http://haikuza-seasons.la.coocan.jp/qa.html 【俳句Q&A】より
この俳句Q&Aは、2006年3月に終刊になった「月刊ヘップバーン(発行人:黛まどか)」において、2004年10月号から2006年3月号まで連載されていたものです。
Q1 季語 | Q2 切れ字 | Q3 吟行 | Q4 新年の句 | Q5 挨拶句 | Q6 当季雑詠 | Q7 俳号 | Q8 作句のヒント | Q9 歳時記 | Q10 推敲 | Q11 字余り・字足らず | Q12 旧仮名遣い | Q13 短歌との違い | Q14 鑑賞 | Q15 新季語 | Q16 写生
Q1 季語はなぜ必要か?
ただでさえ短い17音の中に、なぜ季語を入れなくてはならないのでしょうか? 有季俳句と無季俳句の違いについても教えてください。
A 季語の働きについて
俳句は、そのルーツである室町時代の連歌、江戸時代の連句の発句が独立したもので、発句には挨拶として必ず季語を入れるのが決まりでした。それが俳句を作る上での約束事として受け継がれています。俳句は17音なので、その中に季語を入れるのはとても窮屈なことのように思えますね。それでは、季語がなければ言いたいことが言えるかというと、俳句は短いので思いを述べることはできません。限られた音数の中での表現を可能にするために、季語が必要なのです。例えば、映画音楽やドラマの主題歌を聞くと、そのストーリーや一場面が鮮やかに蘇ってきませんか?また、香水の香りに、誰かを思い出したり、自分のなりたいイメージを託したりしませんか?俳句における季語は、映画などにおける音楽の効果や、記憶やイメージに働きかける香りに似ていると思います。季語は長い年月をかけて日本人が磨き上げてきた情緒豊かな言葉で、そこには本意・本情(その季語が本来持っている意味合い・情緒)といったものが凝縮されています。季語からさまざまな思いが呼び起こされるのは、季節感だけでなく、人間の喜怒哀楽も含まれているからです。日本人の共通認識である季語を使うことによって、読者に具体的なイメージを喚起させたり、様々な連想を広げたりして、思いを伝えることができるのです。季語を入れない無季俳句もありますが、17音で表現を完結しうる句を作るのは難しいものです。思いを季語に託し、物に語らせることによって、余韻や余情、空間的広がりが生まれ、言葉を尽くしても言えないようなことまで表現できるのが有季俳句の魅力です。あなたの表現したいことは何ですか?そして、そのことを最も効果的に伝えてくれる季語は何ですか?映画監督が音楽や背景を選ぶように、あなたがTPOに合わせて香水を選ぶように、季語で17音のドラマを演出してみませんか?
Q2 切れ字とは何?
「切れ字」って何ですか?また、「切れ字」の使い方について教えてください。
A 切れ字について
俳句は、室町時代の連歌・江戸時代の連句の発句が独立したものです。文章の中の一行ではなく、17音で完結する詩型ですので、短い中にも伝えたいことをはっきりさせ、断定する必要があります。「切れ字」とは、一句を切るためのもので、それによって感動を明確にしたり、省略を効かせたり、リズムや余韻を生む効果があります。代表的なものに、「や」「かな」「けり」などがありますが、切れ字は、季語と同様に、基本的に一句の中に一つとし、句の焦点が分散しないようにしましょう。以下に、使い方の例を挙げます。
木枯や菓子の館に灯のともり 黛まどか
「や」は上五・中七の最後に用いられることが多く、直前の言葉を強調し詠嘆を表します。「木枯や」で切ることによって、木枯らしの説明をしなくても(省略)、読者に木枯らしの吹いている様子を想像させます。また、場面を転換する働き(飛躍)もあり、「木枯」と「菓子の館」という、二つ全く別の素材を取り合わせて、新しい世界をつくることができるのです。
冬波の人遠ざける青さかな 黛まどか
「かな」は、体言に付けて一句の最後に用いることが多く、この場合、「青さ」を強調します。上から一気に詠み下すので、たたみかけるようなリズムが生まれます。
桐一葉日当りながら落ちけり 高浜虚子
「けり」は、過去や完了したことを、詠嘆をこめて「・・・たなぁ」「・・・ことよ」と表します。言い切った後に、何ともいえない余韻が残ります。 切れ字を用いたこれらの句は、俳句の基本の形となります。まずは、どんどん使ってみましょう。そして、いろいろな方の句を、何度も声に出して読んでみましょう。切れ字の生み出すリズムや、余韻や、言葉のひびきが分かっていただけると思います。
Q3 吟行で句が詠めるか心配
吟行に参加しようと思うのですが、その場で句が詠めるか心配です。どんなことに気をつけたらいいでしょうか?
A 吟行での句作について
俳句仲間とある土地を訪れ、そこで歩き見た景色を俳句に詠むことを、「吟行」といいます。もちろん、歳時記・句帳・ペンは必需品ですが、吟行にはNGとされる、3つの「か」があります。一つ目は「カー(CAR)」。車のスピードでは、景色は飛ぶように過ぎてしまい、物をよく見ることが出来ません。次に「カメラ」。美しい風景に出会うと、シャッターを押したくなりますが、見たつもりになって、自分の発見が出来なくなってしまいます。最後に、「家族」は連れて行かないこと。俳句を詠む方ならいいのですが、そうでない場合、俳句と関係ない話や行動をしてしまい、句作に集中できなくなるからです。 さて、初めての吟行で、句が詠めるか心配ということですが、まずは、俳句の材料になりそうな情報を、出来るだけ仕入れておくことです。予め下見をして、その土地の歴史や特色などをつかんでおくのもいいでしょう。出会った季語や風景、ふと浮かんだ言葉の断片は句帳に書きとめておき、投句の締め切りが近づいたら、メモした事柄や自分の過去の体験などを駆使して作句します。名所旧跡を訪れると、つい地名を入れたくなりますが、必然性がなければ、観光ポスターのキャッチフレーズのような句になってしまいます。まどか代表がおっしゃるように、「その土地を詠むのではなく、その土地で(感じたことを)詠むこと」が大切です。大きなことを詠もうとせずに、足元に咲いていた花など、小さなものに目を留めてみると、自分らしい一句が詠めると思います。吟行は、一句の生まれるプロセスをとらえるチャンスです。他の仲間は、同じ景色を見て、どこを切り取り、何に焦点を当てて、どのように表現しているか。その日に思うような句ができなくても大丈夫です。後日、ぴったりな言葉が見つかって、会心の一句が生まれるかもしれません。その時まで、あなたの吟行の旅は続いているのです。
Q4 新年の句を読むのが難しい
年賀状に新年の一句を書きたいと思うのですが、新年の季語を使うのが難しく、なかなか思うような句が詠めません。どうすればいいでしょうか?
A 自分らしい新年の句を詠むには
新年詠が難しいとされるのは、新年特有の季語と、思い入れの強さにあると思われます。
まず、季語についてですが、新年の季語には、「おめでたい」という本義があります。それで、縁起が悪いとされる言葉を、別の表現に変えた「忌み言葉」があります。例えば、鼠のことを「嫁が君」、病臥を連想させる「寝る」を、同じ音の稲に掛け、縁語の積むを用いて、「寝積(いねつ)む」、涙を思わせる雨を「御降(おさがり)」と言います。生活の欧米化や核家族化等で、お正月の風景も昔と変わり、おせち料理を手作りする家庭や、双六・追羽子・独楽などの遊びもあまり見られなくなりましたが、初詣に出かけたり、ふるさとでお正月を迎える等、新年の季語に積極的に触れましょう。自分の子供の頃を思い出して作るのも、楽しい句ができそうですね。
また、今年こそいい年にしたいという思いから、大きなことを詠もうとしがちですが、俳句は17音なので、小さなことに目を留め、季語や物に託してゆったり詠んだ方が、広がりのある大きな句になります。
初御空いくつ映して潦 黛まどか
お正月といっても詠み方の切り口は様々です。
元日や手を洗ひをる夕ごころ 芥川龍之介
元日を白く寒しと昼寝たり 西東三鬼
元日の昼過ぎにうらさびしけれ 細見綾子
同じ元日を詠んだ句ですが、本義である晴れの気分だけでなく、龍之介のように、さりげない動作の中に元日を捉えたり、三鬼や綾子のように白々とした寒さやさびしさなど、華やかさとは違った正月の一面を詠んだ句もあります。新年の季語に親しみ、現代に生きる私たちの感慨を、日常の中に捉えることが、自分らしい一句につながると思います。
東京がじつとしてゐる初景色 黛まどか
Q5 挨拶句が苦手
挨拶句が苦手です。お礼やお見舞いの句などを作るとき、どんなことに気をつけたらいいでしょうか?
A 挨拶句について
俳句は挨拶といいますが、例えば、「春来る」「初桜」などと詠むことは、「また春が巡ってきてくれた。」「今年もよく咲いてくれました。」という季節への挨拶であり、旅先で一句詠めば、それは土地への挨拶になります。俳句には、自然への挨拶の他に、人への挨拶があります。お礼・お祝い・餞別・追悼などの思いを句にして贈りたいという気持ちは、詠み人として自然なことであり、とても大切なことです。
挨拶句とは、その人に最もふさわしい季語を贈るということだと思います。季語を贈る、ということは、花を贈ることに似ています。例えば、結婚する友人にお祝いの花を贈るとき、どんな風に選びますか?人柄・好み・生き方など贈りたい人のイメージや、幸せになってほしいという贈り手の気持ちを、花の種類・色・香りなどに託しますよね。花嫁の色である白い花の代表格の百合や薔薇、幸福という花言葉を持つ鈴蘭、都会的ですらりとした友人なら、その雰囲気をカラーの花などに見立てることもできます。お見舞いの花でしたら、タブーとされる、香りのきつい花や、椿のように花ごとぽとりと落ちるものを避けたりしますね。その人を思って選んだ季語に、詠み手の思いがにじみ出るのです。お祝いであれば、明るく華やかな印象の季語になるでしょうし、お見舞いならば、相手の心が慰められるような、優しい雰囲気の季語が選ばれるでしょう。追悼句は、その人の生前の人柄や生き様、趣味や職業など活躍した分野、ご冥福を祈る気持ちなどから、ふさわしい季語を見出すことができると思います。こうして季語を見出すことによって、あなたが相手に伝えたい気持ちが明確になり、表現する言葉も選ばれてゆくでしょう。花束を贈るように、あるいは、花を捧げるように、伝えたい思いを素直に詠めば、きっとあなたらしい、心のこもった一句が詠めると思います。
Q6 当季雑詠の当季とは?
投句用紙に当季雑詠とありますが、掲載されるのは数ヶ月先となると、いつの季節で詠んだらいいのでしょうか?
A 当季雑詠の当季の捉え方
毎月の投句を終えてから、次の投句までの一ヶ月を当季と考えればいいでしょう。今でしたら、前回投句した3月15日頃から次の締め切りの4月15日頃を当季としますので季節は春ですね。春の季語でも、早春・仲春・晩春を表すものと三春にわたるものがありますので、歳時記で確認しましょう。また、兼題の新季語のように、掲載月を意識して詠むことも大切です。特に句会では、季節をやや先取りするくらいの方が、場の雰囲気を盛り立てます。同じ月でも北海道と沖縄では気温も風景も異なり、季節の捉え方も違ってきますが、その土地ならではの季節感も作者の個性となりますし、多くの季語からどの季語を選ぶかにもその人の力量が表れます。歳時記の季節感を基本としつつ、新しい季節にも目を向けながら、あなたらしい当季の句を詠んで下さい。
Q7 俳号をつけたい
俳号をつけたいのですが、みなさんどのように決めているのでしょうか?
A 俳号のつけ方
俳句は本名のままでも十分楽しめますが、俳号を名乗ることによって、創作という非日常の舞台に立つ自分を演出できますね。俳号のつけ方としては、本名を別の漢字に変えたり、自分にゆかりのある地名や興味のある分野にちなんだり、自分の夢や理想を掲げるのも良いでしょう。松尾芭蕉は庵に植えられた芭蕉の木からつけていますし、高浜虚子は本名の「清(きよし)」をもじっています。また、各界の著名人では、浅井愼平さんは「風太」、小沢昭一さんは「変哲」、岸田今日子さんは「眠女」、高橋洋子さんは「金魚」など、それぞれ個性的で味わい深いですね。このように、俳号のつけ方には特に決まりはありませんが、飽きたからといってむやみに変えるものではありません。名前と作品は一体です。ずっとつきあっていけるような素敵な俳号で、大いに俳句を楽しみましょう。
Q8 俳句ができなくなってしまった
最近、ぱったりと俳句ができなくなってしまいました。やっと一句できたと思っても、陳腐な句になってしまい、新たに作ろうとしても、いい言葉が浮かびません。
A 言葉の貯金と視野を広げること
俳句を始めて間もない頃は、目にするものすべてが新鮮に見え、次々に句が生まれてきたのに、ある時から、思うように俳句が作れなくなった、ということは誰でも経験があることだと思います。俳句を勉強すればするほど、言葉の選び方に慎重になり、より的確な表現を探そうとするので、言葉を見つけるのが難しくなったのでしょう。もしくは、俳句のモチーフがマンネリ化し、新鮮な感動を得られなくなっているのかもしれません。
まずは、言葉の貯金をしましょう。歳時記を開いて、まだ使ったことの無い季語に挑戦したり、知っている季語の別の言い方を調べたり、好きな俳人の句集を読むのもいいでしょう。その一方で、俳句以外の物に目を向けてみましょう。あなたの興味の持てるもの、例えば、音楽・絵画・写真・料理・スポーツなど、何でもよいのです。俳句以外のジャンルに触れて感性を刺激し、新たなインスピレーションを得るのです。芭蕉が「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通するものは一なり」と言っているように、あらゆる芸術は根底でつながっているのです。月刊ヘップバーンでも、活動の一環として、さまざまなジャンルとの交流をしていますが、茶道・香道とのコラボレーションという試みは、記憶に新しいでしょう。アロマテラピーやフラワーアレンジメントなら、気軽に楽しめますし、映画を観るのもいいですね。ファッション雑誌のメイクや装いからも、季節感や時代の価値観などを感じ取ることができます。 俳句が詠めなくなったということをマイナスに捉えることはありません。あなたの俳句がさらにレベルアップしようとしているサインなのです。いい俳句を作るための充電期間と考えて、いろいろな物を見たり聞いたりして、視野を広げましょう。作句のきっかけと同時に、新しい俳句の世界が生まれるかもしれません。
Q9 歳時記を買いたい
歳時記を買いたいのですが、お勧めの歳時記があれば教えてください。
A 吟行での句作について
歳時記は季語を分類して解説したものですが、基本的には、春・夏・秋・冬・新年、と各季節ごとに分冊になったものと、一冊にまとめた合本があります。初心者の方は、季節の変わり目など、季語がいつの季節に属するのか分からない場合があるので、合本の方がいいでしょう。分冊には、「今日からは夏の歳時記」と、歳時記を替える楽しみがありますね。
句会や吟行には、携帯用が便利です。「入門歳時記 ハンディ版」(角川書店)や、「ホトトギス新歳時記」(三省堂)などがあり、後者は季節ごとではなく月別に分類されています。文庫本にも、「俳句歳時記」(角川文庫)、「新歳時記」(河出文庫)などがあります。他にも、「日本大歳時記」(講談社)のように大型で、写真の入ったカラー版のものや、活字が大きく、季語以外の一般語も載っている「大きい活字の角川季語・用字必携」(角川書店)、二色刷りで、有名無名を問わず幅広い作者層から例句を抽出した、「実作・俳句歳時記」(文芸出版社)もあります。解説の仕方も、「季寄せ」といって、季語と解説を簡潔にまとめたものや、「合本 現代俳句歳時記」(角川春樹事務所)のように、歴史や古典などを引用しながら、読み物のように叙述しているものもあります。同じ季語が、どのように説明されているか、どんな例句が挙げられているかなど、読み比べてみるといいでしょう。
また、何年も使っている歳時記に新鮮味が感じられなくなったという人は、俳句歳時記の他に、写真集や随筆などにも目を向けてみましょう。オールカラーの歳時記風天気図鑑、「空の名前」(角川出版)。美しい雨の写真とエッセイ、「雨の名前」(小学館)。季節感を写真と文章で綴った、「空の歳時記」(京都書院)。季語を生活に即して紹介し、名句・名歌や手紙の挨拶文を収録した「四季のことばポケット辞典」(PHP文庫)等。歳時記のスタイルも様々ですが、あなたにぴったりな歳時記を探して、豊かな季語感覚を身につけて下さい。
Q10 句を推敲したい
「手袋やきみのぬくもり感じつつ」の句を練り直してみたいのですが、なかなか思うようになりません。(名古屋 K・I)
A 推敲のポイント
俳句の基本は、まずは575のリズムと季語。字余り・字足らずはないか、季語を二つ以上入れていないかを確認したら、次のポイントをチェックしてみましょう。
(1) 内容はドッキリ!平凡な発想に終わっていませんか?もっとぴったりくる季語はあり ませんか?自分の発見を心がけましょう。
まへがきもあとがきもなし曼珠沙華 黛まどか
(2) 意味はハッキリ!あれこれと内容を盛り込みすぎていませんか?焦点はひとつにしぼ りましょう。
金剛の露ひとつぶや石の上 川端茅舎
(3) 形はスッキリ!不要な動詞・形容詞、余分な言葉は省略し、難しい言葉は易しい言葉に しましょう。
神田川祭の中をながれけり 久保田万太郎
そのほか、次の句のような表記による効果も、俳句表現の大切な要素です。
たまねぎのたましひいろにむかれけり 上田五千石
ツクツクボーシツクツクボーシバカリナリ 正岡子規
さて、ご質問の句ですが、内容はよく分かりますし、形もすっきりとしているのですが、切れ字が生かしきれていないように思います。「や」は、句を大きく切って、その後に全く別のものを持ってくることで、詩的効果を生みます。「や」をジャンプ台にして、連想をもっと遠くへ飛ばすといいですね。季語「手袋」自体があたたかさを連想させますので、「ぬくもり」を持ってくるなら、「の」で続けたほうがいいと思います。「手袋の君のぬくもり拒みけり」など、手袋のイメージを裏切るような表現をしてみてはどうでしょう?原句の意図に近づけるなら、「感じつつ」と言わずに、「渡されし革手袋のぬくみかな」など、物に託すと余韻が生まれます。季語の力、切れ字の力、言葉の語感やイメージを駆使しながら、一句をドラマチックに飛躍・発展させてみてください。
Q11 字余り・字足らずの句はよくないのか?
字余り・字足らずの句はあまりよくないと考えたほうが良いのでしょうか?
A 字余り・字足らずの許されるとき
五七五の定型を崩すとリズムが悪くなるので、字余り・字足らずは避けるべきとされていますが、どうしても定型に収まらない場合もあるでしょう。その場合、17音プラスマイナス3音くらいは許容範囲とされています。上五の字余りは、それほど気にならないと言われますが、中七・下五の字余りは、間延びしたり、重たい印象を与えますので、避けたほうがいいでしょう。字足らずの句は、あまり成功した例がないようです。
次に、字余りの許される場合を挙げます。
誰がいけない赤い向日葵咲くといふ 黛まどか
上五を七音にすることで、作者の主張が強調され、読者にインパクトを与えます。
われ病めり今宵一匹の蜘蛛も宥さず 野澤節子
中七以下の字余りには、十代から長い闘病生活を送った節子の痛切な心情が表現されています。 このほか、五七五にすると日本語として正しい言葉でなくなる場合。例えば、「飛行機雲」を「飛機雲」とするのは省略しすぎですし、「宇宙」をルビで「そら」と読ませるなど、無理な表現は避けましょう。
俳句は散文ではなく韻文ですので、字余りでも、リズムを整えることが大切です。
花ひとひらふたひら君を忘れない 黛まどか
上五が六音ですが、「はな・ひと・ひら」が心地よいリズムを生み、次の「ふたひら」に自然につながり、字余りということを感じさせません。
五七五の定型は、表現を束縛するものではなく、音楽のようなものです。表現した言葉がリズムとぴったり一致したとき、俳句は美しい調べとなって、作者の感動を読者に伝えるのです。リズムを大切に、楽しく、美しく、俳句を詠みましょう。
Q12 旧仮名遣いがよく分からない
「旅終へてよりB面の夏休(黛まどか)」は、「終へて」と書くのに、「春の川いくつも越えて友嫁けり(同)」は、なぜ「越えて」と「え」になるのでしょうか?
A 旧仮名遣いの表記について
語の中と終わりにある「わいうえお」は、旧仮名遣いでは原則として、「はひふへほ」と書きます。よって、「終わる」「終える」は、「終はる」「終へる」となります。
それでは、「越えて」も「越へて」となるように思いますが、「越える」の文語の終止形は「越ゆ」で、「越え(ず)、越え(たり)、越ゆ、越ゆる(時)、越ゆれ(ども)、越え(よ)」と活用するヤ行下二段活用の動詞です。よって、「越えて」となります。
「え」と書く動詞には、他に「消える」「冷える」「燃える」などがあります。
大文字消えて戻りし星の位置 黛まどか
遠花火をんなの手足いつも冷え 同
迷ったときは、文語の終止形を辞書で調べるようにしましょう。作品を通して覚えるのも良い方法です。
次に、よく使う言葉や間違えやすい表記の例を挙げます。
(1)「じ」→「ぢ」 「味(あぢ)」、「齧(かぢ)る」、「捩(ねぢ)る」など
(2)「ず」→「づ」 「水(みづ)」、「崩(くづ)れる」、「一(ひと)つづつ」など
(3)「い」→「ゐ」 「藍(あゐ)」、「紅(くれなゐ)」、「紫陽花(あぢさゐ)」など
(4)「え」→「ゑ」 「絵(ゑ)」、「声(こゑ)」、「植(う)ゑる」など
(5)「お」→「を」 「男(をとこ)」「女(をんな)」「踊(をどり)」「青(あを)」など
また、「匂い・匂う」は「にほひ・にほふ」。「香り」は、「香」が「居る(をる)」という語源から、「かほり」ではなく「かをり」。
旧仮名遣いは現代仮名遣いよりも、趣や味わいが深く感じられます。難しいと敬遠せず、親しみながら覚えていきましょう。
Q13 俳句と短歌の違いは何か
俳句と短歌は、音数と季語の有無以外に違いはあるのでしょうか?
A「切れ」と「客観性」
俳句(575)と短歌(57577)は、同じ5音7音の組み合わさった短詩ですが、性質は全く異なるものです。短歌は77がある分、自分の心情を述べることができますが、俳句は短いので、言葉を省略し、季語に託すことで、思いを表現します。音数と季語の有無のほか、俳句と短歌の大きな違いは、「切れ」です。
霜柱俳句は切字響きけり 石田波郷
この句は、まず「霜柱」で大きく切れます。一句を切ることによって、言葉を省略し、場面を転換・飛躍する作用があります。この「切れ」によって、「霜柱」と「切字」という、直接関係のない言葉がぶつかり合い、A×B=Cという別の世界を表現することができるのです。また、「けり」という切字を用いてきっぱりと言い切ることで、一句が完結し、読後に余韻・余情を生むのです。短歌にも意味上の句切れはありますが、俳句は17音でより多くのことを表現するために、「切れ」の意識が強く働くのです。
また、俳句には「客観性」が大切です。
まっさきに気がついている
君からの手紙
いちばん最後にあける 俵 万智
待ちし一枚その中にあり年賀状 黛まどか
どちらも手紙が届いた時の心情を詠っていますが、短歌では「主観」的に表現するのに対し、俳句ではあれこれ説明せず、「客観」的に一枚の年賀状を示すだけで、作者の感動や送り主が誰かということまで表現しています。
短歌には77があるよろしさがあり、俳句は575のみで表現する魅力があります。俳句ならではの簡潔な表現で、17音の余白に感動を響かせるように詠みましょう。
Q14 俳句の鑑賞の仕方が分かりません
ヘップバーンパイロット版(Vol.85.5)の「凩の身に一本の背骨かな(菅野奈都子)」の句がどうしても分かりません。鑑賞の仕方を教えてください。
A 575の余白を読み解く
俳句を鑑賞するには、まず季語を知ることが大切です。季語には、作者の表現したいモチーフや情景だけでなく、作者自身の思いも含まれているからです。季語は、日本人の美意識や価値観が凝縮された言葉で、一語に何百何千語もの言葉が内包されています。季語の本意・本情を理解すると、様々なイメージや連想が広がっていき、そこに書かれていない部分にまで想像力を働かせることが出来ます。「作者はなぜこの季語を選んだのか」「そこには何が託されているのか」という視点で作品に向き合うと、季語が様々なことを語ってくれます。
さて、掲句ですが、凩と背骨の取り合わせが唐突に感じられたのかもしれませんね。この句は、凩の冷たさに思わず身をすくめたとき、ふと自分の身を貫く背骨の存在に気づいたということを詠んだものですが、人間の体には一本の背骨が通っている、という当たり前のことに、私自身がとても勇気付けられる思いがしたのです。それは、春風でも、薫風でも、秋風でもなく、冬の凩の中だったからに他なりません。凩を風景としてだけでなく、人生における苦難に連想を広げたとき、この句の意図が分かっていただけると思います。
俳句は575で表現する詩ですが、言葉を省略し、思いを季語に託すという作句の過程の中で、俳句は表現したい核の部分を直接言わない文学、ということに気づくと思います。俳句は575よりも、そこに書かなかった余白の部分にこそ、作者の本意があるのです。つまり、俳句の鑑賞とは、「季語というキーワードをたよりに、575の余白を読み解くこと」と言えるでしょう。俳句を鑑賞する力をつけるには、句会に出席して、人の批評を聞くことが一番です。一人で作品を理解しようとすると難しいですが、仲間と一緒なら、様々な鑑賞の仕方が分かりますし、作品を声に出して読むことで、音楽的な味わいも生まれます。また、本誌のまどか代表の選評からも大いに学ぶことが出来ます。自分なりの方法で鑑賞のポイントをつかんで下さい。
Q15 新季語が難しい
マンスリー兼題の新季語を作品に詠み込むのが難しいです。7音以上の長い季語や、自分には馴染みのない季語の場合は、どうしたらいいでしょう。
A 季語を体験し接点を探す
ヘップバーン新歳時記には、現代の暮らしの中に新しく登場し、浸透してきた風物詩が提案されています。新季語は例句も少なく、どのように詠んだらいいのか、初心者でなくとも苦しむところです。しかし、歳時記に載っている言葉も初めから季語だったわけではありません。先人が作品に詠み、多くの人の共感を得て、季語として定着していったのです。ヘップバーンの新季語には、現代の生活様式を反映して、カタカナやアルファベットも出てきますが、「ニューイヤー駅伝」のように音数の長い季語は、上五に置いてみましょう。上五の字余りは、中七下五と読み進むに連れて解消されていくので、その後に五・五、または、七・五と続けていくと、リズムが整えやすくなります。
まずは、季語を自分で見たり聞いたり体験してみることが大切です。「ボージョレ」、「ポトフ」など飲食に関するものや、「新色」、「保湿」、「ブーツ」といったメイクや装いに関するものなら、比較的簡単に試すことができますし、「クリオネ」、「ホエールウォッチング」など、実際に目にすることが難しいものも、インターネット・書物・新聞・テレビなどから情報を得ることが出来ます。季語と向き合いながら、過去の似たような経験など、自分とその季語との接点を見つけることで、イメージも湧きやすくなるでしょう。また、季語には本意(新年の季語なら「おめでたい」など)というものがありますが、新季語は季節感をまといつつも、本意はまだ定着していないので、消化するのが難しいのかもしれませんね。その季語が本領を発揮するのはどんな場面なのか、様々な角度から詠んでみましょう。多くの作品に詠まれることで、その季語に情緒や風情が備わってくることでしょう。
新季語の提案は、ヘップバーンが創刊当時から続けている試みですが、季語は作品に詠んでこそ生きるものですから、大いに挑戦していきましょう。あなたの一句によって、歳時記に新しい季語が加わるかもしれません。
Q16 俳句の写生とは
「写生」という言葉をよく聞きます。見たままを句にしてみるのですが当たり前と言われ、自分の感動を詠もうとすると説明的だと言われます。俳句の「写生」とはどういうものなのでしょうか?
A 美しさの奥を見つめる
俳句の「写生」とは、正岡子規が洋画からヒントを得た作句法で、目の前にあるものを、そのまま言葉で写し取ることですが、ひとくちにこう言ってもなかなか難しいものです。毎年、春になると桜が咲きますが、まどか代表はある句会でこのようにおっしゃっています。「花を待つところから始まって、初花、五分咲き、満開の桜、花吹雪、と移り変わる過程の中で、美しさの奥にあるものを見て下さい。報告・情報としての桜ではなく、詩としての桜。桜もきっと詠まれる側としての桜を見せてくれるでしょう。」この言葉はまさに「写生のこころ」だと思います。花を見る以前の、花を待つときからすでに、俳句の写生は始まっているのです。まず、当たり前と言われた句は、誰もが思いつく発想や表現にとどまっていませんか?よく見たつもりでも、桜は美しいといった固定観念にとらわれ過ぎているのかもしれません。そうした主観を排し、無垢な赤ん坊になったつもりで対象に向き合うことによって、新しい発見や新鮮な表現が生まれるのです。また、説明的だと言われた句は、思いが先走り過ぎたり、すでに季語に含まれている内容を言おうとしていませんか?感動を述べるのではなく、感動をもたらした「物」を具体的に示してみましょう。見たままを詠むと言いますが、真の写生とは、そこにおのずと作者の心が表れるものです。例えば、満開の桜を心待ちにしていたのに、今年はなぜか名残の花に魅かれる、などといったことはありませんか?去年の桜と今年の桜は明らかに違うのです。そうした「何か」が見えてくるまで対象を凝視し、俳句のリズムに載せてきっぱりと言い切ったとき、作者の生き方や物事の本質、といったものが一句の余白に表れるに違いありません。美しさの奥にあるものを、ぜひあなたの目で見極めて下さい。
花月夜いのちあるもの揺れやまず 黛まどか
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