https://utsukushii-nihon.themedia.jp/pages/715175/page_201611041511 【善悪を美醜で判断する日本人】より
純粋
「純粋であること」が、「清らかであること」の美意識の近くにあって、日本人の心の底に横たわる非常に重要な美意識である。心情が純粋であること、偽りや飾りがないこと、混じり気がないこと、人とのかかわりが純粋で表裏がないこと、すなわち誠実であること、欲得の打算がないこと、私心がないこと、無私であること、邪念がないこと、などはすべて「心の純粋性」の概念を含み、日本人の美意識であるとともに、日本人が非常に重視する倫理的価値である。
英語で「純粋な」を意味する「pure」にも「きれいな」という意味があり、また「道徳的に正しい」という意味もある。しかし、「pure」が「道徳的に正しい」という場合、しばしば酒を飲まない、喫煙しない、婦人が貞潔である(セックスしない)といった意味で用いられる。「pure」は日本語の「純粋性」がもつ美意識の広がりと深さはもっていないように思われる。
また、「ナイーブ(naïve)」という言葉がある。純真な、天真爛漫な、という意味で、日本ではしばしば人を評する良い意味で用いられる。しかし、「naïve」は本来「純真だが無知で、未経験で愚かな」という意味合いが強く、英米でこの言葉が人を評する良い意味で使われることは、無いといってよい。「ナイーブ(naïve)」の使用例が、日本の純粋性に価値をおく文化の中で変化したのである。
日本では多少愚かであっても、心情が純粋ならばよしとする感覚がある。日本人は、心情が純粋なこと、偽りがない、表裏がない、といったことの価値を、「賢」の価値よりも高く置いているのではないだろうか。純朴という言葉もある。「賢い」という言葉には時々「さかしら」なこと、あるいはごくまれに「ずるい」といった意味を含有することがあるが、「純朴」には悪い意味はほとんどない。
また、「私心がないこと」が非常に重要な、純粋性に含まれる日本人の美意識である。私心がない、無私であるとは、欲得勘定を持たないこと、自分の利益、評判、名誉心から超越しているといったことである。逆に「私心があること」とはこういった思いを隠し持っていることで、日本人はこれを不純で美しくないとみなして否定する。実は、私心がないことは、ただ純粋であるだけでなく、「公平」すなわち、人と自分を平等にみる美意識も含む。「公平無私」という熟語もある。従って、「私心がないこと」をただ心情の純粋性の美に帰着することは、必ずしも正しくない。「公平」という「理性的な美」と融合した美意識であろうが、心情の純粋さが基本にあることは間違いあるまい。
日本人は昔から無私であることを美しい理想とし、私心無き人格をめざして非常に深い心を養ってきた。それは日本人の誇るべき歴史である。幕末、欧米列強のアジア支配が進む中で、日本は体制変革に成功し、独立を維持した誇るべき歴史をもつ(明治維新)。これを遂行した主役は西郷隆盛であった。そして西郷こそ私心なき日本人の理想である。彼の生涯は美しい無私の精神に貫かれていた。
敬天愛人の実践に生涯をかけた西郷隆盛が、常に自戒したのは、「己を愛すること」であった。己を愛することが最もよくないことである。人は己を愛することから敗れ、事業は崩れていく。己を愛するのはつまり私心、私欲である。私心、私欲のある人では大業を成し遂げることはできない。西郷は徹底した無私の人となって、体制変革を遂行した。
現代日本を代表するすばらしい経営者の一人に、稲盛和夫さんがいる。稲盛さんは京セラを起業して大会社に育て上げ、第二電電(現KDDI)を設立して日本の通信業界を革新。近年では破産した日航の会長に乞われて就任し、短期間で見事日航の再建を成し遂げた。西郷隆盛を深く尊敬する稲盛さんが、経営で最も重視するのは、「純粋な無私の精神」であるように思われる。
第二電電を設立するとき、稲盛さんは、毎晩就寝前に「おまえが電気通信事業に乗り出そうとするのは、本当に国民のためを思ってのことか。会社や自分の利益を図ろうとする私心がそこに混じっていないか。あるいは、世間からよく見られたいというスタンドプレーではないか。その動機は一点の曇りもない純粋なものか---」という自問自答をくり返したという。そして、半年後、ようやく自分の心の中には少しも邪(よこしま)なもののないことを確信し、第二電電の設立に踏み切った(文献7、p.183-184)。稲盛さんは、経営決断の正しさを私心があるかないかで最終判断したのである。
日本人が、無私であるゆえ正しい判断ができる、と信じる深さは宗教的信仰に近い。そこには、自分を他人と平等、公平に扱う理性と同時に、純粋でなければ正しい判断はできないとする思想が横たわっている。心が純粋ならば是非善悪がはっきりわかる。この思想の普遍性については後で考察するが、日本人は歴史的に無私の実践思想を非常に深く養ってきた。
次に「誠」、「誠実」が、「無私」と並んで、あるいは「無私」以上に日本人が重視する「純粋性の」美意識である。誠(まこと)は、真(ま)事(こと)であって、本当のこと、真実であること、嘘偽りのないことである。そして誠実とは、人と接するとき、嘘偽りがなく、表裏のない純粋な心、まごころで接することである。誠実であることは、人に対してだけでなく、事に接する心のありかたとしても用いられる。人、事に純粋な心でかかわることが誠であり、誠実であって、日本は歴史の中でこのような誠を、美しい心のありかたとして培ってきた。そして幕末において日本人の誠を尊ぶ思想は頂点に達した。幕末の武士が最も大切にした生き方は、「至誠」であった。
幕末の教育者吉田松陰の短い生涯こそ、至誠の生涯であった。松陰は、「天道も君学も一つの誠の字の外なし」という(文献8、p.88)。松陰は松下村塾を主宰して幕末維新の俊傑を育てた。松下村塾で松陰の至誠に若い魂をゆり動かされた高杉晋作らの俊傑が、旧体制を倒し、明治維新を起す主役となっていく。松陰は、日本の国家的危機を打開するには、封建的割拠を統一的国民国家へ転換する社会変革が必要であり、その社会変革の主役は「草莽(=民衆)」であるという革命思想(草莽崛起)に到達した。松陰の至誠は、君国を思う思想を実行することまでを意味した。これは究極において死をも賭する至誠となる。
『孟子』に「至誠にして動かざる者、未だ之れあらざるなり」とある。至誠であれば人を動かすことができる、というこの聖賢の訓を松陰はそのまま信じた。彼の行動は幕府の恐れるところとなり、松陰は安政の大獄によって死罪となったが、彼は幕吏による取り調べの過程で、自分の至誠が本物なら、幕吏を動かすことが可能かもしれないと考え、自分の信念を誠心誠意幕吏に話す姿勢で臨んだ。松陰は「老中間部詮勝襲撃計画」など、取り調べで極めて不利となる罪状も進んで自白したと伝えられる。
しかし、松陰の至誠は幕吏を動かすことはできなかった。彼は刑場に消えた。松陰はそのとき、「平生の学問、浅薄にして至誠天地を感格することができ申さず」と言った。松陰は聖訓を否定しなかった。ただ己の誠の至らなさを認めたのである(文献8、p.92)。しかし、松陰の至誠ははたして人を動かさなかったであろうか。松陰の刑死は門下生に衝撃を与えた。松陰の刑死に魂を揺り動かされた門下生は、松陰の死後、討幕・明治維新の社会変革を成し遂げ、統一国家をつくりあげる。松陰の至誠は、幕吏を動かすことはできなかったが、人びとを揺り動かし、天地を感格し、明治維新を成就させたと言えるのではなかろうか。
松陰は人に対して並はずれて誠実な人であった。彼は野山獄という獄中にあるとき、心が荒んで自暴自棄になっている囚人たちに、論語や孟子を教えた。また囚人たちより俳諧を学び、詩文を共につくるなどして切磋琢磨した。こうした松陰の活動は、絶望の生活を送る囚人たちの生活態度に大きな変化をもたらした。また、松下村塾における教育では、松陰は十歳の少年に対しても、師として上に立つ態度ではなく、共に学ぶ朋友のように遇して真摯に向き合った。
吉田松陰ほど誠実で、純粋な人はまれである。あまりにも純粋で、純粋すぎるがゆえ行動が世間常識を外れ、要領が悪く、三十歳で刑死するなど、松陰の生涯は世間的には成功した生涯とはいえない。しかし、松陰の生涯は美しい。その至純な美しさに感動する日本人は、誠実という倫理に至高の価値を置くのである。
けじめ
けじめのあることがまた、日本人の重視する美意識である。
「けじめ」とは基本的に「区別」あるいは「区切り」のことであるが、区別や区切り以上の意味を含む。「けじめがある」ことは、節度があって美しく、道徳的な価値となる。「けじめがない」ことは節度がない、だらしない、ルーズ、無責任といった不道徳な意味となる。「公私のけじめのない」人間は道徳的に失格である。「けじめをつける」とは、ものごとをきちんとする、うやむやにしない、始末をする、清算すると言った意味に使われる。特に「男のけじめをつける」という。これは、男が過去の行動について、うまくいかなかった責任をとるときによく使われる。地位の辞任となることが多い。このように、「けじめがあること」は「清らかであること」や「純粋であること」と同様、美意識を根底にもつ日本人の重要な倫理規範となっている。
日本人は長い歴史の中で、けじめのある生活習慣を養ってきた。ものごとに節目を入れて、始まりと終わりをはっきりさせる。出かけるとき、「行って参ります」と言い、「行ってらっしゃい(ませ)」と応える。帰宅すると「ただいま」と言い、「お帰りなさい」と応える。これはけじめである。食事を始めるとき、「いただきます」と言い、終わると「ごちそうさま(でした)」と言う。日本語の「さようなら」の語源は「左様ならば」、つまり、「そうであるならば」という意味である。「そうでしたら私は(別れたくありませんが)これでおいとまします」という、区切り(けじめ)をつける口上の冒頭部分が独立したのである。
日本ではものごとの始め、終わりのけじめを必ずつける。つけなければスッキリしない意識がある。仕事始めと仕事納め、工事の始めと終わり、会合の始めと終わりなど、必ず区切りをつけ、儀式を行う。日本の慣習で年末年始は大きなけじめである。暮れと正月に一線を画す。とにかく年内に済ますことは全部済まし、年が明けると全く新しい気分で新年を迎える。年が変わることであるから、欧米にも暮れと正月とのけじめの意識が皆無ではないだろうが、私の知る限り、この意識は日本において断然顕著である。
年末年始に限らず、日本には長い歴史の中で、一年の時の流れに節目をつける風俗が定着している。立春、春分、夏至などと二四節気と、土用、節分、八十八夜といったたくさんの雑節を設けている。季節や時間に区切りをつけて、それまでに仕事を片付けてしまおうとする。一年の時間に節目をつけて生活のリズムを確保する習慣は、日本の稲作農業が生んだものである、と清水馨八郎(地理学者、千葉大学名誉教授、故人)は言う。日本の稲作はもともと熱帯植物である稲を無理して取り入れ、過重な労働と勤勉さによって温帯の日本に根づかせたものである。春の種まき、苗代から準備に入り、初夏を迎えて一斉に田植えが始まる。やがて一番草、二番草、三番草と草取りが続き、初秋に入って稲刈りと、時間刻みの多忙な作業が連続する。これが時間に節目をつける習俗を生んだのである。
清水馨八郎は時間に節目、けじめをつける習俗が日本の経済発展の原動力となっているという。そしてこの習俗の背景には、日本の春夏秋冬の四季があることは間違いあるまい。日本は春夏秋冬がはっきりしているため、生活にリズムがあり、けじめが生まれる。私は若いころ三年間インドネシアに住んだ。熱帯の常夏の国である。四季はなく、雨季と乾季があるだけで、一年中暑い。あまり変化のない日が毎日続く。私はここに住んで、少し時間感覚が減退したような気がした。これは四季が無いことからくると思われた。
日本の四季の変化が生活と仕事にけじめをもたらし、日本人は恵まれた自然に深く感謝すべきであるが、日本人が時間に区切りをつけて生活する背景にもう一つ、仏教、特に禅の教えがあるように思われる。仏教の根本思想は、釈尊が入滅するときに述べた、「世は移ろいゆく、怠らず努めるがよい」に尽きると私は信じている(文献9、p.120)。世は時の流れとともにどんどん変化していく、つまり無常である。この世の移り変わりに遅れることなく努めなさいということで、禅では、無常の世の中で充実した生活をするには、今を大切にして、その時その場でただ集中しなさいと教える。そして時間を区切ることが、仕事に集中し、充実した生活をおくる現実的な最も良い手段となるのである。禅は「日日是好日」と教える。その日のことはその日に済ませ、毎日「今日もいい一日だった」というけじめをつけて生活する教えである。
以上、主として時間のけじめによって良き生活習慣をつくってきた日本の伝統について述べたが、日本人のけじめはもちろん時間に限られるものではない。人間にはけじめがなければならないとする日本人の美意識は、非常に広範囲に及ぶ。公私のけじめ、信賞必罰のけじめ、責任の所在のけじめ、遊びと仕事のけじめ、結婚のけじめ。それから、戦前の日本人が強くもっていて、戦後非常に薄らいでいるのが、いわゆる親子のけじめ、長幼のけじめ、男女のけじめ、夫婦のけじめ、師弟のけじめなどである。
戦前の生活経験をもつ保守派の識者はほぼ一致して、戦後教育はけじめの倫理をなくした日本人を育てたと言う。そしてその原因は多々あるが、最も根本的なことは、敗戦後日本の伝統的な倫理規範に自信を失い、日本人としての誇りを失わせたことと、まだ幼くて人間として独立した人格をもたない子供に対し人権尊重の美名のもと、親が躾けを放棄し、倫理規範を強制して教えなかったことにあると主張する。
著者は終戦の年(1945)の生まれで、戦後教育で育った者であるが、こうした保守派の識者に深い敬意を抱いている。著者は今までいろんな人を見てきたが、戦前の高等教育を受けた先輩には、背筋がぴしっと通り、高い知性をもち、美意識を根底にもつ筋の通った主張をする人が多いと感じてきた。残念ながらこういった先輩が次々と亡くなり、急速に減少しているのが今の日本である。
著者には戦前の人間がもっていたような、立派なけじめの美意識はないと思うが、それでも社会にけじめがなく不快に感じることはある。一つだけあげると、日本語に氾濫するカタカナ英語である。実にけじめがないと感じる。それは二種類ある。一つは、立派な日本語があるのに、やたらとほぼ同じ意味のカタカナ英語を使うことである。もう一つは、専門用語を日本語に直さず、そのままカタカナ英語で使うことである。これはIT関連の用語に著しい。カタカナの専門用語が氾濫して、よく理解できない。日本語として全くひどい状況である。
こうした現状をみると、明治の日本人はつくづく偉かったと思う。西洋文明を吸収するにあたって、科学技術、法律、経済、哲学の用語など、当時の先端的用語をすべて日本語に直した。当てはめる日本語がない場合は新たに日本語をつくった。そして日本語で近代化を推進したのである。明治日本の独立国家としての気概をみる思いがする。
簡素
「簡素である」ことがまた重要な日本人の美意識である。簡素の中に美を見出す精神は古代より存在するが、中世、近世を経て洗練され、現在なお日本人が強くもち続けている。
まず建物や住居は簡素をよしとする。ゴテゴテせず、スッキリした居住を好む。自然の素材をそのまま使う。彩色せず、白木のままとする。家具や調度品も簡素にする。装飾品をやたらと飾らない。豪華な住居、極彩色の装飾品、絢爛たる家具、それはそれで美しいと感じる能力は十分あるが、スッキリした簡素な居住を好む美意識がある。モノをやたらと持たず、生活を簡素にすることは、心ある日本人の倫理的な規範ともなっている。過度な所有欲、飾り立てること、贅沢をすることは、あまり感心したことではない(むしろ抑制することが美しい)といった感覚があり、これが生活を簡素にする規範につながっている。
日本人が簡素を美しいとする感覚は、日本人が美しい自然と共に暮らしてきたことによって深められたものと思う。人工的なもの、技巧を凝らした装飾、ゴテゴテした複雑なものは不自然で、美しくない。簡素が自然で美しい。この感覚は古来の神道に通じている。神道も日本の自然が育んだ精神である。神道の重んずる「清明正直」の心は簡素で素朴な心である。伊勢神宮に見られるように、神社には社の簡素な美しさとたたずまいがある。
日本人は長い歴史のなかで、簡素をよしとする美の感覚を養ってきた。鎌倉時代末期から南北朝時代に生きた兼好法師(1283頃~1352頃)は有名な随筆『徒然草』に、人の住む家は簡素なほどよろしい、と書いている。「おほくの工(たくみ)の心をつくしてみがきたて、唐の、大和の、めずらしく、えならぬ(得がたい)調度どもならべおき、前裁(草木を植え込んだ庭)の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目もくるしく、いとわびし」。兼好法師自身は隠遁者であったが、兼好法師の、住む家に関するこういった感覚は、当時一般の人にも広く共有されていたのではないだろうか(文献19、p.29)。
安土桃山・江戸時代前期に活躍した本阿弥光悦(1558~1637)という芸術家がいる。刀剣の鑑定・研磨を家職とする家に生まれ、書画、蒔絵、陶芸、茶道、作庭などに多くの名品を残した天才である。特に書は「寛永の三筆」に数えられるほどの偉大な書家であった。交友は公卿、武士、僧など広範囲におよび、「天下の重宝」と惜しまれて79歳で没した。光悦が日本文化に与えた影響は極めて大きい。その光悦の生活は、吉川英治の小説『宮本武蔵』が描く富裕な町人・光悦のイメージからほど遠い、実に簡素なものであった。
光悦は粗末で小さな家に住み、小者一人、飯炊き一人のほか使用人もなく、簡素に暮らした。本阿弥家はもともと京都三長者に比肩する富豪で(光悦は分家)、当代一流の名士であった光悦が経済的に窮していたとは思われない。大邸宅に住み、豪勢な家具に囲まれて生活することもできたにもかかわらず、光悦は明らかに簡素な生活をよしとして選んだのである。これが美術工芸の巨人・本阿弥光悦の生活面での美意識であった。
光悦の母・本阿弥妙秀の簡素極まりない生活はもっと徹底していた。彼女は慳貪で富貴なことを嫌った。余計なものは持たず、孝心のあつい孫やひ孫から田舎の土産や地服をプレゼントされても、彼女は貰うとたちまち断ち切ってしまい、帯、えり、頭巾、手覆などに仕立てて、大勢の人に与えるのが常であった。妙秀は90歳で死んだが、死んだあと残されたものは、唐島の単物一つ、かたびらの袷せ二つ、浴衣、紙子の夜具、木綿の布団、布の枕ばかりで、ほかには何もなかった(文献6、p.24)。
時代は下って幕末の頃、来日した欧米人の多くが日本人の簡素な生活ぶりを記している。よほど印象深かったのであろう。長崎海軍伝習所の教官としてオランダより来日し、三年間滞在した海軍士官カッケンディークは、「日本人の欲望は単純で、贅沢といえばただ着物に金をかけるくらいが関の山である。---生活の必需品は安い。---中流家庭の食事とても、至って簡素であるから、貧乏人だとて富貴の人とさほど違った食事をしている訳ではない」、「非常に高貴な人びとの館ですら、簡素、単純極まるものである。すなわち、大広間に備え付けの椅子、机、書棚などの備品が一つもない」という記録を残している(文献4、p.143)。
また、幕末の駐日アメリカ公使ハリスは、将軍家定に謁見したときの記録に、「---私は殿中の何れの場所においても、鍍金の装飾を見なかった。木の柱は、すべて白木のままであった。火鉢など、私の用いるために用意された椅子と卓子のほかには、どの部屋にも調度の類が見当たらなかった」と記している(文献4、p.146)。これらを読むと、当時の日本人が身分に関係なく極めて簡素な生活をしていたことがわかる。当時の社会は今よりずっと貧しく、モノが少なかったため、人びとが簡素な生き方しかできなかったということはあるだろう。しかし、身分に関係なく簡素であったということは、当時簡素をよしとする規範が社会に行きわたっていたことを物語る。
日本人の簡素な美意識と生活規範に大きな影響を与えてきたのが、禅である。高名な曹洞宗禅師・枡野俊明氏は言う。「簡素な生活こそが美しい。それこそが禅の精神です」、「禅の美とはシンプルであることの美しさです。余計な飾りをせず、不要なものを徹底的にそぎ落としたところに美しさがある。建物でいうなら構造的な美しさであり、素材の美しさです。余計な飾りは建物本来がもつ美を損ねてしまう。そういう考え方なのです」(文献11、p.115)、「簡素さは美しさの原点であり、そして終着点でもある。簡素になればなるほど美しい。私はそんな実感をもっています」(文献10、p.24)。
そして禅は生活を簡素にすることによって、心が充実することを教える。モノを捨てることは執着を捨てることである。簡素な生活とは、不要なものを捨てることによって、本当に大切な心の豊かさを得る生活である。また、禅は所作を美しくすることによって、美しい心になると教える。心と体は一体であるからである。そして所作を美しくするとは、折り目正しくすること、簡素な生活をすること、作為から離れること、正しい法(教え)に従ってできるだけ他人のために自分の体を惜しみなく使うことである、と教える。
簡素の美を根底にもつ禅は日本人の精神生活を高めた。日本人が古来もつ簡素の美の土壌に禅が受け入れられ、それがひるがえって日本人の美の精神性を高めることになった。禅を進んで受け入れたのは鎌倉時代の武士階級であった。当時の武士は王朝の貴族と異なり、生活はきわめて簡素で、簡明な規範の中で生きていた。禅は武士の質朴な精神によくマッチし、武士階級は禅によって精神生活を高めた。そして、社会の指導層としての武士の簡素な美と生活の規範は、庶民に影響を与え、人びとに広く共有されていった。
日本人の簡素の美意識は現在も健在である。簡素なライフスタイルを美しい生き方として追求する人は多いと思う。日本にシンプルなデザイン、シンプルな建築思想を掲げる設計事務所は多い。これは日本に簡素の美を求めるニーズは根強く存在し、日本人の簡素の美意識が健在であることを表している。日本に52年滞在し、上智大学で教えたカトリック司祭ジャック・ベジノ(フランス人)は、「サンプリシテ」が日本人の特性を最もよく表す言葉で、これが日本人の美徳であるという。サンプリシテ(simplicite、フランス語)は、簡素、単純、純真、素朴を意味する。そして、ベジノは、日本の茶の湯が「サンプリシテ」の粋であるという(文献1、p.158)。
簡素の美意識は勿論日本人だけのものではない。人類が共通にもつ普遍の美意識である。数学の真理は必ずシンプルな美しさをもつ。数学に限らず、広く、簡素な生活、簡素な精神、簡素な美に価値をおく思想は欧米にも存在する(文献24)。また、イスラム世界にも十分存在しているように思われる。
しかし、長い日本の歴史のなかで洗練され、禅によって深い精神性をもつに至った日本人の簡素の美意識は高度である。明治時代に来日した欧米人が、茶の湯、生け花、能、禅寺などに見られる洗練された簡素の美に驚き、そこに非常に深い美の思想が横たわっているのを発見した。日本人の簡素の美意識の卓越性を認め、そこに日本文化の精髄があるとした。
日本で深められた簡素の美意識と簡素の生活規範は、世界に広まる可能性が十分ある。それは、モノに傾斜した現代文明を超える倫理規範となりうるからである。科学技術の爆発的発展が現代の豊かな物質文明をもたらしたが、現代文明は地球環境を破壊し、持続可能性が疑問視されている。新しい持続可能な文明は豊富なモノの文明ではなく、環境とともにある「美の文明」であろう。日本で深められた簡素の倫理は、持続可能な美の文明の倫理規範となりうる。
言挙げしない
「言挙げ」とは、言葉に出して言い立てることである。日本人は古来「言挙げしないこと」を美徳と考えてきた。自己主張する、自己宣伝する、言い訳する、理屈(屁理屈)を言う、自己を正当化する、口論する、人の悪を言い立てる、言わなくてもいいことを言う、実行できないことを壮語する。こういった「言挙げ」は、古来日本人の好まないところである。
この言挙げしない日本社会の習慣も、日本人の美意識が支えている。自己主張は多くの場合自己弁護あるいは自己宣伝となる。自己弁護(言い訳)は、見苦しい。昔の武士は責任を認めたとき、一切の言い訳をせず、黙って切腹した。自己の正当性は、黙っていても、正しければいずれは認められると、高尚な日本人は考える。自己宣伝も見苦しい。外国人はどうだか知らないが、日本人は「プロパガンダ(宣伝)」を嫌う。美意識に合わない。人の立派さは宣伝などではなく、行動に自然に現れる。奥ゆかしいこと、寡黙であることが美しい。
自己正当性の理屈を頑強に言い合って口論となる。これは醜いことである。相手の言い分を静かに聴いて、自己に非がある場合、素直に認め、すみませんでしたというのが美しい。この心が和を生む。口論は多くの場合、強者の言い分が通るだけか、美しさのない妥協案となる。すみませんでしたというすなおな心から、美しい和の人間関係と、対立を超えた叡智が生まれてくる、と日本人は考える。
人の悪を言い立てるのは醜いことである。人と社会の悪をあげつらう「正義漢」を日本人は嫌う。自分も同じ悪人であるとの自覚をもたないこと、告発する社会悪をすべて人のせいにする態度を醜悪であると思う。従って、告発などよほど慎重にすべきであると日本人は考える。元東大総長の小宮山宏氏が「解のない問題に対する告発を自分はしない」と、どこかで言っていたと記憶する。この言葉に、困難な課題解決に実際に取り組む氏の工学者としての真摯な態度の他、日本人としての伝統的な美意識を感じる。
言挙げしない美の規範を養ってきた日本の歴史は古い。古代、柿本人麻呂が万葉集に詠む。「芦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども言挙げぞ我がする 言幸く ま幸くませと---(日本は 神意のままに 言挙げしない国です それでも私は言挙げします 元気で無事でいてくれと---)」。日本は言挙げしない国ですが、それでも私は言挙げして、(遣唐使として発つ)みなさんが元気で無事でいてくれと(みなさんをお守りする言霊となる)歌を詠みます、という意味である。古代においては言葉に呪力があると信じられており(言霊)、むやみな言挙げは慎まれた。
古代以前に発生した神道は、なお現代に生きているが、実は「神道は言挙げしない宗教」なのである。神道には、言語化された教えはほとんどない。教えは儀礼、祭祀、日常的作法、その他の行動様式の中で伝えられる。経典とみなしうる書物もないわけではないが、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランや仏教における仏典のようなまとまった経典はない。それで神道には教えがないかというと、そんなことはなく、清浄に、簡素に、正直に、和の心をもって生活し、自然を畏敬し、これに感謝する、といった教えが神道の中心的教えである。しかし神道はこれらを言語化せず、煩瑣な観念や議論を事としない。つまり、立言主義でない。日本人は感覚による霊性の把握を言語化する必要性を認めず、これを神ながらの道とした。言挙げしない日本人の伝統的精神は神道と共にあるのである。
武士道がまた言挙げしない精神に満ちている。武士は、「武士に二言はない」という厳しい掟の中に生きていた。武士が一旦言葉を発して約束したことは、死を賭してでも守られなければならなかった。武士の一言はそれほどの重みをもったので、武士は平素寡黙であることよしとした。武士道の書として有名な『葉隠』に山本常朝は記している(現代語に訳している)。「ものを言うことで肝要なことは黙っていることだ。言わなくて済まそうと思えば一言も言わずに済むものだ。言わなくてはかなわないことを、言葉少なく、よく道理が通っているように言うべきである。多弁を弄すると、恥をかき、見限られることが多い」。二言はないという武士ほどの厳しさはなくても、こうした多弁より寡黙をよしとする規範は広く日本人に共有されていたと思う。
江戸期良寛(1758-1831)という禅師がいた。生涯寺をもたず質素な庵に住み、難しい説法は行わなかったが、人々に信頼され、人々を教化した。子供らを愛し子供らとよく遊んだ良寛の姿が、人々の記憶に残されている。この良寛が、言葉に関し、「九十戒」という戒めの語を残している。抜粋して紹介する。
「言葉の多き 話の長き 講釈の長き 差し出口 手柄話 自慢話 諍(あらそ)い話 不思議話 もの言いのはてしなき 減らず口 人のもの言いきらぬうちにもの言う 子供をたらす たやすく約束する よく心得ぬことを人に教える ことわりの過ぎたる そのことはたさぬうちこのこと言う へつらうこと 人の話の邪魔をする あなどること しめやかなる座にて心なくもの言う 人の隠す事をあからさまに言う 酒に酔いてことわり言う 腹立てるときことわり言う 親切らしくもの言う 己が氏素性高きを人に語る 推し量りのことを真実になして言う ものしり顔に言う よくものの講釈したがる 老人のくどき 若いものの無駄話 押しの強き 好んで唐ことばを使う よく知らぬことを憚りなく言う 人に会って都合よく取り繕って言う 学者臭き話 悟り臭き話 風雅臭き話 さしてもなきことを論じる くれて後人にそのことを語る 俺がこうした、こうした 人にものくれぬ先に何々やろうという 人のことわりをよく聞き取らずして己がことを言い通す、等々」
これを読むと、良寛が言葉に現れる人間性をいかに鋭く、深く見つめていたかがわかる。良寛はこのような厳しい自戒の念をもって寡黙に生活した。良寛は出家僧であり、言葉を慎むことは修行そのものであったが、言葉を慎む規範は一般の俗人にも広く共有されていたと思う。私事になるが、大正2年生まれの著者の父は、特に男の多弁を嫌い、「男は三年に三口」とよく言っていた。男は寡黙であれという教育を、著者は父から受けたと思う。
言葉を慎み、言挙げしないことをよしとする伝統によって培われた日本の習慣は、現代日本人の重要な精神となっている。この精神を、慎むこと、控え目なこと、謙虚なことを美しいと考える日本人の美意識が支えている。そして、日本の言挙げしない精神は、言挙げしなくても真理は顕れるといった信仰の域にまで達している。
しかし、現代日本が世界の中で直面する最大の問題は、日本以外の世界がすべて言挙げする国であることである。言挙げが世界標準であって、日本が例外である。欧米は典型的な言挙げする社会である。同じアジアでも中国、韓国、インドもある意味で欧米以上に言挙げする国である。そして開国以後の近現代史における日本の国益の喪失は、日本があまり言挙げをしないできたことに大きく関係している。
「以心伝心」という言葉があるように、日本では「言わなくてもわかる」というコミュニケーションがしばしば成立する。しかし、外国はすべて「言わなければわからない」世界である。欧米で、意見の主張がないことは、意見をもっていないことと同じである。また、相手の主張に対して反論しなければ、相手の主張に同意したとみなされる。相手が自己の正当性と、当方の非をたくみに論理構成して主張したとき、ノーと言って当方の正当性を明確に主張しなければ、相手の主張を認めたことになる。非常に単純だが、ある意味では明快である。
この世界と日本との根本的な違いは、闘争環境の厳しさにあるだろう。ヨーロッパおよびアジア大陸は、古来、異民族が入り乱れて、侵略、征服が日常の世界であり、人々は非常に過酷な闘争環境の中で生きてきた。大陸の民族はこうした環境で生きのびるために、強い自己主張を身につけて闘うことを必要とした。そうしなければ生き残れなかったのである。すべての人が納得するように正当性を普遍化し、たくみに論理化し、理論化して言挙げする。これがヨーロッパや中国が歴史のなかで培った慣習である。
これに対して、日本は島国で大陸の動乱の影響をほとんど受けず、単一の日本民族が濃密なコミュニケーションのできる平和な社会を形成した。言挙げしなくてすむ習慣は、その恵まれた日本の歴史の産物であると言えよう。しかし今、言挙げする世界の中で生きていくには、日本も言挙げしなければならない。開国以来日本の外交下手は有名であるが、その背景に言挙げしない日本文化がある。外国からの批判、外国との摩擦に日本は極端に弱いが、世界的には国家間に摩擦があるのはごく普通のことである。日本も世界に接して、世界標準となっている、自国の正当性を普遍的な論理に構築して、国益を守る積極的な言挙げをしていかなければならないと思う。
日本は世界がうらやむほどの立派な精神文化を蓄積している。これを理論化し、論理化し、言語化して世界に発信し続ける。そしてそれが日本の精神文化に対する理解と日本への敬意をもたらし、日本の真の独立に貢献することになる。
正直
日本に住む外国人が、ほぼ共通して日本人は正直であると言う。
「自分の目で見た日本は、本当に話に聞いたとおりの親切で正直でマナーのいい人たちの住む国でした。日本に着いてすぐの頃、言葉もお金もわからないので、乗り物の代金を支払う時、両手を開いてお金をその上に載せて取ってもらうようにしました。正直な日本の人達はそこから必要な分だけしか取りませんでした。私にとって信じられないことでした」。「日本人の正直さ、契約を守ること、時間に正確であること、それから丁寧で清潔な暮らし方や伝統を守るところ、勤勉さなどはとても優れた資質だと思います」――-モハマド・サリーム・メマン(パキスタン人)(文献1、p.76)
「留学生時代と就職してから、僕は多くの日本人に出会った。非常に正直で信頼でき、誠実で謹み深い。皆さんは誉れ高き日本人的気質を持っている、ということを最後に述べておきたい。特に日本の簡素の美、謙虚さ、正直さという秀でた特徴を今後も大切にし続けていきたいと願っている」――-アンドレアス・ツィアマキス(ギリシア人)(文献1、p.139)。
ほんの二例だけ述べたが、日本人が正直であることは、おおむね世界的に認められている。日本人は嘘を忌み嫌う。日本で嘘つきは最低の人間であり、ほぼ完全な人格の否定となる。日本では子供に「嘘つきは泥棒のはじまり」と教える。子供を嘘つきにしないことが、道徳教育の基本中の基本である。日本人の道徳規範で「正直」はおそらく最高位に位置する。
「正直」に関するこうした道徳感覚は、そんなこと当たり前ではないかと日本人は思うが、世界的には必ずしもそうでないことを知っておく必要がある。日本人ほど「正直」に絶対的な価値を置かないのである。
同じアジアでも、中国人と韓国人の「正直」に対する道徳感覚は、明らかに日本人と違っている。京城大学の天野利武教授は約七十年前に、六十余の論著からシナ(中国)的性格をまとめ、疑心暗鬼、嘘をつく、常習的虚言、不正直、詐欺、陰謀を好むなどをあげている(文献12、p.174)。中国史に詳しい台湾出身の黄文雄氏は言う。中国の代表的な文化や中国人の性格について聞かれたら、躊躇なく「詐」の一字に尽きると答える。そして、それは日本人の「誠」と極めて対照的である。日本では「誠」だけで生きていくことができるが、中国では「詐」でないと生きていくことができない。それは中国の世界が古来、異民族の支配が入り乱れる、いわゆる華夷対立の闘争環境にあり、有限な資源の過酷な争奪戦の歴史的環境にあったからである。中国人の日常生活は人間対人間の闘いであり、すべてが「詐道」一筋であるといって過言でない(文献12、p.194)。
日本では子供の嘘を強く叱り、正直でなければいけないことを口を酸っぱくして教えるが、中国の親は子供に、外に出たら「騙されるな」と教えると聞く。これは中国社会に「騙し」が多いことを表明している。「正直」は人間の普遍の道徳規範で、中国人も正直の規範を重視していると思うが、これが日本におけるような道徳の最重要の位置にはないのである。
韓国についても同様である。呉善花氏は言う。「韓国は世界有数の『嘘つき大国』である――韓国に生まれ育った私が、そう言わざるをえないことをまことに悔しく悲しく思う。ただこれは私にかぎらず、ずっと以前から声を大にして叫ばれ続けてきたことである。韓国でももちろん子供に、嘘をついてはいけない、正直に生きなければならないと教える。しかし、同時に、韓国の社会には『騙されるほうが悪い』という通念が抜きがたくある。そういうことからも、日本のように嘘つきを『人間的に最悪の存在』とまでみなすことはない。さらに『嘘も方便』をはき違えて、多少の嘘を容認する風潮が強い。とくに人情がらみの嘘はたいてい大目にみられる」と(文献13、p.114、127)。韓国でも「正直」の規範は日本におけるような最重要には位置していない。
世界で正直の道徳規範を非常に重視するのは、日本以外ではキリスト教国の欧米である。特にプロテスタントの国において顕著である。イギリスは“Honesty is the best policy”(正直は最良の策)という諺を生んだ国である。正直の規範は、イギリスにおいても高い価値を置かれていると思う。19世紀イギリスの最盛期にサミエル・スマイルズという人が著した『自助論(Self-Help,with Illustrations of Character and Conduct)』という本がある。この本にはセルフヘルプ(自助)の精神で自己の運命を切りひらいた、西洋の偉人の伝記が豊富に載せられているが、成功の要因として、勤勉、忍耐、努力、克己、向学心といったことのほか、スマイルズが正直を重視していることがわかる。特にナポレオンを破ったウェリントン将軍に関し、彼の卓抜した実務能力について触れ、その根底に馬鹿正直ともいえる、正直で高潔な人間性があることを記している(文献16、p.128)。
スマイルズが理想とするジェントルマンの資質は、正直、誠実、率直、節制、勇気、自尊、自助といった特性である。スマイルズは150年以上も昔の人であるが、このような規範はなお今もイギリスに生きていると思う。ちなみに、ゴルフはイギリスジェントルマンの生んだ競技であるが、ゴルフのルールは正直をモットーとするジェントルマンの美学の結晶という感じがする。
正直を非常に重視する日本人の道徳感覚も、日本の歴史のなかで培われ、現在に及んでいる。前述したように、神道が理想とする人間像は、「清明正直(せい・めい・せい・ちょく)」である。実はここでいう「正直(せいちょく)」は、神に対して曇りのない、ありのままの、すなおな心のことを意味する。人に対して嘘偽りのないことを意味する現代の「正直(しょうじき)」と完全に同じではない。しかし、江戸時代には「正直(せいちょく)」と区別なく、一般に「正直(しょうじき)」が使われるようになった。神に対して曇りのない、ありのままのすなおな「正直(せいちょく)」の心が、人に対して嘘偽りのない「正直(しょうじき)」の本(もと)となるであろうから、「正直(せいちょく)」が「正直(しょうじき)」に吸収されたとしても、それは自然な流れである。
江戸時代、あらゆる職業で最も重視されたのが、「正直(しょうじき)」であった。嘘をつかないこと=正直が人づくりの基本と考える思想は、完全に社会に定着していた。貝原益軒は、『和俗童子訓』に「幼いときから心と言葉に誠を尽くし、嘘をつかないようにさせる」という幼児教育の目標を掲げ、そのために次の四点を強調している。①子供だけでなく大人も嘘をつかない。②人との約束を厳守させる。③守れない約束は初めからさせない。④嘘を言う者、約束を守らない者は最低と教える(文献14、p.153-154)。
江戸時代には一般向けの教訓書がたくさん出版されて、庶民教育に利用されたが、非常に多くが、人の生き方として「正直」を最も重視している。例えば、1796年刊『〈教訓絵入り〉おしへぐさ』には次のように書かれている(文献14、p.173)。
人は何事も正直を本とすべきである。正直とは「正しく素直なこと」で、親や主人に対して正直に仕えることを「忠」または「孝」という。商売に正直なのは「正利」と言って、他人(消費者)から憎まれない程度の薄利で稼いだ金は、永く子孫に伝わって減ることがない。そして人と交際する場合に正直であれば、交わる人は皆みな兄弟のようになる。このように何事も正直に誠の心で世渡りするならば、祈らなくても天道の恵みを受け、神仏の守護を得るであろう。
正直を重んじる道徳意識は、江戸時代に頂点に達したのではないだろうか。そして、その伝統は脈々と現代に受け継がれて今なお健在である。私はすべての道徳規範にはそれが美しいという美意識が横たわっていると思うが、日本人が正直を深く培ってきたのも日本人の美意識を背景にもつ。正直が美しく、不正直は美しくないのである。法にふれるぎりぎりの行為をしながら、正直に非を認めることなく言葉を尽くしてつべこべ言う。これは法的にセーフでも、美しくない態度として日本人は嫌う。
そして、日本人は相手の言うことをそのまま信じようとする。これも美意識である。相手を疑うことよりも、信じることが美しいのである。ゆえに、騙される方が悪いといった社会通念のある国の人々にとって、日本人くらい騙しやすい人間はいないだろう。しかしこの美意識は崇高な道徳感情であって、日本人の誇るべき美質だと私は思うのだ。ただ、国と国との関係になると、話は別である。相手国の主張をそのまま信じて国益を損なうことがある。あらゆる手段を使って、チェックすべきである。
日本人の正直という道徳の規範は、神に対する曇りのない、ありのままの、素直な正直(せいちょく)の心をもって、人に対して嘘偽りなく生きる規範であって、非常に宗教的である。正直が神との関係においてこのように捉えられていることから、大関忍斎が言うように、「正直の頭に神やどる」という道理となり、普段から正直を実践し、心の誠を尽くせば、そこに神仏のご加護がある、という思想が生まれる。そして、正直こそ富を生む本(もと)となる道徳であり、正直こそ人間を幸福にする不可欠の道徳であるという思想を生む。私はほとんどの日本人が、このような日本教の信者ではないかと思う。
日本の長い歴史の中で社会に定着した正直の規範は、世界に誇れる日本人の美徳である。正直こそ日本の最大の財産である。日本の存立基盤は実に正直という美徳にあると私は思う。
仕事
日本に住む外国人の多くが、日本人の仕事にたいする姿勢を賞賛している。
「---仕事に対する考え方がとても違います。日本人はちゃんとした仕事をしようとする。(中略)どんな小さい仕事でもきちんとこなし、五時になっても投げ出さない。終わるまで続け、それぞれが自分の仕事に誇りを持っている。(中略)自分自身の満足のいくまで仕事をする。それが誇りであり、名誉なのです。本人は意識していないかもしれないけれど、そうするのが当たり前だからなのだと思います。この伝統はすばらしい。いい加減な仕事をする人は日本ではごくわずかです」----田丸メリー・ルイス(アメリカ人)(文献1、p.122-123)
「ウズベキスタンの首都タシケントにあるナヴォイ劇場は、第二次世界大戦中、当時のソ連により抑留されていた日本人たちの尽力を得て完成しました。その後、この地に地震があったとき、まわりの建物が次々と崩壊していく中、この劇場は無事に残ったのです。日本人抑留者たちの素晴らしい働きぶり、確かな仕事ぶりに、ウズベキスタンの人々は大変な感銘を受けました。日本人たちの勤勉さ、規律正しい行動、確かな技術などは、現在ずっと語り継がれています。そのため、日本人は大変尊敬されています。日本人はすごい、日本人はすばらしい、と」----ツリヤガノヴァ・オイディオン(ウズベキスタン人)(文献1、p.151)
「謙虚さ、他人への配慮、分を知るなどの美徳の中で私を最も感動させるのは、日本人の働き方です。社長や総務部長でなくても、ずっと簡単な仕事をしている人でも、自分の領域で最善を尽くす。こういう人たちの集団に対して、社長といえども独断的な行動はとれない。グループとの和、調和を見出そうとする。(中略)仕事は悪くいえば必要悪だけど、日本では仕事そのもの、すること自体に価値を見出しているのです」----ジャック・ベジノ(フランス人)(文献1、p.159)
戦後日本を統治した連合軍最高司令官マッカーサーは、極東政策をめぐる証言で、日本人の労働観について述べたことがある。それは、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、いずれの国にも劣らぬ優秀なものであるばかりか、日本の労働者は、人間とは遊んでいるときより働いているときのほうが幸福であるという、いわば「労働の尊厳」を見出していた、というものであった(文献7、p.167)。
「労働の尊厳を見出す」精神は日本人だけのものではないと著者は思うが、日本においてはこの精神が、「尊厳」だとか難しい用語を用いる学問や思想のレベルでなく、ごく普通の人間の仕事の感覚として行きわたっている。ここが日本のすばらしいところである。日本人は仕事に高い価値を見出し、良い仕事をしようとする。いい加減な仕事は自尊心が許さない。仕事そのものが自己の尊厳にかかわっているのである。こうした精神の根柢に日本人の美意識が横たわっている。余暇の楽しみは、充実した仕事をしてはじめて得られるものであって、その逆はない。仕事は人生そのものである。仕事は苦しくても、打ち込むことによって、面白さがわかってくる。よろこびが湧いてくる。困難な仕事を克服することによって、人間として成長し、充実した人生となる。多くの日本人が仕事についてこのように考えていると思う。
以下、歴史に現れた、西洋と日本の仕事観の違いを見てみよう。
まず西洋の話であるが、神が食べてはいけないと言った「知恵の実」を人類の祖アダムとイヴが食べて、二人は楽園から追放される。そのとき神が、アダムに「--汝は一生、苦しんで、地から食物を取る」、「汝は顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る」と言ったことが旧約聖書に記されている。これは、神が命令に背いたアダムに死ぬまで労働を懲罰として与えたと解釈される。旧約聖書には、人の仕事は神より与えられた義務であるという言葉、さらには仕事の成就を願い、怠惰を戒める言葉がしばしば現われるので、聖書は労働を蔑視せず、むしろ尊重しているといえる。しかしそこには、労働は苦役だとする思想が横たわっている。
古代ギリシアにおいて、一般に労働に高い価値は置かれていなかった。アテネ市民は国政への参加と、非常時に戦場に赴くことに最大の価値を置いた。それは生業のための仕事ではなく、市民としての義務を果たすことであった。古代ギリシアも初期のころは労働を尊いとする古典的道徳が存在し、労働蔑視の傾向はなかったとされる。しかし、全盛期の古代ギリシアは奴隷制社会であり、市民の生活を奴隷労働が支えていた。市民が生業のために労働することを恥とする通念が存在した。
キリスト教の成立後、西洋の労働観は高められていく。使徒パウロは「働きたくない者は食べてはならない」と言う。額に汗し手を動かしてパンを得るために働くことよりも、魂の救済を求め、祈りや瞑想を専らとする生活こそ望ましいとする考え方が、キリスト教において当初から根強く存在した。パウロはそのような偏った生活を怠惰な生活として戒めたのである(文献25、p.87-88)。一般に労働の意義を問う場合、人の魂の救済と労働との関係が根本問題となるが、キリスト教修道院で深められた両者の関係は、「祈れ、かつ働け」という均衡した生活であった。
中世キリスト教によって深められた労働の意義は、労働の肯定、怠惰の戒め、労苦の受容、財物や私利ではない霊的な目的をもった労働、労働と祈りの平衡、与えられた務めをはたすこと、全体への利益・他者への奉仕、弱者・貧者への施し、等である。そして近代の初期、宗教改革によって生まれたプロテスタントは、世俗的な労働の意義を発展させた。それは、職業は神からの召命(天職)であり、富を目的として追求することは邪悪であるが、禁欲的生活で職業に励んだ結果得られた富は、神の恩恵だと考える思想である。
次に日本であるが、日本人も日本の歴史の中で、西洋に決して負けないすぐれた労働思想を培ってきた。
日本の神道は無条件に労働を善とする。よく言われることだが、日本の神は働く神である。最高神である天照大御神は機織りをし、男神たちは田畑の耕作をしている。そして日本の最高の神官である天皇は今なお、田植えと稲刈りを行う(儀式化されているが)。宗教学者のひろさちやは、神道の労働観を「労働神事説」と名付けている(文献15、p.178)。労働をすることは神に仕えることと同じである。労働は神事であり、日本人は神様と一緒に労働をしている。神様と共に働くことが喜びである。
ひろさちやは次のようなことも言っている。キリスト教圏の人々は労働懲罰説から次第に労働を神聖視するようになった。しかし、彼らが本当に労働を好きになったかというと、そうでもない。スペイン語に「カスティガード」という言葉がある。これは「神に罰せられた人」という意味で、くそまじめに働いている人を嘲笑して呼んだものである。またイギリスでは「退職おめでとう」というカードが売られている。イギリス人にとって退職とは、基本的に労働という苦役からの解放である。
神道には労働を苦役とする思想はみられない。労働を無条件に善とするのは、神道の根本思想をなす「生成の思想」に由来する。古代の日本人は、自然の躍動する生命力と生成のエネルギーに驚嘆の目を注いだ。存在するすべてのものは、宇宙の生成のエネルギーによって生み出されたものである。宇宙は生命を生み、ものを生成する偉大な霊力をもつ。この生成の霊力の観念が神道思想の基底をなしている。古代人は生成の働きにかなうものが全て善であり、これを阻害するものが悪であると考えた。そして労働はこの生成の働きに沿った人間の営為なのである。
西洋におけるキリスト教のように、日本では仏教が日本人の労働観を深化させた。江戸時代の初期、鈴木正三(1579-1655)は「職分仏行説」と呼ばれる職業倫理を説いた。これは、日々の職業に専念することがそのまま仏行修行になる、という教えである。鈴木正三は曹洞宗の僧侶であるが、元は武士であったから、現実の社会に生きる一般民衆の救済の問題に大きな関心をもっていた。正三は生活のために行う生業を否定せず、四民(士農工商)は日々、それぞれ自分の仕事に専念し、社会に貢献することが仏になる道であると説いた(文献17)。この教えは日本人にそのまま受け入れられた。山本七平は、正三こそ日本の資本主義をつくった人物と位置づけている。
現代日本を代表する経営者の一人である稲盛和夫の思想は、鈴木正三の延長上にあるといってよい。稲盛さんは言う。「ひたむきに自分の仕事に打ち込み、精魂をこめて、倦まずたゆまず努力を重ねていくこと。それがそのまま人格練磨の『修行』となって、私たちの心を磨き、人間を成長させてくれるのです。そしてそのように『心を高める』ことを通じてこそ、私たちはそれぞれの人生を深く値打ちのあるものにすることができるのです」。「私は働くことは『万病に効く薬』―-あらゆる試練を克服し、人生を好転させていくことのできる妙薬だと思っています。私たちの人生は、さまざまな苦難から成り立っています。(中略)しかし、働くこと自体に、そのような過酷な運命を克服し、人生を明るく希望あふれるものにしていく、素晴らしい力があるのです」。
稲盛さんは、人間は働くことによって「心を高める」ことができ、働くことによって「救済される」と説いている。
田坂広志(社会企業家フォーラム代表、多摩大学大学院教授、田坂広志人間塾主宰)は、自身ビジネスで立派な実績を挙げながら、我々はなぜ働くのか、仕事の報酬とは何か、といった仕事の意義に関する思索を深め、すぐれた仕事の思想を発信し続けている。田坂氏は、仕事の報酬は何か、という問いに対し、俸給、地位、役職といった目に見える報酬のほか、より大切な目に見えない仕事の報酬を三つあげる。第一は職業人として能力が身に着くこと。第二は良い仕事を残すことができること。第三は、一生懸命に仕事をすると人間として成長できること。仕事の困難と悪戦苦闘し、仕事の仲間と切磋琢磨することによって、一人の人間として成長していくことができる。この第三の報酬が仕事の最高の報酬であるという。この田坂氏の思想は稲盛さんの「心を高める」思想と同じである。
田坂氏はまた、欧米の企業の最近の動向を学ぶという形で「企業の社会的責任」(CSR:Corporate Social Responsibility)や「企業の社会貢献」の思想がわが国に広がりつつあるが、こうした企業の「社会的責任」や「社会貢献」の思想は、古くから日本企業の経営においては、明確な思想として存在したと述べている。企業が一生懸命活動するのは、世の中を幸せにするため、良い世の中を創るため。そうした社会貢献を前提とした「労働観」と「企業観」がわが国には長い伝統として存在した。ゆえに、わが国の企業がCSRに取り組むとき、その活動の根本にあるべきは、欧米企業の先例に学ぶといった視点ではなく、大切なのは、過去を顧みて「日本企業の原点に帰る」という視点であると、述べている(文献18)。
日本の歴史の中で、日本人はすばらしい仕事の思想や経営の思想を生みだしてきた。江戸時代には、鈴木正三、石田梅岩、二宮尊徳。明治以降は、渋沢栄一、松下幸之助、井深大、本田宗一郎、土光敏夫、稲盛和夫など。こうした人たちは世界第一級の人たちであり、これら諸先輩の仕事の思想や経営の思想は、世界最高レベルにあると信じる。田坂の仕事の思想もこのような日本の伝統の上にある。
日本人が培ってきた深い仕事の思想の底に、日本人の美意識が横たわっている。私たちはすばらしい日本の仕事の思想の中で、日本人として誇りをもって仕事に励むことができる。
控え目
控え目であることが、特筆すべき日本人の美意識である。日本人は、相手の立場や周囲の状況を考えずに、自分の感情や欲望をストレートに出すことを好まない。成功を得意げに語る人、でしゃばる人、自己顕示欲の強い人は、謙虚さに欠けるとして、日本人は評価しない。周囲に配慮し、人の話を謙虚に聴き、威張らず、控え目だがよい仕事をするような人を日本人は、奥ゆかしいとして評価する。奥ゆかしいことがまた、控え目につながる日本人の美意識である。
また、日本人が重視する人間の評価に「品性」がある。「彼女は上品である」というのは、単に美人であるということだけでなく、彼女のもつ内面的な美しさを評価した表現である。逆に「下品である」とういう評価は、人間として精神的な何かに欠けているという評価になる。品性とは何かと、改めて問われると難しいが、日本では控え目で奥ゆかしいことが、しばしば品性を構成する重要な要素となる。でしゃばること、自慢話をすること、自分の感情をむき出しにすることなどは、品性に欠ける。
日本人の控え目の美意識は、日本の歴史の中で非常に豊かな倫理を養ってきた。
まず、「聴く」ことを重視する日本人の倫理意識が、控え目の美意識とつながっている。もちろん、「控え目の美意識」が即、「よく聴く倫理」を生んだというわけではない。控え目にしながら、人の言うことを全く聴かない人もいる。しかし、控え目をよしとする意識は、自分の主張はほどほどにして、人の言うことをよく聴きなさい、という倫理意識を含んでいる。
日本人は、人の言うことを「よく聴く」ことこそが、人間関係の基本であると考える。「聴いて理解する能力」が人の能力の基本であって、「よく聴く」ことが豊かな人間関係をつくりあげる。決して「よくしゃべること」ではない。そして、人はよく聴くことによって、賢くなる。それゆえ、自分は控え目にして人の言うことに耳を傾けなさい、と教えるのが日本人である。
聴くことを重視することにかけて、日本は豊かな伝統をもつ。古来、日本人が尊敬し、リーダーとして仰いできた人は、よく聴いて深い理解を示してくれる人であり、決して雄弁の人ではなかった。聖徳太子は日本人が最も尊敬した政治家であり、聖者とみなされているが、『日本書紀』に聖徳太子は一度に十人の訴えを聞いて誤らなかったと記されている。これは、聖徳太子が人の主張をいかによく聴いて、ただちに深く理解する人であったかを象徴する記録である。そして、聖徳太子は「豊耳聡(とよみみと)大王」とも呼ばれた。これは豊かな耳をもつ聡明な王という意味である。この名称は、人が聡明であるということは、よく聴く人(つまり豊かな耳の人)のことである、という当時の日本人の考えを端的に表している。
聴くことを話すことより重視する日本人の倫理は、今も健在である。政治家や経営者といった社会のリーダーは、スピーチによって国民をリードし、社員を鼓舞するのであるから、スピーチの能力が最も必要とされる人たちである。しかし、政治家や経営者からむしろ、より大切なのは聴く力、聴く姿勢であるとの発言をよく耳にする。そのとき、よく言われるのが、「口は一つだが、耳は二つある」という比喩である。政治家や経営者は当然話すことを非常に重視する。しかし日本の政治家、経営者の多くが、聴くことがより重要であると言う。
経営の神様・松下幸之助こそは、よく聴く経営者であった。常に人の言うことに耳を傾け、すなおに判断した。松下幸之助は、「どんな場合でも大事なことは“耳を傾ける”という基本的な心構えというか姿勢をいつも持っていることである」と言い、そのような経営者として生き、判断を誤ることがなかった。松下は人の意見に耳を傾けて聴くことによって、叡智あふれる経営判断が可能となり、神様といわれるようになったのである。松下は耳を傾ける姿勢が人を育てるとして、次のようなことも言っている。「日ごろ部下のいうことをよく聞く人のところでは比較的人が育っている。それに対して、あまり耳を傾けない人の下では人が育ちにくい。そういう傾向があるように思われる」。人を育てる秘訣も、よく聴くことにあるのである。
次に、「謙虚であること」という重要な倫理が、控え目の美意識と深くつながっている。もちろん、控え目でなくて非常に謙虚な人はたくさんいる。しかし、日本では概して謙虚であることが控え目の美意識に合致する。「謙虚であること」は、人を尊敬する、人の尊厳を認めるといった倫理と深く関連する。自分が謙虚であることと人を尊敬することはむしろ一体である。そして相手を深く尊敬すると自然に相手の言うことに耳を傾け、自分は控え目になるだろう。控え目にしなさいという教えは、全ての人が尊敬に値するのだという事実を理解しなさい、という教えを含んでいる。
私は徳川家康を日本の生んだ不世出の偉人だと思うが、徳川家康の深遠な思想も、日本人の控え目の美意識と深くつながっているように思われる。家康は次のような教訓を残している。
「人の一生は、重荷を負うて遠き道をゆくが如し。いそぐべからず。不自由を
常と思えば不足なし。心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍
は無事長久の基(もとい)。勝つことばかりを知りて負くることを知らざれば、
害その身にいたる。おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるよりま
されり」
なんという深い知恵に満ちた言葉だろうかと思う。最後の「及ばざるは過ぎたるよりまされり」が家康の思想を凝縮している。孔子は「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」という言葉を残している(論語)。過ぎているのは及ばないのと同じようなものだ、という意味である。しかし家康は、及ばないことは過ぎていることよりまさると言う。人の一生は、理想を求めて懸命に努力し、理想に到達しない。及ばないことばかりである。しかし、それでよいのだ。理想を達成し過ぎるより及ばないくらいの方がよい。これが、家康の生涯の結論であった。家康の前に「過ぎた天才」が二人いた。織田信長と豊臣秀吉である。しかし、最後に勝利したのは「及ばない」家康であった。
家康は「不完全でよい」という思想に到達していたように思われる。勝ってばかりいて負けることを知らない。これはよくない。あまりにも完全に勝つ。これもよくない。人は勝ち過ぎると必ず「害はその身にいたる」。ほどほどのところでよい。物事にはそもそも完全などないのだ。完全を求めるのは「過ぎた要求」である。及ばないように見える不完全でよい。これは明らかに控え目の思想につながっている。
控え目の美意識は日本の文学、美術、建築、芸術、芸能等に広く及び、これが日本の美学の根底に横たわる重要な要素となっている。控え目な表現が生み出す優雅さを愛する日本人の心が、最も極端に現れているのは日本の茶の湯であると、ドナルド・キーンは言う。偉大な茶の宗匠千利休が追求した理想は、「さび」であり、これは「錆」にも、また「寂れる」にも通じる言葉であった(文献19、p.30)。そしてこれは高度に洗練された控え目の美意識であるといえよう。
岡倉天心は名著『茶の本』で次のように言う。「茶道は本質的に不完全なものの崇拝であり、我々が知っている人生というこの不可能なものの中に、何か可能なものを成し遂げようとする繊細な企てである」。また、次のようにも言う。「---チャールズ・ラムの“自分が知っている無上の喜びは、ひそかに善行をおこない、偶然にそれが顕れることだ”という言葉には、茶道の真髄が鳴っていた。茶道とは、美を発見するために美を隠し、顕すことをはばかるものを暗示する術だからである」。
天心のこの言葉の中に茶道の美学の精髄が記されている。茶道の美は豪華絢爛たる完璧な美の対極にある。一見粗末に見える素朴な茶器、簡素な草庵、地味な茶系統の色彩、床の間にさり気なく置かれた花、身分に関係ない茶室での普通の人間としての集い。利休が完成した茶道には、控え目な表現の中に美を見出す繊細で、高度な美意識が横たわっている。利休は、素朴で、不完全ながらもそこで可能なものを見出す、簡素な庶民の生活文化の中に美を見出し、これを茶道に凝縮した。茶に象徴的に現れる控え目の美学は、日本文化の底流となって、日本の特色ある生活、倫理、規範、芸術を形成している。
謙虚でよく聴くことを重んじ、人を尊重し、強い自己主張をせず、ほどほどで納め、不完全でよしとして可能なものを見出していく。日本がこうした控え目の美学をもつ文化を形成したのは、日本は平和な時代が長く、歴史の早い時期にほぼ一民族化しており、濃密なコミュニケーションの可能な、人の和を重んじる社会だったからだといえるだろう。和の社会の日本では、強い自己主張をしなくても抹殺されることはない。控え目にしていても、価値あることはやがて認められていく。
日本人の控え目の美意識、控え目の抑制した表現に美を見出すセンスは、日本人独特の特異な感覚であるという、外国人による、あるいは日本人自身による評価があるが、私はそう思わない。確かに日本と違って闘争環境の厳しい外国では、日本人のような控え目の美意識をもつ人は少ないだろう。特にアメリカは控え目にしていては決して認められることのない、厳しい社会のように思われる。しかし「控え目」、「謙遜」、「慎み深い」を意味する英語「modest」には、「上品(decent)」という意味もあり、英語圏でも決して「控え目」を評価する感覚がないとは思わない。
英国人イザベル・M・レンデルは次のように言う。「英国と日本はとても似ています。海に囲まれて孤立しているからでしょうか、私たち英国人はやや内向的で控えめな気質とマナーを身に着けています。多くの英国人は自分たちをヨーロッパ人と考えていません。あくまで英国人です。ヨーロッパ大陸の人々と私たちはあまりにも異なるからです。例えばフランス人。あの自己主張の強さと、人が話し終わらないのに平気で自分の言葉を重ねるマナーの悪さには違和感を覚えます。でも日本ではそういう違和感が全くない。日本人と接していると、とても和むのです」(文献1、p.129)。
ともあれ、闘争環境の厳しい国際社会で、外国と共存しなければならない現代日本は、世界に対して自己主張しなければならない。しかし日本で高められた「謙虚であること」、「聴くことを重視すること」、「あまり勝ち過ぎないこと」、といった控え目につながる美徳、また「不完全なものに美を見出すこと」といった高度な美意識を否定すべきでない。世界に自己主張をすることと、こういった美徳、美意識を保持することは十分両立すると思う。
例えば日本では控え目と謙虚さとはつながっているが、自己主張と謙虚とは両立すると信じる。自己の尊厳を守るために自己主張するが、自己の尊厳の自覚は即相手の尊厳の尊重となる。強い自尊心のゆえ相手を尊重してかえって謙虚になる。こうして自己主張と謙虚は完全に両立する。
否定してよいのは、控え目の美徳ではなく、言うべきことも言わない、やるべきこともやらない、といった過度の控え目の意識がもたらす性向である。これは控え目の醜ともいえるだろう。卑怯ともなる。「義をみてなさざるは勇なきなり」(論語)という言葉もある。
恥を知る
日本人はよく、「そんな恥かしいことはできない」という。人を騙すこと、卑怯な振る舞い、人が見ていないからといって悪いことをする、やると約束したことをやらない、人を裏切る、いわゆる火事場泥棒をする、人に迷惑をかけて平気でいること、などである。英米人の道徳感情の基本に「フェアかどうか」が横たわっているように、それが「恥かしくないことかどうか」が、広く日本人の道徳の基盤を形成している。恥ずべきことを平然とやるような人間を「恥知らず」といい、日本人が最も軽蔑し、憎む。「恥知らず」は人格を形容する非常に重い表現である。それは「嘘つき」とならんでほぼ最低の人間評価となる。
日本の他の道徳感情と同様、「恥を知ること」も日本人の美意識と深くつながっている。美しく生きている自尊心が損なわれるとき、恥かしいと感じる。また、自尊心と深くつながる名誉心が損なわれるとき、恥ずかしいと感じる。恥と名誉とは表裏の関係にある。「恥を知る」ことと「名誉を重んじる」ことが一体となって、日本人の重要な道徳規範となっている。
一般に日本人が恥かしいと思うとき、内面的な恥かしさの他、世間に対して恥ずかしいという思いを含む。恥かしいと思う感情の裏に、周囲の人が自分の行動をどう思っているか気にする強い感情が横たわっている。そして、自分に対する周囲の評価が落ちたとき、恥かしいと感じる。世間の目を気にする傾向の強い普通の日本人にあっては、恥に関してこうした思いの方が強いかもしれない。しかし実際は日本人の「恥を知る」道徳感情はデリケートで、自分に対して恥じるという内面化された感情と、世間に対して恥かしいという外面的な感情とが混合している。
アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトが著書『菊と刀』で、日本を「恥の文化」と規定し、欧米の「罪の文化」と対比させたことはよく知られている。ベネディクトは言う、「日本人は罪の重大さよりも恥の重大さに重きを置いている。道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みにする社会は、罪の文化と定義することができる。真の罪の文化が内面的な自覚にもとづいて善行を行うのに対して、真の恥の文化は外面的強制力によって善行を行う。恥は他人の批評に対する反応であって、強力な強制力となる。アメリカでも恥が重みを加えつつあるが、アメリカ人は恥には道徳の基礎というような重圧を果たす資格がないと考えている。アメリカ人は恥辱にともなう烈しい個人的痛恨の情を、道徳の基本体系の原動力とはしていない。これに対し、日本人は恥辱感を原動力としている。日本人にとって恥が徳の基本であって、恥を感じやすい人間こそ、善行のあらゆる掟を実行する人である」と。
日本人にあてはまるところの多い鋭い観察であるが、ベネディクトは、「恥」を世間に対して恥かしいと思う感情に特化しており、日本人の恥の意識がもっと深く、「自分に対して恥かしい」といった自尊心にかかわる内面性をもつことを見落としている。私も日本は恥の文化の国だと思うが、日本人の道徳感情の基礎にあるのはどちらかというと、内面化された恥の意識である。もちろん、世間に対して恥かしいという思いが、悪事の抑止力となるなど、道徳的強制力となることは認めるが、日本人の恥の道徳規範はそれだけで成立しているわけではない。
日本の恥の道徳規範は武士道において完成したといえるだろう。新渡戸稲造は名著『武士道』に記す。「羞恥心は少年の教育において養育せられるべき最初の徳の一つであった。『笑われるな』『体面を汚すぞ』『恥かしくないか』等は罪を犯せる少年に対して正しき行動を促すための最後の訴えであった。少年の名誉心に訴えることは、あたかも彼が母体の中から名誉をもって養われていたかのごとく、彼の心情(ハート)の最も敏感なる点に触れたのである。」
以下、武士道における恥を見てみよう。
武士道は「名誉の掟」と言ってよいくらい名誉を重んじた。武士道は本来「弓矢取る身(=戦闘者)の習い」である。それは、戦場において武士がわきまえておくべき作法であり、名誉の観念に他ならない。武士は戦場において正々堂々の戦いを繰り広げ、武勲・戦功をたてることをもって第一の名誉とした。一騎当千の勇猛果敢の働きをなし、先陣を競って敵陣への一番乗りを遂げ、名のある敵に一騎打ちを挑んで見事に首級を奪い取ること、あるいは主君の馬前で潔く討ち死にすることが最高の名誉であった(文献23、p.22)。
江戸時代、平和な世となっても武士道は「名誉の掟」でありつづけた。武士の名誉は、名であり、体面であり、外聞でもあるが、まず武家としての誇りがその中核にあった。それは武家として代々生きてきた先祖への顔向けであり、心の内にある「家名」への誇りとこだわりである。この誇りのゆえ、武士は人が見ていないからといって先祖や家名を汚すような行いはできなかった(文献26、p.82)。先祖を含めた世の中の目が、内なる声として武士の行いを律していた。武士にとって名誉は命より重く、武士は命をかけてまで名誉を守った。
名誉が損なわれることが恥である。武士は名誉を重んじ、恥を避ける。武士は、どのような困難に会っても決して屈することなく、恥となる不名誉を避け、先祖伝来の家名を重んじて誇り高く生きたが、注目すべきは、江戸時代、武士道における恥の意識がすでに深く内面化されていることである。
軍学のテキストとして江戸時代に広く読み継がれた『甲陽軍鑑』に次のような記述がある(現代語にしている)。「侍が武士道の働きで実績をあげるような場合は言うまでもなく、一切の事柄に関する善悪の判断については、他人を証人に立てるのは愚かである。ただ自分の心を証人とすればよい。自分の内なる心に対して、自分がいま行おうとしている行動に司っている心のあり方に疑念があるとき、恥を感じることのできる人は、何事についても大いに賞賛されるべきものである」。
また、大道寺友山は『武道初心集』で次のように説く。義の実践こそは武士道の根本であるが、その義の実践に三段階がある。第一は、他人の思惑を気にかけ、後日の沙汰を恐れる心ばえから義を行う人であり、これは「人を恥じて義を行う人」である。すなわち、世間の目を恐れてやむなく義を行うことである。第二は、心中に邪念が生じても我とわが心を見定めて「心に恥じて義を行う人」である。これは自己の内なる心との対話、内面による規制によって義を実践することである。第三は、心中に何の邪念の湧き起こることなく、ありのままに義を行う人である。これは世間の目を気にしたり、内面の規制によってあれこれ思案して義に向かうのではなく、全くの自然体で義を行うことである(文献27、p.130)。
ここでは、恥がすでに内面化されており、道徳の基礎が恥の内面化も超えて宗教的な境地まで至っていることがわかる。日本の武士道が養った恥の道徳規範は非常に深い。
羞恥心はすべての人に備わった普遍的で繊細、かつ高尚な感情であると私は思う。ベネディクトは、恥には道徳の基礎を果たす資格がない、と言うが、私は、道徳の基礎感情として羞恥心の方が、罪の意識よりも普遍性があるのではないかと思っている。恥には確かに、面子をつぶされたことを恥辱と思うこと、外聞を気にして世間から笑われるのを恥じること、また失敗を極度に恥じるなど、必ずしも高尚な感情といえない外面的なものも十分存在する。しかし、繊細な羞恥心は人の自尊心や美意識と直結している。自分の気高さと美しさが失われると自覚するとき羞恥を感じる。それは外聞が悪くて恥かしいということではなく、自分の自尊心に照らして恥ずかしい、自分に対して恥ずかしい、天に対して恥ずかしいという羞恥である。そのような羞恥心が立派な道徳の基礎感情となる。
日本人が培った恥の文化は、世界的にみてハイレベルの道徳的規範を生み出している。それは日本人が何を恥じてきたかを知ることによってわかる。まず、日本人は貧乏を恥と思わなかった。むしろ慳貪な富の蓄積を恥と考えた。日本人は欲得そのものを恥じる傾向さえあった。これは世界的にみて非常に高度な道徳意識である。16世紀中ごろ来日した宣教師ザビエルは日本について、「この国の人は礼節を重んじ、一般に善良にして悪心を懐かず、何よりも名誉を大切にすることは驚くべきことなり。国民は一般に貧窮にして、武士の間にも武士にあらざる者の間にも貧窮を恥辱と思わず」と記している。ザビエルの驚きが目に見えるようである。この頃、日本の恥の道徳はすでにこのレベルに達していた。
江戸時代の日本人は火事場泥棒を最も恥ずべきことだと教えた。泥棒も火事場泥棒も同じ窃盗である。しかし、混乱に乗じ、悲惨な状況にある人間につけこみ、物品を奪うという火事場泥棒は、とりわけ卑劣で恥かしいことと日本人は考える。しかし、世界的には必ずしもそうではない。幸いにもこの美風は日本にまだ健在である。日本人が誇ってよい恥の美意識である。
昔の日本人が到達し、現代日本人がほとんど失ったものに、先祖に対して恥じる意識がある。先祖に対して恥じないように生きる自覚が人間を人間たらしめる、というのが昔の日本人の結論である。恥の意識が、世間に対する恥という外面的な恥から、先祖や死んだ父母という自分の心の中にある人間に対する恥に内面化されている。先祖に恥じることが、自分に恥じる、天に恥じるという内面的な規範になっていくのである。
日本の恥の規範は日本人が信奉してきた立派な道徳規範であるが、問題点は「世間に対する」恥へのこだわりである。ベネディクトは、日本人が世間に対する恥に異常に強く縛られて、それが内面的な規範を凌駕する強い強制力になっていると観察した。この点について、世間に対する恥の感覚などもつ必要は全くないという意見もあるが、私は世間の目を意識してよいと思う。ただ、世間に対して恥かしいと思う外面的な恥と、自分に対して恥かしいと思う内面的な恥が葛藤するとき、内面的な恥を優先させて決断する必要がある。典型的な例は面子や体面を失うという世間に対する恥である。面子や体面を失うまいとする行動が、逆に自分に恥じる、天に恥じる行動にならないか。世間的な体面を失っても、自分に恥じることは何もない、ゆえに自分に恥じないことを優先して決断するということは十分ある。
「A clear conscience fears not false accusation.(清らかな良心は偽りの非難を恐れない)」。これはキリスト教国(罪の文化の国)のことわざであるが、自分に恥じない心はこういった良心にまで到達する。
思いやり
外国人の賞賛する日本人の美徳の一つが、「思いやりの心」である。
ネットの、あるブログに次のような記事が載せられている(文献28)。「以前、日本人の彼女が欲しい、と言っていたアメリカ人の友達にその理由を聞いた時も、日本人女性の相手を思いやる心は素晴らしい、僕らが何も言わなくても心を読んで行動し、喜ばしてくれるんだ、と話していました。一度日本人女性と付き合うと、その気遣い・心遣いの素晴らしさからもう日本人以外の女性と付き合えなくなってしまった、という外国人も多いのです」
また、エルンスト・クラースというドイツ人が次のように言っている。「僕は、アインシュタインが書いた日本訪問記を読んだことがあったが、アインシュタインが日本人から受けた感動を思い出した。つまり、この国民は特有の繊細な感情を持ち、他人の気持ちを推し量る感情が西欧人より厚い、という点だ」(文献1、p.141)
また清水馨八郎は、「日本人が当たり前と考える「思いやり」という人間の情念は西洋にはもちろん、中国にも韓国にもない。日本だけの言葉で、外国の言葉に訳せないのであるから、これだけでも、日本人論のユニークな本質を示している」と『日本文明の真価』で述べている。
日本人は「思いやりの心」を重視する。「思いやり」は日本人の極めて当たり前の道徳感情として日本社会に定着している。日本においてこれほど一般的な「思いやり」の情念や、「思いやり」という言葉が外国に無いとの主張は意外な感じがする。しかし、「思いやり」は韓国語にどうしても訳せない日本語だと聞くし、また中国人も、賛否は別にして、日本の思いやりの文化を自国との相違点として認めているようである。
「思いやり」を和英辞典で引くと、sympathy(同情)、fellow feeling(仲間感情)、compassion(憐み)、consideration(考慮、斟酌)、delicacy(繊細な心遣い)、considerateness(思いやり)、といった言葉が並んでいる。最も近いのは、consideratenessのように思われる。従って、欧米に「思いやり」に相当する言葉が全くないとは思わないが、思いやりのある日本人を賞賛するアメリカ人がいるのを見れば、欧米における「思いやり」は日本におけるほど一般化していないということだろう。
思いやりはまことに日本社会の根底にある倫理感情だと私は思う。日本文化の大半が思いやりの心につながっていると言って過言ではない。日本は和を尊ぶ社会であるが、和を成立させているのが思いやりの精神である。日本文化は察しの文化である。周囲と世間がどう考えているかを察し、気配りする。自己主張をあまりせず、控え目を尊ぶ。これらはみな思いやりの精神とつながっている。日本人はノーと言うことを好まない。これも思いやりである。また、日本人は相手が傷つくような発言は避けようとする。相手を気遣い、断定を避け、歯切れの悪い言い方をする。これがいたわりのマナーとなっている。
日本人はいつも、こう言えば相手はどう感じるか、先方の気持ちや立場はどうか、という意識をもって、先方の受け取り方や立場から逆算して自己の言動を選択するようなところがある(文献29、p.69)。諸外国にも、相手のことを思いやって行動するといった態度が皆無とは思わないが、先方の受け取り方や立場から逆算して行動するようなところまで達することがあるのは、日本だけだろう。こういった文化から、阿吽の呼吸とか、腹芸とか日本独特の察する文化が生まれている。
日本の思いやりの文化は深く社会に定着している。何気ない日本語の表現に、思いやりの心があって生まれたものがある。よく引かれる例だが、客人や主人に対して、「お茶がはいりました」と言う。「お茶を入れました」とは言わない。これは、お茶を用意した自分の働きを消した表現だが、客人や主人に負担を感じさせないようにする思いやりの心が背景にある。繊細なもてなしの心である。
日本人は思いやりこそが人を人たらしめ、思いやりの感情が道義の根本であると考えてきた。文化勲章受賞の天才数学者で、日本文化に関する深遠な造詣をもつ岡潔さんは言う。「ではその人たるゆえんはどこにあるのか。私は一にこれは人間の思いやりの感情にあると思う。人がけものから人間になったというのは、とりもなおさず人の感情がわかるようになったということだが、この、人の感情がわかるというのが実にむずかしい。(中略)数え年で三つの終わりごろから感情ということがややわかるが、それはもっぱら自分の感情で、他人の感情がかすかにわかりかけるのは数え年で五つぐらいからのようだ。(中略)しかし、そのデリケートな感情がわからないうちは道義の根本は教えられない」。
また、幼児教育で有名な平井信義さんは、「私の50年に及ぶ子ども研究の結論は、『意欲』と『思いやり』を育てれば立派な人格の青年になる、ということです」と述べている。小児科医で50年にわたって、幼児といっしょに遊びながら、その成長を見守ってきた平井さんは、自立した立派な青年に成長した子どもたちの幼児期を顧みて、どの子も幼児期にいきいきと意欲的に遊ぶ子であったこと、そして、その子どもたちには共通して「思いやり」の心があったことに気付いた。そして平井さんは、「思いやり」は大人でもなかなか実現できない深さをもち、それは人間が一生かけて作り上げていく心のあり方である、子どもに「思いやりの心」を育てるためには、まず親が「思いやり」のある人間にならなければならない、と言っている。
岡潔さんも平井信義さんも明快に、思いやりの心が人の基本であると言っている。日本人はこのように思いやりの心を深く養い、これを前提とする社会をつくってきた。しかし、この日本の思いやりの文化を世界的にみるとどうだろうか。日本の思いやりの文化が、思いやりの文化をあまりもたない標準的な外国と齟齬をきたす例をいくつかとりあげて考えてみよう。
まず、日本人は欧米流のディベート(討議)を概して得意としない。これは訓練の不足もあるが、ディベートは日本人の思いやりの文化になじまないことが理由の一つである。ディベートは双方が自己の正しさを主張し、対立する意見を戦わせてどちらが正しいか決める。ディベートする人は、自己の正しさの論理化と、相手の非(間違い)の発見とその論理化に集中する。自己は徹底的に正当化し、相手の非には容赦なく論理的に切り込む。欧米人はこれを感情抜きで論理的なゲームのように行う文化をもつが、相手を思いやる文化をもつ日本人は、このようなディベートに心理的抵抗感がある。結果、相手の非の追求にも徹底せず、自己の正当性の論理化も不完全で、ディベートの敗者となる。
また、日本人はイエス、ノーがはっきりせず、何を考えているかわからないと言われる。ノーとはっきり言わないのでイエスだろうと思ってことを進めていたら、あるとき急に怒りだして激しい反対意見を述べる、といった評価である。これを日本人の側にたって説明すると、相手を思いやって発言する日本人は、ノーの場合でも婉曲に表明する。相手も自分の立場を考慮して、自分がノーであることはわかってくれるはずだと考える。実際は、このような察しの文化は外国にはない。相手はこちらの立場などを全く考慮せず、一方的に主張してくる。これほど相手の立場を考えてやっているのにと、ついに怒りが爆発する。
また、日本人は見ず知らずの人に対して思いやりがないという評価もある。アメリカでは店に入るとき、後ろから続いている人がいたら、ドアを開けて先に入れさせてあげる。次の人が通るまでドアを押えておいてくれる。日本ではそういうことをする人はいない。また、ウィーンで三年間生活した私の妻が言う。駅の階段を女性が重いケースをもって登っていたりすると、ヨーロッパでは必ず見ず知らずの男性がさっと持ってくれる。日本ではそういう目にあったことがない、と。
国際的といえない日本の思いやりの文化を全く評価しない人もいるが、私は日本の思いやりの文化をすばらしいと思う。多くの日本人が肯定するように、思いやりの感情こそ道義の根本である。思いやりは、キリスト教の「愛」、仏教の「慈悲」、また儒教の「仁」と同様、あるいはそれ以上に人類共通の普遍的な倫理だと思う。そして、日本人が尊重する他の倫理規範と同様、思いやりの倫理も日本人の美意識とつながっている。日本人にとって、人を思いやる生き方は美しいのである。
外国とのコミュニケーションは、日本の思いやりの倫理を堅持しながら可能である。このとき、思いやりを感情的な次元から「理性の思いやり」にシフトさせる必要がある。ディベートで相手の主張の非を追求することは、相手を思いやる精神と両立する。むしろ、相手に悪いからとの感情に終始し、いい加減なところで妥協するのは、相手をバカにしている。討議を尽くして対立する主張から新しい次元の意見を得ることが、相手を真に思いやっていることになる。討議には透徹した理性が求められる。
はっきりノーということと思いやりも両立する。はっきり言わないことは、思いやりが感情の次元にとどまっていて、理性的でない。そして、相手もこちらがノーだとわかってくれるはずだと思うのは、一種の「甘え」である。こうした「甘え」は外国にはない。そしてこうした甘えは、倫理的にも高尚ともいえないだろう。自分は人を思いやる精神を堅持し、相手からは思いやりなど期待せず、人は円滑なコミュニケーションが可能だと思う。
ドアを開けて先に人を入れさせてあげる、あるいは、駅で弱い女性の荷物もさっと持って運んであげる、といったことは欧米に定着している社会的マナーである。欧米人は特に思いやりからというわけではなく、普通のマナーとしてやっていると思う。日本にはこのようなマナーは定着していない。しかし、このマナーも元来思いやりから出た行為だと思う。日本には思いやりから生まれた数多くの習俗があるが、このような欧米の良い慣習もやがては日本にも定着するのではないだろうか。
思いやりの倫理は、日本人が長い歴史の中で培ったすばらしい倫理である。この倫理が日本の平和で温和な住みやすい社会の基礎になっている。我々は思いやりの倫理を誇りをもって堅持したい。思いやりのある日本人は世界に良い影響を与え続け、世界から称賛されるだろう。
潔(いさぎよ)さ
「潔(いさぎよ)いこと」が日本人の美意識の核心を形成している。自分に非があることがわかったらさっと認め、謝罪する。つべこべと言い訳しない。未練がましくしない。思い切りよく、男らしく、きれいにあきらめる。負けた言い訳はしない。こういった潔(いさぎよ)さを日本人は好む。潔いことが美しいのである。外国では、自分に非があっても不利になるからできるだけ謝罪しない、といった考えが主流であるが、日本人はそのような考えを美しくないとみなす。
潔さをよしとする日本人の美意識は今も健在である。これが人間評価の重要な要素となっている。インタビューアー斎藤明美さんに『最後の日本人』という著書がある。彼女が出会った多くの尊敬すべき人の中から、高峰秀子、サトウサンペイ、王貞治など25人をとりあげている(その多くは故人となっている)。こんな人がどんどんいなくなってしまう、という思いをもって著した本である。斎藤さんは言う。「たぶん私はこんな人に日本人を感じたのだと思う。こんな人の中に見た忍耐、努力、信念、謙譲、潔(いさぎよ)さ――、それを私は日本人の美徳と信じてきたのだと気づいた。だから限りない憧れと敬愛の念を抱くのだと。日本人とは何か――。ここに登場してくださる方々が、即ち、私の答えである」と。彼女にとっても潔(いさぎよ)さは特筆すべき日本人の美徳なのである。
ところで、非常に意外な気がするが、これほど日本で当たり前の潔い美の倫理が、外国にはないようである。欧米になく、中国、韓国にもない。潔い倫理は日本のみで発達、成熟した美意識の倫理のようである。
「潔(いさぎよ)い」を和英辞典で引くと、gallant(勇ましい)、brave(勇ましい)、pure(潔白な)、clean(きれいな)、upright(まっすぐな)、manly(男らしい)、sportsmanlike(スポーツマンのような)といった言葉が並んでいる。どれも「潔い」にぴったり当てはまらない。英語には日本語「潔い」に相当する単独の言葉はないと思う。
欧米(ドイツとアメリカ)で長く生活した松原久子さんは著書『言挙げせよ日本』で述べる。「ヨーロッパでは謝るということが賠償につながり、国土の削減につながり、下手をすると滅亡につながることを誰もが知っている。(中略)それ(宗教裁判)はヨーロッパ人の歴史的記憶となって受け継がれ、謝るということは死に繋がるのだという教訓を残している。(中略)非難を受けるようなことをやったばかりでなく、そのうえ開き直って、つべこべ言い訳を述べ、厚顔無恥の徒だと日本人が感じるようなやり方が西欧社会の常識である」(文献30、p.34-35)。松原さんは、日本的な「潔く謝る」といった社会通念はヨーロッパにはなく、それは、ヨーロッパでは謝罪する者は敗者としてたたかれ、滅ぼされる歴史を経験しているからだと言っている。
中国・韓国にも「潔い倫理」はない。中国人・韓国人の「潔くない」ところは欧米人を上回るかもしれない。日本人のように「恨みも潔く水に流す」ことなどありえない。日本人は、人はどんな人でも死ねば仏になると考える。人に恨みをもっていても、その人が死ねば、死者に鞭打つようなことはしない。ところが中国人は恨みのある人間に対してその墓を暴き、文字通り「死者に鞭打つ」ことまで行う。潔さの対極にある行為である。中国古代、呉の名将伍子胥が父兄の仇である楚の平王を討ったとき、平王は亡くなっていたため、墓から死体を引きずりだし、死体を300回鞭打ったことが『史記』に記録されている。中国人は、恨みの対象が死んだからといって赦すことはない。日本人の美意識とは全く違っている。そして、伍子胥は中国では人気のある古代の武将である。
韓国人もこの点において中国人に負けない。韓国には「恨(ハン)」という民族感情がある。「恨」とは、韓国人の持ち続ける恨み、悲哀、不満、痛恨、妬み、怒り、といったわだかまりの感情である。韓国歴代の王朝は苛斂誅求であり、民衆は抑圧されていた。古来強大な中国に服従を強いられ、近代は日本に支配された屈辱の歴史をもつ。そのような過酷な歴史の中で民衆に蓄積した感情が恨(ハン)である。人々は恨(ハン)をバネとし、悲惨な境遇から脱却して、屈辱を晴らそうとする。人は恨(ハン)を持ち続けることをよしとする。これもまた、潔さをよしとする日本人の美意識と全く違う。中国人と韓国人は潔さの倫理感情において日本人と決定的に異なる。
日本人の潔さの淵源は、武士道、仏教、神道、そして風土に求められるだろう。まず武士道であるが、潔く死ぬという精神が武士道の中核にあった。武士の務めは戦場で戦うことである。死を恐れず、勇敢に戦う。負けたら潔く死ぬのが武士の美学であった。逃げたり、命乞いをする恥辱には耐えられなかった。また、武士は何か過ちを犯したり、自分の責任を果たすことができなかった場合、言い訳せず潔く切腹するという厳しい倫理の中に生きていた。日本は鎌倉以来、明治維新まで約700年、このような武士の支配する社会だった。潔さをとりわけ重視する武士の倫理(=武士道)は庶民に浸透し、その影響は現在に及んでいる。
次に仏教についていえば、仏教の「執着を絶つ」教えは潔さに通じる。仏教は、諸行無常、つまり、すべてのものは刻々と変化して常住不変なものはない。この事実を徹底的に認識して、後れず、怠らず努めなさいという教えである。そして、あることに執着し、こだわっていては諸行無常の世にとり残される。こだわらない心で一瞬一瞬を生きなさい、それによって人は自由な境地(悟り)を得ることができる。このような仏教の教えは、潔くあきらめる、といった精神と遠く離れたものではない。仏教は日本人の潔い倫理に宗教的な深みを加えたといえるだろう。
次に神道との関連について、日本人は何でも水に流してきれいさっぱりとすることをよしとする。毎日風呂に入り、身体を水で洗って清潔に保つだけでなく、心の汚れも祓って清くなろうとする。この感覚が神道の「清浄の思想」であるが、水に流そうとするものはこれだけにとどまらない。過去のいざこざ、不和もきれいにさっぱりと水に流して新しい関係に入ろうとする。過去にこだわらず、未練なくさっぱりとあきらめる潔い倫理は、こうした神道の「清浄の思想」の近くにある。
神道の核となるもう一つの「生成の思想」も潔さの淵源である。生成の思想は、宇宙の霊力によって生命が生成発展することが世界の常態である、とみる思想である。従って、生命が生成し発展していくことが善であり、これを損ない、淀ませるものが悪である。過去へのこだわりは生命を淀ませる。こだわりはさっぱりと棄て、新しい関係に入ることが、生命の発展をもたらす。未練なくきっぱりとあきらめる「潔い倫理」は、生命の淀みをなくし、新たな発展をもたらす神道の「生成の思想」に沿っている。
最後に、日本人の潔さを生んだ背景にやはり日本の風土があるだろう。日本は温帯に属し、豊かな自然に恵まれた住みやすい国であるが、同時に、地震、津波、台風、豪雪などの厳しい自然が猛威をふるう国でもある。しかし、地震、津波、台風、豪雪などは永続するものではない、突発的、また季節的なものである。過ぎれば必ずもとの温和な自然にもどる。この自然の特徴が、日本人のきれいにあきらめること、思い切りのよいこと、淡泊に忘れる日本人の気質を形成したと、和辻哲郎は『風土』に説く。
次に「潔い倫理」の問題点について触れておこう。
前述したように外国は潔い倫理をもたず、日本だけがもつゆえ、日本は外国とのコミュニケーションに齟齬をきたす。日本人の潔い美意識を理解できない外国人は、日本人の潔さに対して不信感をもつ。変わり身が速く、忘れっぽく、情が薄い、ゆえに信用できない、と。彼らにとって、しつっこく主張にこだわり続けるのが正義である。過去を水に流すことなどありえない。中国・韓国と日本との不和には多くの原因があるが、潔い倫理をもつ国ともたない国との間におけるコミュニケーションの齟齬が、その一つにある。
日本国内でも潔い倫理の問題点は顕れた。太平洋戦争で日本軍の玉砕がたくさんあったが、この背景に潔く死ぬ美学があったと思う。負けて捕虜になるくらいなら潔く死んだほうがよい、との思想が日本の軍部に存在した。東条英機が陸軍大臣のとき示達した『戦陣訓』に「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」との条がある。1943年5月31日の朝日新聞朝刊は「一兵も増援を求めず。烈々、戦陣訓の実践」との見出しでアッツ島での日本軍の玉砕を伝えている。これは『戦陣訓』の思想が世間に流布していたことを示す。
捕虜になるくらいなら潔く死ぬべきだとの思想を含む『戦陣訓』は、特に東条英機が創作し行き渡らせたものではない。明治時代、日清戦争で清国軍が日本人捕虜をあまりにも惨忍に扱うことを問題視した山縣有朋が、1894年「敵国側の俘虜の扱いは極めて惨忍の性を有す。決して敵の生擒(きん)する所となるべからず。寧ろ潔く死を遂げ、以って日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うせよ」と訓令している。従って、太平洋戦争中、玉砕や自決で軍人・民間人が多数命を落とした原因を『戦陣訓』に求めることは間違いであろう。『戦陣訓』以前から、軍部に潔く死ぬことをよしとする倫理が存在した。戦って潔く死ぬ武士の倫理は明治以降特に軍部に受け継がれた。そして一般の国民もこの倫理の影響下にあった。これが太平洋戦争における日本軍の玉砕や自決の背景にある。
ところで、潔さだけでなく、ほとんどすべての倫理道徳は極端に過ぎると問題を生じる。伊達正宗は「仁に過ぎれば弱くなる、義に過ぎれば固くなる。礼に過ぎれば諂(へつらい)となる。---」といった言葉を残している。絶対的な道徳項目と思われる仁や義も、極端に過ぎれば問題を生じるということである。日本における潔い倫理は、人の生死をも左右する倫理にまで到達した。倫理道徳は、人間はいかに生きるべきかという問いに対する答えである。いかに生きるべきかは、いかに死ぬべきかという問いと不可分である。ゆえに潔く生きる倫理が潔く死ぬ倫理まで達したのは当然ともいえる。しかし、潔く死ぬ倫理は命の尊さ、生命の尊厳と相克を生じる。潔く死ぬことが生命の尊厳を保つという場合も大いにあるだろう。しかし私は、太平洋戦争における日本軍の玉砕や自決を生んだ決断に、命の尊さよりも潔さの美の倫理が過ぎた背景があったと思う。
このような問題点があることを認めながらも、私は日本で発達した潔い美の倫理を非常によいと思う。間違いは潔く認め、謝罪し、過去を引きずらず、新たな関係を構築する。美しい人間のあり方であるとともに、未来志向の発展の論理そのものである。そして、このような倫理を発達させた日本社会は立派な社会だと思う。過ちを知りつつ絶対に認めない、絶対に謝罪しない、過去にこだわり続ける、といった外国の社会よりもずっと立派である。潔くあることは、人間はかくありたいと思う理想の一つで、普遍性のある人間の美徳だと思う。この倫理が外国で成立しなかったのは、外国では戦乱と闘争の歴史が長く、過酷であって、潔い美学では生きていけない社会が形成されてしまったからだと考える。
日本人は高度に発達した潔い倫理と、これを培った日本社会を誇ってよい。潔い倫理をもたない外国人も、潔さを美しい人間のあり方として理解できると思う。むしろ、そのような美学で生きる日本人と日本社会を、羨ましく思うのではないか。台湾に「あさり」という言葉がある。これは日本語の「あっさり」という意味で、プラスの人間性評価の言葉だと聞く。台湾の人々は日本人の潔さを理解し、評価しているのである。
日本は潔い倫理を保持しつつ、外国との共存は十分可能である。外国にないといって潔い倫理を捨て、外国人に合わせる必要はない。外国人が潔さを美意識としてもたないことをよく知ってコミュニケーションしていけばよい。外国の大勢よりも日本の方により普遍性があると信じる。ただし、一点だけ、日本の潔い美の倫理は生きるか死ぬかの判断に影響するところまで到達したが、武士道において培われた潔く死ぬ倫理は、生命の尊さをより重んずる方向にシフトする必要があると信じる。
自然であること
日本人は「自然であること」を好む。不自然は好まない。「それは不自然だ」と言った場合、それには何か誤りがあること、間違いが含まれていることを示唆する。日本人は自然であることに価値をおき、自然な判断と自然なふるまいをよしとする。不自然や作為は美意識に一致しない。また、日本人は自然を畏敬すると同時に自然を愛し、これに親し むが、このような自然に対する態度と、「自然であること」をよしとする美意識とは一つのものである。
日本人は究極的なところで、「自然」を信仰しているといえる。日本人にとって、自然が絶対であり、自然が神である。自然こそ日本人の宗教であり、形而上学であり、倫理である。日本人の自然に対する絶対的な信仰は、古来日本思想の根底をなして、連綿として現在に至っている。
江戸時代初期の儒学者伊藤仁斎は、新思潮である宋学(朱子学)よりも、孔子の論語に儒学の神髄があるとして、これを重視する古義学を唱えたが、彼は、孔子の教えを「自然の正道」であるとした(文献37、p.48)。また、幕末の儒者山田方谷は、陽明学でいう「良知」について、「良知の良は善の謂いにあらずして、自然の謂いなり」との言葉を残している(文献37、p.61)。自然が良知(最高の知、叡智)であるということである。また、文豪・夏目漱石が晩年「則天去私」を標榜したことはよく知られている。ここで「天」は「自然」におきかえてよいだろう。私を去って、自然に即する。これが漱石の到達した悟りであった。
日本人が絶対視する「自然」とは、どのようなものであろうか。広辞苑によれば、「自然」とは「おのずからそうなっているさま」である。日本人にとって自然とは、おのずからなるもの、おのずからなったものである。この自然観は欧米人と決定的に異なる。欧米では自然はゴッド(神)が創ったものである。絶対者はゴッド(神)であって、自然は被造物にすぎない。そして、人間も神が創ったものであるが、人間は自然の上位にあって、外から自然をみる。これに対して、日本人は人間もおのずから成った自然の一部であると考える。
日本人にとって宇宙の究極は人格的な超越者(ゴッド)ではなく、おのずからなる自然の生成の働きそのものである。山も川も草も木も人間も自然の生成の働きによって成り現れてきた。おのずからとしての自然の生成が、この宇宙を成り立たしめている根源の働きである。そして、「おのずからなること、おのずからなったもの」としての自然が絶対である。これが日本人の自然信仰である。また、日本人は自然それ自体に、また自然の背後に宇宙の生成の霊力を感じた。宗教性をもって自然を受けとめてきた。
このようにおのずから成りゆく自然、成った自然を絶対的なものとしてみる自然信仰が日本人の宗教、倫理の根底にある。それは自然への随順という姿勢を生む。廣瀬淡窓は「自然の成り行きに任するが良きなり」との言葉を残している。山鹿素行は、「誠」をもって倫理の基本としたが、素行は自然を已むをえざる誠ととらえ、自然への随順を誠に生きることとした。また芭蕉は「造化に従い、造化に帰れとなれり」と言う。造化とは自然のことで、芭蕉は「自然に帰れ、人生の根本的なあり方は自然に従い自然に帰ることだ」と言っているのである。そして、自然が最後にわれわれを救済してくれる、自然に入っていけば永遠に安らぎを得られる、という宗教的な境地をも表明している。
古来、日本人の精神の奥深くを、意識するとせざるとにかかわらず、おのずからなる自然が支配してきた。外来宗教である仏教も、日本のこの自然信仰に大きな影響を受けた。それは、仏教の深化であるとともに日本化でもあった。最澄が開いた日本天台宗は「天台本覚思想」を唱えた。本覚とは本来、現象を超えたところに存在する究極の悟りであって、その悟りを得た者が仏である。しかし、天台本覚思想では、俗世の人間を含む現象世界をそのまま絶対とみなして肯定し、人は生まれつき本覚をもっている(悟っている)と説く。これは、現象(=自然)がそのまま仏であるとする思想である。自然はそのままで絶対的なものとして聖化される。この天台本覚思想が、日本人の精神を支配する自然信仰による仏教の日本化であることは明らかであろう。
親鸞の深遠な思想も、日本の伝統的な自然信仰に帰着している。親鸞の思想はキリスト教に似ているといわれる。自分が悪人であることの徹底した自覚、自力で救われないことの絶望、そしてただ阿弥陀仏に帰依して救われたという自覚。これは、罪を自覚する人間が行為によってではなく、神であるイエスをただ信じることによって救われるという、キリスト教の教えと共通している。親鸞の教えはいわば、阿弥陀仏一神教である。しかし、親鸞が最晩年に到達した「自然法爾(じねんほうに)」の思想を考察すれば、親鸞の思想が日本のおのずからなる自然信仰の中にあることがわかる。
親鸞は、宇宙の究極的なものが「かたちましまさぬ(かたちがない)」ゆえにこれを「自然(じねん)」というのであるという。阿弥陀仏というのも、この「自然(じねん)」を知らせる方便である。阿弥陀仏を信じることにおいてのみ知られてくる究極的なもの、それが「自然(じねん)」ととらえられている。そして究極的なものである「自然(じねん)」は、宇宙に遍在する救済力そのものである。阿弥陀仏にすがることは、この宇宙の究極的な救済力を実感し、これに任せることである。日本人は自然を霊力に満ちたおのずからなるものととらえ、これを信仰するが、親鸞はそのような自然に救済力を感得した。親鸞は伝統的な日本人の自然信仰を宗教的に深めたといえるだろう。
現代日本人もほとんどが、無意識のおのずから成る自然の信仰者だと思う。日本人はおのずから成るものに対して、素直にこれを受け止める態度をよしとする。ゆえに無私であろうとする。しばしば「ここは自然体で行こう」と言う。自分の決断も自然にそうなったことをもってよしとする。「今度結婚することになりました」と言い、「今度結婚を決断しました」とはあまり言わない。そして自然の流れで成立したことにはあえて異をはさまず、追認してしまう。日本人は「なる論理」をよしとし、「つくる論理」にはなじまない。自然はおのずからなったもので、これをゴッドが創ったものだとするキリスト教の自然観に違和感をもつ日本人は多いと思う。
私個人をとってみても、無意識におのずからなる自然を信仰している。私は若い頃(40年近く前)、在インドネシア日本大使館に勤務して三年間ジャカルタに住んだが、須之部さんという非常に立派な方が大使であった。須之部大使が帰国されるときの、大使館員に対する最後の講話が今も耳に残っている。公務員としての仕事に関し、こうおっしゃった。「ものごとはなるようにしかならない、しかし、なるようにはなるのだ。だからただベストを尽くせ、くよくよする必要はない」。私はその時、深く教えられて心が軽くなった気がした。今思うに、須之部大使の話が腑に落ちたのは、自分が無意識の「おのずからなる自然」の信仰者であったゆえであろう。
おのずからなる自然を絶対的なものとみて、これを信仰する日本人の宗教意識に問題点があることは指摘できる。それはキリスト教思想をもつ欧米人との違いから見出される指摘である。キリスト教においては、自然は絶対的超越者・神(ゴッド)が創った、神(ゴッド)による被造物である。そして、人間も神による被造物であるが、人間は自然の一部ではない。人間だけが神に似せて創られ、神の理性と生命を分与されている。人間は自然の上位にあって、外から自然を見る。これに対して、日本においては、人間はおのずからなる自然の一部であり、自然に含まれる。
この自然観、人間観の違いが、欧米と日本における「人間の主体性の強さの違い」をもたらす。欧米にあっては、神の理性を分与された人間は自然よりも神に近く、自然よりも偉大な存在である。ゆえに、人は神のスチュワートとして自然を管理できるし、支配もできる。従って欧米においては、人間の主体性が日本よりも強く現れる。自然に随順することをよしとするような態度は決して生まれない。
日本においては人間もおのずからなりゆく自然の一部であり、人間社会もおのずからなりゆくものである。日本人は歴史をつぎつぎとなりゆく勢いとしてとらえる。人間社会もおのずからなる自然であるととらえて、その流れに随順する傾向の発生が、日本人のおのずからなる自然信仰の最大の問題点であろう。個人の主体性はなく、流れに身をまかせ、長いものには巻かれろとなり、なりゆくことを追認し、無責任となる。なりゆく社会も最終的にはおのずからなる自然の一部であろうが、実際のところ、社会は人間の意志と行為および活動の集積として成っていくものである。この自覚が薄いとき、ただ社会の流れに随順する態度となる。
このような問題点があるが、おのずからなる自然信仰は日本人の心のあり方の根源をなす。外来の思想も日本のおのずからなる自然信仰に吸収された。そしておのずからなる自然信仰になじまない思想は日本には定着していない。日本人は、古来、おのずからなる自然信仰を根本にもって、人間としてのあり方を引き出してきた。この自然信仰は普遍的な形而上学となりうると私は考えている。
おのずからなる自然信仰が、社会の流れにただ随順するという傾向を生むという問題点については、次のように考える。社会は人間の主体的な意志と行為および活動の集積として成る自然である。ゆえに社会を改革する意志と行動はおのずからなる自然と矛盾しない。人間もおのずからなる自然の一部であるが、意志と主体性も自然のおのずからなるエネルギー(霊力)の中に生まれたものである。ゆえに、おのずから生まれた意志をすなおに発現して社会を改革する活動をしていくべきである。自然の一部としての人間はおのずから真善美を知り、必要なことに気づく能力を備えている。それは自然が霊的存在であるからである。キリスト教思想との関連で指摘される日本の自然信仰の問題点も、新しい思想を導入することなく、日本の伝統的な自然信仰の形而上学の中で解決できる。
0コメント