Facebookボーケンサークル投稿記事元がんセンター医師が実践する『 1586人の8割が改善したがんを治す方法 』著者/安藤由朗 より〜
⚫︎ 抗がん剤や放射線療法は延命どころか、かえって死期を早めてしまうケースが少なくありませんでした。
⚫︎ 体が少しずつ弱っていき、結局は悲惨な状況で亡くなってしまう。
九州ガンセンターで、そうした患者さんを嫌というほど見てきました。
⚫︎ がんというのは「 免疫力 」が大きくかかわる病気です。
免疫力が弱いと、がんを発症しますし、自然治癒力が弱まっているので発症したがんを治せません。
⚫︎ しかし、抗がん剤や放射線療法は、免疫力をかえって落としてしまうのです。
かえって命を縮めてしまうのです。
⚫︎ がん治療の基本は免疫力、自然治癒力を高めることです。
西洋医学には免疫力を強くする治療はありません。
⚫︎ 同僚医師たちも、みな、悶々とした思いを抱えながら、流されるままに抗がん剤治療や放射線療法を行っていました。
⚫︎ 抗がん剤治療は、免疫状態が低下していきます。
自分が勧めた治療で、患者さんの状態が日に日に悪くなっていく。
それが目に見えてわかるのです。
⚫︎ 百害あって一利なしとわかっている治療法を勧めることしかできない現実。
そのときに感じた罪悪感と無力感は私の心の中に決定的な影響を残したような気がします。
⚫︎ 西洋医学では、手術、抗がん剤、放射線治療の三大療法ががんの標準治療です。
全国どこの病院でも行われています。
残念ながら、三大療法で、がんを克服することはまずできません。
⚫︎ 外科療法には患者さんの体力を奪ってしまうというデメリットがあります。
まず、手術自体が体の組織に重大なダメージを与えます。
組織を破壊するので免疫力も低下してしまいます。
⚫︎ がんの手術の原則は、多くの場合リンパ節ごとごっそりと取り除くことです。
リンパ節というのは、免疫細胞である「 リンパ球 」が出てくるところです。
取り去ってしまうと、免疫力が低くなってしまうのです。
⚫︎ 放射線治療による副作用は、全身倦怠感、吐き気、貧血、皮膚のむくみ、胃腸粘膜損傷などの苦痛を伴います。
遺伝子が傷つけられて、新たな発がんにつながるリスクがあります。
免疫力を下げてしまう場合もあります。
⚫︎ 抗がん剤に至っては「 百害あって一利なし 」ということが常識となりつつあります。
⚫︎ アメリカ国立がん研究所( NIC )は
「 抗がん剤は、がんに無力なだけでなく強い発がん性があり、他の臓器に新たながんを発生させる増がん剤でしかない 」
とアナウンスしました。
⚫︎ NICはアメリカのがん研究の最高機関です。
驚くべきことですが、30年以上も前に、抗がん剤は無力どころか、体に致命的なダメージを与えると断言したのです。
⚫︎「 がん 」で亡くなるのではなく、
「 抗がん剤 」が直接の引き金になって死んでしまうのです。
単に体を痛めつけているだけだと思わざるを得ません。
⚫︎ 西洋医学のドクターの多くは頭の固いところがあって、自分たちが学んできた学問や方法論をなかなか放棄することができません。
しかし、そうした医師たちも、抗がん剤が効くと思って投与している人はほとんどいないはずです。
⚫︎ 医療雑誌や医師会雑誌などで、医師に対して
「 自分ががんになったら抗がん剤治療を受けますか?」
と尋ねるアンケートが増えています。
ほぼ8割から9割の医師は
「 自分だったら受けない 」
と答えています。
⚫︎ 医師自身の方が代替医療を選択する比率が高いとも言われます。
医師も本音では、西洋医学でがんが治療できるとは、さらさら思っていないのです。
⚫︎ それなのに、なぜ患者さんに対しては抗がん剤をはじめとする標準治療を行っているのでしょう。
病院の経営などのために行っていると言わざるをえません。
製薬企業も含めた政治的な背景もあると想像します。
⚫︎ アメリカでは国家的規模で代替医療への取り組みが行われています。
1992年にはアメリカ最大の医学研究拠点である国立衛生研究所( NIH )に「 代替医療事務局 」ができました。
年間2億ドルの予算が拠出されています。
⚫︎ 腸内環境は、私たちの健康に大きくかかわっています。
⚫︎ 現代の高タンパク・高脂肪・低繊維の食生活を続けていると、腐敗した臭い便をするようになります。
そして、何年か後には重大な病気にかかってしまいます。
⚫︎ 高タンパク・高脂肪・低繊維食は腸内の悪玉菌を増やします。
悪玉菌が増えて、腸内で腐敗した便は、有害物質を発生させます。
これを「 腸内異常発酵 」といいます。
⚫︎ 発生する有害ガスは、インドール・スカトール・フェノール・ヒスタミン・アンモニア・ニトロソアミン・硫化水素などの発ガン性物質でもあります。
⚫︎ 便が、「 臭い 」「 黒い 」「 水に沈む 」という人は要注意です。
理想的な便は、適度な水分を含み、バナナのような形状で排泄される便です。
色は黄色から黄褐色。
きついにおいはせず、軽く水に浮きます。
⚫︎ 腸内異常発酵は、病気を引き起こす活性酸素を体内で発生させる原因になります。
また、免疫の働きが低下し、がんを発症する原因になります。
⚫︎ 腐敗した便を長時間ためこんでいると、大腸の粘膜から毒素が再吸収されて血管に入りこみ、汚れた血液が全身をめぐって、がんをはじめ全身にさまざまな不調が現れます。
⚫︎ 人間の臓器や器官、神経などはすべて血液によって生かされています。
汚れた血液は、がんをはじめとする病気を引き起こす原因になります。
⚫︎ がん治療の基本は「 食事療法 」です。
⚫︎ 血液は、私たちが食べたものからつくられます。
⚫︎ 免疫システムの主役は白血球です。
白血球は血流に乗って全身をめぐり、体内の異物を攻撃し死滅させます。
血行が悪くなると、白血球によるこの監視システムが働かなくなります。
⚫︎ ビタミン、ミネラルなどを多く含んだ食事を心がけること、腸内環境を改善することが、代謝を活発にするために重要です。
⚫︎ 栄養素を摂取しても、腸で吸収されなければ栄養素をとった意味がありません。
腸が元気だと栄養素の吸収が活発になり、代謝が上がって熱の産生力も高まります。
⚫︎ 私たちの細胞はすべて食べた物でできています。
⚫︎ がんを予防するために、そしてがんと闘う体をつくるために、「 食事 」と「 水 」には神経質なくらいに気をつかってほしいと思います。
3~6ヵ月が過ぎる頃には、あなたの体はきれいな細胞に入れ替わっています。
⚫︎ 肉の過剰摂取は、がんの発生を高めることが証明されています。
⚫︎ 動物性タンパク質は分解しにくいため、肝臓に負担がかかってその解毒作用が低下します。
また、動物性タンパク質をとりすぎると、腸内の悪玉菌が増えて、腸管免疫力が弱まってしまいます。
⚫︎ マウスの移植がん治療実験では、
米ぬかに含まれる成分RBF ・RBAのがん成長阻止率は60~70%と、強力な抗がん作用を発揮することが解明されています。
ただし、抗がん効果を期待するには、玄米を煎ってから煮る伝統的な製法で調理する必要があるそうです。
⚫︎ 玄米の食物繊維は、体内の余分な脂肪や糖分、食品添加物や農薬などの有害な化学物質を体外に出してくれるデトックス効果があります。
⚫︎ ミネラルは免疫細胞を活発にします。
[ 必須ミネラルの主な働き ]
・骨や歯、血液をつくる作用
・酵素の働きをサポートする作用
・体液をアルカリ性に保つ恒常性
・臓器や神経、筋肉の機能コントロール
・脳を活性化する作用
⚫︎ もちろん、ビタミンも大切な栄養素ですが、ミネラルがなければビタミンの機能を果たせません。
⚫︎ とくに、植物性ミネラルは、マイナスイオンで細胞の酸化を防ぎ、活性酸素を強力に消去してくれます。
⚫︎ 体内には約5000種類の酵素がはたらいていますが、そのうちの約4割の酵素は、ミネラルがないと、全く役に立ちません。
⚫︎ 活性酸素を撃退するには、食事で様々なミネラルやビタミンを十分補給して、抗酸化酵素をパワーアップさせる必要があります。
⚫︎ がんを治すには、体をアルカリ性に保つことも大切です。
血液はもともとpH7.4( 0.05差 ) の弱アルカリ性です。
病気になると、血液や体液のペーパーは酸性に傾きます。
それは、7.38とか7.3といったごくわずかなレベルでが、このわずかの差が問題になるのです。
⚫︎ 体液をアルカリ性に保つためには「 酸性食品 」のとりすぎを避けることです。
⚫︎ 酸性食品とは、肉、卵、牛乳などの動物性食品、精白した穀類、パン、麺類、アルコール、油、砂糖、精製塩、化学調味料、食品添加物などです。
⚫︎ 酸性食品のとりすぎは血液を汚します。
⚫︎ アルカリ性食品は、玄米、野菜、果物、海草類、小魚、きのこ類、大豆、発酵食品、天然の塩などです。
⚫︎ がんの患者さんは、アルカリ性食品を集中的にとって血液をきれいにし、免疫力、造血作用を高めておきたいところです。
⚫︎ がんを治すための食事のポイントの一つは、「ファイトケミカル」です。
野菜、果物、豆類、芋類、海草類、お茶やハーブなど、植物性食品の色素や香り、アクの成分から発見された物質です。
活性酸素を取り除くなど抗がん作用があることがわかっています。
⚫︎ 水道水の残留塩素は発がん性物質をつくりだすおそれがあります。
⚫︎ 洗腸は溶解力の高いお湯を肛門から入れて腸の中を洗って、再びお湯を出す方法です。
便秘のひどい人など、洗腸をした方がよいと思われる人にはお勧めしています。
⚫︎ 下剤で排便しても、腸内環境は改善しません。
⚫︎ アルカリ性の野菜や海草類、根菜類などが中心の食生活を心がけ、質の高い水を毎日飲んでいると、血液はきれいになり、便も健康体になります。
⚫︎ 病院でがんと診断されると、三大療法というレールに乗せられてしまいます。
終着駅は最初から見えているにもかかわらず。
⚫︎ 自分にとって本当に有益な治療を選ぶ意志と勇気をもってほしいと思います。
⚫︎「 究極の生活習慣病 」であるがんと闘うための基本は生活習慣の改善にあります。
〜 がんを治すのは医師ではありません。
患者さんご自身なのです 〜
・著者/安藤由朗 ・
『 九州大学付属病院、福岡赤十字病院、厚生会佐田病院、国立九州がんセンター勤務を経て、安藤整形外科医院を継承 』
💫 セルフ・メディケーション💫
〜We want to be healthy and we want to continue〜
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/8280694/ 【免疫力を上げる・自律神経】
https://kaicoh.exblog.jp/18654345/ 【諧謔の真意(1)◆免疫力と俳句】より
インフルが治ったあと、親しい人から〈多忙による疲れで、免疫力が落ちていたのですね。無理をしないで下さい〉とやさしい言葉をかけられた。免疫力とは、もとから身体に備わっている防衛システムのことで、感染症はこの機能の低下によるのだという。
ふと、詩歌にも似たようなことがあると思った。どんなに深刻な主題を扱っていても、免疫力の弱っているときにできた作品は重くれて、読者の共鳴を得がたい。ボクは著名な句を時折「イヤな句」と評して、仲間から顰蹙を買うけれど、そうした句を詠むときの作者は、心の免疫力が弱っているのではなかろうか。例えば、教科書に取り上げられるような名句でも、次のようなものは免疫力が弱いときの作物に思える。ボクに言わせると「イヤな句」で、教科書に取り上げようという見識が理解できない。
冬蜂の死にどころなく歩きけり 村上鬼城
白露や死んでゆく日も帯締めて 三橋鷹女
霜の墓抱き起こされしとき見たり 石田波郷
どの句も人生の重大な事柄を詠んでいるのだろうが、それを俳句という不十分な詩型に盛り込もうとすれば、この三句のように独り善がりで、思わせぶりになってしまう。こうした重々しさは、俳句が近代文学の範疇に取り込まれてもてはやされた痛々しい努力であって、古典俳句にはないように思う。つまり、近代文学が諧謔という古典俳句の諦観を軽んじた結果なのだ。この近代と格闘できるのは小説・戯曲・随筆や評論なのであって、詩歌ではない。詩歌には詩歌の、つまり俳句には俳句の面目があり、一分があるだろう。
https://www.yonden.co.jp/cnt_landl/1810/special.html 【俳人・山頭火を愛する人たち】より
すべてを捨て自由を追い求めた、漂泊の俳人・種田山頭火。五七五の定型に縛られない自由律俳句を代表する俳人として知られる山頭火だが、その生涯には、母と弟の自殺、実家の没落、一家離散、自殺未遂、酒による数々の失態など、常に絶望と孤独の匂いがつきまとう。
山頭火が10年以上もの流転の末、死に場所として選んだ地は四国・松山。苦しみを抱え、貧窮していた山頭火を受け入れ、手を差し伸べてくれる温かなまちだったことがその句からも読み取れる。
この地で、貧しくも、心の平安を得て、数多くの句を詠み、自由闊達に書をしたためた。
そして現在、山頭火が晩年を過ごした松山や遍路で歩いた地域で、彼の俳句と生きざまを愛し、より広く知ってもらおうと活動を続ける人々がいる。彼らの行動から、山頭火晩年の姿が見えてきた。
ひよいと四国へ晴れきっている秋空差してお城が見えます
山頭火、流転する波乱に満ちた神勢
種田山頭火、本名正一(しょういち)は明治15年(1882)、山口県西佐波令(にしさばれい)村(現防府(ほうふ)市)に生まれた。名家の生まれで何不自由なく育ったが、9歳のときに実母が自殺。この出来事が彼に生涯消えない影を落とすことになる。
一方、学業は優秀で、13歳頃から俳句にも目覚め、19歳で早稲田大学の文学科に入学。だが、神経衰弱によりわずか2年で退学し、郷里に戻ったものの、父親の放蕩(ほうとう)や借金で実家は没落。大道(だいどう)村(現防府市)に移り、一家は再起をかけて酒造業を営むこととなる。
この頃、正一は26歳。結婚し、男児をもうけるも、家業は杜氏や蔵人に任せていた。定型 俳句を俳誌に投稿し、句会に参加するなど、句作にのめり込んでいった。
大正2年(1913)には、全国的俳誌『層雲(そううん)』に投稿を始めている。俳号を山頭火と改め、『層雲』の俳句選者にまで推挙されるも、酒造業の失敗により破産。山頭火はつてを頼って妻子を連れ熊本へ。その後、単身上京し、妻とも離婚。職を転々とした後、熊本に戻ると、大正13年(1924)に泥酔して市電の前に立ちはだかるという事件を起こす。これをきっかけに出家した山頭火は修行を積み、味取(みとり)観音堂(熊本県植木町)を管理する仕事を得たが、孤独な生活に耐えられず、大正15年(1926)、43歳で托鉢の旅に出るのであった。
まつすぐな道でさみしい分け入つても分け入つても青い山
終焉の地松山終の棲家・一草庵(いっそうあん)
10年以上、各地を転々。昭和の初めには四国遍路にも赴いている。熊本や山口に定住を試みるも叶わず、自分の命が長くないことを悟ると、死に場所を求めて、昭和14年(1939)10月、広島から四国・松山へと渡った。すでに56歳になっていた。
なぜ晩年の山頭火は松山を目指したのか。「松山の俳人・野村朱鱗洞(しゅりんどう)の墓参りと、自殺した母を四国遍路で供養したかったのでしょう。最初の遍路で親切にされた松山の人々に良い印象も抱いていたようです」と、「NPO法人 まつやま山頭火倶楽部」の太田和博さん。俳誌『層雲』の選者として活躍するも若くして亡くなった朱鱗洞を山頭火は高く評価していた。早々に墓参りを果たすと、その足で母の位牌を背負い2度目の四国遍路に向かう。しかし、托鉢もうまくいかず、厳しい寒さに耐えかねた山頭火は遍路を途中で断念し、高知から急ぎ松山に戻っている。
疲れ果てた山頭火を温かく迎えたのは、俳人・高橋一洵(いちじゅん)や藤岡政一(まさいち)をはじめとする松山の人たちだった。出会って間もない山頭火のために、彼らは一軒の家を世話している。松山城北側の、御幸寺山(みきじさん)の山裾にひっそりと佇む小さな家が、終の棲家「一草庵」だ。ここで山頭火はその生涯で初めての月例句会「柿の会」を開き、日々の暮らしの中から珠玉(しゅぎょく)の句を作り上げていく。
また、山頭火は温泉も好きだった。「一浴一杯」とは彼の造語だが、道後温泉で入浴を楽しみ、風呂上がりの一杯を楽しむ。そんな人間らしいひとときを味わっていたことが、残された日記や句からもうかがい知れる。
ずんぶり温泉のなかの顔と顔笑ふ
山頭火が住んでいた頃の一草庵。山頭火はここで友と語り、句会「柿の会」を催すなど、心豊かな晩年を過ごした(写真提供/藤岡照房さん)
山頭火が住んでいた頃の一草庵。山頭火はここで友と語り、句会「柿の会」を催すなど、心豊かな晩年を過ごした
(写真提供/藤岡照房さん)
一杯だけに止まらず泥酔し、周りに迷惑をかけることも一度や二度ではなかったが、それでもツケを支払ったり、路上で寝てしまった山頭火を家まで連れて帰ったり、人々は温かく見守った。
おもひでがそれからそれへ酒のこぼれて酔うてこほろぎと寝てゐたよ
松山を訪れた日から約1年後の昭和15年(1940)10月、心臓麻痺で死去。生前から望んでいた通りの“ころり往生”だった。死後、一草庵は荒れるに任せていたが、有志の尽力で昭和27年(1952)に再建された。
現在、一草庵では週末や祝日に内部を公開。「NPO法人まつやま山頭火倶楽部」のメンバーがガイドを務め、国内外から多くのファンが訪れる。「山頭火の自由さに惹かれる人は今も多く、お遍路さんの中には彼が歩いた道をたどる人も少なくない。山頭火のような生き方はできないが、その句を読めば、彼の人柄に触れられる気がします」と太田さん。
毎年、命日の近くには「山頭火一草庵まつり」が開催され、山頭火をテーマにした琴の演奏会や山頭火に関する知識力を試す「山頭火検定」などが行われている。
松山の人々が山頭火を囲んで句会を楽しんだように、今なお一草庵は山頭火と愛好家たちを結ぶ場として存在し続けている。
濁れる水の流れつゝ澄むもりもり盛りあがる雲へあゆむ
晩年の山頭火の印象について、当時、彼と親交の深かった藤岡政一の長男、藤岡照房さんに話を聞いた。
「思い返してみれば、優しい人でしたね」とほほ笑む。山頭火が父の政一宅を訪ねていた当時、藤岡さんは7歳。小学校から帰って来るやいなや、2階の客間へ駆け上がって行き、絵を描いたり、おしゃべりをしたりして遊んでもらったという。藤岡さんの妹も、彼が訪ねてくると「おじいちゃん!」と飛びつき、その勢いに山頭火がひっくり返りそうになるほどの懐(なつ)きようだったという。
「わざわざキャラメルをお土産に持って来てくれることもありました。私にとっては父方、母方に次ぐ、3番目のおじいさんみたいな存在でした」と目を細める。遠く満州で暮らす実の孫に接するような気持ちで、照房少年に優しい眼差しを向けていたのだろう。
山頭火研究家でもある藤岡さんは、彼は人の懐具合を見分ける眼力があったと話す。「相手に無理のない範囲で、友人や支援者に無心したり、おごられたりしていました。相手の給料を言い当てることもできたそうですよ」と笑った。
常に金策に悩み、やむなく絶食する日も多かったが、「わが家で米を借りても、お金が手に入ると必ず返しに来たそうです」。自由奔放なようで、律儀な一面もあった。
「彼は育ちも良く、当時としてはかなりの知識人で話題も豊富。さまざまな苦労を経験したにも関わらず、柔らかな心を持ち続けた人でした」と藤岡さん。やはり、俳句だけでなく人間的に大きな魅力があった。だからこそ、皆が彼を温かく見守っていたと想像できる。
山頭火の俳句や日記には、草花や虫、小動物がしばしば登場する。明日の米に事欠いても、庵に生ける花を欠かさなかった山頭火。その小さなもの、美しいものに目を向ける心の優しさ、繊細さこそが、今なお皆に愛される理由ではないだろうか。
霊の峰ごくごくおつぱいおいしからう打つよりをはる蟲のいのちのもろい風
一草庵で今年4月に開催された第13回公開俳句大会
山頭火直筆の葉書。山頭火は昭和15年5月から6月にかけて中国・九州地方へと旅に出ている。その旅の途上、山口県の俳人で句友の黎々火(れいれいか)宅を訪ね、近況と旅の予定を藤岡政一に書き送った。絵は黎々火によるもの(提供/藤岡照房さん)
一草庵で今年4月に開催された第13回公開俳句大会
山頭火研究家で「NPO法人まつやま山頭火倶楽部」の理事長を務める藤岡照房さん
「山頭火のみち」を後世に継承
正岡子規を生んだ俳都松山には、俳句や短歌の革新を果たした子規を顕彰する「松山市立子規記念博物館」がある。ここで、平成29年9月から30年3月にかけて「山頭火と松山の人びと」と題した小展示が行われた。
この展示では山頭火直筆の掛け軸や色紙、短冊など、博物館が新たに収蔵した23点の資料を公開。「資料は松山の俳人で山頭火と親交のあった村瀬汀火骨(ていかこつ)・千枝女(ちえじょ)夫妻にゆかりの貴重なものです」と学芸員の平岡瑛二さん。
現在、博物館では定期的に俳句教室も開催。俳句の普及に大きな役割を果たしている。
http://www.kuga.or.jp/rec/10_haikuron.html 【「私の俳句論」】より
宇宙の塵が集まって星々が生まれ、周りの星と星が引っ張りあって惑星となります。
太陽系などの惑星はさらに集まって、銀河系を形成します。同様の星々は無限にあり、また宇宙は広がっています。
形あるものには寿命があります。地球も太陽もいずれ爆発して消滅します。
広い宇宙で高度に進化した生命体が存在するのは地球だけかもしれません。
地球は奇跡の星です。水が生まれ、酸素が発生して、生命体が発生しました。生命体は限りなく進化を続けています。
この宇宙と生命の成り立ちが、俳句の世界を支配しています。
太陽、地球、月が万有引力で引かれあっている関係は、豊かな自然と四季の変化を生みます。
この太陽、地球、月の三者の関係は俳句の五・七・五の関係に反映されています。五・七・五はそれぞれ引き合い、反発しあって一つの宇宙を形成します。
自然界と人類はいずれ、消滅する運命にあります。この自然界の運命を我々は知っているため、自然界の姿を正確に記憶に残そうと、様々な方法を試みてきました。
絵画、山水画などの風景画と並んで、俳句の写生句もまさにこの自然界の掟に従う行為にほかなりません。記録こそが大切なのです。句碑にすれば永遠に写生句がイメージとして残されます。全国各地でこのような句碑や俳句が残れば、地球の偉大な財産となります。日本中をてくてく歩いて地方の自然と風習を記録した民俗学の大家、宮本常一氏の業績に匹敵する大資料となります。
自然の営みを詠む俳句はこのようにして、天の配剤として生まれたのです。
私たちの故郷は宇宙のわずかに2つの塵から始まっています。私たちが星々を詠むとき、それはふるさとのはるかな先祖に想いを馳せているのです。月も星も銀河もしかり。
私たちは海から生まれ陸に上がりました。私たちの体内は海水と同じ組織でできています。海を賛歌するのは、私たちの先祖への祈りなのです。
物質と物質の間は引力で引かれあっています。五・七・五に言葉を入れるとイメージが生まれ、質量が与えられます。五/七・五と切れるとき、「五」と「七・五」の間にイメージの質量が生じ、二つのイメージが引っ張り合う関係となります。この「引力」を「切れ」といいます。一般に「切れ」とは「間」であるといわれていますが、私は「切れ」とは「引力」だと思います。引き合って、そこに共鳴したり反発したり、様々な複雑な関係が生まれます。俳句の深い味わいが生まれるのです。月の引力で地球の潮の干満が生じることを想像してください。
五/七/五と2か所で切ることは嫌われますが、「五」「七」「五」のそれぞれをイメージの物質と考えれば、太陽・地球・月の関係のように、面白い関係が生まれるため、私は積極的に認めていいのではないかと考えています。
たとえば、「目には青葉山ほととぎす初がつお」がいい例になります。
*
進化のためには刺激とゆとりが必要です。写生句だけでは、進化が止まります。常に刺激を加えたりゆとりを与えたりしなくてはなりません。そこで滑稽句が生まれたのです。これは、俳句が進化していくための必然であります。
カメラやビデオが生まれ、写生句を残す意義はこれらに取って代わられました。写生句の意義は薄れてきました。これからは滑稽句の時代となりそうです。
笑うことにより免疫力は活性化されることが証明されています。医療には「笑い療法」もあります。笑いを誘う滑稽句は現代に必要とされる俳句です。
江戸時代の滑稽句は俳諧連歌の発句です。現代の滑稽句は俳句が独立してから新しく生まれました。
伝統俳句の中にも、滑稽俳句はたくさん詠まれています。新聞の俳句欄をみると、意外に滑稽句が多いことに気づきます。正木ゆう子さんや小澤實さんは特に滑稽句を多く取り上げています。
あるときの読売新聞の正木ゆう子さんの選句です。
「鹿寄れば名刺代わりの鹿煎餅」「秋の薔薇君に迷わぬ僕があり」「青空を隔て綿雲鰯雲」「この肩に木の実おとせよ雑木山」「帽子ごと頬被りして刃物市」「月上げて八丈太鼓揺らす」「秋うらら授乳まばゆきベンチかな」「宵闇の木星のほかなにもなし」と10選句の内8句が滑稽句です。
またあるときの小澤實さんの選句です。
「マスクしてもの云う二人バスの中」「鱶捌く蜑の額に井桁皺(ふかさばくあまのひたいにいげたじわ)」「口紅がポセインセチアに勝ってゐる」「牛飲を嗤う馬食派年忘れ」「着ぶくれて昭和に戻る心地かな」と10句中5句が滑稽句です。
「滑稽句」は「かるさ」です。「かるさ」は「軽妙洒脱」です。イメージの物質が軽ければ引力も弱くなります。「引力」が弱いことが滑稽句の「かるさ」なのです。軽い言葉でつないでいけば、イメージはふわふわと軽くなり引き合う力もゆる~くなります。滑稽句の本質がここにあります。
重い俳句に慣れると、軽い俳句が欲しくなります。そのため、新聞俳句欄の選者は滑稽句をよく選んで楽しんでいるのです。
*
名句も見方を変えると滑稽句に見えてきます。
芭蕉の俳句を滑稽句として読んでみます。
「閑さや岩にしみ入蝉の声」
これは、奥の細道を歩いているとき岩石が崩落しそうになっているところに出会い、蝉の声が響くだけで大崩落が起きますよと警告しているのです。この岩の前には、この俳句を書いた注意板が立っています。
「古池や蛙飛びこむ水の音」
これは、古池に蛙が飛び込むのを見て、子供が落ちたら大変だと古池の危険性を指摘した俳句です。この俳句ができて以来、古池には囲いが設けられるようになりました。子供の命の大切さをも訴えています。奥が深い。
「五月雨をあつめて早し最上川」
「荒海や佐渡によこたふ天河」
これは、河川工事を本業としていた芭蕉が、東北地方の川と海の護岸が貧弱であることを発見して警告しているのです。これ以来河川と海岸の護岸工事が活発化され現代でも延々と続いています。工事責任者の頭にはいつもこの俳句が植えつけられていて、その呪縛から逃れることができません。
正岡子規の俳句をみていきます。
「鶏頭の十四五本もありぬべし」
これは、病状が悪化して目も見えにくくなり、二三本の鶏頭が何本にも見えて困ると医師に訴えている俳句です。自分の病気を治せない医者を非難する名句です。病院の医局ではこの句を張って医療の向上に励んでいます。
「いくたびも雪の深さを尋ねけり」
これは、水飢饉に悩まされていた子規が、雪が降れば夏の水の心配はしなくてすむと一安心している様子を詠んだ句です。この句は大渇水で悩まされている松山市の水道局の壁に掲げられています。職員が毎朝朝礼で唱和しています。
「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」
これは、すっかり医療不信に陥った子規が、もう医者に頼るのをやめて食事療法で自らを治そうと決意した輝かしい決意の一句です。柿を食べたら元気になったではないか、なあ法隆寺と問うと、ゴ~んと鐘が鳴って答えてくれました。以降子規は一生懸命においしいものを食べて病気と闘いました。
高浜虚子の俳句はどうでしょうか。
「去年今年貫く棒の如きもの」
これはズバリ年越し蕎麦を詠んだ名句です。年越し蕎麦を食べていると生茹での固い一本の棒を発見しました。さすがに虚子は鋭い観察眼をもっていて、それをさりげなく文学の域まで高めました。日本蕎麦協会の受付の壁に高々とこの句が飾られています。
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