http://flac.aki.gs/Manyou/?p=3517 【私が好きな万葉歌(2) 防人に行くは誰が夫と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず】より
防人に行くは誰が夫(せ)と問ふ人を見るが羨(とも)しさ物思(ものも)ひもせず 〔巻20:4425〕 防人の妻
戦前の日本で、召集令状が来て「入営」するときに書物を持ち込むことは基本的に禁止されていたようなのですが、幾つかの例外が「万葉集」だったという話を聞いたことがあります。真偽のほどは確かではありませんが、それでも戦前の日本の軍隊でも、兵隊が「万葉集」を所持してそれを読むことは許容されていたようです。
もちろん、その背景には大伴家持の「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ」などと言う歌がおさめられていたからでしょう。
ただし、あまりにも有名なこの家持の歌は「陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌」という、およそ戦争などとは何の関係もない作品の中に読み込まれていることはそれほど知られていません。
「陸奥国に金を出す詔書を賀す歌」とは、「聖武天皇が大仏建立を計画したものの必要な金が用意できずに困っているときに陸奥の国から金が出た事を慶する歌」なのです。
それがいつの間にか、戦局悪化の中で玉砕報道をするときにバックで流れる音楽へと変わってしまったのです。
それからもう一つ、兵営に万葉集を持ち込むことが許容された背景に「防人の歌」が数多く所収されていることも指摘されています。
しかし、その防人の歌も雄々しい内容だけでなく、その中にはこの上もなく率直な人としての思いが読み込まれたものもあって、この「防人の妻」の歌などはその典型です。
奈良時代の防人は難波の津に集められたそうで、そこまでは経済的な余裕があれば家族同伴でくることも許されていたようです。そして、招集された防人たちはそこから船に乗せられ、家族と別れて九州に向かったのでした。
ですから、この歌はその難波の津で詠まれた歌なのかもしれません。もちろん、防人となってふるさとを旅立つときの歌かもしれません。
ここには、残酷なまでに対照的な二つの世界が呈示されています。
片方には愛する夫が防人として旅立とうとして悲嘆にくれる女性であり、他方にはその「悲嘆」を他人事として「防人に行くは誰が夫」と問ふ女性(おそらく女性でしょう)です。
「愛」の反対語は「憎悪」ではなくて「無関心」だと言った人がいました。
その言葉を借りれば、ここには「防人」という言葉を織り目にした「愛」と「無関心」の鮮やかな二分法が存在しているのです。
そして、愛する夫を送り出さなければいけない女性は、その無関心を「物思(ものも)ひもせず」という言葉で問い詰めるのです。
しかし、それが厳しい糾弾にならないのは、彼女自身もまたそう問いかける女性の姿にうらやましさを感じていることを自覚しているからです。その自覚が「見るが羨しさ」という切ないまでの思いとしてあふれ出しています。
召集令状を配達する人が「召集令状をもってまいりました。おめでとうございます」と決まり文句で赤紙を手渡せば、受け取った方も「ご苦労さまでした」とこたえ、なかには「これでうちも肩身の狭い思いをしないですみます」と応じた時代でした。
そんな時代の軍隊でも許容されていた万葉集にこのような歌がおさめられていたのです。当時の軍部の人間はこの歌のことを知っていたのか、少しだけ意地悪な興味がわいてきます。
防人に行くは誰が夫(せ)と問ふ人を見るが羨(とも)しさ物思(ものも)ひもせず
現代語訳:防人に行くのは誰の愛しい人かと声をかけている女の何と羨ましい事よ、何の憂いもなく
ナターシャ・グジー
*赤川新一さん(本プロジェクトの録音&ミックスを担当してくれたトップエンジニア)への追悼として、フルバージョンでの公開を致します。
「防人の詩」
(作詩・作曲:さだまさし バンドゥーラアレンジ:ナターシャ・グジー)
*DVD「FILM旅歌人Vol.1」に本作品を収録しました
*CD「ナタリア2」(2009)に、別音源が収録されています
出演:ナターシャ・グジー 歌・バンドゥーラ
特設サイトにて本プロジェクトの作品公開中。
http://www.office-zirka.com/film/
万葉集に収められた防人歌のひとつから作詩された、人間の命の尊さや愛おしさを歌った曲である。死が終わりではなく、巡る生命の営みや再生への希望に共感して、ナターシャ・グジーが舞い散る桜の中で歌う。
https://bonjin-ultra.com/sakimorikunan.html 【防人の苦難】より
韓衣(からころむ)裾(すそ)に取りつき泣く子らを置きてぞ来(き)のや母(おも)なしにして
この歌は『万葉集』に収められている防人の歌です。信濃国の歌で「韓衣の裾に取りすがって泣く子どもたちを置き去りにして来てしまった。母親もいないままで」と、防人として家を離れる辛さを歌っています。『万葉集』には、この歌のほかにも、防人になった男たちの、妻子との別れ難い感情や家族を思いやる気持ちを歌った歌が数多く収められています(巻20に98首)。
防人は、663年に百済救済のために出兵した白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたのを機に、北九州沿岸の防衛のため、軍防令が発せられて設置されました。大宰府に防人司(さきもりのつかさ)が置かれ、おもに東国の出身者の中から選抜、定員は約1000名、勤務期間は3年とされていました。
防人の徴兵は、逃げたり仮病を使ったりさせないため、事前連絡もなく突然にやってきて連れていったといいますからずいぶん乱暴です。まず都に集め、難波の港から船で筑紫に向かいました。家から難波までの費用は自前でした。なお、『万葉集』に防人の歌が数多く収められているのは、当時、出港地の難波で防人の監督事務についていた大伴家持が、彼らに歌を献上させ採録したからだといわれます。
ところで、防人として徴兵されたのは、わずかな例外を除いて、ずっと東国の出身者でした。これは何故か?
白村江の戦い以降、日本に逃れてきた百済の宮廷人や兵士は、それぞれ朝廷で文化や軍事の担い手として活躍しました。しかし、身分の低い人や兵士らは幾度かに分けて東国に移植されました。同族間の憎しみは、ときにより激しいものになるといいます。天智天皇は東国で新たな生活を始めた百済人を防人として、再びかり出し、日本を襲ってくるかもしれない彼らの祖国の同胞に立ち向かわせたというのです。何とも切ないお話です。
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