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【芭蕉俳句と禅】
2018年5月6日 - 貞享元年(四十一歳)、野ざらしの旅の途中、悟りを得たとか。悟りとは、芭蕉の言葉で言えば物我一致(智)すなわち、物(自然)も他人もすべてが我と一つである、という自覚です。その心境は、高橋怒誰(どすい、本名喜兵衛。近江蕉門の重鎮) コピー不可
http://www.hamura-souzenji.com/echo/e145/ より
禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第五話
臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。
貞門派(ていもんは)
前回、俳諧の成り立ちと、それ以後の発展をお話ししましたが、その発展の基礎を築いたといえるのが「松永貞徳」を祖とする「貞門派」といえます。芭蕉の俳諧における師となります北村季吟も貞門派の一人でしたので、芭蕉の俳句の入り口は貞門派だったのでした。その特徴は「言葉あそび」といわれるもので、その芸術性には限界があるといわざるを得ないものでした。
「野ざらし紀行」
仏頂禅師との出会いで禅の道に入り、俳階に新たな表現を模索していた芭蕉に一筋の光が見えて来たところに不幸がおとずれます。住としていた芭蕉庵が焼失してしまったのです。
冬空の寒風の下、焼け出されてしまった芭蕉は強い無常観におそわれました。その後、庵は再建されたのですが、無常観は失せる事無く芭蕉の胸中に残ったのでした。
この頃、芭蕉はさかんに「笠」を題材とした句を残しています。
また笠を自ら竹をさいて作ったりもしました。「笠」を最小の「庵(いおり)」と考え、風雨から身を守る点で同じなのだから笠を携え、旅の中に身を置きたいと考える様になったのでした。
美濃(岐阜)の俳句仲間に誘われたのをきっかけに、四十一歳の芭蕉は旅に出ました。前年に母が他界し、その墓参もかねてのものでした。この旅に芭蕉は強い覚悟を持って臨みました。
野ざらしを心に風のしむ身かな
旅立ったあたり、その心境を詠んだとされる匂です。野ざらしは行倒れの人の頭骨の意です。
では芭蕉は死を覚濯してこの旅に出たのでしょうか?いや、そうでは無く、自らの俳諧を確立するという不退転の覚培を表明したのでした。放浪行脚の環境に身を置いて、自らの禅的境涯を高める、つまり悟りを得るのだという覚嬬ともいえるでしょう。
実際この「野ざらし紀行」の旅で芭蕉は「蕉風」と呼ばれる自らのスタイルを確立しました。旅の途中で除々に作風がかわっていくのですが、それはとりも直ささず、芭蕉の禅的境躍の高まりを示唆しているのです。
「物我一致」ぶつがいっち
物とは自分以外の全て、つまり対象を指します。それが我と一致する、自分と他者を分けない無分別の境程、これを芭蕉はこの旅で得たと考えられています。
無分別とは自分が無い状態、つまり無我の境地です。そこで物だけが残る、自らが物になりきる、これが「物我一致(芭蕉は一智とも表した)」の境涯です。
この境涯から見える景色を俳句として詠むことで芭蕉は俳諧というものに新たな地平をもたらしたのでした。
以下次号
(一峰 義紹)
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