善悪を美醜で判断する日本人 ①

https://utsukushii-nihon.themedia.jp/pages/715175/page_201611041511 【善悪を美醜で判断する日本人】より

 日本で長く暮らす外国人、あるいは日本で暮らしたことのある外国人の多くが、日本人は「何が良いことか」、「何が悪いことか」を、「それが美しいかどうか」で判断するといって、日本人のユニークさを指摘している。

 明治時代に来日し、以後四十年にわたって日本と日本人を観察して、名著『日本文化史』を遺したイギリス人ジョージ・サンソムは、日本の道徳(モラル)の基準は、「何々すべし、すべからず」といった論理的命題ではなく、ただまことに鋭い「美醜の感覚」によって維持されてきたと言う。そして、この点に日本の「大いなるユニークさ」と「存立の源」があることを論じている(文献1、p.60)。

 また、韓国で生まれ育ち、留学生として来日してついに日本に帰化した呉善花は、次のように述べている。

 「---それでは、日本では何が善悪の基準になっているのだろうか。私はそれを美意識だといっている。日本人の行動基準は、何が善で何が悪かという道徳律に発するものではない。日本人の行動を律しているのは、何が美しいか、何をするのが醜いかであり、総じて“どう生きる(死ぬ)のが美しいか”という美意識である。これによって姿勢・態度の“かっこよさ”から生活の倫理までが形づくられている――それが日本人である。こうした倫理のあり方は私の知る限りでは、日本人以外には見られないものである。」(文献2、p.95)

 著者の知る限り、英米人の道徳感情の根底に「fairかunfairか」が横たわっている。「fair」は「公正な」という意味であるが、同時に「美しい」という意味もある。また「汚い」を意味する「dirty」には、「dirty trick」といった用法にみられるように、「不公正」、「不正直」といった意味もあるので、英米人の善悪の判断のなかに美醜の感覚がないとは思わない。 

 しかし、英米人および広く欧米人にあっては、善悪の基準は基本的に宗教に依存する。そしてキリスト教倫理は人間の美醜の感覚に依存しているわけではない。日本では道徳が鋭い美醜の感覚によって維持されていることがユニークである、とイギリス人サンソムが言っているのをみると、イギリス人は美醜を道徳の基準にすることは無いか、あっても日本人のように全面的に美醜で判断することはない、いうことであろう。

 中国では伝統的に天の意向に合致する人間の行為が善である。天の意向を聴く能力をもつ聖人の教えとされる儒教では、善の内容として「仁義礼智信」を挙げる。ここに「美」は挙げられていない。また、イスラム世界においては、善悪の基準は全面的に神の啓示であるコーランとその解釈に依存する。多神崇拝、啓示の否定、姦淫、吝嗇、不正な軽量、孤児に辛くあたること、などが悪い行為とされるが、特に美醜を善悪の判断基準とすることはないようである。

 外国人に指摘されると改めてそうだと思われるが、確かに日本人の善悪の判断に、それが「美しいことか、汚いことか」という感覚が横たわっている。日本人は「汚いことをするな」と子供に教える。この教えには「悪いことをするな」というより、もっと感覚的な「悪に対する嫌悪感」が感じられる。子供に悪とは何であるかを身体でわからせるようなところがある。「汚い男とか薄汚い男」とかいう評価は、ほとんどの場合、身体や衣服が汚いということではなく、男の精神が汚いことを意味する。単なる「悪い男」のイメージを超え、男の人間性に対する強い嫌悪が感じられる。汚い人間とか薄汚い人間とか言われることは日本人の最も嫌うところである。

 逆に、日本人は心の美しさに大きな価値をおき、美しく生きることを良しとする。何が良いことなのか、何をするのが良いか、何が正しいことで何が間違っていることなのか、といった善悪や正邪の判断の底に横たわっているのは、この美の感情である。この日本人の美の感覚は非常に鋭い。自分は正しいという論理を尽くした説明(言い訳など)の中に美しさが感じられない場合、日本人はその説明に信をおかない。また法や道徳を守っていても行為に美しくないものがあると感じた場合、それは日本人の是とするところにならない。

 日本人は伝統的に行為が美しいこと、心が美しいこと、美しく生きること、および美しく死ぬことが最も大事なことと考えてきた。この美意識は日本人の生き方の根本の感情を形成し、自覚するとせざるにかかわらず、しばしば道徳的判断のベースとなっている。美の感覚はすべての民族に等しく備わっているが、日本人の場合、精神的価値と生活の規範に占める美意識のウェイトが極めて高く、また鋭く、外国人が観察するように、これが善悪の判断の事実上の基準にまでなっていることがユニークなのである。

清らか

 「清らかである」ことは、日本人が最も大切にする美意識ではなかろうか。清らか、清い、清浄、清潔、よごれがない、汚くない、澄んでいる、すがすがしい、さっぱりしている、さわやか、といった言葉はそれぞれ意味が少しずつ異なるが、共通して「清い」意を含み、すべて自然や環境に対して用いられるだけでなく、人格を形容する言葉として、また善悪、良否を判断する言葉としても使われる。

 日本人にとって清らかであることは、美しいこと、良いこと、価値あることであって、清くないこと、よごれていること、汚いことは、美しくなく、悪く、嫌悪すべきことなのである。人柄が清らかなこと、清潔であることは日本では非常に望ましい人間性である。よごれたやつというのは、多くの場合悪事をする人間のことである。手をよごすという表現も、悪事を行うことを意味する場合が多い。親父の顔に泥を塗るという表現もある。父親の名誉と人格を貶めることである。政治家は身ぎれいでなければ信頼されない。

 日本人の美意識、美しいか美しくないかの感覚は非常に広範囲にわたり、外国人が指摘するように善悪の判断基準にまで及んでいるが、特に清浄の美はその傾向が著しい。清らかであるかどうかの美意識は、日本人の倫理規範の重要部分を事実上構成している。

 人として清さを尊ぶことは、日本では古代より一貫している。神道が古来理想とした人間のありようは「清明正直(せい・めい・せい・ちょく)」、すなわち、清き、明(あか)き、正しき、直き心をもつことであった。神道はなお現代日本人の無意識の生活感覚を形成しており、清さを重視する精神は継続しているが、古代においては今以上に重きを置かれていただろう。

 奈良時代、孝謙女帝の寵愛を得た道鏡が天皇になる野心をおこし、道鏡が天皇になることの是非を、和気清麻呂(わけのきよまろ)が宇佐八幡宮に出向いて神託を伺った。このとき、孝謙天皇により清麻呂が選ばれたのは、清麻呂が朝廷において、何より「清廉潔白」な人物とみなされていたからだと言われている(文献3、p.489)。清麻呂が宇佐より奈良の都に持ち帰った神託は、「わが国は開闢以来、君臣が定まっている。臣を君にしてはならない。天皇には皇族を立よ」であった。臣に過ぎない道鏡を天皇にしてはならないという神託である。

 孝謙天皇は道鏡を天皇にすることをあきらめたが、道鏡は激怒した。清麻呂は神託を偽ったとして、「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させられ、大隅に流罪となった。後世、清麻呂は万世一系の皇統を守った偉大な功績者として、皇国史観の歴史家から高く評価されることになるが、清麻呂(きよまろ)が穢麻呂(きたなまろ)に改名を強制されるなどという日本史の嘘のような本当の話は、当時も人間が立派かどうか、信頼できる人間かどうかの評価が、清いか汚いかでなされていたことを物語る。

 時代は下って幕末明治の頃、訪れた外国人が日本の清潔さを多く書き残している。清潔さが非常に印象深かったのであろう。幕末、領事として伊豆の下田に住んだアメリカ人ハリスは、「---住民は豊かでなく、生活するだけで精一杯だが---、人びとは楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困っていない。それに、家屋は清潔で、日当たりもよくて気持ちがよい」との記録を残している(文献4、p.150)。また、トロイ遺跡の発掘で後に有名になった考古学者シュリーマン(ドイツ人)は、幕末の1865年に来日し、「日本人が世界で一番清潔な国民であることは異論の余地がない」、「どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている」などと、『シュリーマン旅行記 清国・日本』で日本の清潔さを賞賛している(文献5、p.87)。

 清浄、清潔に暮らす美意識は、著者の父母、祖父母の世代およびそれより以前の世代の日本人の方が強くもっていたように思われる。「私の母なぞは炊事、洗濯、掃除、縫いものなど、すべて家族のために身を捧げるような毎日でしたけれども、家の中はつねに清潔に保ち、みずからに対して求めることは全くなかったのでした」と、大正生まれの作家中野孝次(故人)は『清貧の思想』で述べている(文献6、p.194)。清浄の生活規範は日本の家庭において特に女性によって維持されてきた。私事になるが、著者の母は著者が子供の頃、「主婦」の「婦」の字は女性が「箒(ほうき)」をもっている意味だ、とよく言っていた。近年、モノを片付けられない女性がいることがテレビで報道されたりしているが、こんなことは、昔の日本女性には想像すらできないことだっただろう。

 ともあれ日本人の清浄を尊ぶ思想は、古代より脈々と受けつがれて現在も健在である。日本人の清潔好きは世界に知られている。中国人は清潔・衛生意識が世界一高い国は断然日本だと評価していて、「日式清潔」という言葉があるそうである。ニューヨークと東京の両方を知る一アメリカ人が、東京は世界一清潔な街だと言っている。著者もかってウィーンに三年近く住み、ヨーロッパ各国を旅行した経験があるが、日本の都市はヨーロッパの都市と比較すると、建物の雑居感がひどく、電柱が街路に立ち並び、乱雑な看板も目立ち、決して美しいと言えない。しかし、「清潔」という観点からは、日本の都市は決して劣らないと思う。

 日本人の清浄を尊ぶ思想は、日本の水が清浄であることと結びついている。日本人は何でも水で洗い流してきれいにし、新鮮な気持を保つ。あたかも、水に物心両面の浄化作用があると信じているふうである。水の浄化作用に特別の霊威があると考える思想は、実は世界的なものである。キリスト教の洗礼や、密教(インドで発生した仏教の一派)における灌頂(頭に水を注ぐ儀式)は、こうした思想を背景にもった儀式である(文献56、p.35-36)。

 諸外国も当然清浄を好み、清浄を重んじる思想は存在している。しかし、日本ほど清浄の思想が徹底し、行きわたった国はないだろう。日本では前述したように、清浄の思想が価値思想にまで昇華し、清浄であることは日本人の事実上の倫理規範になるだけでなく、今なお生き生きと持続する生活規範であり、生活習慣である。そしてこの思想は日本人の仕事、生産、経営の思想にまで及んでいる。

 日本人は工場やオフィスなど生産現場、職場をきれいにする。企業経営に3Sや5Sの標語を取り入れ、熱心に推進する企業は多い。3Sは「整理」「整頓」「掃除」であり、5Sはこれに「清潔」「躾(しつけ)」が加わる。すべて清浄の思想につながっている。清浄の思想の具体的実践項目といってよいくらいである。こうした実践を継続的に行い、これを習慣にして仕事の質、生産性を高めていこうとする。外国人にはこうした活動に首をかしげる人もいるが、整理、整頓、掃除、清潔などが工場やオフィスの生産性や仕事の質を大きく左右するというのが、長い体験に基づく日本人の信念である。職場が清浄であることが生産性、仕事の質に直結するのである。

 日本の清浄の思想は古代より現在まで脈々と生き続け、環境から精神性にまで及ぶ日本の文化になっている。日本において高められ、深められた清浄の文化は、日本が世界に発信し続けることのできる、また発信し続ける価値のあるすばらしい伝統文化である。日本の清浄の文化は今後一層世界に広まり、世界は清浄化していくだろう。

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