https://aboshiyori.blog.jp/2016/03/8-fec4/【「あさが来た」(8)武士道とキリスト教】より
春風や 烟管(きせる)くはへて 船頭殿 芭蕉
この句を選んだ理由は、私がイメージする芭蕉とは程遠かかったから、一茶の句だと思ったら、芭蕉の句だったのに驚いたからです。芭蕉と言えば「古池や・・・」「閑さや・・・」の句に代表される「閑寂(かんじゃく)の境地」宗教的、哲学的、神秘的境地を詠んだ俳人を思い浮かべるので、意外だった。考えてみると、彼はかつて滑稽、諧謔(かいぎゃく)、機智(ユーモア?)、ことば遊びを主とする連歌の世界の人だった。連歌の巨匠のひとり山崎宗鑑が「苦々しくもをかしかりけり」の発句(ほっく)に「我が親の死ぬるときにも屁をこきて」と付けている、品格を問われるきわどさがあるが、連歌とはそんなもの。連歌と決別して「俳諧」を独立させ、「蕉風」として深化させた芭蕉ではあるが、沁みついた連歌の「軽み」を生涯愛していたようにも思える、その一つが冒頭の句であり、芭蕉の人間味(ユーモア)を感じさせる、一茶はそのような芭蕉に魅かれ、救われたのだろう。
明治初期、伝道の自由を許されたプロテスタントの「教え」は、武士社会の崩壊によって、生きるための思想的根拠(武士道)を失った一部の旧武士たちに「新しい価値観、倫理」を与えた。殆どの人が、人間として生きるための希望(目標や価値観)を持っている、そうでなければ「空しい人生」になる。「手から口へ(live from hand to mouth)」のその日暮しに追われていると見える人も、希望があるから生きている、生きられる。
武士道 徳川幕府は政権を安定化、持続するために都合の良い価値観をつくり、それを武士たちが基本倫理として学び、実践するようにした、「武士道」の成立である。「武士道」について簡単に述べることは不可能である。卒業論文を「武士道」」の基本理念である「朱子学」にして1年間取り組んだので、少しばかりは学んだ。この理念を一言すれば(乱暴すぎる!)「自然界、人間界は厳然とした秩序(上下関係)によって成立している①秩序とは何かを学び②秩序を知り③実践する時、自然も人間社会も安定し、理想社会が実現する。逆に秩序に無知であったり、意識的に逆らうと、自然界と人間界は混乱し、破滅する。徳川政権に当てはめれば将軍が秩序のトップに居て、諸侯、家長等の諸秩序がそれに次ぎ、これらに従う時社会は安泰・平和、個人は平安・和合を享受できると言うこと。秩序を学ぶとは、上下関係を理解して従うことである。宇宙の秩序の根源にあるのは「理」であり、それが発する現象(活動体、状態)を「気」と言い、万物は「理気二元」によって、支配、拘束されているとする。「武士道」を支えるのは「朱子学」の根本理念「理気二元論」であると言われる所以である。
朱子学(理気二元論) は中国宋代の朱熹(朱子1130~1200)によって集大成された儒学理解であり、孟子の「性善説」を基盤にした人間論と政治論である、深遠ではあるが、観念的でもあるので、同調、批判する多くの儒学者を輩出した。江戸時代の政権はこれを官学とし受け入れ、他を異学(異端)としたので反発する学者も出て、論争が幕末まで続いた。幕府擁護の「朱子学」が秩序を重んじたため幕末「天皇制国家」樹立にも根拠を与えてしまった、即ち「日本で秩序の最高位に就くべき為政者は将軍ではなく、天皇である」。徳川慶喜が「大政奉還」せざるを得なかったのは「朱子学」の論理に背いていたからである。自己矛盾の結末とも言える。
「朱子学」とキリスト教 「朱子学」の論理読みながら、クリスチャンはキリスト教信仰との相似性に気付かれたと思います。「『理』が根源的なもの」は万物の根源者を神とするキリスト教信仰に似ています、根本的に違うのは「理」は概念であり、「神」は創造主、人格的存在であること。朱子学は万物の秩序厳守を絶対化するが、キリスト教は神と被造物の秩序の絶対化はしても、被造物相互、特に人間とその社会に在る秩序は相対化します。明治の新体制下、全ての特権を奪われた武士たちは、宣教師たちが説く「キリスト教」と聖書の言葉が新しい「武士道」として彼らの心を捉え、生きる自信を与えた(救った)のは確実です。新渡戸稲造が、信仰の喜びを「武士道」に著しています。彼が「武士道」を手放しで肯定してないこと、読めば分ります。彼が言いたかったのは「武士道は旧約聖書」、「キリスト教は新旧約聖書」であるということを世界中のクリスチャンに知らせるとともに、日本にも優れた思想、哲学があったことを伝えたかった。結論的にはキリスト教の普遍性と優越性を述べることだった。だから英語版にしたと思います。
現在の日本人の中に、今なお「理気二元論」に基づく倫理(善悪の基本原理)と道徳(基本原理に基づく、実際的善悪観)が根強く残っていて、影響も与えている。例えば、「理」と「気」の2語が日常生活で多用されていることからも言える。理屈、論理、真理、原理、理科、論説、議論、料理等々、興味のある方は調べてください。「理」の現象や状態を表す「気」は評価語を付して多様に多用されています(笑と思いますが?)。天の状態を「天気」、身体を司る「気」は「元気」、元気が良い、悪いで評価します。「呑気」「短気」「気長」「陽気」「陰気」ズバリ評価しています。徳川300年の支配原理「朱子学の思想」は武士だけでなく庶民の生活の中にも深く浸透していた、未だに江戸時代の封建倫理、道徳を清算してない人たちがいます、民族、人種、男女、部落差別等々の「差別主義者」たちです、頭にチョンマゲを残している人たちです、自分では気づいてないので、哀れで滑稽です。
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