芭蕉が「さびし」などを、そのまま記した句

http://akinokusa.jugem.jp/?eid=42【芭蕉が「さびし」などを、そのまま記した句例】より

 松尾芭蕉の発句の中で、「さびし」などの感情がそのまま表記されている句を集めてみました。俳句の入門書などでは、悲しい、わびしい、切ないなどの「心は言わなくてもわかるような作句を努めましょう」とするものもあり、私的には概ね賛同の立場ではあります。

 しかし、巨匠芭蕉の発句中、数は多くはありませんが、素直に心が表記された句も存在致します。研究という趣旨で集めてみました。なお、「涼し」など季語となっているものは除外致しました。

新年

元旦 元旦や思えばさびし秋の暮 元旦は田前の日こそ恋しけれ

門松 門松やおもへば一夜三十年

行く春 行く春や鳥啼魚の目は泪 行く春を近江の人と惜しみける

植 物

(初春) 梅 梅が香に昔の一字あはれなり

(中春) 荻の双葉  芭蕉植ゑてまづ憎む荻の双葉かな

(晩春) 花 日は花に暮れてさびしや翌檜(あすなろう) 山桜 うらやまし浮世の北の山桜  菫 当期よりあはれは塚の菫草 葎(むぐら)の若葉 むぐらさへ若葉はやさし破れ家

時 候 (晩夏) 暑さ 湖や暑さを惜しむ雲の峰

人 事(仲夏)鵜舟(うぶね) おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな

   (晩夏)涼む 昼顔に米搗き涼むあはれなり

動 物 (初夏) 岩躑躅染むる涙やほととぎ朱  京にても京なつかしやほととぎす  

    閑古鳥 憂き我をさびしがらせよ閑古鳥

    (晩夏)*蝉(俗字/原句は正字使用)  閑かさや岩にしみ入る蝉の声

植 物 (仲夏)早苗 早苗とる手もとや昔しのぶ摺り

    (晩夏)昼顔 昼顔に米搗き涼むあはれなり  姫瓜うつくしきその姫瓜や后ざね

秋 

時 候 (三秋)秋 寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋 憂き我をさびしがらせよ秋の寺

    秋の暮 こちら向け我もさびしき秋の暮

 (初夏)身に入(し)む 野ざらしを心に風の入む身かな 鳩の声身に入みわたる岩戸かな 

天 文 (初秋)秋風 東西あはれさひとつ秋の風 見送りの後や寂し秋の風

   秋風に折れて悲しき桑の杖  霧時雨 霧時雨富士を見ぬ日ぞ面白き

人 事 (仲秋) 稲扱(いねこき) 稲扱の姥もめでたし菊の花

 動 物(初秋)蟋蟀(きりぎり) むざんやな甲の下のきりぎりす  

   淋しさや釘にかけたるきりぎりす 

(仲秋) 鹿 びいと啼く尻声悲し夜の鹿

植 物(初秋)朝顔 蕣は下手の書くさへあはれなり 蕣(あさがお)

冬 

時 候 (晩冬)年の暮 古法眼出所あはれ年の暮   古法眼(こほうげん)

天 文 木枯 京にあきてこの木枯らしや冬住ひ

人 事 (初冬)夷講(えびすこう) 降売の雁あはれなり夷講

    口切 口切に堺の庭ぞなつかしき  

動 物 (仲冬)雁 雁一つ見付けてうれし伊良湖崎    伊良湖崎(いらござき)

     夢よりも現の鷹ぞ頼母しき    頼母(たのも)しき

植 物 (初冬)枯草 花皆枯れて哀をこぼす草の種

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno32.htm 【奥の細道】より

(小松 元禄2年7月24日~26日)小松市建聖寺の芭蕉像(森田武さん提供)

小松と云所にて* 

しをらしき名や小松吹萩薄(しおらしきなや こまつふく はぎすすき)

 此所、太田の神社*に詣。実盛*が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より 給はらせ給*とかや。げにも平士*のものにあらず。目庇*より吹返し*まで、菊から草*のほりもの金をちりばめ、 竜頭に鍬形打たり*。真盛*討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、 樋口の次郎が使せし事共*、まのあたり縁起にみえたり*。 

むざんやな甲の下のきりぎりす(むざんやな かぶとのしたの きりぎりす)

表紙 年表 俳諧書留

 7月24日。この日、日中は快晴、夜降雨。朝、金沢を出発。小春・牧童・乙州(彼はたまたま商用で金沢に来ていた)らは、街はずれまで、雲口・一泉・徳子らは野々市町まで、北枝や竹意は小松まで随行した。午後4時過ぎに小松に到着。近江屋に投宿。

 翌7月25日、小松を出発しようとしたところ、多くの人たちに引き止められて、予定変更。多田八幡を訪ねたのは本文記述のとおりである。この後、山王神社神主藤井伊豆の宅に行き、ここで句会開催。この夜は藤井宅に泊る。午後4時ごろから雨、夜になって降ったり止んだり。

 7月26日。雨。特に午前10時ごろから風雨激しくなる。夕方になって止む。夜、越前寺宗右衛門宅に招かれて句会。

しほらしき名や小松吹萩すすき

 小松市にて、この句を発句として句会を興行している。かわいい名前だ、小松とは。その浜辺の小松にいまは秋の風が吹いて萩やススキの穂波をなびかせていることだ。土地への挨拶吟。

小松市建聖寺境内の「しほらしき名や・・」の句碑(牛久市森田武さん提供)

むざんやな甲の下のきりぎりす

 芭蕉秀句中の一句。斎藤別当実盛の遺品の兜、いま秋、コオロギが一匹、兜の下で鳴いている。このコオロギは実盛の霊かもしれない。

 なお、この句も言わば決定稿で、これよりさき初案は次のようであった;

  おなじところ、多田の神社に実盛の甲がありけるをあなむざんや甲の下のきりぎりす

(真蹟懐紙)

 なお、『猿蓑巻の三』では、前詞は、「加賀の小松と云處、多田の神社の宝物として、実盛が菊から草のかぶと、同じく錦のきれ有。遠き事ながらまのあたり憐におぼえて」となっている。

 下の写真撮影の時は、本文にある「むざんやな・・・」の句碑を撮影して来ましたが、由緒ある神社の句碑にしては、最近の作りで、何となく違和感を感じておりましたので、このたび再度「あなむざんや・・」の句碑も撮影に行きました。多太神社の宮司さんは、大阪大学を卒業した方で、引き止められ、神社の由来や甲に纏わるいろいろなご説明をしていただきました。最近の学生さんは歴史や文学に興味がないのか、芭蕉の句などもさっばり理解していないと少々ご不満のようでした。そういう私も、今回始めて「さた神社」と発音するのを知りました。(文と写真提供:牛久市森田武さん)

太田神社の参道にある「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句碑(写真提供:牛久市森田武さん)

太田神社

 太田神社へ到着したのは、早朝だったので、神社の人も誰も居なかった。近所の若妻と子供が散歩していたので、「この神社の甲を見ることが出来ますか」と尋ねたら、「すぐそこに有りますよ」と応えたので、その場所へいって見たら、「甲の石碑」でした。(文と写真:牛久市森田武さん)

小松というところにて:石川県小松市。小松では、芭蕉らは一泊の予定であったものが、土地の俳諧衆に懇願されて、予定外の3泊4日の滞在となった。7月26日は雨天となり、この日三吟歌仙を巻いたらしい。

太田の神社に詣:<ただのじんじゃにもうず>と読む。小松の多太八幡宮神社 。

真盛:<さねもり>。斎藤別当実盛。はじめ、源義朝に仕えたが、平治の乱で義朝が失脚した後平宗盛につかえた。 寿永2年(1183年)、木曾義仲との倶利伽羅峠での戦いに平維盛に従って戦い、白髪を染めて奮戦したが討死にした。その後、実盛は亡霊となって出没した。ここの句の下五「キリギリス」は今言うキリギリスではなくツヅリセコオロギのこと。このコオロギこそ実盛の亡霊かもしれない。なお、 木曾義仲は、木曾の山中で幼少時にこの実盛に養育されたという因縁がある 。

義朝公より給はらせ給:<よしともこうよりたまわらせたまう>と読む。この実盛が死に花を咲かせるために着用した「錦の切」は、義朝からの下賜品ではなく実盛が宗盛に願い出て得た赤地錦の鎧直垂。芭蕉の間違い。

平士:<ひらさぶらい>と読む。下級武士のこと。

目庇:<まびさし>と読む。兜の正面の庇のようになっているつばの部分をいう。

吹返し:<ふきかえし>と読む。兜の側面にあって、つばが反り返っている部分をいう。

菊から草:菊唐草<きくからくさ>と読む。唐草模様に菊をあしらった様式的文様。

竜頭に鍬形打たり:<たつがしらにくわがたうったり>と読む。 竜頭は、竜の形をした兜の前立物で、眉庇につけた台に、金銅・銀銅・練り革などで作った二枚の板を挿して、角状に立てたものを鍬形という。

眞盛:上記実盛のこと。

樋口の次郎が使せし事共:樋口次郎兼光は、 斉藤別當実盛の旧友であり、それゆえにこのとき実盛の首実検をした。そのとき、実盛の黒く塗られた白髪頭を見て、樋口次郎が「あな、むざんやな」 と涙を落としたという。謡曲『実盛』に、「樋口参りただ一目見て、涙をはらはら流いて、謡あなむざんやな、 斎藤別当にて候ひけるぞや」とある。

まのあたり縁起に見えたり:神社の縁起状に書いてあるのをまのあたりに見たの意 。ただし、「縁起」には無く、「木曾義仲副書(本文願状)」に書いてある。

三吟歌仙

あなむざんやな甲の下のきりぎりす  翁

ちからも枯れし霜の秋草      亨子

渡し守綱よる丘の月かげに       鼓蟾

しばし住べき屋しき見立てる   翁

酒肴片手に雪の傘さして        子

ひそかにひらく大年の梅     蟾

全文翻訳

小松というところで、

しほらしき名や小松吹萩すゝき

当地、多太八幡神社に参詣した。神社には、斎藤別当実盛の兜と錦のひたたれの切れ端があった。これらは、その昔、実盛が源氏に仕えていた時分、源義朝公から拝領したものだという。このうち兜は、どう見ても下級武士の使うものではない。目庇から吹返しまで菊唐草模様に金をちりばめ、竜頭には鍬形が打ってある。実盛が討ち死にした後、木曾義仲はこの神社へ願状を添えてこれらを奉納したという。その折、樋口次郎兼光が使者となったことなども神社の縁起には書いてある。

むざんやな甲の下のきりぎりす

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