荘子と芭蕉

https://lifeskills.amebaownd.com/posts/10346534/ 【無為自然】


https://shibunraku.blogspot.com/2011/02/blog-post.html 【荘子と俳句】

昨日今日と、閑暇あり、荘子を読む。昨日は雑篇、今日は内篇と外篇を読む。

こうして荘子を読むのは、他方、松尾芭蕉というひとの思想を理解しようとするためなのであるが、荘子を読んで明白なことがひとつだけあります。

それは、荘子は、政治的であることを徹頭徹尾排したということです。

あるいは、商売とのことを考えると、その言っているところは、社会的な交際、社交というものも全く排したということです。

逆に、積極的に、この思想と態度をどういえばいいのかと考えてみると、それは、やはり世上いわれるように、無為自然に即(つ)くという考え方と、その行いです。

芭蕉が惹かれたのは、このことであることに間違いはないと思います。

つまり、無為自然、芭蕉が自然を何だと思い、どのように思ったのかを俳句から読み取ることができるだろうということでもあります。

俳句をするひとたち、即ち俳人たちは、芭蕉七部集の連衆の職業をみても、市井のひとたちであります。商人もいれば、医者もいれば、富裕のひとたちです。

富裕の余り、余剰の高等な遊芸が俳句であるといえば、それはその通りでありませう。

江戸の時代、元禄時代は、学校の歴史の授業で教わったように、確かに成熟していたのだと思います。改めて、この歳になって、そのことの意義を思うのです。芸術と経済と歴史の関係の意義もまた。

荘子を読んでおもうのは、やはり内篇の第1章、宇宙のはじめの生き物が、次々と変身を繰り返してゆくという話です。

これが、荘子という書物の根幹です。

それは、丁度、老子という書物、道徳経の根幹が、第1章にあるのと全く同じだと思いました。

わたしは、この荘子を、最初のところは、づっと、西洋の哲学と論理学でいうと何をいっているのかという観点から文章を読んでいきました。

同じものが別のものになる、成る、変身する、変態するということは、主語と述語は、実は同じものだ、同じ価値を有しているということをいっているのであり、それは一だというのであります。

これは、西洋哲学のよく考えないところだと思います。

混沌に穴を穿ったら、混沌が死んでしまったなどという話は、誠に、東洋人であるわたしからは、最高の話であります。この場合、話の中では、間違いなく、混沌という宇宙の始まりの状態は、媒介者、媒介物であり、その役割を演じている生き物です。(ここから、機能の話しをしたいのですが、今は控えます。)

何故西洋哲学は、そうなのか、そうは考えないのか?

つまり、わたしの哲学の定義は、哲学とは、それは何かという問いに答えることだというものですが、この定義から考えると、それは何かという問いに答えるときの、答え方、即ちものの考え方が、荘子と西洋の哲学者、たとえば、ソクラテスとは全然違っているのです。

何故なのか?

どうもこれは、老子もそう、荘子も読んで、そう思いましたが、言葉、言語に対する考え方の相違だと思いました。

今、これについては、こういうに留めます。後日を期して、また論ずることがあるでしょう。

さて、それから、もうひとつ。

人生は旅だという考え、人生を旅に譬える考えは、荘子にはありません。

それなのに、芭蕉をはじめ、お弟子さんたちの句、連句には、それがそう歌われているのは、荘子とはまた別の、日本人の譬喩であると思います。

旅のはじめと終わりをどのように考えるのか、生と死をどのように考えるのか、芭蕉の考えと、荘子の考えは異なっているということになります。

芭蕉は荘子の何を正解し何を誤解したか、芭蕉は荘子をどう正解し、どう誤解したか。

しかし、文藝は、誤解と引用から生まれるものです。

わたしだって、ソクラテスを誤解しているかも知れない。

それでも、そのひとの人生、わが人生を豊かにしてくれているのであれば、それは素晴らしいことではないでせうか。

こうして荘子を読んできて、先ほど、老子の第1章を読み返してみますと、誠に誠に、これで老子の思想は、やはり、尽きているのであります。

荘子も、そうではないかと思います。荘子の、哲学も論理学も言語学も。

追伸:

混沌が、媒介者であることを、今回読んで認識しました。媒介者、即ち関数、functionであります。それはとらえどころが無いので、混沌と呼んだのでしょう。

宇宙創造の最初の関数、隠れた関数です。(わたしなら、概念というでせう。)

それを恩恵を蒙ったふたつの生き物が、7つの穴を穿ったら、混沌は死んでしまったというのです。

全く、わたしは、この歳になって、古典の真理を知るということだ。

生きていてよかったなあと思い、歳をとってよかったなあと思う。

https://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/radio/r2_rinri/archive/rinri_16.pdf 【老荘思想 ~大いなる道~第 2 章 人間としての自覚】より

今回学ぶこと

老子・荘子の思想について、それぞれの特徴を理解する。

その際、儒家思想と対比させて、「道」についての考え方の違いを明確にとらえる。老子の無為自然、荘子の逍遙遊といった態度を、実例に当てはめて考える。また、道家思想が後

世に与えた影響について理解する。

講師 和 田 倫 明

「無為自然」と老子の思想

老子は諸子百家の一人であり、実在するとすればおそらく孔子より少し後の時代の人物と思

われる。

「大道廃れて仁義あり。知恵いでて大偽あり。六親和せずして孝慈あり。国家昏乱して忠臣

あり。」と言うように、老子は孔子の儒家思想を批判している。親孝行とか忠臣とかいうものは、身内の仲違いや国政の乱れがあるからこそ言われることである。本来あるべき「大道」が失われたからこそ、儒家思想で強調される「仁義」が必要になるという。

その「大道」とは、これがその道だ、と言えるようなものではないのであって、仁義のよう

な人為の在り方に従うのではなく、ものごとの本来の在り方、つまり自然に従うことである。

これを「無為自然」という。その生き方は「上善如水」つまり水のように争うことなく恵みをもたらすありさまであり、「柔弱謙下」つまり争いごとをせずにへりくだることである。

「万物斉同」と荘子の思想

荘子はわかりやすい例え話によって道家思想を説く。あまりにも巨大にして長寿の 鵬おおとりは、あまりにも高みを飛んでいるから、見下ろした世界は青一色にしか見えないだろう。一方でセミや小鳩は、短命過ぎて季節や歳月も知らず、小さすぎて世界のこともわからないのに、鵬をバカげた存在だと笑っている。荘子は、この鵬の視点から考えようとする。

彼によれば、逍しょう遙よう遊ゆう、つまりあてもなくぶらぶらしているということが、本来の在り方であると考える。「胡蝶之夢」の例えでは、自分が夢の中で蝶になったのか、蝶が夢の中で自分になっているのか、どちらとは決め難い、だからどちらと決めることもない、という。これは「万物斉同」という見方である。つまり物事には区別や差別などはなく、すべては等しい価値を持つということである。

老荘以後の思想

儒家思想と道家思想は、対照的な考え方をするものであるから、ともに後世に受け継がれ、

さまざまな影響を与え続けてきただけでなく、お互いにも影響を与え合ってきた。中国に伝えられた仏教にも影響を与えた。

現代に至っても、西洋思想の行き詰まりに際して再発見され、タオイズムとして知られるよ

うになった。

コラム荘子と髑髏の問答

『荘そう子じ』には、いろいろな人物が登場するが、奇想天外な短い物語が次々と語られるので、読み飽きることがない。至楽篇第十八では、荘そう子しが髑ど く ろ髏と対話する。

旅の途中、髑髏を見つけた荘子は、馬の鞭でつつきながら「おまえは欲望をむさぼり果てたのか、不忠不孝を罰せられたのか、はたまた飢え凍えの災難を受けたのか」と語りかける。そしてその髑髏を枕にして眠ってしまうと、夢の中に髑髏が現れた。「おまえが挙げた事柄は生きているうちの心配ごとだ。死んでしまえば、そんなことで煩わされることもない。どんな王者の楽しみも、死の世界の楽しみにまさるものはない」というので、荘子が「それなら私が死者の神に頼み込んで、生き返らせてやろうと言ったら?」と尋ねると、「人生の労苦をもう一度繰り返すなど、とんでもない!」と、嫌そうに眉をひそめて答えたという。

それにしても、髑髏が嫌がる表情というのは、どんなものなのだろうか?

http://tao-academy.jp/muishizen/ 【無為自然の意味】より

無為自然とは、老子の説く人間の生き方です。

この宇宙に貫徹している原理原則に添った生き方をするということで、その原理原則を「道」TAOと呼びました。

老子は、人間も宇宙の一部、天地自然の一部としてこの世に生み出されたものであると考えます。人間もその自然の一部であると考えるのです。

無為自然とは、何もしないのではなく精一杯の努力をし、あとは天地自然の宇宙の原理や変化をそのまま受け入れる私たちこの小さな命を無為自然の宇宙に委ねて生きるそして、この宇宙に命をいただいているということを、もっと大切に日々を楽しく精一杯過ごすこと、そして、心とからだ、共に自然なありのままの状態に戻してあげることにより、初めて人間は、明るく楽しくとらわれのない 無為自然な生き方「道」(TAO)に到達することができます。

無為自然の意味を知り、すぐに実践できる、毎日が明るく楽しくとらわれない無為自然の生き方を学びましょう。

無為自然~ありのままの自分~

人は作為のない状態、ありのままでいるのが良いと、 実は中国古代の哲学である 『老子』に書かれています。

自然のままにいて、木なら原木のままを大切にし自分が自分がという我執をなくして、欲を持ちすぎないことだというのです。

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まず体を無為自然にしよう

腹脳の開発

腹脳で考え腹脳で生きる

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この世の中は、毎日がストレスの積み重ねですね。

解消のしようのない、このストレスという怪物が大きく成長してあなたの人生を食べてしまうまえに、ストレスについて学び、解消する方法を身につけましょう。

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これこそが、無為自然の気のコミュニケーションです。

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感情は抑えると 体の気の流れが不自然になり 体をいため、 心をなえさせてしまいます。

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このところの猛暑、

この暑さばかりは天地自然の変化ですから

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受け入れて、生かされてゆくよりないのです。

そこで、猛暑のときの無為自然の生き方を学びましょう。

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猛暑のときの無為自然の生き方

体の声に耳を傾ける

温暖化現象と無為自然の生き方

このところの荒れた天候、季節はずれの台風が増え、これまで経験したこともないような大風、豪雨、竜巻などが発生する今、この自然の中で私たち人間が幸せに無事に生きぬくためにはどうしたら良いのでしょうか?

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人工降雨と無為自然の生き方

自分の体に台風が起きる

まさかの時に役立つ気

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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