森羅万象から命の「光」を観る

一指李承憲@ILCHIjp

自然は私たちの師匠です。最も近くにあり、いつどこでも会うことができる万人の師匠です。私たちは自然から人生の知恵や道理を学びます。春夏秋冬の循環の中で自然の理を悟り、輝く太陽の中にすべてを公平に照らす大きな愛を見いだし、新芽や若葉の萌え出ずる新緑の中に生命の驚異を感じます。


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皆さん、こんにちは。あなたは伊勢神宮に行ったことがありますか。

毎年、伊勢神宮を参拝する人は一千万人を超えているそうです。

ディズニーランドのようなアトラクションは何もないのに!

観光とは、光を観ると書きます。「見る」は見えているものを見ること。

「観る」とは特定の見方をすることです。

森羅万象に「命」(神)が宿る。そしてすべてはつながり共生している。

これが日本の伝統的な世界観です。森羅万象から命の「光」を観る。

これが観光ですね。昔は、文字通り、神の光を観に行ったのです。

また、伊勢神宮にはおみくじもありません。

なぜなら「伊勢神宮に来れるだけで大吉だから」と伊勢の神官さんから聞きました。

あなたも、本当の光を観に行きませんか。


http://blog.livedoor.jp/inakaunebg/archives/52038021.html  【俳句鑑賞】より

本日の「一日一試」は、俳句鑑賞。

俳句はたった17音の中に作者の感じる森羅万象や心情を凝縮した短詩形の文学。

ご存じ575のたった17音しかないので、小説やエッセイなどのように、細かく文章で綴られてはいない。だから、読む人によっては感じ方やインパクトは違ってくる。今日もイメージの翼を広げて作品を鑑賞してみよう。

ボクも数年前の一時期、俳句を覚えようと、作句にとりかかっていたこともあったが、壁に当たってそれから前に進めず、中断したまま。(>_<)

俳句は、時に何を詠んでいるのか抽象的でさっぱり理解できない句も多いし、鑑賞力が乏しいボクの狭い感性のアンテナでキャッチできる句はそう多くはない。

そしたら先日、嫁さんが録画していた番組で、愛媛の民謡めぐりと俳句がドッキングした番組があったので、何気なく観てたら、俳句集団いつき組でFB仲間の俳号「更紗」さんの句が紹介されていた。

上級者の句の選評などできるわけがないのだが、この句は何故か心の奥が温かくなるような気がして、気持ちのポケットの中にすとんと落ちてきた。

俳句でも、小説でも、映画でも、料理でも、絵でもファッションでも、何でも作品というのは、主観と客観のズレが存在する。作者が渾身の作品だと自覚していても、見る方、味わう方にとってはそうは思えなかったり、また逆に、そう大したものではないが・・と思っていても、受け取るほうにとっては珠玉のお気に入りだったりする。

自分の感性の琴線に触れた作品に出会うと、作り手と何か糸がつながったような気もしてくる。そんな思いでこの句を自分のイマジネーションの世界で味わってみた。

     月光を吸うて真珠の重たさよ    更紗

 なんとスケールが大きく、綺麗で存在感のある句ではないか。まず感じたのが、月と真珠の壮大な距離感をもった位置関係。トップ(天空)に輝く月、そして視線をゆっくり落として目の前に横たわる海面下、漆黒のボトム(海底)深くに眠る真珠。

そして月という天体の大きさと直径1cmにも満たない真珠の珠。そのスケールの対比は比べるべくもないくらい対極的にあるのだが、何故か存在感としては同じ大きさに見えてこないか?

俳句の作り方に「取り合わせ」というオーソドックスな作り方がある。これは、季語とそれに類するものではなく、全然違ったイメージの材料を取り合わせて、そこに広がる意外性の妙やイメージの対比を楽しむ技法である。この句は取り合わせてはいるが、月と真珠という色も形も一見イメージの重なる球体同士を取りそろえている。だが、同型、同色の物体のコンビだからこそ成立する、大きさも次元も特質も異なるもののコントラストを見事に描き切ってはいないだろうか。

また、真珠に限らず、海の生物は全て海水、(潮)にその全てを委ねている。その潮汐を支配しているのは月である。月の引力が潮の満ち引き、潮位、流れを決めているのだ。サンゴや魚類はある季節の大潮の月夜の晩に産卵をすることも知られている。生物の進化を辿れば、魚も貝もイルカもクジラも、後に陸上の生物さえも、もともとは海より生じたものなのだ。全ての生き物がそうであるように、だったら真珠も月から生まれた子供といえるのではないだろうか。

真珠養殖をするアコヤ貝は真珠母貝とも言われる。文字通り真珠を生み出す母である。作者は「月光を吸うて」と詠んでいる。「月光を浴びて」じゃなくて、「吸うて」という表現の何と能動的で生物的なことか。そう、真珠は月光を吸って大きくなっていくのである。まるで乳飲み子が母の母乳を吸って育つように・・・。それは命の営みの行為そのものではないか。

核という真珠の素を玉入れして、商品になるにはいったいどのくらいの時間がかかるだろう。それまで、海中で何百、いや何千回、月の光を吸って大きくなるのだろう。あるものが形を成すのには相当な時間が必要で一朝一夕にはできないのだ。

今、作者が掌に乗せているのが一粒の大珠の真珠の指輪だとすれば、多分結婚30周年の真珠婚式に愛する夫から贈られたものであろうか?だとすれば、これまでの労苦を共にした夫婦の絆もこの真珠のように艶やかに輝いていることだろう。そしてきっとその指輪は作者にとってこれまでの人生を物語るにふさわしい「重さ」であることに違いない。

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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