鑑賞力のある人

https://gospel-haiku.com/dig/d020206.htm 【作句力と鑑賞力】より

やまだみのる

句会で一句評をするとき、「互いの句を褒めあうだけではおもしろくない。 没句のどこが悪いのかを論じあった方が勉強になる・・」と、力む人がある。 中には、「そのとおりだ・・」と、それに同調する人もいる。 確かにそれは間違いではないかもしれません。 事実、そのような研究会を推進される指導者もおられます。 でも、ぼくはその意見に反対です。

20年近くいろんなタイプの俳人と関わってきて、議論が好きで欠点探しが得意というタイプの人で、 且つ俳句が上手という人にはあまり出会ったことがありません。 俳句は理屈や論理で作るのではないので、「理論派=俳句が上手」という関連にはならないからでしょう。 初心者の句の欠点について得意げに語る人たちに、秀句の長所について意見を聞くと決まって寡黙になります。 つまり、いつも欠点探しを優先して鑑賞するので優れた点を深く鑑賞することに視点が届かないのです。

初心者の中にも、作品のどの部分がどう悪いのかを執拗に知りたがる人がいます。 そうした理屈を先に知ってしまうと、吟行で句を作ろうと思っても理屈がじゃまをして心を無にすることができず、 集中する訓練ができていないので、結局あれこれひねくり回して頭で考えて作るようになります。 俳句は「詩」です。考えて作った詩は決して人の心には響きません。 ほんとうに感動して、またその感動をとらえて授かった詩は、必ず他人の心を打つはずです。

「鑑賞力のある人=俳句が上手」という関係は紛れのない事実です。 ゴスペル俳句には鑑賞のページがいくつかあります。 その中でも「自由鑑賞」は、毎日句会や月例句会などの仲間の作品を鑑賞して、 その感想を書いていただくページになっています。 ぜひ、勇気を出して気軽に書き込んでください。 自分はこの句のどこに感動したか、共感したかと言うことを具体的に書いてほしいのです。 これが正しい鑑賞の姿勢です。

「自由鑑賞」だから何を書いても良い・・という意味ではありません。

わたしならこう表現する。ここはこう直したほうがよい・・・批判

わたしはこう思う。かくかくしかじかであるべき・・・自己主張

これに似た類句がある。これは類想だ・・・中傷

Aの作品より、Bの作品のほうがどうだ、こうだ・・・比較論

こうした内容はマナーに反します。 インターネットは公共の広場です。 批判・非難・比較論など相手に不快感を与えるような発信をしないことは最低限のマナーです。 メールを出す前、掲示板に書き込む前、どうぞ書いたことをもう一度みなおしてください。

http://art-education.shide-n.com/?eid=45 【「鑑賞の能力」とはどのようなものか? その1】より

■はじめに

美術科において育成するべき能力の中に「鑑賞の能力」というものがある。今回のコラムから数回に分けて、「鑑賞の能力」がどのようなものなのか述べておきたい。なぜなら「鑑賞の能力」とは、とても抽象的であり、とても分かりにくい能力であるからだ。鑑賞の授業を実践し、この能力を向上させるために、この能力について教師と生徒が共通に理解しておくことは必要だと思う。

■筆者のイメージする「鑑賞の能力」

まず、個人的な意見として端的に言うと、「鑑賞の能力」とは「鑑賞を楽しむための力」であり、そのために必要な「作品からイメージを感じ取る力」、「感じ取ったことからイメージを創造したり、想像したりする力」だと考えている。

作品を見て、すぐに「なんだか分からないな」と思って何も感じ取らないのでは作品を楽しむことはできないし、作品からイメージを感じ取って「ああ、そういうことか」と思考することを止めてしまってはもったいない。作品からより多くのイメージ(情報)を読み取り、そこから自由にイメージを膨らませることが鑑賞の楽しみである。それは「作品の好き嫌い」を超えた鑑賞のあり方だ。

■学習指導要領が示す「鑑賞の能力」

次に、公立学校の教育活動を規定している『学習指導要領』には、どのように書いているのだろうか、解説を見てみよう。これによると、「鑑賞の能力」とは、「身の回りの造形や美術作品,文化遺産などから主体的に造形的なよさや美しさなどを感じ取り味わう能力」(P.19) と書かれている。要するに「感じ取って味わう力」なのだと思う。「味わう」ってどういうことなのか、よくわからないけど、たぶん筆者がイメージしている「鑑賞の能力」とほぼ一致している。

しかし専門家でなければ、とても抽象的で分かりにく能力だと感じるだろう。そこで、鑑賞活動のどのような場面で発揮される力なのかを考え、「鑑賞の能力」の理解に近づこうと思う。

■「作品に対する思いや考えを説明し合う活動」

では、「鑑賞の能力」とは、どのような場面で発揮される力なのだろうか、『学習指導要領』を見てみよう。これによれば、「鑑賞の能力」を育成するために、中学校1年生の段階で「作品に対する思いや考えを説明し合う」活動(以下、「説明し合う活動」)を行うことになっている。(P. 81)つまり、この活動の中で「鑑賞の能力」を働かせ、育成させようというのである。(2・3年生では「作品に対する価値意識をもって批評し合う」活動を行う。)

では、「説明し合う活動」がどんな活動なのか、ハッキリさせよう。この活動は単純に言うと、作品を見て感じたことを言葉で説明する活動である。この活動は下の図のように、AとBの大きく2つの場面に区切ることができる。

図:作品に対する思いや考えを説明し合う活動

Aは学習者が「作品」のもつイメージを「感じ取ったり考えたりする」場面だ。この場面で、学習者の中に生み出されたものが「感じたり考えたりしたこと」である。Bは「感じたり考えたりしたこと」を基に考えをまとめて、言葉や文章で「説明する」場面だ。そうやって生み出されたものが「説明」である。

このAとBの場面は、言い換えると「学習者に情報を入力する」場面と「学習者から情報を出力する」場面と言うこともできる。ただし学習者は機械的に入力したものを、そのまま出力するわけではない。この一連の活動は、学習者がすでに「身に着けている能力」によって押し進められている。そして、その能力の違いが人それぞれの個性として「見方・考え方」、「書き方・話し方」に表れる。

さらに「説明し合う活動」は複数の生徒で行うものであって、お互いに説明し合う中で、「他者の意見を理解する」Cの場面があることも忘れてはならない。他者の意見を理解し、ものの「見方」や「感じ方」が広がる。これが「説明し合う活動」での学びの場面であり、「鑑賞の能力」を育成するために最も重要な場面なのである。

■「説明し合う活動」の中の「鑑賞の能力」

では、「説明し合う活動」の中で、どの場面に発揮されるのが「鑑賞の能力」なのだろうか、「説明し合う活動」を実践していくために必要な力を整理してみよう。Aの場面では「感じ取ったり考えたりする力」が必要となり、Bの場面では言葉や文章で「説明する力」が必要となる。Cの場面では、他者の意見を聞き、それを「理解する力」が必要だ。これらの能力が揃うことで、この活動が進んでいく。これらの力は全て、この活動を行うために、必要不可欠な力である。しかし「鑑賞の能力」そのものではない。『学習指導要領』の示す「鑑賞の能力」と一致するのは、作品から「感じとったり考えたりする力」である。考えを「説明する力」や他者の説明を「理解する力」は、「感じ取ったり感じたりする力」を育成するために利用しているとも言える。

ここで注意してもらいたいのは、「説明する能力」が「鑑賞の能力」ではないということだ。「説明し合う活動」で、学習者は最後に必ず「説明」をする。そしてこの活動で「鑑賞の能力」として評価されるのは「説明」だ。だから、見かけ上「説明する力」が最も重要な力であり、「鑑賞の能力」のように見えてしまう。しかし、あくまで「鑑賞の能力」とは、「感じ取ったり考えたりする力」なのである。

■おわりに

今回のコラムで、「鑑賞の能力」が「説明し合う活動」の中の、どの場面で発揮されるものなのかを解説した。そして、「鑑賞の能力」とは、「感じ取ったり考えたりする力」だと書いた。でも結局、それ以外の力もなければ「鑑賞の能力」は発揮されないことに、すでに気づいている読者もいるだろう。それについては次回のコラムで書こうと思う。

また、「感じ取ったり考えたりする力」は「読解力」なんて言われ方もするので、それも別のコラムで書こうと思う。

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