http://moon21.music.coocan.jp/shinsletter17.html より
一条真也ことShinさま
Shinさん、今日は2月2日、節分祭の前の日です。この10数年、必ずこの朝には大宮から天川に向かっています。例年通り、今日もそうです。天河に向かう新幹線の車中で返信のムーンサルトレターを書き始めます。
「1000の風」はわたしもアメリカ先住民の中から生まれてきた言葉であると思います。「ワタンタンカ」とか「ミタクエオヤシン」という言葉に集約される彼らの思想は、この宇宙を生み出す根源的な霊性と力に対する素朴な信仰と清冽な畏敬(尊敬)の念でつらぬかれていて、わたしは近年ますますそのような先住民思想に魅かれるようになりました。宇宙的な太霊、グレート・スピリットへの心からの帰依と、すべての存在はつながっているという存在論。仏教やキリスト教などの文明的宗教は高度に人間的な問題、悪とか苦とか苦悩(煩悩)とかの心の問題や人間社会の問題解決に深い指針と処方を与えたと思いますが、その人間がどのような生命の位置を占めているかを実に謙虚に素直に明晰に自己認識しているのが先住民思想の中にある存在論で、この生命観と存在論の澄明に心洗われる思いがします。
特に、自分が死んで魂となって墓の中にいるのではなく、自然万物万有の中に溶け込み、風や雪や太陽光や雨や星となって生きているという感覚。個的な魂としてではなく、万有の中に溶け込む汎神論的霊性として死んでも生きていると素直にかつリアルに感じることができる存在感覚に共感できます。「私は1000の風になって 吹きぬけています。/私はダイアモンドのように 雪の上で輝いています。/私は陽の光になって 熟した穀物にふりそそいでいます。/秋には やさしい雨になります。/朝の静けさのなかで あなたが目ざめるとき/私はすばやい流れとなって 駆けあがり/鳥たちを 空でくるくる舞わせています。/夜は星になり、/私は、そっと光っています。」
いいですねえ。そんな、やさしさ。ほんとうに風が吹き抜けていくのを目の当たりにする思いがします。この詩をいち早く見出したのが三五館の星山社長だったとは全く知りませんでした。カラオケで「花と龍」を絶叫したあの社長さんがねえ。菅原文太とフーテンの寅さんを足して焼酎で割ったような星山社長がねえ。そうでしたか。いいですねえ。
わたしは、去年から相次いで親しい友人と師を喪いました。そして今にもわがたらちねの母がみまかろうとしているこの時、万有の中に息づくいのちの尊さと深遠を感じます。
つい今しがた富士山の南麓・富士宮を過ぎました。晴天の中富士山は透明に聳え立っていました。富士山て、男性的に見える時もあれば、楚々とした女性に見える時もありますね。「1000の風」ならぬ「1000の顔」を持っているのが富士山です。わたしは富士山教(富士山自然信仰)の熱心な信者ですから、われらがご神体である富士山を誰よりも早くす早く感じ見つけることができます。富士山はわたしの主治医であり精神安定剤であり瞑想指導者であり父であり母であり師であります。
ところで、1月24日から31日までまる1週間沖縄に行っておりました。京都造形芸術大学通信教育部の「芸術環境演習基礎」と「環境文化論」のスクーリング授業があったのです。「芸術環境演習基礎」の主要部分は、「幻の陶器」と言われるパナリ焼きを体験することにあります。パナリ焼きとは八重山諸島の中の離島・新城島(あらぐすくじま)で作られた大変素朴な陶器とその焼成法を言います。松井利夫教授と林秀行教授の指導によりパナリ焼きに取り組みました。
と、ここまで書いて、天河に詣で、昨夜2月4日に戻って来ました。この間の体験もすこぶる充実していたので、書くことがいっぱいで、まとまりませんが、ご容赦ください。
さて、沖縄の続きです。沖縄では八重山諸島の石垣島・西表島・新城島・竹富島に行きました。西表島では浦内川をボートで遡り、歩いて40分ほどの密林の中にあるマリウドの滝とカンビレーの滝を巡りました。8年前くらいに西表島の古見のアカマタ・クロマタ・シロマタの祭りに参加した時、マリウドの滝に行って滝に打たれたことがあります。その滝のやさしさ、やわらかさを忘れることができず、鮭が生まれ故郷の川に戻るように、再びマリウドの滝に行きましたが、水量が多く、また昨年転落事故があったとかで、立ち入り禁止になっていたので、その上流の「神々の座る場所」を意味するというカンビレーの滝のところに行って、滝に打たれました。えもいわれぬひととき、でした。その感覚は言葉にできません。
ところで、新城島の豊年祭、通称「アカマタ・クロマタの祭り」も以前見学したことがあり、新城島に渡るのはこれで3度目になります。最初上陸した時は、フォト霊師の須田郡司さんと一緒でしたが、彼と一緒に上陸直後に浜で禊を取りました。須田さんはアカフン、わたしはシロフンのフンドシ一丁姿で。案内してくれたあずまやさんのご主人はそのわたしたちを見て、「あんたらは、ちょっとちがうな」と言いました。たぶん、「ちょっと、気が違うな」と言いたかったのでしょうね。
新城島を舞台に、大重潤一郎監督は二本の映画を撮っています。一本は「光りの島」(1995年製作)、もう一本は「風の島」(1996年製作)。「光りの島」はドキュメンタリーではなく、劇映画というほどでもないファンタスティックな映画です。幼い時に母を亡くした主人公(上条恒彦主演、ただし登場人物ただ一人)は母が生前ふともらしたという「人間死んだらなんにもならん、つまらんものね」の一言を胸に旅を続け、亜熱帯の珊瑚礁の無人島(これが新城島)にやってきて、島の磁力に引き寄せられるように魂の道草を始めます。島の海と森の深くに分け入り、見えないモノに目を向け、聞こえない音に耳をかたむけ始めた主人公に、島の自然は応え、語り始めます。自然の気配、光と風と樹と海の唄。大重さんはとても深くピュアーなネイティブ的感性を生き切っている映画監督だと思います。
もう一つの「風の島」は、先に記した「幻の器」と言われるパナリ焼きの焼成実験の記録です。この土器は新城島で造られましたが、大らかで素朴なフォルムやわずかしか現存していないこともあり、幻の土器として高く評価されてきました。1983年、新城島で沖縄の陶芸家・大嶺實清氏(後に沖縄県立芸術大学学長に就任)とそのお弟子さんたちによってパナリ焼の焼成実験が行われ、島の自然の力と叡智に導かれて、見事に焼き上がり、甦りました。その貴重な記録を大重監督がカメラに収めたのです。
大重さんとわたしは前世からの因縁もあってか、不思議な出会いと絆を持っています。魂の同志とも盟友と言ってもよい仲です。大重さんは「牛若丸と弁慶の仲」と言っていますが……。もちろん、昔、「笛吹き東二」と言われたわたしが牛若で、巨躯を揺るがして歩む大重監督が弁慶ですけれど。その大重さんと1月28日に会い、作家の河合民子さんがやっている店「レキオス」で一緒に食事をしながら打ち合わせをし、翌29日から31日までの3日間ずっと一緒に「環境文化論・久高島」の授業を沖縄大学・斎場御嶽・久高島で展開したのです。
1日目の29日は、午前中に首里城見学の後、沖縄大学ミニシアターで大重監督の最新作「久高オデッセイ」(2006年製作)を観賞後、沖縄大学教授・地域文化研究所所長(国立歴史民俗博物館名誉教授)の社会人類学者・民俗学者の比嘉政夫氏による沖縄の「門中制度」やノロやユタの講義を拝聴。また若き映像民俗学者の須藤義人さんにも話をしてもらいました。その後、南風原文化センターで、高嶺久枝さんと高嶺美和子さんとかなの会のみなさんたちの琉球舞踊を見学。一昨年・去年に引き続き、素晴らしい琉舞を見せていただきました。特に高嶺母娘の二人が組んで踊った恋人同士の愛の交歓を表現した雑踊り「かなやでー」には舞い上がるような感動を覚えました。舞踊見学後、沖縄最高の聖地で世界遺産ともなっている斎場御嶽に移動して、参拝・見学した後にフェリーで大重監督と共に久高島に向かいました。大重監督は脳出血で倒れて以来、自力で初めて港から久高島宿泊交流館まで歩きました。その夜は、大重さんと、久高島留学センター代表の坂本清治さんの話を聞き、現代という時代の危機とその打開の方向について深く考えさせられました。
2日目の30日の早朝、6時40分過ぎに伊敷浜に行き、ご来光を拝しました。そして、午前中は大重監督の案内による島内見学。午後は、3時間の各自フィールドワーク。その間に大重監督の映画「風の島」と「原郷ニライカナイへ――比嘉康夫の魂」(2000年製作)を観賞。比嘉康雄(ひがやすお)氏は、在野の民俗学者で写真家です。高校卒業後警察官になりましたが、アメリカ占領下の沖縄の不条理な現実に矛盾を感じ、B52墜落炎上事故をきっかけに警察官を辞職し、写真の道に入り、1972年写真集『生まれ島沖縄』を出版しました。その後、琉球弧の祭祀世界を実に丹念かつ精力的に写真と文章で記録していきます。『おんな・神・まつり』で第3回太陽賞、『神々の古層』全12巻(1993年、ニライ社)で1993年度風土研究賞、日本写真家協会年度賞、第5回小泉八雲賞、沖縄タイムス出版文化賞などを受賞した経歴を持ちます。
大重さんは比嘉さんと親交があり、2000年のある日比嘉さんからの電話で、彼が末期癌であることを知り、比嘉さんの「遺言」を撮ることになります。2000年5月13日、比嘉康雄氏は61歳の生涯を閉じます。その直後に出版された『日本人の魂の原郷・沖縄久高島』(集英社新書、2000年)の中で、彼は「この民族の歴史を、シマ人たちは、近代のように固定された記録として伝えるのではなく、血族の祖霊たちの存在を皮膚感覚で感じ取り、祖先との一体性を実感する中で継承してきた」と書いています。死を意識し、自分の魂は原郷ニライカナイへ帰り、再生するという強い確信を持った比嘉さんの静かで力強い「遺言」はわたしたちの胸を締め付け、鋭くこの文明のあり方を問いかけてきます。琉球弧の古層に分け入って、「人間とは何か、わたしとは何か」を問いかけ、祭祀を通して神々との世界を発見するに至る比嘉さんの「魂の道草」の道程は、大重さんでなければ撮ることのできなかった魂の告白録です。
3日目の31日の早朝も伊敷浜に行き、ご来光を仰ぎました。二日続けて朝日を見、角度と天候によってこれほど朝日の大きさが違って見えるのか、得難い発見をしました。充実した時間でした。特別講師の協力により、ここでしか学び得ないものがいっぱいつまっていたと思います。学生のレポートが楽しみです。
31日に大宮に戻って、1日空けてすぐ天河大弁財天社の鬼の宿(2月2日)・節分祭(3日)・立春祭(4日)に参加しました。今年は例年の3倍近くの参拝者があり、熱気に溢れていました。鬼の宿の神事と節分祭の神事を柿坂神酒之祐宮司の後継者の柿坂匡孝禰宜が斎主を務めたこともあり、とても厳粛な思いで神事に臨みました。春の訪れを告げるこの祭りはなんとも神秘的で奥床しく、素朴でありながら深遠な祈りに満ちています。この11年、毎年十数名の「天河護摩壇野焼き講」のメンバーと共に参加してきました。今年は野焼きを行わなかったものの、残雪の残った山中を歩くなど、吉野の山を堪能しましたが、奥宮の鎮座する弥山も地球温暖化の影響でブナの木も立ち枯れている「末期癌」的状況であると聞きました。地球環境問題は今日最大の問題で、地球上の生命全体の明日を左右するものです。
わたしは、鬼の宿と節分祭の後のミーティングで、弘法大師空海が歩いたと思われる高野山から天河までの山中の古道を歩く「歩行(ほぎょう)ワーク」を提案しました。この5月に準備のために歩き、この秋の10月か11月には「天河太々神楽講」の催しとして崇敬者や一般市民に参加を呼びかけて実施していきたいと考えています。また、陶芸家でわれらが義兄弟の近藤高弘さんを先達として、自らの死の器=解器(ほどき)を造る「解器(ほどき)ワーク」も行います。Shinさんもぜひ一緒に歩き、ほどかれていきませんか? 護摩壇野焼き講の野焼き先達の近藤高弘さんももちろん一緒に歩きますので。
さて、来る4月7日の土曜日、松江市の催しで宍道湖と松江城の周りで「武者行列」が行われますが、その時、松江城で日本舞踊家の藤間新乃輔の踊りにわたしが音楽を付けます。石笛・法螺貝・横笛などを使って。その総合演出は京都造形芸術大学客員教授で春秋座の芸術監督の毛利臣男氏です。松江市は「小泉八雲賞」を復活させるそうですが、ぜひ早く復活させてほしいものです。この前打ち合わせと事前パフォーマンスで松江に行きましたが、その折、初めて町中から雪を冠った雄大な大山を望み見ました。美しく雄大でしびれましたね。あの山は日本海に向かって両手で抱き取るように湾曲しているのですね。山容の形も母胎のようで神秘的でした。いつかぜひ登拝してみたいです。大山修験のメッカですし。
ところで、「東山修験道」、いよいよ行動開始です。平安京の鬼門から世直しの狼煙をあげていきたいと決意を新たにしております。ぜひご協力ください。
2007年2月5日 鎌田東二拝
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