「近代の超克」

https://www.koganei-style.jp/rokubu/about-rokubujuku/rokubu-school-profile/implementation-program-guide/next-study_learn-from-ancestors-menu/ryoutaro_shiba_library/theme1-guide/1-2-2/ 【「近代の超克」とは何だったのかを概観しておく】より

「近代の超克」の戦後知識人の見解とは

実際、数多くの知識人がこの戦時中に行われた座談会「近代の超克」についての見解(非難、再認識、課題提示)を発表されています。

この項では、その一部と戦後すぐから、今に至る長くのこの「近代の超克」への見解を追いかけることで、司馬氏の「この国のかたち(一)」での「日本の近代」を理解する階段を上る一段を形作れればと思います。

先ず、司馬氏の「日本の近代」でも説明はされているのですが、この「近代の超克」座談会の概要を書いておきます。

この座談会は「文学界」の同人が呼びかけたもので、出席者は、司会役の河上徹太郎が「これだけの人数の一流の人たち」と呼んだ次の13人です。

西谷啓治、諸井三郎、鈴木成高、菊地正士、下村寅太郎、吉満義彦、小林秀雄、亀井勝一郎、林房雄、三好達治、津村秀夫、中村光夫、河上徹太郎

この知識人を簡単に区分けすると、

1)文学界を拠点とする保守的な文人たち

2)亀井勝一郎が代表する日本浪漫派

3)京都学派と呼ばれる学者

という3つの区分けが可能です。

この座談会の詳細は、以下の冨山房百科文庫の本で読むことができます。

【1.戦後すぐの反応】

司馬氏は、戦後すぐには、このテーマでの発表を行われませんでした。「日本の近代」の発表は、1986年です。

戦後すぐには、京都学派からの回答といった形でいくつかの論文が提示されたようです。

京都学派の四天王と呼ばれた高山岩男氏の「世界史の哲学」がその代表的なものでしょう。

【2.司馬氏と同時期から平成初期の反応】

代表的ないくつかの論文をご紹介します。

〇広松渉氏の『「近代の超克」論』は、講談社の学術文庫が読みやすいかもしれません。

〇文芸評論家であり、吉本隆明論などでも知られる神山睦美氏は、小林秀雄の「近代の超克」での位置づけを述べられています。


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「この国のかたち(一)」:1986年から1987年までの連載シリーズで司馬氏が先ず、最初に課題提示しなければならないと考えたことを知る

戦後、司馬氏の「なぜ、日本はこんな国になってしまったのか?」という問いを発するのに最初に述べなければならないと考えた内容がこの(一)に並んでいます。

小説という方法の「自らの想いをつたえる」という作業に限界を感じてきた氏が考え抜いて、まとめようと思った「この国のかたち」とそれを検証していくための旅「街道をゆく」が60歳を過ぎてからの氏の決意を教えてくれます。

このコンテンツでは、その(一)に込められた「江戸期の日本から、明治維新という形で突き進んだ明治期に『日本の近代』を総括するという方法で、昭和の戦争へと向かった日本の過ち、その過ちの課題を戦後の今に継承し、警鐘をならす」という目的を明らかにしていきます。

私たちの世代がこの問いかけに答えていないと思うからこそ、こうした作業が必要だと思いました。

1)「この国のかたち(一)」の目次から

親カテゴリーで紹介した第一章の「この国のかたち」での内容(こちらをご覧ください)に続く、この(一)の章は、以下のようなものです。

2 朱子学の作用

3 “雑貨屋”の帝国主義

4 “統帥権”の無限性

5 正成と諭吉

6 機密の中の“国家”

7 明治の平等主義

8 日本の“近代”

9 尊王攘夷

10 浄瑠璃記

11 信長と独裁

12 高貴な“虚”

13 孫文と日本

14 江戸期の多様さ

15 若衆と械闘

16 藩の変化

17 土佐の場合

18 豊臣期の一情景

19 谷の国

20 六朝の余風

21 日本と仏教

22 日本の君主

23 若衆制

24 苗字と姓

第一章で「尊王攘夷」というナショナリズムの気分が生んだ幕末の流れが明治維新という現象を起こしたことを、さらにその外圧に恐れて、大きな改革を起こす日本的な歴史風土の特徴を述べたことに続く各章の流れは、この目次からもなんとなく、見えてきます。

*尊王攘夷を生んだ中国での宋学とその流れをくむ朱子学が江戸期の国学であったこと

一方で

*その日本の封建制から生まれた「名こそ惜しけれ」という世界的にも独自な思想の存在したこと

*尊王攘夷というナショナリズム、イデオロギーが江戸期の雄藩の下級武士によって、明治政府に持ち込まれ、日本の近代がやせ細ってしまったこと

*江戸期末期に実学として、近代の基礎ともなりえた地方の多様な知恵「荻生徂徠、安藤昌益、三浦梅園、富永中基、山片蟠桃など」を取り込まずにきたこと

*その結果としての40年という長い、昭和の敗戦までの日本が現出したこと

*これが本来の日本ではなく、海外からの外圧に恐れ、やせ細った立憲制という名ばかりの近代が至った戦争という悲劇とは何だったのか

*“統帥権”というマジックをゆるした日本の歴史を知る

という流れが(一)の概略です。

ある意味では、戦前からの日本の知識人が「西洋の文化と知識を取り込み、発展させたことが日本の近代」だとしたことへの解答とでもいえたものがこの「この国のかたち」だったのではないかと思えるのです。

目次の中の太字で示した「8 日本の“近代”」で河上徹太郎氏や小林英雄氏(1983年没)への答え、解答として、戦後世代の日本の近代とはを答える清算、ある意味では、前の世代の知識人たちが戦時中に提示した「近代の超克」への返事ともいえるものだったのではないでしょうか。

さらに、後半部「14 江戸期の多様さ」から「19 谷の国」までの章では、江戸の各藩に生まれた文化、そしてその基礎のなったのが、商人や町人であるとともに武将から「地侍」へと立場を移し、その地域での農業土木などを担った侍たちにあったことを語られているのがもう一つの(一)の大きな流れです。

関東でいえば、「箱根の坂」で取り上げた伊勢新九郎・北条早雲で開かれた戦国。その農民を第一に考える姿勢と農業土木技術を侍たちが地域開発という意味で発展させてきたのが戦国時代であった視点がそれです。北条隣地の優等生と武田信玄を語り、その下で育った侍たちが江戸期に地侍として、関東で江戸期に開拓を担ったこと。こうした地域文化が日本の本来あるべき近代の基礎となっていれば、明治以降の日本はこうはならなかったのではないだろうか。というのが司馬氏の(一)の後半部に込めた意図と思えます。

それは、上記の「近代の超克」を語った「日本の近代」の章からも読み解くことができます。以下にこの「日本の近代」の章から、司馬氏の想いを語る部分を以下に転載して、ご紹介します。まずは明治という時代への視点です。

<転載部分>

もし、明治維新成立のとき、日本じたいの“近代”の要素(または風土)の上に欧米の近代を接木したとすれば、ずいぶんおもしろいことになったはずである。死児の齢をかぞえるに似ているが、明治国家のはての昭和初期も、あれほど思想として痩せた社会にならなかったように思える。なんといっても、明治維新を成立させたのは、雄藩の下級武士で、かれらの教養は朱子学的なもの(少数ながら国学的なもの)でしかなかった。

<転載、以上>

そして、昭和17年の知識人による「近代の超克」については、以下のように続けられています。

<転載、部分>

(前略)

『近代の超克』というのは、戦時中(昭和17年)の知識人に衝撃をあたえた意見群である。戦後、そのタイトルだけが独り歩きし、軍の戦時指導に調整的な役割をはたした意見群としてずいぶん評判をわるくした。

このタイトルは、河上徹太郎がつけたという。このタイトルのもとに、小林秀雄や亀井勝一郎、西谷啓治、林房雄、下村寅太郎らの諸氏が参加した。

私は、当時無知な学生だったから、「文学界」所載の特集を読んでも、高踏すぎて、意味が良くわからなかった。

戦後、その一部を読み返した、愛をこめたおかしみを感じた。

近代とはモノの質量を大衆レベルで比較する精神だが、そのことは、一行も出ていないのである。モノを比較してハダカの価値を見てしまう精神など、中世以前の精神からみれば、まことにザッカナイものである。そういうガラの悪さがすこしもでておらず、中世貴族の高雅ささえ感じてられてしまう。

論文篇のなかで下村寅太郎が

“我々が、「近代」と称しているものはヨーロッパ由来のものであり、少なくとも今日それの超克が問題にされる「近代」は、その外には存在しない”

と書いている。また、河上徹太郎が、座談会篇のなかで、

“僕の考えじゃ、ヨーロッパの19世紀のの分析というようなことから入っていくと結局吾々はヨーロッパの文明に依って教育されて来たので”

と受けた教育を中心に近代を述べている。

たとえば、“三八式歩兵銃を何十万挺ならべたって、世界を相手に戦争はできませんよ”といった具合のガラの悪さでもってたれも近代を語っておらず、まことに痛ましいほど品が良く、教養的なのである。

そこへゆくと、戦後のガラの悪さというのは、江戸の“近代”に対応する徂徠も中基も蟠桃もあるいは竜馬も、とても戦時中に生きることはできなかったろうが、戦後には生きることができた。

明治国家が買いに買った“近代”がどうゆうものであったかが、昭和17年の『近代の超克』が証明してくれるともいえる。

<転載、以上>

『近代の超克』を語った戦前世代の彼らが没した時期に、司馬氏など、戦争を体験した次の若い世代からの解答(まだ、誰もが成しえていなかったこと)が「この国のかたち」の重要な一部だったようにと思えるのは、私だけでしょうか。

もし、そうだとしたら、それの司馬氏の「この国のかたち」という解答に我々の世代はなんと答えるのかがなにより大事なのではないのでしょうか。まず、氏の解答を理解し、それに対峙すること、それがこのカテゴリーの目的です。

次の項では、さらに「近代の超克」とは何だったのか、そして、それに対する司馬氏の答え「江戸の近代」とはを考えていきます。


https://www.koganei-style.jp/rokubu/katachi-1-3/ 【「“雑貨屋”の帝国主義」の位置づけ】より

1)この国のかたち(一)で第三章となる「“雑貨屋”の帝国主義」という章の意味を考える

第二章だった「朱子学の作用」は、近世から、近代へと向かう日本史で司馬遼太郎氏がもっとも大きな理解を必要とする内容だったことが容易に想像できます。この六部塾でもその意味で「この国のかたち(一)」の解題で最初に取り上げました。しかし、この第三章は、その物語的な展開からも、司馬氏が苦労してひねり出した一章であること、また第一章にも劣らない、近代の入口で日本が遭遇した災難を語る章だという気がします。以下、その(一)に必須とおもえるこの章をご紹介していきます。

日本の近代という“異胎”との出会い

まるで昔話のような出だしで、山の中での“異胎”と出会うという設定でしか、語れなかったことがこの司馬氏が自らの夢想、想いに貼り付いて離れない、形容しがたいものであったことを物語っています。この物語は、司馬氏の日本の近代をこんな道筋に誘った「お前は何者だ」という悲痛な叫びが形となったものです。以下、実際の章から、部分的に転載し、ご紹介します。

<転載、部分>

ただし、そのモノがみずからを定義したのは、近代といっても、1905年(明治38年)以前のことではなく、また、1945年(昭和20年)以後ということでもない。その間の四十年間のことだと明晰にいうのである。つまりこの異胎は、日露戦争の勝利から、太平洋戦争の敗戦の時間が、形になって、山中に捨てられているらしい。

<転載、以上>

そして、司馬氏は、「日本史はその肉体も精神も十分に美しい。ただ、その途中、何かの異変がおきって、遺伝学的な連続性をうしなうことがあれば」として、この異胎の40年を規定した上で、この異胎へ、「なぜ、日本は、(日ロ戦争の)勝利後、にわかづくりの大海軍を半減して、みずからの防衛に適合した小さな海軍にもどさなかったのか」と最初の質問をするのです。司馬氏としては、「大海軍というのは、地球上のさまざまな土地に植民をもつ国にしてはじめてひつようなものである。」「日露戦争のたきには、日本は、世界中にもっていないのである。」と理解しており、その上でこの質問を発し、さらに質問を以下のように続けます。

<転載>

日本は、日露戦争終了後、5年して、韓国を併合した。数千年の文化と強烈な民族的自負心をもつその国の独立をうばうことで、子々孫々まで恨みを買うにいたったが、当時の日本の指導者はそのことについての想像力をもっていたか、と訊いてみた。

<転載、以上>

異胎の返事は、単純で「あのこには、深刻な事情があった」とし、「ロシアはその辺境の“満州”でわずかの差で敗れたとはいえ、巨大な余力を残したていた。かならず報復のために第二次日露戦争を仕掛けてくると日本は思っていた」というものだった。そう思っていたのは、「参謀本部」だという。この参謀本部こそが、司馬氏の提示した日本史上、異常な40年の一つの解答となっています。以下、参謀本部について、司馬氏は、語り続けます。

<転載部分>

参謀本部については、つぎに譲りたいが、ともかくも明治憲法下の法体制が不覚にも孕んでしまった鬼胎のような感じがある。といえば不正確になる。参謀本部にもその成長歴があって、当初は陸軍の作戦に関する機関として、法体制のなかで謙虚に活動した。

<転載、以上>

そして、誕生から、その後の参謀本部の変化を以下のように簡単にまとめられます。この参謀本部のもった“統帥権”については、次の第四章「“統帥権”の無限性」で詳しく語られます。日露戦争後の参謀本部が進めた日本の韓国併合についてのみ、この章では語られます。そして、さらなる質問、「この40年がいうところの帝国主義であったのか?」へと語り進められます。

<転載部分>

日露戦争がおわり、明治41年(1908年)、関係条例が大きく改正され、(参謀本部は)内閣どころか陸軍大臣から独立機関になった。やがて、参謀本部は、“統帥権”という超憲法的な思想(明治憲法が三権分立である以上、統帥権は超憲法的である)をもつにいたるのだが、この時期にはまだこの思想はそこまで成熟していない。だから、日韓併合の時期では、のちの“満州事変”のように、国政の中軸があずかり知らぬうちに外国に対する侵略戦争が“参謀”たちの謀略によっておこされるというぐあいではなかった。

しかし、将来の対露戦の必要から、韓国から国家であることを奪ったとすれが、そういう思想の卸し元は参謀本部であったとしか言いようがない。

さらに質問した。このモノ(異胎)の40年間の活動は、いうところの帝国主義であったのか、と問うと

<転載、以上>

異胎の「ちがう」という答え(司馬氏自身の答えでもあります)に司馬氏は、当時の日本の状態を雑貨屋と規定し、「内実は帝国主義ですらなかった」とその実態を、以下のように説明されるのです。

<転載部分>

二十世紀なかばまで、諸家によって帝国主義の規定やら論争やらがおこなわれたが、初歩的にいえば、商品と資本が過剰になったある時期からの英国社会をモデルとして考えるのが常識的である。過剰になった商品と、カネの捌け口を他に得るべくーつまり企業の私的動機からー公的な政府や軍隊をつかうというやり方だが、日本の近隣においては、英国のこのやり方を中国に対しておこなった。

しかしその当時の日本は朝鮮を奪ったところで、この段階の日本の産業界に過剰な商品など存在しないのである。朝鮮に対して売ったのは、タオル(それも英国綿)とか、日本酒とか、その他の日用雑貨品がおもなものであった。タオルやマッチを売るがために他国を侵略する帝国主義がどこにあるだろうか。

要するに日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない。

<転載、以上>

この「日本人の調子狂い」は、余力のなかった日本政府がロシアに対して結んだ講和条約に対する日本の大群衆の反応のこととして、司馬氏は以下のようにその反省を投げかけます。

<転載部分>

ここの大群衆が登場する。

江戸期に、一揆はあったが、しかし政府批判という、いわば観念をかかげて任意に集まった大群衆としては、講和条約反対の国民大会が日本史上最初の現象ではなかったろうか。

調子狂いはここからはじまった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。「国民新聞」をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽り立てた。ついに日比谷公園でひらかれた全国大会は、参集する者三万といわれた。かれらは暴徒化し、警察署2、交番219、教会13、民家53を焼き、一時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令を布かざるをえなくなったほどであった。

私は、この大会と暴動こそ、むこう40年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量にーたとえば参謀本部にー蓄電されて、以後の国家妄動のエネルギーになったように思えてならない。

むろん、戦争の実相を明かさなかった政府の秘密主義にも原因はある。また、煽るのみで、真実を知ろうとしなかった新聞にも責任はあった。当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい。

<転載、以上>

そして、侵略がソロバン勘定にあったこともある(満州、華北への進出)とする異胎の言動に、以下の言葉をぶつけて、この章を結ばれます。

<転載部分>

“統帥権”は、内閣から独走して、華北に謀略的に冀東(きとう)政権(昭和10年、1935年)をつくったことを指しているらしい。日本からの商品が満州国に入る場合、無関税だった。この商品がこれ以後、華北に無関税で入るようになった。このため、上海あたりで芽を出していた中国の民族資本は総倒れになり、抗日への大合唱に資本家も参加するようになった。翌年、日本は泥沼の日中戦争に入ってしまう。“満州”が儲かるようになったというのは、密輸の合法化ともいうべき右のからくりのことをこのモノはいうのである。その商品たるやー昭和10年の段階でーなお人絹と砂糖と雑貨がおもだった。このちゃちな“帝国主義”のために国家そのものが滅ぶことになる。一人のヒトラーも出ずに、大勢でこんなばかな40年を持った国があるだろうか。

<転載、以上>

次の項目では、この40年の時期とその背景となる帝国主義、韓国併合、統帥権、参謀本部、講和条約反対の大合唱と新聞の暴動を煽った報道などという事象が如何に教えられているかを公教育の歴史教科書で見ていきます。どのようにこの時代を教えてきているのでしょう。少なくとも私はこうした背景を学んだ記憶はありません。物語として、日本の異胎とでもいえるようなモノとして、理解してはいませんでした。





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