評論詩「切れについて」

http://haiku-space-ani.blogspot.com/2008/10/blog-post_6669.html 【評論詩「切れについて」(作品番号9)――西郷信綱氏の亡くなりし日より――】・・・筑紫磐井  より

(本編を読むのが負担な読者は、末尾に概要を付したのでそれから眺められたい。それだけでも結構十分であると思う)

第1章 「切れ」とは

「切れ」とは何か。

俳句における切れを論じる前に、詩歌における切れを考えなければならない。

短歌では古代から中世にかけて重要な意味があった

(万葉集と古今和歌集、新古今和歌集の歌風の分析で)が、近世・近代の短歌ではさほどの意味はなくなっている。

短歌以外の歌謡や詩歌では当然切れるときに切れるのであって、

切れそのものを詩歌の本質として意識することは少なくなった。

――戦後(それも平成になってから)、俳句に限って切れは問題視されているようである。

それでは歴史的な点検をするにあたり、古代歌謡において切れはどのように意識すべきであろうか?

それは現在俳句でしばしば議論されている切れの問題と通底するものがあるのだろうか?

切れの問題は、ここから始まる。

さて、時代をこのように超越して考えようとするには、まず「切れ」とは何かを定義することが必要である。

我々は文章や詩歌を眺めて直ちに切れが分かるような錯覚を持ちやすいが、実は切れがあるかないかは相当に難しい問題である。

例えば、切れと切字が何かと言うことについては、切字は切れを持ち、

切れは切字によって実現するというような固定観念を持っているが、本論の第1章はそこからまず懐疑してみることから始めねばならない。

私はこう言おうと思う、定型詩学【注】的に「切れ」とは、我々に提示された<文素(単語と見てよい)の集合体>(文)の中で文頭・文末以外の切断をいう。

文頭・文末の切断を「切れ」と言わないのは、それがむしろ提示の仕方の問題だからである。文頭・文末は提示した人(オールマイティな神)の与えた条件であり、提示される側が解釈すべきものではない。

このように考えると、日本歌謡において「切れ」は4種の原理として出現している。

○第1種切れ(始源的切れ)

   (1)要素反復の切れ  (2)構造反復の切れ (3)沖縄クェーナの切れ

○第2種切れ(恣意的切れ/息切れ)

   (1)短歌の切れ・長歌の切れ  (2)句読法

○第3種切れ(ジャンル創造的切れ)

 (1)発句の独立(文末を作るための切れ)(2)付句の独立(冒頭を作るための切れ)

○第4種切れ(強制的切れ)

【注】筑紫磐井が『定型詩学の原理』(2001年9月刊)で提唱した体系で、ヤコブソン詩学を一層推し進め、詩の内容を捨象し、形式分析を行う。以後『近代定型の論理』『詩の起源』に展開した。

第2章 第1種切れ(始源的切れ)

(1)要素反復の切れの景(シーン)

すでに『定型詩学の原理』『詩の起源』で論じたように、日本の古代歌謡は一見57音の定律でできているように見えるが、結局の所、反復(「要素反復」と呼ぶ)からまず生まれた。

日本の古代歌謡の最初の原理が57音の連続であったかはきわめて疑問であり、どうもその最初は2句を1単位とする要素が延々と続くのが本質原理であったと考えられる【注】。

[万葉集1] *

籠もよ み籠持ち 34   掘串もよ み掘串持ち 56   このこの岳に 菜摘ます児 55

家告らな 名告らさね 55  そらみつ 大和の国は 47  おしなべて 吾こそ居れ 56

しきなべて 吾こそ座せ 56   我こそは 告らめ 家をも名をも 537

こうした中で、特に原始的な歌謡形式を持つ長歌を例に見てみると、実は反復があると考えると言うことは切れを認めているのだということ、切れが存在すると見なければ反復を検証できない、ということに思い至る。

もっと古いと考えられる歌から、さらに顕著な例を見てみよう。

[古事記101] *

纏向の 日代の宮は A  朝日の 日照る宮 B1  夕日の 日陰る宮 B2

竹の根の 根足る宮 C1  木の根の 根蔓る宮 C2  八百土によし い杵築の宮 D1

ま木さく 日の御門 D2  新嘗屋に 生ひ立てる E  百足る 槻が枝は F

上つ枝は 天を負へり G1  中つ枝は 東を負へり G2  下枝は 鄙を負へり G3

上つ枝の 枝の裏葉は H1  中つ枝に 落ち触らばへ J1  中つ枝の 枝の末葉は H2

下つ枝に 落ち触らばへ J2  下つ枝の 枝の末葉は H3  あり衣の 三重の子が K

捧がせる 瑞玉盃に L  浮きし脂 落ちなづさひ M   水こをろ こをろに N

こしも あやにかしこし P  高光る 日の御子 Q   事の 語りごとも こをば θ

これがどのような構造となっているかを一覧しよう。

(各列の末尾にアルファベットを付した。「事の 語り言も こをば」は慣用句であり

特別の扱いとして表示(θ)した。)

A┰B1┰C1┰D1─E─F┰G1┰H1─J1─K~Q─θ

 ┗B2┗C2┗D2 ┝G2┝H2─J2

  ┗G3┗H3

膨大な反復から成り立つこの古代歌謡も、実は反復を見つける瞬間に我々はそこに切れも同時に発見しているのである。

具体的に言えば、反復する第1要素(2句1単位:B1)と第2要素(2句1単位:B2)の間には切れがある。さらに、それらと反復する要素の前(A)にも、後(C1)にも

切れが存在している。

古代歌謡にあっては2句1単位構造が基本をなしている(例外は末尾)から、こうして推測される切れは2句切れ、4句切れ、偶数句切れとして出現する。

当然のことながらこれは切字とは全く関係のない切れである。

【注】万葉集の巻頭にあり、雄略天皇がの詠んだとされる著名なこの例歌の場合は、34565555475656537の定数律を持ち、通常言われる57の反復は1つも見ることができない。

(2)構造反復の切れの景(シーン)

上代歌謡にはもう一つの歌謡の構造が存在する。これを構造反復と呼ぶ。

これは奇妙なことに現在解読不能となっている歌謡に示されている構造である。

[日本書紀122]

摩比羅矩都能倶例豆例於能幣陀乎邏賦倶能理歌理鵝美和陀騰能理歌理美烏能陛侘烏邏賦倶能理歌理鵝甲子騰和与騰美烏能陛侘烏邏賦倶能理歌理鵝

誰も解読できない歌謡である。

ただ、この歌謡は解読不能であっても万葉仮名の段階で同期性を示しており、音数から見ても同期性を意識して作られていると考えられる。

いま、それがいかなる定型をもっているかを知るために

原文を再分節してみる。

摩比羅矩都能倶例豆例/於能幣陀乎/邏賦倶能理歌理鵝

美和陀騰能理歌理美/烏能陛侘烏/邏賦倶能理歌理鵝

甲子騰和与騰美/烏能陛侘烏/邏賦倶能理歌理鵝

ここで示されている定型とは、全体語数、あるいは句内の語数がどうであろうと、末尾部分で全く同じ構造の句を発生させるということである。

模式的に書けば次のようになるであろう。

A、B、Cはそれぞれ異なる句であり、Xのみ共通する。

A―X  B―X  C―X

実は、この構造は要素反復の定型と同時に現れる。

日本の歌謡の中では構造反復は必ずしも独立派ではない、付随的な反復定型なのだ。

―――むしろ同じ構造反復は沖縄のオモロで見られる、 そちらの方こそ面白い。

が、閑話休題。しかしながらここでも、実は反復があると考えると言うことは

切れを認めているのだということ、切れが存在すると見なければ反復を検証できない、

ということに思い至る。いずれにしろ古代歌にこのような例は多く示される。

[日本書紀104] *

級照る 片岡山に飯に  飯に飢て 臥せる その旅人あはれ

親無しに 汝成りけめや さす竹の 君はや無き  飯に飢て 臥せる その旅人あはれ

[万葉集3] *

やすみしし 我が大君の  朝には とり撫でたまひ 夕には い縁り立たしし

御執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり  朝猟に 今立たすらし 暮猟に 今立たすらし

御執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり

どの歌も傍線部分は特徴的反復構造をなしている。そして紛れのない切れが存在している

前の図式で言えば、

A、BやXの長さはまちまちであるが全体的構造だけは変わらない。

そしてこのような構造は、上代歌謡の一部だけでなく、時代を下った催馬楽や田歌、

狂言歌謡などにも広く見られるのである。

(3)沖縄クェーナの切れの景(シーン)

話題を転じて、琉球歌謡に議論を向ける。琉球歌謡の86韻律構成はよく知られているが、

むしろここでは歌体の方に関心を寄せたい。

琉球歌謡と言えば「オモロ」にまず代表されるが、記紀歌謡との関係では、「オモロ」に匹敵する歴史を持つと思われる「クェーナ」を眺めてみる。

[南島歌謡集成・クェーナ一(久米仲里旧記)] *

けふのらいに、 A1  なまのらいに、 A2  よかるひ、 B1  きやかるひ、 B2

ゑらびいたち、 C1  そそひいたち、 C2  そいきよらのおやのろ おやぬし、 D1

みぜりきよのおやのろ おやぬし、 D2  やぢよく引、 E1  まひと引、 E2

しまそひに、 F1  きもだかに、 F2  おしあがり、 G1  くみあかり、 G2

大なさば たかへて、 H1  さたとのは たかへて、 H2

(以下略)

ここに見える反復性は、上代歌謡の要素反復の構図とよく似た例を示す。

┌A1┌B1┌C1┌D1┌E1┌F1┌G1・・・・・

└A2└B2└C2└D2└E2└F2└G2

もちろん、琉球歌謡の厳密性に比べて、上代歌謡は恣意的であるし、

それぞれのアルファベット(句)の意味するものが、上代歌謡は2句構成であるのに対して

琉球歌謡は1句構成となっている等の差はあるが、(D、Hは例外)基本的な構造は合致していると見てよい。

のみならず、そしてますますクェーナでは 反復と切れが一体となっていることが明らかなのである。

第3章 第2種切れ(恣意的切れ=息切れ)

(1)短歌の切れ・長歌の切れの景(シーン)

古代歌謡(主に長歌)から生まれた短歌形式は定律の緻密な形式として展開してゆく。

原初的には、長歌と同じ民衆による伝承歌謡あったはずであり、当初はその祖型である古代歌謡からの原理導入をして反復から生まれる切れ(2句切れ、4句切れ)が多かった。

[万葉集4]

たまきはる宇智の大野に 馬並めて朝踏ますらむ  その草深野       間人老

しかし、額田王や柿本人麿などの専門歌人が作り鍛え上げていった自由な定型の中で、まず下の第4句と第5句が一体化し77として受容されるようになる。

第4句と第5句との切れが消滅していったのである。

[万葉集63]

いざ子ども早日本辺(やまとへ)に 大伴の御津の浜松/待ち恋ひぬらむ      山上憶良

[万葉集76

大夫(ますらを)の鞆(とも)の音すなり 物部(もののふ)の大臣(おほまへつきみ)/楯立つらしも 御製

一方上の第1、第2、第3句である57と5の間の切れが曖昧化してゆく。

第3句の5文字がどのような機能を果たしているかは実は未分化な状態が続いた。

[万葉集30]

楽浪の志賀の辛崎(からさき)/幸(さき)くあれど 大宮人(ひと)の船待ちかねつ  柿本人麿

[万葉集31]

楽浪の志賀の大曲(おほわだ)/淀むとも 昔の人にまたも逢はめやも      柿本人麿

しかし最終的には、57と5ははっきり一体化し、575と77の3句切れに分化し、これが歌の技法として主流になって行くのである。

作者は575が終わると息を接ぐ、そしておもむろに77をよむのである。

これを第2種の切れと呼ぶ。作者の主観で作り出した恣意的な切れであり、これも、直接切字とは関係のない切れである。

[新古今和歌集]

心なき身にもあはれはしられけり 鴫立つ沢の秋の夕暮         西行法師

こうした切れは果たして意図的な切れか偶然的な切れか疑わしいという人もいるに違いない。こうした人に示すには長歌の方がよいであろう。

古今和歌集に現れた顕著な原理対立は貫之と忠岑の息切れの対立として現れている。

【古今和歌集】

ふるうたたてまつりし時のもくろくの、そのなが哥 つらゆき 

 千はやぶる 神のみよゝり くれ竹の 世々にもたえず。 あまびこの をとはの山の 

 はるがすみ おもひみだれて さみだれの そらもとゞろに さよふけて 山ほととぎす

 なくごとに たれもねざめて からにしき たつたの山の みもぢばを みてのみしのぶ

 神なづき しくれしぐれて 冬のよの 庭もはだれに ふる雪の 猶きえかへり

 年ごとに 時につけつゝ あはれてふ ことをいひつゝ きみをのみ ちよにといはふ

 世の人の おもひするがの ふじのねの もゆるおもひも あかずして わかるゝなみだ

 ふぢころも をれる心も やちくさの ことのはごとに すべらきの おほせかしこみ

 まきまきの 中につくすと いせの海の うらのしほかひ ひろひあつめ とれりとすれど

 玉のをの みじかき心 おもひあへず 猶あらたまの としをへて 大宮にのみ

 ひさかたの ひるよるわかず つかふとて かへりみもせぬ わがやどの しのぶぐさおふる

 いたまあらみ ふるはるさめの もりやしぬらん。

  (句点の打てるところは打ってみた)

貫之の長歌は殆ど、「57」の二句の繰り返しでできており、末尾の「577」のみ3句が採用されている、57調長歌と言うことができる。これは人麿以来の伝統的長歌であった。

これに対し、

【古今和歌集】

ふるうたにくはへて、たてまつれるながうた 壬生忠岑

くれ竹の よよのふるごと なかりせば いかほのぬまの いかにして

 思こゝろを の ばへまし。 あはれむかしべ ありきてふ 人まろこそは うれしけれ。

 身はしもながら ことのはを あまつそらまで きこえあげ すゑのよまでの あとゝなし

 今もおほ せの くだれるは ちりにつげとや ちりの身に つもれる事を とはるらむ。

 これをおもへば けだ物の 雲にほえけむ こゝちして ちゝのなさけも おもほへず

 ひとつこころぞ ほこらしき。

 かくはあれども てるひかり ちかきまもりの 身なりしを たれかは秋の くる方に

 あざむきいでゝ みかきより とのへもる身の みかきもり おさおさしくも おもほえず。

 こゝのがさねの なかにては あらしの風も きかざりき。

 今は野山し ちかければ 春は霞に たなびかれ 夏はうつせみ なきくらし

 秋は時雨に 袖をかし 冬はしもにぞ せめらるゝ。

 かゝるわびしき 身ながらに つもれるとしを しるせれば いつゝのむつに なりにけり。

 これにそはれる わたくしの おいのかずさへ やよければ 身はいやしくて 年たかき

 ことのくるしさ かくしつゝ ながらのはしの ながらへて なにはのうらに たつなみの

 なみのしわにや おほゞれん。

 さすがにいのち おしければ こしのくになる しら山の かしらはしろく なりぬとも

 をとはのたきの をとにきく おいずしなずの くすりもか

 君がやちよを わかえつゝみむ。  (句点の打てるところは打ってみた)

忠岑の長歌は、冒頭の「575」が3句となり、以後「75」の繰り返しで、末尾は「77」で結ぶ、75調長歌である。

この結果当然のことであるが、貫之が古典的な長歌(古代長歌)であるが故に5言の部に多くの「枕詞」を使っているのに対し、忠岑は新しい長歌(近代長歌)でありほとんど枕詞の使用がない。

75調で枕詞を使う事は困難であったのだ。そしてそれと引き替えるように枕詞に比較して

自由度の大きい「縁語」の頻出が見られるようになる。

短歌で偶然に見えた57調(古代長歌)と75調(近代長歌)は長歌では極めて堅固な意志として現れる。

そしてこの近代長歌の伝統は、「和讃」さらには浄瑠璃や今様など様々な「近世・近代歌謡」を経て、ついに「新体詩」にまでつながっているのである。

  初恋  島崎藤村

まだあげそめし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛 (はなぐし) の

花ある君と思ひけり やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは

薄紅 (うすくれない) の秋の実に 人こひそめしはじめなり わがこころなきためいきの

その髪の毛にかゝるとき たのしき恋の盃 (さかずき) を 君が情けに酌 (く) みしかな

林檎畠の樹の下に おのづからなる細道は 誰 (た) が踏みそめしかたみぞと

問ひたまふこそこひしけれ

    (以下略)

とはいえ、これらの切れは、意図的ではあっても恣意的なのだ。

その意味で、これは第一種切れ(始源的切れ)とは全く違う。

そうではないと思った瞬間にたちまちに消え去ってしまう、砂上の楼閣のような切れである。

第1種が詩の本源から生まれるものとすれば、第2種は歌う人が息を切るための切れなのである。

(2)句読法の景(シーン)

さて息切れ(第2種切れ)について学びたいなら、俳句や短歌の内部にこだわっていてはダメだ。もっと広大な資料を相手にするべきだ。

そもそも息切れはどこで行われるのであろうか?

それは文法上の切れのあるところで息切れされるはずである

(これに対し、第1種切れは文法を無視して切れている可能性もある)。

もちろん、弁慶読みという遊びがあるが、しかしこれも正統息切れ法があっての逆説であって、あたかも伝統俳句があっての新興伝統俳句があるようなものだ。

 [元]弁慶が、なぎなたを持って、・・・・

 [新]弁慶がな、ぎなたを持って、・・・・

国学の歴史を含めて日本語文法の長い考察の結果、文法上の切れが明確に意識されたのは

橋本進吉の「文節」の考え方であろう(『国語法要説』昭和9年)。

江戸時代から時枝誠記まで、日本語の特質を「詞」対「辞」と考えた2項対立的な見方を、

橋本が「詞」+「辞」=「文節」と提案することにより、文節末尾が切れの候補であることが分かるようになった(文節末尾の中に文末もあるので候補としておく)。

例えば、文節の/末尾に/息切れを/すべて/入れても/煩わしく/迷惑なだけで/絶対的な/間違いではない。

この中の/幾つかが/正統的な/息切れと/なるばかりだ。

橋本進吉の/文節概念が/いかに/すぐれていたかを/立証する/ものである。

しかし、橋本文法がなかったからといって切れがなかったわけではない。

息切れがなければ長文はしゃべれないからである。その息切れの法則は、句読点法である。

句読点のあるところで日本人は息(吸気)をしていい、だから句読点がなければ日本人は全員窒息死していたはずである。

しかしこの句読点たるや誠に恣意的であることは、息切れ=句読点と見れば、上の実施例で分かる。

[文例]

例えば、文節の、末尾に、息切れをを、すべて、入れても、煩わしく、迷惑なだけで、絶対的な、間違いではない。この中の、幾つかが、正統的な、息切れと、なるばかりだ。

橋本進吉の、文節概念が、いかに、すぐれていたかを、立証する、ものである。

芥川龍之介が「僕等は句読点の原則すら確立せざる言語上の暗黒時代に生まれたるものなり」(『文部省の仮名遣改定案について』)と嘆いているとおりである。

この約物(やくもの)と言われる印刷上の約束は、当然、欧米から印刷技術が入ってからのものであり、明治初期以前にはこうした「約束」は存在していなかった。

では、句読点という「もの」は明治初期以前には全く存在していなかったか?

江戸時代の俗話体の文章(十返舎一九『東海道中膝栗毛』式亭三馬『浮世風呂』『浮世床』、洒落本など)には句点(「。」「.」。時々は読点としても使用)が使われるが、

その使用法はやはり恣意的である。

これを句読点といったかどうかは知らない。

[浮世風呂二編序]

嚮(さき)に著す男湯の浮世風呂。一篇這入た大入に。發客(はんもと)腹をば温たれど。湯番のあたる火と共に焚落の灰となりしは。終湯の入損ひ。今一足で噫嘻惜哉。其焼版は東と西も(ともかくも)。涼湯(ゆざめ)のせぬ間に今一編と。二度入の御方様より。休の翌を俟つごとく御懇望頻也。

ただ句読点が<「句読」の点>であるとすれば、句読点は古い歴史がある。

句読点は「点」であり実体のある約物であるが、「句読(くとう)」は行為であり、もっとソフトな制度だ。漢学は句読なくしては成り立たない。

多くの江戸時代の藩校は、内部をおおよそ「句読」所(小学校に相当)、終日詰(中学校に相当)、外舎(高等学校に相当)、試舎生(大学教養課程に相当)、舎生(大学専門課程に相当)に分けていた。句読所とは初心コースに当たる。

また、藩校にいる教師は、管理職(祭酒、教授、助教、訓導、総監など)以外は、

「句読」師、習書師、算学師と呼ばれていた。学問の基本は句読であったのである。

句読師が何をしていたかといえば素読を担当し、座右に五経一部を備えて、素読生を順番に前に出させ、最初は字突で一字ずつ付きながら口授し、やがて字突なしで読めるまで熟読させる。ここで、句切れを口授して学習させたのである。

彼らは、漢字の読み、漢文の読み順と同時に、どこで句切れをしたらよいかを教えたのだ。

これは儒学の伝統の中で行われていたから、公的な句切れの学習である。

平成の俳人が行っているような全くの恣意的な句切れ、息切れではない。

明治になって新学制が生まれても、句読のやり方は同じだった。

まだ教科書が生まれていなかったから、教師がもっぱら自分の経験に照らして教育した。

当時の教育は、読み・書き・算盤であり、これに対応した筆道師・句読師・算術師がいた。

しかし句読の実体は変わらない。

さて、藩校で行われた句読の際、そこで使われた学習メモや指導メモが残っており、

そこで送りがな・返り点と同時に「句点」が登場する。

「。」「・」「○」が当てられていた。

因みにこれらは本字と同格ではなく、送りがなと同格であったようだ。

しかしともかく、口授で句切れを教えていたもの(ソフト)が、印という外在物(ハード)によって表示されるようになった。

やがてこれらは刊行物となって流布した、従って句点は漢文籍でまず普及したようだ。

漢文籍では送りがな・返り点があるから句点が付いても汚れたように見えないが、

和文籍では句点は汚れて見えて嫌われたのだろう、句点の付いている例は少ない。

あるいは『浮世風呂』も、こうした講義講話の筆記技術(滑稽本の源流には心学などの講話速記が影響を与えていたらしい)から輸入されたものであったかも知れない。

芭蕉の俳句は1行で存在している(立っている)。

芭蕉は、句読点も、口授による句読も残さなかった。

それを平成の俳人が、自分一人の解釈を提示するならともかく、俳壇としての句読法を階定しようなどというのはおこがましい限りである。

元々作者にさえ句読を決めることはできない。

間違いなく読ませたいのなら、(会津八一、折口信夫、高柳重信、伊丹三樹彦のように)

詠んだ時点で1句の中に、句読点を入れるか、わかちがきにするか、改行して多行にすべきなのである。

それをしなかったのは、作者が様々な解釈をする余地を残したといってよいだろう。

様々な解釈をする余地を排除する権利が平成の俳人にあるわけがない。

定まっていない句読法は、芥川が言うように暗黒時代なのではなくて、内心の自由の中のちょっとした不便さに他ならないのだ。

第4章 第3種切れ(ジャンル創造的切れ)

(1)発句の独立(文末を作るための切れ)

   ―――発句の切字は、「第3種切れ」に関わる字である。第2種切れとは関係ない。

短歌は古くから連歌形式を発生させていた。第2番目の勅撰集である後撰和歌集に中世最初の連歌が登場している。

一見似ているように見える3句切れ短歌と(鎖)連歌の上下句であるが、根本的な違いが発生時点から生まれている。

3句切れ短歌の上下句は同一作家が作り思想的な連続性があるのに対して、連歌の上下句は別な作者が作り思想的な不連続生がある点である。

[後撰和歌集]

    白露のおくにあまたの声すれば 男

     花のいろいろありと知らなん 女ども

上句は、男が騒がしい御簾の内側を皮肉っているものであり、これに対して魅力的な花があるとやりこめているのが女の下句である。

初期の連歌の大半はこうした機知の遊びの様子を少なからず持っていた。

後述のように「発句は必ず言い切るべし」は、連歌から見た要請であるが、短歌から見ても同じ要請が出されている。

[藤原為世・和歌秘伝抄]

上句に詞をつくし力を入れざれば下句かならずよみにくし。連歌と歌とかはる事此いはれなり。連歌は一句に心をいひはてたるに、後句を求めつくるによりて、連歌歌とてこはく聞ゆるは此謂はれ也。をとりたれども下句に理かなへばよき歌なり、下句上句にをとらば秀逸の体にあらず。

上句ならば下句に、下句ならば上句に思想的フォローを期待してはいけないのだ。

それは鎖連歌の時点では、機知のおもしろさとして現れたが、百韻連歌となり、かつその発句となる時点で、過大な負担がかかるようになる。それは発句の独立性である。

発句と脇句が切れているだけでなく、脇句と第3、以後あらゆる前句と付句は切れているはずである。

にもかかわらず、発句に切字が要請されているのは、単純に切れが要請されているのではなく、独立性を要請していると見なければならないからである。

単純なる短連歌、長連歌ではない、百韻が成立すると言うことは、発句と平句と挙句が形式的にも存在することとなる。

他の平句が常に付けられ・付ける(能付・被付)の二面性を持つのに対し、発句は被付、挙句は能付だけの機能を持つ。

平句と差別化するとすれば、発句は独立性をいよいよ高めざるを得ないこととなる。

平句と差別化するための用語として切字は要請されたのである。

鎌倉時代の連歌式目書にさえこう書かれている。

[順徳院・八雲御抄]

発句は必ず言い切るべし、何の何は何をなどはせぬことなり、「かな」とも「べし」とも、また春霞秋の風など体にすべし。(正義)。

この過程で要請された用語が切字「かな」である。

思うに、見ただけで発句と分かる独特の用語として、切字「かな」は重宝したであろう。

地下(ぢげ)の初心者には極めて分かりやすい基準だからだ。

これからも分かるように、切字は「かな」に尽きる。

百韻の中で平句に使われる可能性が低いからである

(連歌時代にはわずかにあったが、後世の俳諧連句ではほとんど見えなくなる)。

これに準ずる「けり」や「なり」に至っては、切字機能(独立機能)から見れば2流の切字というべきだ。ただ季語が必須の要件であるのに対し、切字は必須の要件となっていない。

これは季語が<堅い基準>であるのに対して、切字は<柔らかい基準>であるからである。

あってもよい、なくてもよい、あると一段とよい、「俳句らしさ」がそれで確認できるというわけである。

しかし、単に式目にあるからといってそれですべてが決まるわけではない。

なぜそうした式目ができたか、これ以上にその理由が明確に告げられている初期連歌書はない。ただ一方でそれは、発句が独立の文芸として自立する契機となったことは間違いない。

(以上は、発句がなぜ独立しなければならないかを告げるのみで、俳句の内部に切れがなければいけないということにはならない。)

[二条良基・連理秘抄]

発句は最大事の物なり。かな・けり常の事なり、このほか、なし・けれ・なれ・らん、また常に見ゆ、所詮発句はまづ切るべきなり、切れぬは用ゐるべからず。かな・けり・らんなどやうの字は何としても切るべし、物名・風情は切れぬもあるなり、それはよくよく用心すべし。

[宗砌・密伝抄]

発句の切れたると申すは、かな・けり・や・ぞ・な・し、何等申すほかに、なにとも申し候はで、五文字にて切れ候ふ発句、―――是は五文字の内にて申す子細候ふ。其の謂は五文字の内にて、「かな」といはれ候はぬは皆切れたる句にて候。五文字の内にて「かな」と言はれ候へば、切り候はぬにて候。「吹く嵐」など申し候ひては、「嵐かな」とすはり候ほどに切り候はず候。只、これ計りの口伝に候。其の謂は・・・いずれもいずれも五文字の内にて「かな」といわれ候はぬ事、治定にて候。

[紹巴・連歌教訓]

発句においてあまたの作意あるべし、口伝好士に問るべし。「かな」といふ字に五つの様あり。一つには落付哉、二つには願ひ哉、三つには浮きたる哉、四つには沈む哉、五つには現在の哉なり。

「57577」を575/77と切るのは当然だと思っている人が多いようだが、

切れは恣意的切れである以上必然はない。

実際、連歌の草創期には57/577の切れが見られる。

[非現存本延喜御集(袋草紙)]

野辺にゆきて折りつることは     中務宮

霜のうちにうつらぬ花を哀れとやみる 醍醐天皇

だから、575/77が支配的になったのは、偶然にすぎない。

それは、短歌に2句切れと3句切れが存在するのと同じように、恣意的であった証拠である。ただ、多くの作品がこの律、575/77を快適と判断する傾向性があることはあった。

投票を行えば、有権者の多数は575/77を選んだかもしれない。

だからといって自民党が正しいわけではない。

以上見たように当初は未だ、和歌の内部の切れ、恣意的切れ(息切れ)にすぎなかった。

しかし、圧倒的多数によって選ばれた政党が国家そのものになるように、多くの大衆によって支持を受けた息切れが、第2種の切れから第3種の切れを生んだ。

ここにおいて、切れは制度となった。

切れた前半は発句となった。切れた後半は脇句となった。発句と脇句の間に切れが存在する。では、発句の末尾に切れはあるのか。

短歌は末尾が77の定型であるから間違いなく切れていた。長歌から想像する限り、77は終了のコードであった。そうした外形があった。発句にはそれに相当する定型要素がない。

外形がない。575の5は終了のコードではない。

そこで、切れを提示する特別な用語を末尾に入れた。「かな」「けり」「をり」である。

しかし、発句の自由な表現を希求する連歌師たちにとって末尾でそんな限られた用語を

必ず使わねばならないのは耐えられない。切れていることが分かれば名詞でもいいではないか。例えば上五末尾に「や」をおくと句全体の末尾が名詞でも必ず切れる。

係り結びのような用例でも【注】切れていることを示すことは出来る。

いや議論はどんどんエスカレートして、「発句は575」なのだ、575/77時代など知ったことかという、アプレゲール(戦後派)さえ登場する。

今や日本の純潔は、俳句の純潔は風前の灯となったのである。                                  そして今は、確かに「俳句は575」の時代になった。 切れているから575なのである、切れていなければ俳句のはずはない。

ということは俳句として575を提示してもらえれば、それは俳句であることに間違いないのであって、切れなど知ったことではない、というのが大勢なのである。

こうして575というジャンルを作り出すための切字は575というジャンルが独立した途端に訳が分からない言葉となってしまった。

切字がなくたって俳句は575の末尾で切れているのである。

切れている575の俳句に今更何で切字が必要なのか?

ただ、昔々の伝承が、切字を使うと郷愁のように俳句らしさを生み出してくれるだけなのだ。

さて、ここでいう切れは、くどくなるが575末尾の切れである。それ以外の途中での切れは何ら言及していない。そして私は冒頭で、文頭・文末の切断を「切れ」と言わないのは、

それがむしろ提示の仕方の問題だからである、文頭・文末は提示した人(神)の与えた条件であり、提示される側が解釈すべきものではない、と述べた。

そうなのだ、これは人間が行ってはいけない、神にも匹敵する所行なのである。

ジャンルを創造すると言うことは、個人が行ってはいけない、時代の精神が天才たちに乗り移って行うべき仕業である。

天才でない、平成のちょこざいな秀才であるあなたたちは、この神話を黙って聞くだけでよい。間違っても、秀才の分際でこの恐ろしい所業に加わってはならない。

【注】川本皓嗣「切字論」(「游星」24号)

(2)付句の独立(冒頭を作るための切れ)

現在、論じられている切れ(俳句1句の内部にある切れ)は連歌俳諧研究では説明できない。上述した第3種の切れ(独立性を保証する切れ)とは直接関係しないからである。

芭蕉は一句の構造論として、

「発句は取り合わせ物なり」(篇突)「行きて帰る心、発句なり」(黒冊子)

「発句は物を取り合わすればできる物なり」(去来抄)といい、近代となっては大須賀乙字が新傾向俳句の特徴として季語の暗示的用法として論理的なつながりのない季語の配合的使用法を説明しているが、切れそのものを明示はしていない。

これは俳句の本質論というよりは、俳句の技法論として見なければならないであろう。

発句の独立性の確保のため、(末尾の)切れが要請され(末尾ないし中途の)切字がその保証人となった。

575の独立した形式が完成した後でも、独立性を保証するための切字がいつしか「俳句らしさ」を保証して、俳句に切字を使うようになるのは不思議でない。

しかし言っておくが、切字を使わなくても発句は誕生する。

技法としての切れは、俳壇の各派が単に技法として使っているだけのものだ。

単なる便宜的な流行に過ぎないから俳句本質論ではない。

「切れ」派がいるように反「切れ」派もいる。

若い頃の能村登四郎や飯田龍太は切字も少なく切れのない俳句が多かったが、それは彼らが「現代俳句」を記述するために在来の俳句らしい俳句を嫌ったことに由来しているだろう。

私も(ケースバイケースであるが)反「切れ」派である。無季でも俳句はできるし、反「切れ」でも俳句はできる。こんなだから技法としての切れは論じない。

むしろ、今まで見てきた「独立した発句の末尾切れ」と異なる、別種の切れについて言及しておきたい。

短詩型の内部において

ジャンル創造するための必然的な切れが次に考察されたのは、俳句理論ではなくて冠句理論であったのである。

何故切れにおいて冠句の研究が重要かと言えば、俳句では前述したように切字にしてからが<柔らかい基準>であるからである。

あってもよいなくてもよい、あると一段とよい程度であった、

まして切れなどは明示的な問題にはほとんどならなかったが、冠句では、すべての句が、例外なく、(切字でなく)「切れ」があるからである。

切れを示すためのスペースが江戸時代の文献からはっきり示されている、近代的句読法がない時代であるにもかかわらず、である。冠句では切れは<堅い基準>なのであった。

俳句では目で見えない切れが、(論者によって随分違う、主観的な基準なのである)

冠句には必ずあり、誰しもが季語以上に日々実作の上で検討しなければならない課題だったのである。

俳句よりはるかに深刻な問題であり、雑俳であるとはいえ俳句研究者は冠句研究者の意見に謙虚に耳を貸さねば成るまい。

       *      *

さて、少し歴史を遡ると俳句から発生したジャンルに前句付があった。

これは77の前句に575の付句をつける遊戯である。

この中で独立して鑑賞できる575を集めたものが「川柳」と呼ばれている。

前句付の批評では、前句付では前句と付句が論理的についてはいけない(切れていなくてはならない)とされていた。そうでないと面白くないというのである。

俳句にこのルールを適用したのが冠句であり、前句付の<前句と付句>に相当するのが、

<冠題(5)と付句(75)>である。

この冠句でも、そのルールが確立した当初から、冠題と付句はついてはいけない

(切れていなくてはならない)とされていた。

冠句は幕末以後、雑俳として堕落していったが、大正年間に太田稠夫(久佐太郎)が現れ、

近代冠句研究を進め文学的な理論を確立した。

俳句でまだ切れの研究の行われていない時代のさらに先端的な研究であった。

(因みに久佐太郎の近代冠句運動には潁原退蔵もシンパシーを感じている。)

久佐太郎の主張は、堕落する以前の冠句、かつ近代冠句の理想とすべきは「直冠体」であるという。それは、付句の題からの独立、ここでいう「切れ」の必要性であった。

つまり、切れのないのは冠句ではないと宣言したのであった。

ここまで厳格な基準を俳句は持っていないはずだ。

もちろん冠句の切れは、現代俳句で論じているような1句の中のどこにでも出現する切れではなくて、冠題の直後たった1カ所の切れではあるが、機能的には何ら変わるものではなかった。

冠句の切れは冠題を与えられたことによって余儀なく発生する切れであるという批判がある。これは見方の問題であって、冠題を与えられることによって新しい飛躍の文学が生じたと見ることもできよう。

事実、冠句でも自由題という方式が現在は盛んで、冠題が与えられたものでなく自発的に創出する5文字となって来つつあるから、問題はよほど普遍化していることになる。

冠題とは作者内心の問題であるのだ。

[冠句例]

或る男 村から消えて秋が来る   久佐太郎

傀儡師 筺に秘めたる春楽し

砂灼ける 悪女となりて滅びんか  寿子

枯木中 ものを言わねばわれも枯木 麗水

第5章 第4種切れ(強制的切れ)

明治になって生まれたのが、新体詩で使われる第4種の切れである。これを改行という。

詩は改行すれば生まれる。改行のない詩は存在しない。従って散文詩は存在しない。

詩的雰囲気を持った散文があるだけである。明治も中葉になると、切れを自在に操る詩人が出てきた。

[蒲原有明『有明集』燈火]

人の世はいつしか 54  たそがれぬ、花咲き 54  香に満ちし世も、今、 72

たそがれぬ静かに。」 54  滅えがてに、見はてぬ 54   夢の影、裾ひく 54

薄靄の眼のうち 54  あなうつろなるさま。」 27

(以下略)

有明はその当初から定律作家であり、著名なソネット調(4・7・6×14行)ばかりでなく

様々な定律を試行した。

こに掲げた詩はとりわけ特徴的な作品で、1行9音、各行を54ないし72韻律で構成している。

しかしこれは、不自然な行またがりを一杯に使っており、意味を理解するために配置し直せば(つまり自然な「息切れ」に直せば)、読者は次のように読み取っていることは間違いない。

ということは、意味世界に再配列することにより上の詩は、定律の抽象度が最高に高まった形態、あるいはほとんど定律を断念した詩体であったと見なさざるを得ないのである。

人の世は         5

 いつしかたそがれぬ、   45

 花咲き香に満ちし世も、  47

 今、たそがれぬ      7

 静かに。         4

 滅えがてに、       5

 見はてぬ夢の影、     45

 裾ひく薄靄の眼のうち   454

 あなうつろなるさま。   27

実はこの過渡を担っているのが、

第4種切れ(強制的切れ)なのである。そして

この、「人為的切れ」から「自然的な切れ」に変換された途端、

我々の前には文語自由詩が出現する。もちろん

それは、<「自然な」切れ>をもった別の第4種切れがあり、

自由詩を「詩」たらしめているのであるが。

繰り返しになるがこういおう、次の文案は、「詩」ではない。

「人の世は、いつしかたそがれぬ。花咲き香に満ちし世も、今たそがれぬ。静かに、滅えがてに。見はてぬ夢の影、裾ひく薄靄の眼のうち、あなうつろなるさま。」

これは明治美文集に載るべき詩的散文である。

それは第4種切れがないからである。

これを詩にするためには第4種切れを入れなければならない。

それをどこに入れるか、

常識的文法的な切れか、

創造的な超文法的な切れか、もちろん詩人の答えは決まっている。

詩人は文法を超越しなければならない、

もし俳人が詩人の一種であるとしたら、

俳人もいざという場合は文法を超越しなければならない。

「文法の奴隷」という詩人はいないはずだ、

しかし「文法の奴隷」となっている俳人のいかに多いことか。

第6章 「切れ」結論

4章にわたって見てきた切れは

同じように見えながら微妙である。

第2章で見たクェーナの

そいきよらのおやのろ おやぬし、 D1

みぜりきよのおやのろ おやぬし、 D2

の間に第1種の切れがあることは明らかなのだが、

「そいきよらのおやのろ/おやぬし」と

「みぜりきよのおやのろ/おやぬし」

の「/」に第2種の切れがあるかどうか、

確証はないということである。

以下4つの切れの違いを再考しよう。

第1種の切れ(定型原理が生み出す切れ)は

日本の詩歌の中で原理的役割を果たしたけれど

(それは普遍的原理として現代詩にも突然顔を出しているが)、

少なくとも完成してしまった現在の伝統的定型詩には

余り影響は与えない。

第3種の切れ(独立性を保証する切れ)は、

短歌から俳諧発句(俳句)を作り出す原動力になったが、

やはり俳句が独立した今では歴史的な意味しかない。

これに関連して、

俳諧発句に独立性を付与する切字は<柔らかい基準>であるから

必置ではないという意味で、文学的技法論にとどまる。

もちろん考察が無意味であるというわけではないが、

定型論や季語論のような本質論ではない。

この一事をもって私は議論する元気がなくなる。

第2種の切れ(息切れの切れ)も、

これも文学的手法論であるから

新しい俳句を作る上で好ましい手法を提供するかもしれないが、

実作と関連して考察すべきである。

この一事をもって私はまた、議論する元気がなくなる。

以上のように私は切字についても切れについても冷淡であった。

現在の俳句の制作においては、

切字も切れも使いたければ使ってもいいし、

全く使わなくてもいい俳句を詠むことは可能である。

切字や切れがあったことさえ意識しないで句を詠める。

正直、こんな閑事業に

現代の若い作家がかかずらわる必要はなさそうに思う。

      *     *

私が切れと切字に批判的なのは、実は切れ論争が、

どこか差別問題に繋がるように見えてしょうがないからだ。

定型(定律)は字数を数えれば明らかであるし、

季語は歳時記と逐一照合して確認することは可能である。

これらの議論の意味はあらゆる分かりやすい基準で語られている。

これに反して、切字は「や」「かな」に止まるならばともかくも、

あの芭蕉の「48字皆切字也」という誤解を受けやすい言葉を

あらゆる俳句指導者が谺のように反復唱和することにより、

何が切字か切字でないかは誰も分からなくなってしまった。

のみならず、切れに至っては

(切れを生むから切字だという論理はあるものの)

江戸時代に切れの論争があるわけでもなく、

明治大正にもはっきり論争化しているわけではない。

たかだか、平成になってからの

一部の若手指導者の主張のように思えてならないのである。

現代俳句が文学運動から遮断され、

新しい展開として、

中世和歌のように秘伝化する儀式として切れも論じられている、

それが実態であるといえようか。

俳句の中にどの仮名を盛り込んだらいいのかは、

作者が魂をかけて格闘すればよいのであって、

切れの秘技を伝承してもらう必要は毛頭ない。

1語は機械的に決まるのではなく、

作者の生き方と作者を巡る言語環境の中からのみ決まる。

ボードレールや宮澤賢治を知った我々には、

そうした秘技はもう不要になっている。

のみならず私が危惧を感じるのは、

しばしば「切れ」は目に見えないことである。

冠句の切れには必ずスペースが付いているから

議論するのに間違いはない。

俳句の切れはしばしば評するものによって

いろいろな切れの解釈がある。

実は差別の問題は目に見えないものを差別することにある。

例えば皮膚の色や目の色髪の色で行われる外見上の差別は

直接その人の属性とは無関係なことが多い。

もし直接科学的な関係があるのならば、

むしろその属性に基づいて行われる措置は、

その措置が合理的かどうかだけを検討すればすむことである。

外見上の差別を排除することは社会が努力すればすむことである。

しかし、外見上の差別を伴わない、目に見えない

出身とか民族とかによる差別は始末に負えない。

我々が行ってきた悪質な差別は、

こうした目に見えない要素を基準にした

差別だったように思うのである。

第7章 俳人と切れ

だからこのように整理される。

○第1種切れは定型詩学の研究者の考察対象である。

○第2種切れは当然俳人の参与し得る切れである。

○第3種切れは一見俳人の対象のように見えるが、

実は連歌発句(575)の創造者のみ関与し得る切れであり、

俳人は単にそれを墨守するだけである。

俳人は<切れの神話>をただ聞くだけである。

○第4種切れは俳人の対象ではないように見えるが、

切れを「スペース」で表現すれば分かち書き俳句となり、

切れを「行」で表現すれば多行俳句となる。

      *      *

このように切れは4種類あるが、

俳人の視点を脱出しない限り

(つまり自分は俳人ではなく、定型詩学者だと言わない限り)

第2種と第4種の切れを往復するのみである。

特に伝統俳人は第4種の切れを極端なまで嫌っているから、

実際は第2種の切れの周辺を右往左往するだけである。

かつ、第2種の切れは、

定律詩を一般言説に拡大すれば、

歌人も詩人も小説家も戯曲家も、桑田佳祐も岡村孝子も

新聞記者も法律制定に当たる

内閣法制局参事官も一家言持つところであり、

俳人のみの専売特許ではない。

一方で俳人の切れの発言は多種の切れに言及しているから

善良な一般市民に誤解を与えかねない。

いうならば、与えられた575の言語空間の中でのはなし、

と限定してもらえればいいが、

俳人は凡そ日本語の神秘的な不思議については

すべて知っていると言って、だから「切れ」だ、といいたがる

(これを俳句的生活というのだが)に違いない。

従って私は次のように言いたいと思う。

      *      *

○俳人は、「切れ」について沈黙しなければならない。

                           【10.22終了】   

[概要抜粋(散文)]

①定型詩学的に「切れ」とは、我々に提示された<文素(単語と見てよい)の集合体>(文)の中で文頭文末以外の切断をいう。

②第1種切れ(始源的切れ)は日常的言説から歌謡を差別するための必須的・準客観的切断である。

古代歌謡において、「歌謡が存在する」とは、「反復が見える」「切れがある」と同義である。

③第2種切れ(恣意的切れ)は定律詩の息継ぎとして設けられた個人的切断にすぎない

④第3種切れ(ジャンル創造的切れ)は第2種を踏まえて、差別化・ジャンル創造のために導入された切断、というよりこの切れによってジャンルが発生した。

⑤第4種切れ(強制的切れ)は既存ジャンルから差別化するための第2の始原的切断であり、「改行」とも言う。

⑥俳人は、「切れ」について沈黙しなければならない。

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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