【ノアの箱舟と火の鳥伝説とアトランティス・ムーの滅び】
新共同訳 創世記 / 9章 18節 ~
箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。
この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。
さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。
セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。
やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、
彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。
神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」。また言った、「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ」
ユダヤ教の聖典であるモーセ5書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は 出エジプト以降に編纂されたことは言うまでもありません。
しかしノアがぶどうを作り、葡萄酒を飲んでいるのに、「民数記」6章には
ナジル人(「聖別された者」)はありとあらゆる葡萄の木の産物を口にすることを禁止されると記されています。
ここにも葡萄を巡って大きな矛盾が存在します。
それは 創世記が神の呼び名においてだけでも[エロヒーム資料」[祭司資料」に分けられるほど様々な セム族に伝わる口伝が寄せ集められて編纂されているからにほかなりません。
神話表現を採る創世記を「逐語無謬説」の立場で読むと 大変なことになります。
神話は 夢や、泥酔 その他トランス状態に陥った時 あるいは臨死体験を通してそして シンボル、自然、祀りなどを通して潜在意識に触れて得た情報です。
私の潜在意識情報は「ノアの箱舟」と「火の鳥伝説」は同じ体験に基づくものだと 伝えます。
いずれも「アトランティスとムーの滅び」に起因しているからです。
アントロメダ星雲は「アトランティスとムー」が核戦争で滅んだ残像だと聞きました。
そしてアトランティス・ムーの滅びは多くの人の潜在意識情報にあります。(その故の罪責感を持つ人たちに沢山会いました)
物質はエネルギーが密集している状態を指します。
密集するためのコァは 帯電効果のある鉄だとも聞いています。
世界の滅びのエネルギーも帯電効果のある鉄に集まり続け 滅びの船となり 宇宙をさまよい続けたノアの箱舟。
その乗組員である霊魂達は 死を死に続ける絶望(キルケゴール)に嘆き苦しむ火の鳥(またはフェニックスまたはベヌー鳥。そして鶴は魂とも言われます。)私にはそのように思えます。
地球がそのようなノァの箱舟にならないよう 祈ってやみません。
マノマノ稲穂@manomano_farm
いくら自分が正しいと思っても、相手を一方的に「間違ってる」と叩かないことです。正論は正しければ正しいほど鋭くなります。相手に正しさを振りかざすのではなく、優しさを振り分けられる人のように「なにを伝えるか」よりも「どう伝えるか」の意識を大切にしたいなと。あ、おはようございます
一指李承憲@ILCHIjp
開かれた心でエネルギーを与え合うと、私たちは言葉がなくとも通じ合います。そのような状態では相手の苦しみが感じられるので、相手を苦しませられません。相手が苦しみを感じると、自分が苦しいからです。相手を平和にしてこそ、私が平和でいられます。相手を幸せにしてこそ、私が幸せでいられます。
満月のりこ【心理セラピスト@東京】@mitsukinoriko
あの人がこうだったらいいのに 意識がいつも外側を向いている
相手を変えたいのは それだけ不安だから あの人のせい あの人が悪い
そう思っていれば 自分の問題にも 触れなくてすむ
人を変えることは できない 変えられるのは 自分だけ
Facebook太田 隆文さん投稿記事
ロシアを憎み、ウクライナを憐れむ前にすべきこと。両国の歴史を知ろう。近代史を見つめよう。悪と正義という見方では見えないものを知ろう。そして過去の戦争から学ぼう。同じ手法はすでに何度も使われている。批判や賛同はそれからだ。
http://kangempai.jp/essay/2021/03senoo.html 【2021年3月のエッセイ 俳句とコミュニケーションについて 妹尾 健】より
みなさんもご承知の通り、わが国は現在たいへんな状況に置かれています。 ひとつはいうまでもなくコロナの感染症状の深刻化です。いま私達はそれに気をとられていますが、他のひとつは高齢社会の到来です。
いや到来などと悠長なことをいってはいられません。そのスピードといい、及ぼす影響は大きな社会環境の変化を生み、これまでにない生活状況の変化を引き起こしています。
コロナの発生と高齢社会の到来はこれまでの我が国が漠然として持っていた未来への安易な予想を覆す時代がやってきたことを感じさせます。こうした現実にともなって俳句もまた変貌の予感が身近に迫りつつあることを実感させます。
俳句はこれまで時代や社会の影響をうけながら、厳として形式を守ってきた、とおっしゃる方もおられます。 他方、俳句は時代とともに新たな進化を遂げていかねばならない、というご意見もあります。
大体に分けて考えてみると、この2つの方向に分けられますが、その前にすこしコミュニケーションの問題について考えてみましょう。
筆者は長く教壇にたっていたものですが、最近、ある中学生から先生は何年のお生まれですか?と質問されました。よくある質問です。
「1948年10月です。」と答えますと、なんとその生徒は「じゃあ先生は戦争中のお生まれですね。」と平然と言うのです。
絶句しました。おい、おい、と言いたくなりましたが、完全に世代間どころではない相違を感じてしまいました。
つまりこれは日本人としての共通の体験がどこかで切れてしまっているということになります。
そこでコミュニケーションという問題が出てきます。つまり他人との間の交流や齟齬を考えでみようというわけです。
実は先日私の通っている公民館講座の「健康元気アップ体操」の研修会でコミニュケーションの講座がありました。それが俳句とどんな関係があるのか、などといわないで、まあ聞いて下さい。 コミニュケーションの領域には2つの領域があるというのです。
①は言語コミニュケーションー主に意識的・直接的
②は非言語コミニュケーション―主に無意識・間接的 例 表情 しぐさ 態度などです。
このうち②の非言語の威力はどのくらいかという実験をアルバート・メラビアンという心理学者の実験結果をききました。 その方法は視覚(表情・しぐさ)・聴覚(話し方)・言語(話の内容)といったもので矛盾した情報をあたえられたときに、人はどれを優先して受け止め情報に対する態度や判断をするかといった結果を見てみました。
この方法から導き出される結果を「メラビアンの法則」というのですが、ほぼ一般的な結果として視覚55%・聴覚38%つまり、言語では7%にといった結果が出てきました。
視覚・聴覚が圧倒的に相手とのコミニュケーションの判断要素になっているというわけです。
これは対人関係における一例ですが、これをチームでのコミニュケーションまで考えますと、チーム(句会なども入ります)内に情報が入ってくると、情報はまず3段階で整理しなければなりません。
○事実
○解釈
○価値観・観念
です。
その情報が、今の段階でどこに属しているのかということです。そして今の段階でそれぞれ段階の階というべきものをそろえておかねばなりません。 これをそろえておかないとひとつの情報に対する、事実と解釈、解釈と価値観に観念の対立 事実関係の判別ができなくなるおそれが出てくるのです。
相手の意見がこちら側に伝わってこない、相手が言っている意味が受け止められないなどということになります。 これは結局事実をどう解釈し、その解釈によって、自分の持つ価値観・観念を相手にどうつたえていくのかということになります。
起っている事柄・情報について自分の価値観や解釈・観念を強引に主張したり大きな声で相手を捩じ伏せたりすることは相手を萎縮させてしまいます。情報や事実のことよりもさきに、その人に対する視覚・聴覚による判断が先行するのです。
「あの人はいつも上から目線でものをいう」「いつも大きな 声でものをいう」「不満ばかり先に出てくる」という判断を相手に与えてしまうのです。
俳句などの文学作品の評価などにおいても、こうした価値観・観念の論争になってしまうのです。文学作品にとってもっとも大切なものは価値観や観念の主張ではなくて、作品そのものを事実として把握することです。そしてあの3つの領域に従って議論がすすめられていくことです。
俳句にはまず形式があり、句会には作法があります。句会の要領、司会者の分担、披講者の役割主宰者の判断や批評は心得ておかねばなりません。
また時代によって言葉の使用例も変化します。俗語を正すことはもちろんですが、口語調の導入や文法の約束など知っておくのは必要なことです。さまざまな試行の上に立って俳句の文学的創造を進めていきましょう。
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