Facebook一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)さん投稿記事
このところ毎日、切なる思いで平和のために祈っています。
ロシアとウクライナの戦争が勃発してから約3週間が経ちました。
ニューノーマル、ニューヒューマンを語る21世紀に私たちは実際に戦争の状況を見守っています。
信じられない現実ですがまぎれもない事実です。
戦争は私たちを破滅の危機に追い込んでいます。
地球が平和でなければまた、周りの人が平和でなければ個人も平和ではいられません。
平和と弘益の価値がますます切実な時期に来ています。
ひとりひとりの目覚めた意識が大事なときです。
平和と共生のために心を合わせて祈りましょう。
苦しんでいる人々に少しでも役立つことを願っています。
Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
地球の用事
みんなが同じものを見ていたとしても、同じものを「見て」いるわけではないですね。
私にしか見えないものがありますし、それぞれの人にだけ見えるものがあります。見えるものだけを頼りに生きる、といっても、こんなふうに「見える」ものすら、それぞれなのですし、ましてや「見えない」世界がまた重層的にあるわけです。
それを交感したり共有できるのが人の感性というもので、だから「芸術」と言われるようなものも成立するのだと思います。
子どもの頃、葉っぱの筋(葉脈)と血管が似ていて、それはまた川が支流になっていくカタチにも似ていると気づいたとき、なにかすごいことを発見したように思いました。相似形とかフラクタルという言葉を知りませんでしたが、「いのち」とか宇宙は入れ子式になっているのだとぼんやりと感じたように思います。
見えないものでも見えたり感じたりするのですし、聞こえないものもまた聞こえてきます。子どもは、見る、聞く、の名人、大天才ですね。その芽を伸ばしていくのが大人の責任です。
見る、聞くの名人といえば、まどさんもそうです。久々にまどさんの詩をひとつ。
「地球の用事」 まど・みちお
ビーズつなぎの 手から おちた 赤い ビーズ 指さきから ひざへ ひざから ざぶとんへ ざぶとんから たたみへ ひくい ほうへ ひくい ほうへと かけて いって
たたみの すみの こげあなに はいって とまった
いわれた とおりの 道を ちゃんと かけて いわれた とおりの ところへ
ちゃんと 来ました と いうように いま あんしんした 顔で 光って いる
ああ こんなに 小さな ちびちゃんを ここまで 走らせた 地球の 用事は
なんだったんだろう
Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
白龍
世は動き始めた 然り 時代は動き始めた 然り ここに 白龍 天より遣わされて姿をあらわし 調和への道を示す
いっさいは ひとつにして 美しきものよ 天地は和合 万物また、和合
人類おのずと和合なれば 人もまた動き始めた 然り
http://hikarijuji.seesaa.net/article/371789759.html 【松尾芭蕉と般若心経】より
世界人類が平和でありますように
(1)松尾芭蕉の世界観
「俳諧とは、浅きより深きに入り、深きより、浅きにもどる心の味なり」と芭蕉は俳句の世界を簡潔な言葉で表現されております。この言葉などは、実に、仏教の教えの根幹である、
「色即是空、空即是色」という宗教の奥義に通ずる言葉であります。この様な宗教の奥義に通じている芭蕉の心は、そのまま芭蕉の作品の中に現れています。例えば、
石山の石より白し秋の風 という作品がありますが、これなどは簡潔な誰でも理解できる言
葉を使って、大自然の奥底の心の世界を表現している、言葉による表現の極致とも言うべき俳句です。
大自然の奥底の心を最も単純に、多くの言葉とその意味の組み合わせの中から最も近い表現の組み合わせを選んだ事による、俳句表現の極致ぎりぎり一杯の線で現しているのです。
この俳句の心は、実に深い祈りの境地にと全く同じなのです。この句は、菊池先生の、
散る葉とて今はあらざる山の木の夕べはあぐる声のかなしさと相通じております。
今は散る葉が一葉も無い、寂しくも哀しい山の木の夕暮れ時の風景から、自然界の深い心から溢れ出てくる愛(かな)しみの声響きが伝わって来ているのです。
現われの世界である、夕暮れ時に葉を一枚も残さずに落とした山の木の風景のぎりぎりの表現から溢れている、世界の境界線という自然の深い心から出てくる愛しみの声は、慈しむ声でもあり、大自然の奥底からの響きでもあるのです。
もうそれ以上の表現はどうにもならない現れの世界と、潜在している世界の絶対的境界線から心に聞こえてくる、伝わって来るひびきなのです。これらの作品の中の世界は、
1)現象界(地球上の現われの世界、眼に見える現実世界)
2)絶対的境界線
3)神界(潜在世界、大自然の奥深い慈愛の心の世界)
と考えますと良く理解できると想います。
しかし、芭蕉の秋の風は、菊池先生の作品との優劣という事ではありませんが、もう一段深い世界、絶対的境界線を超えた遥かな奥の世界で吹いて来る(響き渡っている)白い風(白光、ホワイトスピリット大神様の生命波動の響き)の事を表現しています。
(2)芭蕉の境地と宗教的境地について
宗教的な悟りの境地とは、宇宙創造神である大生命の根源から放射されている生命波動を受けて生きている心の境地を言うのです。
ですから、必ずしも口で神様仏様と神仏の名前を呼ぶ必要は無いのです。
芭蕉の様に、私たちが住んでいるこの現象界に現われている生命の響きを求め、辿り極めれば、悟りの境地に到達するのです。
ですから逆に、宗教的な悟りの境地が深くなると、歌を詠んでも、詩を書いても、書を書いても、立派な作品が出来る様になるのです。
(3)一芸に通じる
何か一芸に通じて来ると、他の世界の道にも通じ得ることになります。
ただその形式や在り方が、専門的にみて良いとか善くないというのではなく、その一芸に通じた内容が、何事をするにもにも現れてくるのです。
そういう意味で、芭蕉が俳句を通じて到達した境地は、宗教者の境地と同じであると言えるのです。
(4)芭蕉の作品について
作品の創作における芭蕉の作品の特徴は、自然を描写する言葉の中に、人生の哀しみや儚さをうたい上げる作品もあります。
しかし、日常何気なく見過ごしてしまっている、目立たない自然の現われの中から、その奥に潜んでいる絶対美を、易しい言葉の美しい組み合わせによって表現している事にあります。
詩でも俳句でも和歌でも、下手な人の作品は、計算されずに、様々な言葉が過剰に多すぎたり、普通使われない、かなり難しい言葉を使ったり、余計な言葉を入れ過ぎたりしていて、その結果、中身と重みの無い印象の作品にしてしまっています。
(5)真の芸術家
芸術家の中には、消えて行く姿として現われている人生の悲しみや哀れさや、醜悪な人間の心の姿を現し出して、そのような不調和を否定し、その奥底で輝いている真実の絶対美を、見る人に感じさせようとする芸術家もいます。
一方で、直感的に真実の美、真理をそのままそこにうつし出そうとする人もあるのです。
この様に、大自然に潜む絶対美を追求し、高い純粋な理念で日々高度な作品を創作している人を真の芸術家と言うのでしょう。
(7)芸術と世界平和の祈り
日々日常の生活の中で、自己の潜在意識から浮かんでは儚く消えて行くすべての想念とその行為を、”消え去ったのだ”と想い、消えて行く姿にして人類愛の祈りであり、人類救済の
祈りであり、世界人類すべてを最後の審判の日に無事通過させる為の大神様の無限の叡智と慈愛の光明満ち溢れる祈りであり、偉大なる創造主の全託の祈りであり、大生命の宣言の祈りであり、五井白光神様の形無き祈りである、”世界平和の祈り”を祈り続けてゆけば、
”芭蕉のような自由自在の境地”にたどり着く事が出来るのです。
人間の芸術性を花開かせる最も優れた方法が、世界平和の祈りなのであります。
https://www.youtube.com/watch?v=a1ow253qu48
https://www.youtube.com/watch?v=MwxDlc0ntYY&t=927s
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