのですから。

その体験のあとに煩悩がなくなっていれば悟り

私も悟りからはほど遠いですが。

悟ったら、煩悩がなくなる(煩悩の数が減る)そうです。

全ての煩悩がなくなったら、ブッダと同じ完全な悟りです。

つまり、煩悩(悩み苦しみの原因)がなくならなければ悟りではないと思います。

その体験のあとに煩悩が減ったのなら、悟りかもしれませんね。

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

左脳と右脳の機能的な役割を考えましたら、確かに、左脳は思考・論理を扱うところであり、右脳は、直観・直覚を扱うところであるため、左脳機能が停止したことで、余計な分別、偏見、差別を無くして、モノ・コトを判断するようになることにより、ご質問の中にあるような感覚に陥ることがあり得ると推論することができます。

仏教では、離戯論とか、無分別とかと述べられるような境地、または、瞑想や坐禅における三昧の境地とも確かに近いところにもなります。

しかし、では、右脳のみの働きによるものが、悟りであるのかと申しましたら、それは否定すべきところになります。

私たちにおきましては、脳機能とは関係なくに、存続している意識(心)と業の問題を扱うところがございます。

その心と業をどのように清らかに善く調えていくべきであるのかの教えが、仏教となります。

まあ、もしも、悟りに至るのが脳機能だけの問題で済むのであれば、皆、左脳を取り除いても生存できるような手術をすれば手っ取り早いことになりますが、それでは問題は解決しないというところであります。

あるいは、思考・論理をほとんど持たない動物は、悟っていると言えるのかといえば、それもそうは言えないというものであります。

我々が迷い苦しみに輪廻している原因とは一体何であるのか、是非、これを機縁によりご関心を高く持って頂きまして、仏教を修学していって頂けましたら有り難くに存じます。

質問者からのお礼

願誉浄史様、お返事ありがとうございます。

為になります。一つでもいいので煩悩を減らしたいです。

三宅 聖章様、お返事ありがとうございます。

ストレスについて考えれば考えるほど苦しくなります。それでも考え続けたほうがいいでしょうか?

邦元様、お返事ありがとうございます。

事実に生きる、僕にとってものすごく難しい行為です。

座禅をしてても次から次へと思考が浮かんできてそれを相手にしないようにしてもいつの間にか考えている。座禅難しいです。これを情報の嵐の日常で実践出来ることが想像できないです。

三宅 聖章様、追記のご返事ありがとうございます。

シンプルなことが一番難しいのかもしれません。

なんとかストレスの原因を紐解けるように頑張ってみます。

川口英俊様、お返事ありがとうございます。

僕の仮説を色々な仏教的な単語に当てはめて頂いて感謝いたします!早速自分なりに調べて見ようと思います。

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