イメージ力を使いましょう
想像力を使って 自分の潜在意識を観ましょう。想像力によって無意識がシンボルとなって現れてくれます。
潜在意識と意識のコミュニケーションは言語を介してではなく夢、想像、シンボルを使ってできます。
添付写真に沿ってエクササイズをしてください。目を閉じて心に浮かぶ「山小屋」「切り株」「小川」を観てください。
リラックスして 山の頂にある 山小屋と切り株と小川の対話に耳を傾けましょう
小川が切り株と山小屋に話します。どんな話をしますか。切り株と山小屋は何と応えますか。3者の会話に耳を傾けてください。
さて、そろそろ小川は切り株と山小屋に別れの挨拶をします。どんな挨拶をしますか。
切り株と山小屋は それに なんと応えますか。
では現実に戻ってください。
振り返り
*どんな山、景色、季節、天気だったか。
*どんな切り株、山小屋だったか。
*切り株と山小屋はどんな話をしたか。
*小川はどんな小川か。
*小川はどんな話をし、切り株と山小屋はどう応えたか。
*小川はどんな挨拶をしたか。
*現実に戻ってどんな気持だったか。
*現在の自分に対するヒントを表しているのは3つのうちのどれか。
*自分の日常生活に対するヒントはなにか。
この瞑想では現在の自分が顕れます。
三つのシンボルはどんなことを自分について語ってくれるか・…と考えてみましょう。
シンボルの中に自分の潜在意識が顕れていることを認めましょう。
内なる神性エネルギーと共鳴するシンボルに出会うと胸が広がる感じがし 慈悲が引き出されたり涙が溢れ、いろいろなメッセージを聞いたりします。
深層心理には言葉がありません。深層心理との対話にはシンボルがとても有効です。
シンボルには元型も含まれますが 神話や民話、お伽話、儀式、仏像、芸術、法具なども挙げられます。
キリスト教での十字架はイエス・キリストの贖いのシンボルですが「神の義と愛の会えるところ」と歌われます。
縦棒は天地人を繋ぎ、横棒は人々、世界を繋ぎます。それ故、縦のサーヴィスは礼拝、横のサーヴィスは奉仕を意味します。「神は愛なり。」「自分を愛するように汝の隣人を愛せよ」と勧められることとも一つです。
十字架にもマルタ十字、タオ十字、コプト十字、ロシァ十字、ギリシャ十字、ラテン十字、カンタベリー十字、聖ペトロ十字 聖アンデレ十字・・・・・・・さまざまな十字架があります。
また教会歴や、教会活動にもシンボリックな意味が込められています。キャンプファイヤー、キャンドルライトサーヴィス、レント、イースター、ペンテコステ、感謝祭、クリスマス、パンと葡萄酒、シンボルカラー、聖壇…etc.全て象徴的な意味があります。
キリスト教 シンボル例 アルファー・オメガー
αを横に引っ張れば イクスース・魚(弧をなす2本の線を交差させて魚を横から見た形に描いたシンボル)「イエス・キリスト・神の御子・救い主」のそれぞれの頭文字を並べたもの
エネルギーの渦は無限に繰り返す
渦の何処をとっても α・ω=始めであり終わりである
始めもなければ 終わりもない
渦の輪を2つ取って伸ばせば無限大?メビウスの輪?
http://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/sinnborumeisou.htm 【シンボル瞑想】
私の書いたクリスマス瞑想の一部を紹介します。
今日はクリスマス。イエス・キリストの誕生日 とされていますが、それは象徴解釈です。闇を打ち破る光の誕生の祭典です。
24日にはキリスト教会ではキャンドルライトサーヴィスをします。
神の啓示者イエス・キリストからひかりをいただいて 自ら世の光となり ひかりを分かち合います。(天符経では「ー析三極」です 。映画では「ペイフォワード」 、絵本では「ともしび」)
しかもひかりの祭典は古今東西 祝われ続けた儀式です。
ひかりの到来は人類に共通の普遍的無意識の願いの現れと考えられ それはキャンドルライトが示すように 奉仕と分かち合いによって実現します。
愛は分かち合うほどに増える!!
クリスマスにそんな人類共通の祈りを観ずにはおれません。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000146/files/48257_31571.html 【俳句に於ける象徴的表現】より
種田山頭火
井泉水氏は印象詩乃至象徴詩としての俳句について屡々語られた。しかし俳句に於ける象徴の本質に就ては説かれない。筆端が時々此問題に触れたとも言うべき程である。私は此の根本的説明に接するを待つよりも、こういう問題はお互に協力して研究すべきものではないかと思う。
病雁の夜寒に落ちて旅寝かな 芭蕉
僅かの花が散りければ梅は総身に芽ぐみぬ 井泉水
わが足跡人生ひてわれにつゞく朧 地橙孫
陽の前に鳥ないて安らかな一日 鳳車
これらの句を読んだ時、私は或る物を掴んだように思うた。私の心がぱっと光輝したように感じた。かかる傾向は層雲を中心とする人々ばかりの間に起ったのではかママい。他の二三氏によっても試みられつつある。
象徴(symbol)が符号(sign)と同じ意味であった時代は既に過ぎて了った。象徴は生命の刹那的燃焼の表現を外にして自己を全力的に表現し得ないのである。かるが故に象徴的表現しか自己を表現し得ない場合に於て、換言すれば或る刹那に於ける自己表現の方式として唯一の象徴的表現が存在する場合に於て象徴的表現は最大の効果を発輝ママするのである。
そして文芸に於ては詩、殊に俳句は性質上又形式上かくの如き境地をかくの如き方式によって表現せざるを得ないのである。
広い意味新しい意味に於ての象徴主義は霊肉合致であり神人渾融である。そして古典主義と浪漫主義(自然主義以後のそれらで『新』字を附せられている)との合一である(中村星湖氏片上伸氏等の最近論文参照)。私にはよく解らないが当来の新文芸は象徴主義によって生れるのではないかとも思う。
象徴的表現ということに関聯して忘れてならないのは言葉というものの真意義である。言語を生かさなければ――言葉が生命とならなければ――言葉が生命となった詩でなければ、まことの象徴詩ではない。そして我々の心が物心一如の境地に到達しなければ言葉は我々の生命となり得ないのである。
(「樹」八号 大正三年十二月)
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