肯定の心理学(自他不二)−−空海から芭蕉まで

https://ujikenorio.hatenablog.com/entry/20121023/p2  【覚え書:「今週の本棚:村上陽一郎・評 『肯定の心理学−−空海から芭蕉まで』=熊倉伸宏・著」、『毎日新聞』2012年10月21日(日)付。】より

今週の本棚:村上陽一郎・評 『肯定の心理学−−空海から芭蕉まで』=熊倉伸宏・著

 (新興医学出版社・2625円)

 ◇自他を超えて響き合う「開き」への誘い

 自殺願望の女性がひとり。幼児体験の問題を抱えていた上に、最近最も親しくしていた友人を突然失った結果である。ハイデガーを含む哲学・思想に沈潜し、研ぎ澄まされた知性と感性を備えている。「あなたを愛している人がいるから」、「あなたの命はかけがえのないものだから」。こうした「やさしい言葉」は、その女性のこころに響かない。親友が死んでも、自分は「生きている」。とすれば、それらの言葉の真実はどこにあるのだろう。

 この女性と業務上向き合わなければならなかった精神科医がひとり。永年すぐれた臨床家として経験を積みながら、このクライアントを前に、かなりな時間沈黙せざるを得ない。心の治療の専門家としての、あらゆる可能な技術も言葉も、ここでは相手に届かない。この絶体絶命の立場に立たされた医師は、最後に、素直にこう言う。「死にたいと聞くと私には生きたいと聞こえるのだよ」。この医師の反応を、相手の言葉を逆手にとった説得の、あるいはまして、多少の皮肉を込めたやりこめの言葉ととってはならない。そのとき医師は、一切の技巧無く、相手と一体化し得ており、その状態から自動的にあふれてきた言葉が、その反応だった。

 その医師が、本書の著者である。著者は、そのときの状況を、空海の世界観を使って理解しようとする。空海とは突然のようだが、最新の科学的精神医学に立ちながら、著者の思想遍歴は長い。万巻の哲学書に接するのはもとより、師と仰ぐ土居健郎を通じたキリスト教への関心、あるいは四国での遍路をやり遂げた経験など、宗教的境地への理解も深い(自身は今でも、どの宗教の信徒でもない、と言われるようだが)。そうしたなかで、空海の『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』に出会う。

 難しそうで、実際難しいはずだが、著者は、自分の臨床体験と重ねながら、空海の言葉を、自分の言葉に置き換えて、平明に述べていく。その言葉一つ一つが、それ以外にはあり得ない思いで綴(つづ)られていると思われるので、ここで、さらに評子が、解説的に読み替えるのは憚(はばか)られるし、結果はある意味で陳腐なものになる懼(おそ)れが大きい。つまりは本書(大きなものではない)に直接あたって戴(いただ)くほかはないのだが、それでは役目が果たせないので、ごく簡単な骨子を述べてみよう。近代的個我の成立によって、人間は「他者」と切り離される。このとき「他者」とは、必ずしも「人間」だけを意味しない。むしろ「自然」全体と言ってもよい。ここでも「自然」は本来「人間」と対立させられたものではなく、要するに「全世界」とでも言うべき何かであろう。「閉ざされた自己」を世界に向かって開くとき、自他の区別を超えたすべてが響き合う状態が生まれる。

 閉ざされた自己に向き合う世界は、いやでも、自己に対して死を考えさせる。しかし、開かれた世界のなかでは、自他、否定と肯定の対立を超えた「全肯定」の契機が生まれる。

 こんな風に纏(まと)めてしまうと、その話ならハイデガーにある、とか、この言い分ならフロイトが、ユングがすでに、という反応があるに違いない。確かに、別に空海を通じなくとも、同じような境地へと誘うものは、多々あるのかもしれない。しかし、本書における著者は、空海の書のなかに、この、一言で言ってしまえば「開き」を得たのであり、その経緯は極めて説得的である。つまり、最初に述べた女性のクライアントに対する医師の言葉は、まさに、この「開き」のなかで生まれたものだったのである。

 本書の後半は、芭蕉の生涯を、「憂さ」から「寂しさ」へのこころの変遷という形で、病跡学的な手法によって追いながら、「寂しさ」に対抗するために、近代人は「自立した自己」、「自我の確立」で武装したことを指摘する、ユニークなエッセーになっている。エッセーと書いたが臨床家にとっては、大切な指針ともなるのでは、と思う。俳句との関連では、黒田杏子氏との交遊から、アビゲール・フリードマンの『私の俳句修行』(中野利子訳、岩波書店、二〇一〇年)を取り上げたエッセーが付されている。これもユニークな視点が盛られた、すぐれた書評になっている。書評欄で、扱う本のなかの書評を紹介するのも、いささか興味ある体験となった。

 最後に、評子自身は、キリスト教の片隅に身を置く人間だが、仏教への関心も決して希薄ではなかったつもりである。とりわけ道元の書は座右にあると言ってもよい。それなりに、理解も届いている、と思ってきた。しかし、本書を読んで、自分の仏教への理解が、やはり机上のものでしかなかったと思い知らされた。著者の空海へのアプローチを、仏教の専門家がどのように評価されるか、評子には皆目判(わか)らない。しかし、少なくとも評子は、本書によって、仏教の根本に、大きく啓(ひら)かれた、という思いしきりである。その意味で、熊倉さん ありがとう。

    −−「今週の本棚:村上陽一郎・評 『肯定の心理学−−空海から芭蕉まで』=熊倉伸宏・著」、『毎日新聞』2012年10月21日(日)付。

http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-writing/post-6.html 【声字実相義】 より

声字実相という言葉は大日経疏巻七に「如来の一一の三昧門の声字実相は有仏無仏法として是の如くなるが故に」と説かれるところに見出され、それは大日経巻二具縁真言品における真言の相を解釈するところである。

 従来の仏教では言語文字は真如実相を表現し得ないとしているが、大師は大日経疏の思想に基づいて、声字がそのまま実相であると主張する。この思想は具体的には法身説法の思想を明らかにしたものである。法身説法の思想はすでに弁顕密二教論等で説かれ、それが顕密を区別する密教の特色の一つとされたが、その法身説法の思想を詳説したものが本書であるといえうる。

 本書は第一叙意、第二釈名体義、第三問答の三段から成っている。

 第一の叙意は声字実相の大意を叙述したもので、その中に「如来の説法は必ず文字による、文字の所在は六塵その体なり。六塵の本は法仏の三密これなり」といい、また「名教の興りは声字にあらざれば成ぜず、声字分明にして実相顕わる。いわゆる声字実相とはすなわちこれ法仏平等の三密、衆生本有の曼荼なり」ともいう。

 第二の釈名体義では、釈名と釈体との二段に分け、釈名の段では声と字と実相との名を解釈し、声字実相の関係を六合釈にあてて説く。つぎの釈体の段では、初めに経証として大日経具縁真言品の「等正覚真言」の頌を引き、この頌を釈して、平等の法仏は実相、真言は声、言名は字であるとし、また阿字本不生がそのまま声字実相であるともいう。

 つぎに正しく体義を釈す段では、「五大皆有響」の頌をつくって、一、声の体と、二、真妄の文字と、三、内外の文字と、四、実相との四項目に分けて考究している。この中、 一、声の体を考究して、内外の五大は悉く声響を具し、五大は声の体であり、音響はその用であるという。

二、真妄の文字を考究する段では、九界の文字は妄であるが、仏界の文字は真実であり、これが真言という秘密語ともいわれる。字母は阿等であり、その名字の根本は法身であるという。

三、内外の文字を明かす段では、六塵に各々文字の相があるとし、その中、とくに色塵を明かすに「顕形表等色」の頌をつくり、これを解釈して、有情と器世界とが相互に依報となり正報となる思想や、法然所成の法身の身土と随縁所成の報身・応化身・等流身の身土の思想などを説いている。

四、実相を考究する段は説かれていないが、その意味は叙意の中や、等正覚の頌の中で汲みとることができる。

 第三の問答の段も説かれていない。それd古来この書は未完成であるともいわれている。

 本書の著作年代は明らかでないが、「五大の義は即身成仏義の中に釈するが如し」とあるから、即身成仏義より後の著作である。

(『弘法大師著作全集』第1巻(山喜房仏書林、1968年)解説、勝又俊教)

【要文名句】               

●それ如来(大日)の説法は必ず文字による、文字の所在は六塵(色・声・香・味・触・法、つまり六境)その体なり。六塵の本は法仏の三密これなり。

●いわゆる声字実相とはすなわちこれ法仏平等の三密、衆生本有の曼荼なり

●五大にみな響あり 十界に言語を具す

六塵ことごとく文字なり 法身はこれ実相なり

●顕形表等の色あり 内外の依正に具す

法然と随縁とあり よく迷いまたよく悟る

●かの字母とは梵書の阿字等乃至呵字等これなり。この阿字等はすなわち法身如来の一一の名字密号なり。乃至天龍鬼等もまたこの名を具せり。名の根本は法身を根源となす。彼より流出して稍く転じて世流布の言となるのみ。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2327  【セラピスト・カウンセラーを育成する人には哲学が必要になる(8)=「自他不二」が東洋哲学の核心、現代日本の社会問題の解決にこそいかされる】 より 

自他不二の哲学

 「自他不二の自己」は、日本の歴史上、さまざまな人(たとえば、道元、松尾芭蕉, 宮沢賢治など)が言っているのですが、最近の仏教者はこの深い哲学をい わなくなってしまいました。 西田哲学も「自他不二」の哲学であると、哲学研究者が言っておられます。

 「西田のそうした矛盾的な表現を仔細に検討していけば、そこにはある一貫した考えがみとめら れる。それは、通常、対立的に考えられている主観と客観、個と普遍、自己と他己が一体にして 不 二なるものであるという自覚であり、またものごとを自己の側からではなく、反対に、世界 の側か ら見ていこうとする姿勢である。いわゆる自己というものがまったく消失してしまったとこ ろから 物や世界を見、自己が物や世界になりきったところから行為していこうとする考え方である。 そ れは、まさしくデカルトに始まりカントによって完成された 西洋近代の物の考え方ー西田はそれを主観主義と呼び、対象論理として特徴づけているーに対する アンチテーゼである。こうした視点を離れて西田哲学をとらえようとすると、西田哲学の核心部 分 を見失ってしまうことになるのではないか、とつねづね筆者は考えている。そしてそれが本書 全体の趣旨でもある。」 (「西田哲学の基層」小坂国継、岩波現代文庫、294頁)

 欧米のマインドフルネス心理療法者が東洋的な実践を 掘りおこして、痛みの克服、精神疾患の治療、教育、非行更生の領域など 現代社会の中で活かし始めたのです。しかし、 日本人の仏教者や哲学者でも、自他不二、西田哲学を理解しているとはいえそうもない状況です。 日本の仏教はさまざまに分かれています。西田哲学も理解されていないという声があります。

 上記の小阪氏の指摘された西田哲学と日本的マインドフルネス心理療法との関係を簡単に述べます。

 まず、

 「通常、対立的に考えられている主観と客観、個と普遍、自己と他己が一体にして不二なるも のであるという自覚であり」

 の部分ですが、うつ病や不安障害になると、あるいは、その発病前には、 主観と客観が対立的に考えられているのです。すなわち、自分の人生に現れる状況(仕事、つらい 人、職場、電車、感情、症状などのすべて=客観です)を、自分の外にあるものと考えて、おもいどおりにならないとか、嫌悪の思考を繰り返しています。それが、神経生理学的連鎖を起こして発症し、なってからも治らない。 ところが、主観(自己)と客観(他)が、自己の外にあるのではなく、「一如」、自己(の場所) と一つであるという見方です。日本的マインドフルネス心理療法はこういう見方をトレーニングによって 開発していきます。苦しいだけの自分に対立していた客観が対立したものでななくて、内在的に なる。すなわち、客観の見方が変わる(新しい見方=洞察)のです。このような洞察によって、苦悩の対象であ ったものが、自分に対立したものではなくなると、精神疾患が軽くなるのです。苦悩するだけの思 考が少なくなるので、嫌悪的感情が少なくなることで、症状が軽くなり、問題行動が変化します。

 「個と普遍の一体」は、絶対者、神との関係もそうでしょうが、西田幾多郎は、自己と絶対者( 神、仏)が別ではないということを言います。これまでは、精神疾患の領域にはあまり用いる場面 はありませんでした。これから、活用が考えられるのは、自分の死、自己評価の低さ、人格否定に苦しむ人の援助です。これは、別に述べます。

 また、特定の人物を絶対視させて洗脳させられたカルト被害者の救済には役立つかもしれません。 「あなたの外にいる特定の人物が絶対者ではない。絶対者はあなた自身の底にある。あなたと絶対者が一つである。外にいるあの人ではない。だから、あの人の教えを手放しましょう。彼は、絶対者でなく平凡な人ですから、信仰を捨ててもばちはあたらない。」こういう説得になるのでしょう。ただし、双方とも相当、真剣にならないと、思い込みは変えられませんが。

 大学の頃悩む若者が、カルトにはいっていく人が多いので、大学で、こういいうことを教育すればいいと思います。

 「自己と他己が一体」とは、自己も他人も別ではないということです。上にも「つらい人」と書 きましたが、特定の他人がつらいと思ううつ病の人や、人のいる場面が恐怖という社会不安障害の 治療に役立つでしょう。他人が自分の外にあって対立しているものではなくて、自分と一体(心の 中、心の場所で同一)と洞察できるようになって、自分の心のさまざまな作用がわかると、いたずらに恐れることがなくなり、うつ病や 不安障害が軽くなります。

非定型うつ病

 また、非定型うつ病には、拒絶過敏性から感情的になって鉛様麻痺感の発作をしばしば起こしますが、患者さん側の一方的な見方であることに気がつき、 相手側を含む対人関係の両者の立場(客観的に無評価で)で相手の言葉を受け止めるようになれば、感情的な場面が少なくなって、鉛様麻痺感が起こらなくなります。

パニックやトラウマ

 不安や動悸、パニック発作、フラッシュバックなども神経生理学的な反応は、起こるべくして 起きるので、世界の立場からは必然的に起きてしまうので、それを嫌うとか起きないようにコントロールしようという態度が、神経生理学的な世界の立場ではないので、かえって症状を長引かせます。症状は内的世界の必然だと観念して受容(アクセプタンス)して、自分の役割行動(症状が重い間は、治る効果があるとされる課題の実行)のことをして(マインドフルネスとかコミットメントの局面)いけば、症状が軽くなります。

自我を抜きにして世界の側から

 こうした見方の転換は、次の哲学を実践化することと関係します。

「世界の側か ら見ていこうとする姿勢である。いわゆる自己というものがまったく消失してしまっ たところから 物や世界を見、自己が物や世界になりきったところから行為していこうとする考え方 である。」

 自我の主観的、独断的、自己中心的な評価的判断ではなくて、それを抜きにして(自己を脱落し てとか、無評価で、といいます)、世界の側から見るトレーニングが、精神疾患の治療に効果的で す。受容の心得に生かされます。

専門家も主観的、独断的になるおそれ

 また、この点は、専門家(研究者、支援者、医師もカウンセラー も色々な産業領域の専門家)の行為が主観的、独断的、自己中心的であってはならないことも教え ていると思います。色々な研究者の行為、学問的な論文にも、主観的、独断的、自己中心的なもの があるはずです。自己をなくしていなくて、自己の都合のよい、自己の利益になる立場 (または何らかの利益<金銭、名誉ある地位など>を得ている組織、企業の利益になるような立場) から物を言 い、他者を傷つけ、攻撃することがある。西田哲学は、そうした自己の立場を捨てて、「世界の側か ら見て いこうとする姿勢である。」これは、精神疾患の療法の場面では、 自己が提供するもの(薬物療法、心理療法や手法)が、本当に世界の立場からになっているか(治療者のエ ゴではないのか、自己の知らないスキルがあるのではないか、患者のためを本当に思っているのか、など=色々な治療者と患者のすべてを含んだものが<世界>ですから)という反省をせまるのかもし れません。 また、グループで治療にあたっている組織の中で、治療方針が対立する時に、自分の面子、自分のプライド、自分の名誉を優先させて、対立したり、行動してしまい、患者さんの利益にならない行動をする。ドラマになるような葛藤が現実に起きるはずです。 自己の利益のために患者さんを利用してはならない。また、自己の治療法を絶対視してはならない、さもないと、患者さんを苦しめるだろうと患者 さん側からも考えていく必要があることを教えてくれていると思います。こういう支援者の心得は リネハンの弁証法的行動療法で強調されていると思います。

 マインドフルネス心理療法を提供する支援者も、自分のエゴイズム、自己の利益のむさぼりに気づき、抑制しなければ、マインドフルネス者とはいえません。マインドフルネスには、自分のエゴイズムの心の観察も含まれています。スキルもないのに、つらい人に提供して、指導料をとり続けるとか、心理的な依存をさせるようなことをしてはなりません。(エゴイズムの心を自己洞察瞑想療法(SIMT)では本音といいます)

日本にある深い哲学を日本人が捨てて、欧米人が拾う

 これは、ほんの一部ですが、西田哲学、東洋哲学は、これから世界中でマインドフルネス心理療法に生か されていくでしょうか。日本の仏教は、こうした深い哲学を見失ってしまったと、竹村牧男氏はいわれるのです。本当に、西洋のマインドフルネス心理療法者が理解できるのでしょうか。日本では、現代社会に影 響を及ぼすことができなくなったというのです。 欧米のマインドフルネス心理療法者は、日本の哲学に期待しているようですが。ほりおこしは大変 な作業になりますので、将来のある 若い研究者が掘りおこして、世界に発信してもらいたいものです。 西田哲学のマインドフルネス心理療法への応用の一例、SIMTもまだまだ不十分です。 治療効果を高める研究の必要があります。意識的自己よりも深い叡智的自己、人格的自己レベルのマインドフルネスが東洋哲学にはあります。 若い、心理士、心理学者の研究を期待したいです。

芭蕉俳句と禅(1,2) | 中野禅塾

nakano-zenjuku.com/?p=537

芭蕉俳句と禅(1) 芭蕉(1644‐1694)の俳句が禅の心を反映していることはよく知られています。以下は小築庵春湖編「芭蕉翁古池真伝」(早稲田大学古典籍総合データベース、ネットで読めます)にあるエピソードです。


https://lifeskills.amebaownd.com/posts/10361523  【物我一智】


http://www.rakuto-underground.com/TORU/BackNumber/BRMSBSHO.htm 【“ブラームスと芭蕉たち - 現代に生きる太古の思想”】 より

自由な思考の翼を広げられるのは人間の特権...

人間であることの喜びを教えてくれる書

 今日は思想研究書(?)の読後感想ご紹介。通常は book のコーナーで紹介すべきかも知れないが特別企画ということで。書の題名は『ブラームスと芭蕉たち - 現代に生きる太古の思想』...。

 昨年の夏に約30年ぶりに再会を果たした高校時代の友人、G藤君から昨年末に手渡されたのが本書である。彼の大学時代の恩師である吉江久彌先生が私にプレゼントしてくれたらしい(ここに至る経緯は話せば長いのだが本題ではないので省略!)。せっかく貰ったのだし“こんな難しそうな本を手にすると学生に戻った気分やな~♪”と浮かれてとりあえずさわりのところを読んでみる。いきなり“緒言”と題されていて一般的な“はじめに”とかありがちな“序文”ではないところが学術的だ。だが普段は推理小説などのお手軽本しかインプットされない私の頭にとって、これは苦難の道程の始まりだった。

 それでも何度か挫折しそうになりつつも何とか読破してくたびれきった私の頭が理解したところでは、この書は次のような流れを辿っている。ブラームス→老子→列子→荘子→松尾芭蕉→井原西鶴→「ウパニシャッド」→タゴール→西田幾多郎→プラトン→宮沢賢治... これだけ見ると“風が吹くと桶屋が儲かる”みたいな印象があるが、吉江先生はアーベルという人が「我、汝に為すべきことを教えん」という本に記録した大作曲家ブラームスとの対談における“真のインスピレーションによる着想はすべて神から来るのだ”を出発点として、自由な思考の翼を広げている。それは中国の思想家の言葉を引用し、芭蕉ら俳人たちにもブラームスと同じインスピレーションがあるとしながらインドに太古から伝わる哲学「ウパニシャッド」に到達する。本書に再三出てくるキーワードは“梵我一如”(ぼんがいちにょ)。ブラームスは優れた創造を行う為には霊感に加えて“職人芸が不可欠”と言っているが、神的な霊感が“ブラフマン”(梵)、人間的な職人芸が“アートマン”(我)であり、それらが一体化した理想の状態が“梵我一如”ということらしい...。

 “らしい”と書いたのは、実際はそんな単純なことではないようなのだが私には難解すぎて理解できないため(私の腐った頭は再三使用される“ブラフマン”“アートマン”の文字を見るたびウルトラマンのイメージを作り出した...)。また“梵我一如”にまつわる考え方にもいろいろな方向からのアプローチがあり、“一”(Unity または the One) とか“無何有”とか“造化”などの用語がこれまた多様な形式で用いられるので、余計にややこしい。だが一方では月面に降り立ったアメリカの宇宙飛行士の談話が引用されていたり、アテネ五輪の水泳で金メダルをとった北島康介に関する逸話が紹介されるなど、さしずめ学生なら落ちこぼれレベルであろう私でも理解できる話もあって、さすが元は大学で教鞭をとられていただけのことはある。

 でもってこの書は何を言わんとしているのか? これは非常に難しい問題だ(特に理解レベルの低い私にとっては...)。尚、先生は最後に「小さな星の上で」という詩を置いている。“私のエネルギーが尽きたとき、今度は遠くの星へ行くのだろうか。宇宙の塵になって浮遊するのだろうか。誰も教えてくれない。誰も知らない。だけど巨大なエネルギーの中で、私はたしかに生きる。たしかに永遠に生きる”... ほとんどトンチンカンな私だが、この書から次のようなことを得たように思う。

 (1) 偉大なる芸術家は“梵我一如”を体得?して素晴らしい創造を行うが、我々凡人には無縁の世界である。それでも私達は私達なりに、それを意識しておくべきである

 (2) 現代は物質的な時代である。情緒ある教育が忘れられた時代である

 (3) 地球は温暖化に苦しみ、日本は陰惨な事件に苦しんでいる。だが科学だけではその状況は改善できない。それを補うためにも太古の思想を学ぶべきである

 人間というのは素晴らしい。同じ動物でも思想の翼をこのように広げて自由に旅が出来るのは人間だけである。ひょんなことから触れることとなったこの『ブラームスと芭蕉たち - 現代に生きる太古の思想』はそういった意味で人間であることの喜びを教えてくれる。尚、著者・吉江先生は結びにおいて“出版事情が急激に悪化した今日、おそらくは最後のものになるであろう”と書かれている。ご自身が高齢であることもまたその理由だと思う。だがまだまだ“宇宙の塵”になってもらっては困る。使命は終わっていないのだ。

 最後に一介のコンピュータ屋の営業マンでもよくわかる文章があったので引用しておく。“どんな仕事であっても、神霊を心に持ち、敬虔に、熱意をもって継続することを忘れてはならない”... はい、頑張ります!

http://www.osaka-doukiren.jp/series/series02/4049  【俳句の聖 松尾芭蕉  |わたしの歴史人物探訪】 より

はじめに

古来、和歌の聖は柿本人麻呂、時代はずっと下がり、江戸初期に松尾芭蕉が現れて俳諧の聖と定められ、双方、誰の異も唱えられず今に至っている。 芭蕉の誉はひとえに「古池や」の句から来ているといってよい。 その背景を含め、魅力溢れる作品の幾つかを取り上げ、芭蕉51年の生涯を探ってみよう。

生い立ち

東京・深川の草庵跡、芭蕉稲荷神社

1644年、伊賀上野に半農の下級武家に生まれ、本名は宗房(むねふさ)(以後 芭蕉で通す)。 早くに父は亡くなり、家督は兄が継いだ。 封建の世の貧家の次男坊はつらい存在だが少年の折、小姓に、あるいは厨房(ちゅうぼう)の用人として藤堂藩、侍大将の跡継ぎに召し出された。 知的教養を重んじる藩風の中、ともに俳諧を学んだ2歳年長の主は、しかし、芭蕉23歳の折に亡くなる。 仕官の途を絶たれた彼が29歳で江戸へ、俳諧の宗匠をめざして下るまでの消息は明らかでないが、漢籍などの素養を深く身につけていることから、生活の軸は実家に置いたとしても京、五山の寺での修行が想像されている。 それによっていくらかの文人たちと交わり、老子、荘子の思想を学んで精神背景を形成していったのではないだろうか。

俳諧師、そして隠遁生活へ

俳諧の世界でも、まず伝統を重んじる保守的な京に比し、新風を好み、歓迎する武士と町人の街、江戸で芭蕉はその才能を着実に開花させ、さまざまな援助を惜しまない門人も増やしていった。 しかし、生計のためもあろう、ある時期は工事の事務仕事に携わったりもした。 宗匠として一応の地位を得ても、俳諧の流行はめまぐるしく移り、尖鋭(せんえい)的にもなって、しかも、芸術性の低い小手先の、いわば言葉遊びの域をそれらが出ていないことを、芭蕉は十分理解していた。 37歳の折、突如点料を得る師匠の座を遠ざかって隅田川を渡り、深川の草庵に隠者のごとき生活を始めたのだった。 真の動機は彼にしか知られようもないが、混迷を極める俳諧の世界で名利をより得ようとする日常を捨て、清貧の暮らしの中に、求める俳諧の道を一途に進もうとしたのだろう。 2年後、世にいう「八百屋お七」の大火に庵を焼かれ、身一つで逃れた芭蕉はさらに、その人生観を変化させ、より仏教に近づいていったといわれる。 やがて故郷から、母の訃報が届く。 門人たちの援助も得、再建された草庵に戻った芭蕉は翌年の夏、母の墓参もあって、旅に出た。 「野ざらしを 心に風の しむ身哉」で知られる「野ざらし紀行」だ。 行く先は故郷、伊賀上野から吉野、奈良、京、近江、美濃と続き、年を越えて4月、芭蕉庵に帰った。42歳になっていた。 この旅で、芭蕉は自らの変革を感じ取ったのではないか。 漂泊の内に孤独な己を客観視し「わび」「さび」の世界に自分は常住(じょうじゅう)坐臥(ざが)できるのか、理念を実践しようとする生活の中で、俳諧の道を探り続けられるか、試金石の旅だったから。 その成果は蕉風への手がかりとされる、連句「七部集」の第1「冬の日」を名古屋で生んだことだ。

俳諧と俳句

ここで連句について少し述べておこう。 今日、狭義には俳諧は俳句と同じだが「俳諧の連歌」の初句「発句」を俳句という。最後は「挙句」。 俳句の作者としての芭蕉と作品ばかり多く論ぜられるが、彼は俳諧の連歌「連句」を深まりある芸術へと高め、蕉風を完成させたのだった。 万葉の時代から、2人の一方が和歌の上の句、他方が下の句を詠む連歌は存在した。 その句数は多くなって、36、44、100韻、さらに連なるようになっていった。 室町後期から滑稽、洒落を主とした、おどけ、たわむれる言葉、つまり俳諧の連歌が盛んになり、これを「俳諧の連句」と称する。 ただ、残されている芭蕉の連句、代表作を収めた七部集を開いても、時代はあまりに移り変わっていて筆者には正直、理解が困難だ。 連句の面白みは対の前句を受けての連想と展開の妙にあるが、細かい決め事も多くなかなか難しい。 その上漢籍の、また当時の事物、常識としたものの知識の無さも読解の妨げになる。 ただ芭蕉を正しく学ぶには、連句の詠み人としての彼を無視するわけにゆかないとのみ述べておきたい。

大川端芭蕉句選

蕉風の確立

43歳の春、芭蕉に決定的な転機が訪れる。「古池や 蛙飛び込む 水のおと」の句だ。 寺の庭の池のほとりか、眠くなるほどの春の昼下がり、蛙が小さな水音を立てて池に入った、それだけの句。作は成そうとせず、思わず口をついて生まれた。 正岡子規の著「俳諧大要」は岩波文庫から出版されていて、書中「古池の句を弁ず」の一節が設けられている。 芭蕉以前の俳諧の歴史、そこに至るまでの彼のそれらを豊富に紹介し、この句について記している。  「日常平凡の事が直ちに句になることを発明せり。(中略)蛙が池に飛び込みしというありふれたることの一句にまとまりしに自ら驚きたるなり(中略)芭蕉は終に自然の妙を悟りて工夫の卑しきを斥(しりぞ)けたり」と。 子規は芭蕉自身も門弟たちの誰もが、この句を彼の最高作と言っていないことをあげ、ただこの後、芭蕉はここで感得した自然的趣味によって句を詠み、すべてを、誇りをもって人びとに伝えたと続けている。

細道の旅

1689年3月、46歳の芭蕉は「奥の細道」の長途(ちょうと)についた。 上方や伊賀、美濃、尾張などには多くの門人を抱えるようになった彼も、奥州、越後となればわずかにしかいなかったから、旅には困難が予想された。 しかし、深川の庵に長く留まれば、門人たちや、日常生活上の雑事に追われ、自らの俳諧に芸術的停滞をきたすことは明らかに思われた。 人生を旅と捉え、無常の中にあるすべて命あるものの美を追求し、身は俗に置いても風雅の高みをめざそうとする「風狂の心」は旅立ちを急(せ)かせた。 この書については皆さまよくご存じと考え触れないこととする。 連句を完成するのを「巻く」というが、和漢交じりの洗練しきった紀行文に俳句を添え、渾身(こんしん)の一巻を巻こうとしたかのようだ。 旅を終えても芭蕉は長く推敲(すいこう)を重ね、これが版行されたのは没後だった。

芭蕉の俳句

「奥の細道」出発の地

①?「まゆはきを 俤(おもかげ)にして 紅の花」

「奥の細道」尾花沢での句。筆者も若い頃、出張でよく訪れた山形駅の土産物売場には、句の印刷された手ぬぐいもあった。 「母のおもかげ」といっても娘のそれはないもの。化粧品の原料である紅の花を、化粧道具「まゆはき」を俤にして、といいまわしたのが何ともこころよい。

②?「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」

これも、その道中吟。金沢を発って小松に向かったのは陽暦の9月7日。 照りつける日差しはまだまだ厳しいが、ふと吹いてきた風は思わず涼しい。秋近し。 この句「つれなく」がよくないとの評もあるが、筆者はそう思わない。 これほど、普遍性に満ちた句はなかなか無い。どの地に身を置いても、誰しもが晩夏の一瞬、こんな風を感じたことがあるだろう。「日はつれなくも」がさりげなく上手い。 例えば同じ芭蕉の「菊の香や ならには古き 仏達」は句の良否はさておき、奈良を見知っているかどうかで、味わい方が変わるのは了解されよう。

③?「名月や 北国日和 定めなき」

細道の旅も、もうあと僅か。敦賀で中秋の名月を迎えることに。 前日、月の明るいのを喜び、楽しみにする芭蕉は、宿の主から酒を勧められて「越路の習い、猶明夜の陰晴はかりがたし」と諭され、夜半「気比(けひ)神社」に詣でた。  翌日、たがわずの雨に感心しきりの芭蕉が目に浮かぶ。

④?「行春を 近江の人と おしみけり」

春の名残を惜しむのは近江の人とでなければならない。 初夏の昼下がり、のたりとする琵琶湖の情景だ。 海では駄目。波がある。音がする。

⑤?「此の道を 行く人なしに 秋の暮」

「思うところ」の前書きがある最晩年の句のひとつ。 迫りくる孤独感の中に、凛とした芸への覚悟が。

晩年の芭蕉

落柿舍

細道の旅を岐阜、大垣で終えた芭蕉は伊勢神宮から故郷へ、奈良から近江、京と忙しく門人たちの指導にあたり、嵐山「落(らく)柿舎(ししゃ)」で「嵯峨日記」も記している。 1692年48歳になった彼は10月、江戸へ戻り、翌年5月、新しい芭蕉庵に移った。 そして2年後の5月、芭蕉は最後の旅に発った。 道中、内妻、寿(じゅ)貞(てい)尼(に)が江戸の庵で亡くなったと知らされた彼は、故郷で彼女の初盆(はつぼん)を執り行い「数ならぬ 身となおもひそ 玉祭り」と詠んだ。 寿貞尼には3人の子があり、父親は芭蕉でないとするのが定説で、同郷とされる。 尼の身の妻とは、いきさつは不明だが、芭蕉は彼女を深く愛していたと思われる。 その後、京、大津を転々として9月大坂に入った。 ここで、弟子同士の不仲をとりなそうとして不調に終わったのが、体調を悪化させる原因ともいわれる。 病は重くなるばかり。南御堂近く、門弟の知人「花屋」の座敷に移って1694年10月に没した。 その夜、川船で遺骸は伏見から大津へ、遺言によって「義仲寺」の、こよなく愛した源義仲の隣に葬られた。 蛇足ながら、終焉(しゅうえん)記として「花屋日記」があり、これを後世の作り物であることを了解したうえで岩波書店が出版したのは戦前の1935年。 いつわりの書でも価値が認められたのは、それだけ芭蕉に門弟が多く、彼を悼む言葉がさまざまに残されたことを示していよう。

おわりに

晩年、門人によく諭した「かるみ」とは身近な題材を、趣向、作為をできる限り避け、あるがまま表現する中に風雅を求めようとするもので、一例をあげて「蕉風」の締めくくりとしよう。 芭蕉第1の高弟と自他ともに認める榎本其(き)角(かく)は師をよく理解しながらも、自らは伊達を好み、奇抜、洒脱な句をよくした。 彼の「声かれて 猿の歯白し 峯の月」は江戸でもてはやされ、その力量、師を越えたのかと評判になった。 猿の鳴き声といえば、漢詩の世界では旅人の愁の泪を誘うとされる。 その声も、もはやかれ、月に向かってむき出した白い歯の凄絶さ。 芭蕉は褒めも貶しもしなかった。彼は自らの評論を弟子に強弁しないし、句の良しあしをとやかくいう師でもなかった。

ただそっとこの句を差し出した。

「塩鯛の 歯ぐきも寒し 魚の店」。

これを詩人、大岡 信さんは、長く新聞に掲載された「折々の歌」に紹介している。

コズミックホリステック医療 俳句療法

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