https://true-buddhism.com/history/kobodaishi/ より
弘法大師(こうぼうだいし)空海の生涯
弘法大師空海(774−835)は、密教を体系化して真言宗を開きました。
天才的な頭脳の持ち主で、中国やインドの言葉にも通じ、書の達人でもありました。
わずか62年の生涯で、現代の私たちにも大きな影響を与えています。
一体どんな一生を過ごされたのでしょうか?
弘法大師の業績
弘法大師は、奈良時代から平安時代になる時代の変わり目に現れ、中国に渡ってまだ体系化されていなかった密教を授かり、初めて体系化し真言宗を開きました。高野山に真言宗の本山、金剛峯寺を開いています。有名な京都の五重塔を造ったのも弘法大師です。
書の達人でもあり「弘法筆を選ばず」「弘法にも筆の誤り」という2つの諺が残されています。
社会事業にも活躍し、日本ではじめて庶民の学校を創り、日本初の給食、辞書を作ったといわれます。一節によれば「いろは歌」の作者ともいわれます。
天才的な能力を持ち、多彩な活躍をしましたが、おおまかには以下のような人生を送っています。
弘法大師の年表
774年、讃岐(香川県善通寺市)に誕生。幼名は真魚(まお)。
8歳 (桓武天皇即位)
11歳 (長岡京へ遷都)
12歳 儒学を学び始める。(最澄19歳で比叡山に登る)
15歳 都に出て叔父阿刀大足(あとのおおたり)に儒学を学ぶ。(最澄根本中堂を建てる)
18歳 大学で学ぶ。
20歳 勤操(ごんぞう)に従って得度
21歳 空海と名乗る。(平安京へ遷都)
22歳 東大寺で戒律を授戒
24歳 『三教指帰(さんごうしいき)』を著す。
31歳 5月入唐求法の勅許を得て難波を出発し8月福州へ到着。12月に長安へ
32歳 青龍寺(しょうりゅうじ)で恵果和尚(けいかかしょう)から胎蔵・金剛界・伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を受ける。
33歳 般若三蔵にインドの言葉を学ぶ。(桓武天皇死去)8月明州を出発し10月筑紫に帰国。「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」を朝廷に提出。
36歳 (嵯峨天皇即位)
38歳 神道灌頂を受ける
39歳 最澄に灌頂を授ける
40歳 各宗の高僧と八宗論を行う
42歳 四国八十八カ所を開く
43歳 高野山を開く
45歳 般若心経を講義する
48歳 讃岐(香川県)の満濃池(まんのういけ)の修築別当(しゅうちくべっとう)に任ぜられる。
49歳 東大寺に灌頂道場を建立できるようになる(最澄56歳で死去)
50歳 東寺を密教の寺院とする
51歳 少僧都(しょうそうず)を辞退する。
54歳 雨乞いの祈祷を行う。大僧都(だいそうず)になる。
57歳 『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』十巻、『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』三巻を著す。
62歳 1月、真言宗に年分度者(ねんぶんどしゃ)三人を与えられる。3月21日高野山にて死去
それから86年後、921年に醍醐天皇から「弘法大師」のおくりなを与えられる。
少年時代
弘法大師は、774年6月15日、讃岐国(香川県)の屏風ガ浦(善通寺市)に生まれました。
世の中は、仏教の盛んな奈良時代の末期で、東大寺には奈良の大仏が建立され、全国的に国分寺が建立されていました。しかし余りにも僧侶が政治に口出しをするようになったので、やがて京都へ遷都される時代の変わり目でした。
弘法大師のお父さんは、讃岐国を治めていた豪族の家柄の佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、お母さんは阿刀(あと)氏の玉依御前(たまよりごぜん)といわれます。
ある晩、玉依御前は、インドの聖者が懐に入る夢を見て、懐妊しました。
幼名を「真魚(まお)」と名づけられました。
『本朝高僧伝』によれば
その頃、鑑真と共に唐からきた法進という僧侶が屏風ガ浦にやってきて、
「この子はただの子供ではない。将来、仏法を弘めるだろう、よくこれを育てなさい」
と言ったといわれます。
小さい頃は、『御遺告』によれば、いつも泥で仏像を造り、家の庭に堂を造って安置し、礼拝していたといわれます。
また、『大師和讃』によれば、7歳のとき、人々に幸せを与える大任を果たせるかどうか試そうとして、自ら 捨身岳(しゃしんがたけ)にのぼり、身を投げました。
すると、天女が現れて受け止めたといわれます。
これを「捨身誓願(しゃしんせいがん)」といいます。このような様々な伝説があります。
進路の論争
弘法大師8歳のとき、桓武天皇が45歳で即位します。
弘法大師11歳のときに奈良の平城京から、京都の長岡京に都が移されます。
この頃、藤原氏が勢力を伸ばし、大伴氏の流れを汲む、都の佐伯氏が、何の関係もない事件に巻き込まれて左遷されたことから、佐伯氏には没落に向かうのではないかという不安と焦燥がよぎります。
このような情勢の中で、弘法大師が12歳のとき、お父さんの佐伯直田公は、母方の叔父にあたる儒学者・阿刀大足(あとのおおたり)と大師の進路について論争します。
お父さんは、「夢にインドの聖者が懐に入って懐妊したことから、真魚はもともと仏弟子に違いない。そして小さい頃から仏像を造って喜んでいたから、子供は仏弟子にしたい」といいました。
ところが都での一族の巻き返しをはからなければならないと考えた阿刀大足は、優秀な人材には出家されては困ると、
「たとえ仏弟子になったとしても、大学で勉強しておいたほうがよい」
と言ったのです。
こうして、出生の因縁を聞いた弘法大師は喜んで仏道に精進しながらも、儒教も学ぶことになりました。
15歳・都での儒教の勉学
弘法大師は、それから阿刀大足に儒学を学びましたが、讃岐の学校に入ると、神童といわれるようになります。
やがて15歳になると長岡京に上京し、すでに都に来ていた叔父の阿刀大足について3年間学びます。
大足はやがて天皇の子供の教育係となり、弘法大師は18歳で大学に入学しました。
そのときの勉学は、蛍や雪を明かりとして学んだ「蛍雪の功」や、太ももにキリを刺して眠気をこらえて勉強した「ももを刺して書を読む」の故事に比べれば自分は努力不足だと反省して精進したと『三教指帰』に述懐しています。
しかし、大学で学ぶ儒教などの学問は、国の役人になって出世するためのもので、本当の幸せになれるものではありませんでした。そんなとき、 奈良の石淵寺(いわぶちでら)の勤操(ごんぞう)に出会い、仏教に惹かれていきます。
20歳・出家、そして大日経との出会い……
19歳のときには大学を退学し、一人で求道の旅に出ます。
奈良県の大峯山(おおみねさん)で修行しますが、やがて都の煩わしさを厭い、自然の美しい四国に帰り、阿波(徳島県)の大瀧ガ嶽(たいりゅうがだけ)や土佐(高知県)の室戸崎(むろとのさき)などで修行に打ち込みます。
親戚の反対を押し切り、ついに20歳で、和泉国(大阪府)槙尾山寺(まきのおさんじ)の勤操のもとで出家します。戒律については『行化記』によれば、22歳のときに東大寺に行って勤操から受けています。このときに名前を「空海(くうかい)」としたのです。
大日経との出会い
そのとき、東大寺で
「今まで仏法の色々の教えを求めてきましたが、どれも満足できませんでした。どうか私に二つとない教えをお示し下さい」
と祈ると、夢に
「大日経がそなたの求める経典であろう」
というお告げを受けます。
喜んだ弘法大師は、大和(奈良県)高市郡の久米寺東塔で、このお経を手に入れます。
このことは、弘法大師が唐に渡って真言密教を学ぶ大きな因縁となったのでした。
なぜなら、この大日経の教えを求めて行く上で、どうしても経典を読むだけでは理解できない所があったからです。
何とかこの経典を体得された方から教えを受けたいと、先生を探し回りますが、日本には大日経の教えを授けられる僧侶は一人もいませんでした。
そのため弘法大師は、ついに唐(中国)に渡る決意をしたのです。
雌伏の10年間
しかしながら、大日経を発見してから、遣唐使船に乗って唐に渡るのに、10年の歳月が必要でした。
その間、世の中はめまぐるしく変わり、21歳のときに遷都された平安京は着々と造営され、東寺、西寺、鞍馬寺、清水寺が建立されます。坂上田村麻呂は日本初の征夷大将軍となって東北を平定し、最澄は比叡山で法華十講を修して唐行きの詔を受けます。
この間、弘法大師は24歳のときに『三教指帰』を著して、儒教と道教と仏教の3つの教えの中で、仏教を求める決意を表明したほか、消息は不明ですが、仏教の学問や修行の他、もともと漢文の素養はあったとはいえ、中国語の習得にも励んだことでしょう。
やがて最澄と同じときの遣唐使船に乗り込んだのは、31歳のときでした。
31歳・入唐求法(にっとうぐほう)
31歳になった弘法大師は、ついに唐に渡ることになりました。
このとき、38歳の最澄と初めてあいます。
最澄は22歳で比叡山に比叡山寺(根本中堂)を建立したとき、弘法大師は15歳で都に出てきたときでした。
最澄が28歳で、桓武天皇を招いて、弘法大師の師匠の勤操を含む全国の有名な僧侶を集めて法要を開いたとき、弘法大師は、出家した翌年でした。
最澄が36歳のとき、比叡山で法華十講を行います。法華十講とは、無量義経1巻、法華経8巻、観普賢経1巻を1日1巻ずつ講義することです。
これには、当時29歳の弘法大師の師匠、45歳の勤操の師匠、73歳の善議が参詣し、36歳の最澄をほめちぎっています。
このように、最澄はすでに高僧として名声を博していたので、短期留学で帰国する還学生、弘法大師はこのときまったくの無名でしたので、20年間留学する留学僧という立場でした。
7月6日、弘法大師は4隻の遣唐使の第一船、最澄は第二船に乗り、肥前(長崎県)から揚子江のある揚州を目指して出発しました。
当時の航海術では、唐への旅は非常に危険で、必ず到着できない船がありました。
天気予報もなかったので、この4隻の船は、出発の翌日、台風に襲われます。
第三船と第四船は、台風の中、連絡が途絶え、行方不明となりました。
最澄の乗った第二船は、『比叡山大師伝』によれば、揚州の南の明州(浙江省)に漂着しました。明州に到着できたのは、1隻だけでした。
弘法大師の乗った第一船は、台風は乗り切ったものの、南へ南へと流されて行き、34日後の8月10日、明州の南の福州(福建省)に漂着しました。唐に到着できたのは、奇しくも弘法大師の第一船と、最澄の第二船だけでした。
もしどちらかが唐につかなければ、その後の日本の歴史も、現代日本の様子も大きく変わっていたところだっだでしょう。
ところが、福州は通常よりも遙かに南であるため、その福州の役人は、「海賊だろう」と疑い、弘法大師の一行を砂浜に拘留しました。
そこで、弘法大師が達筆と文章力を買われ、役人に事情を説明した手紙を書きます。
すると、福州の役人はすぐれた文章と美しい文字に感動し、「これは海賊のはずがない」と、都の長安にその手紙を送って伺いをたて、11月3日に長安へ向かって出発することになります。
32歳・恵果(けいか)から密教を授かる
12月21日、長安の都に入った弘法大師は、色々の寺を訪れて教えを受けました。
インドから仏教を伝えに来ていた三蔵法師である般若三蔵や牟尼室利三蔵を訪れたこともあります。
曇貞からはインドの言葉を学びました。
最澄は5月18日、約半年で日本へ帰りましたが、弘法大師は、ついに5月下旬、青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果を訪ねます。
恵果は、有名な唐の玄宗皇帝が帰依した不空(ふくう)の一番弟子で、当時千人以上の弟子がありました。
弘法大師が訪れると、恵果は一目見るなりにっこりと笑みを漏らし、「そなたが来ることを長い間待っておったぞ。今日初めて会ったがはなはだよいではないか。わしももうよわい60、まもなく命尽きようというのに、密教を伝授する弟子がいなかったのじゃ。すぐに灌頂を行うぞ」
と喜びました。
灌頂(かんじょう)とは、密教へ入門するときや、秘法を伝授するときに行う儀式です。
弘法大師は6月に胎蔵界、7月に金剛界の灌頂を受けました。
灌頂のとき、それぞれの曼荼羅に花を投げるのですが、どちらも真ん中の大日如来に花が落ちたので、 恵果は「不可思議なり、不可思議なり」と驚嘆しました。
こうして、弘法大師は恵果の弟子となったのです。
そして、わずか1カ月後の8月に、伝法灌頂を受けて、阿闍梨(あじゃり)となります。
阿闍梨とは師匠のとです。
当時、千人を超える恵果の弟子で、伝法灌頂を受けたのは弘法大師も含めて6名、金剛界と胎蔵界の両方とも授かったのは、弘法大師と義明の2人だけでした。しかしながら、義明は早く世を去ったので、弘法大師が唯一の後継者となったのです。
弘法大師はこうして、遍照金剛(へんじょうこんごう)の名前を授かり、真言密教の第八祖となったのでした。
恵果和は「真言密教の教えは、すべて授けた。早く日本に帰って教えを広めよ、わしは必ず日本に生まれ変わってそなたの弟子となり、共に教えを広めるであろう」と遺言し、12月15日、60歳で息を引き取ったのでした。
33歳・帰国して真言宗を立教開宗
師を失い、これ以上唐に滞在する必要を感じなくなった弘法大師は、翌年8月、明州から出発し、何度も嵐に遭いながらも何とか10月に九州の博多に到着しました。
ところが、本来20年のところ、わずか2年で帰ってきたため、すぐに帰京を許されず、太宰府の観世音寺に留め置かれました。そこで、弘法大師は、唐から持ち帰った経典や論書、仏画、仏具などを『御請来目録(ごしょうらいもくろく)』に記して都に報告しました。
約1年の後、和泉(大阪)の槇尾山寺(まきのおさんじ)に移されます。
そして時の平城天皇から真言宗を開く許可を得て、かつて大日経と出会った久米寺で大日経の講義をします。この弘法大師34歳の11月8日が、真言宗立教改宗の日とされます。
この3年ほどの間に、色々なことがおきます。叔父の阿刀大足が教育係を仰せつかっていた桓武天皇の子供が、謀反の疑いで自害し、阿刀大足も没落したのでした。
弘法大師36歳になると、24歳の嵯峨天皇が即位し、京都の高雄山寺に移されます。
このとき、後に「三筆」といわれる書の達人、嵯峨(さが)天皇、弘法大師、橘逸勢(たちばなのはやなり)の3人の親好が始まったのでした。この翌年37歳のとき、内紛が起きたことから嵯峨天皇のために鎮護国家の祈祷を行います。これから50歳まで、この高雄山寺に住して華々しい活躍をするのでした。
39歳・最澄との交流
先に密教を日本に伝えていた最澄は、帰国してすぐに高雄山寺に灌頂壇を建てて、勤操を含む8名に灌頂を行っていました。さらに天台宗に年分度者2名を許されて経済的なバックアップを得て、1名は天台の摩訶止観、1名は大日経を学んでいました。
しかしながら、密教の専門ではなく、色々と学んで半年で帰国した最澄よりも、密教専門で恵果の一番弟子として密教の伝法灌頂を受けた弘法大師には及びません。
弘法大師が36歳で高雄山寺に入ると、すぐに大先輩の最澄は下僧最澄と署名し、礼を尽くして密教経典の借用を手紙で申し入れてきました。
このように、すでに何度も経典を借り受けていたのですが、弘法大師39歳の9月、ついに46歳の最澄が自ら訪ねてきたのです。その晩、最澄は宿泊して、夜通し密教について語り合い、最澄に密教を伝授することを約束しました。
そしてついに最澄は弟子の礼を取り、弘法大師を師匠として、11月、金剛界の灌頂を受けたのです。
つづいて12月には、胎蔵界の灌頂を受けます。これは、密教への入門を果たしたということです。
さらに、免許皆伝にあたる伝法灌頂を受けたいと申し込んできますが、弘法大師は
「それには3年はかかる」
と言います。
「もしそんなにかかるなら、 かわりに密教を学ぶよう弟子を預ける」
と泰範(たいはん)などを預けられます。
翌年、深い密教の教えを記された『理趣釈経』を借りたいと最澄から申し入れがありますが、弘法大師は断ります。
怒った最澄は泰範を呼び戻そうとしますが、泰範は弘法大師のもとで密教を学ぶことを選びます。
これらのトラブルにより、2人は決別したのでした。
弘法大師の書
弘法大師は、書の達人でしたので、唐で師匠の恵果が亡くなった時、たくさんの弟子の中から碑文を作成し、書くことになりました。
その噂を聞いた皇帝から宮殿の壁に書を書くよう依頼されます。
弘法大師は5本の筆を両手・両足・口に持って一気に五行の書を書き上げました。
その見事な文字に驚いた皇帝は、「五筆和尚(ごひつわじょう)」の称号を与えました。
日本でも弘法大師は、嵯峨天皇、橘逸勢に並ぶ、三筆の一人に数えられています。
他にも沢山の伝説と「弘法筆を選ばず」「弘法にも筆の誤り」という2つのこうわざが残っています。
「弘法にも筆の誤り」というのは、どんな名人でも間違うことはある、という意味ですが、それにはこんなことがありました。嵯峨天皇の命で平安京の応天門(おうてんもん)の額を書いたとき、「応」に点が一つ足りなかったことからできた諺です。門に掲げられた後にそれがわかり、額を下ろすので修正してもらえないか頼まれたとき、弘法大師は、それには及びませんと、門の下から筆を投げて見事に点を打った、と伝えられています。
「弘法筆を選ばず」については、実際には弘法大師の『性霊集』に「良工まずその刀を利くし、能書は必ず好筆を用う」と記されています。
これは「よい大工は仕事の前に道具を研ぐし能書家は必ずよい筆を選ぶ」ということですので、弘法も筆を選びます。
しかし「弘法筆を選ばず」といわれるようになったのは、ある寺の額を書くとき、川が洪水で渡ることができなかったため、対岸の岩に額を立ててもらい、竹竿の先に筆を結びつけたもので額を書いたという伝説からといわれます。
こんな伝説が生まれるほど、書がすばらしかったということです。
40歳・八宗論(はっしゅうろん)
弘法大師が40歳の1月、嵯峨天皇は弘法大師を含む8人の仏教各宗の高僧を宮中に集めて、それぞれの宗派の真髄を聞きました。
各宗の高僧は、深い仏教の教えを説き、その通りの修行をすれば、三阿僧祇劫という長い期間の後に仏のさとりを開くことができると明かします。1劫は何億年もの長い期間で、阿僧祇は10の54乗ですから、三阿僧祇劫は気の遠くなるような長い期間です。
ところが、弘法大師一人が大日如来と一体になれば、生きているときにこの身このまま仏になれるという即身成仏(そくしんじょうぶつ)を説きました。
周りの7人の高僧達は
「そんなことはありえない」
と信じなかったので、嵯峨天皇は、
「この身このまま仏になれるというなら、やってみよ」
と命じます。
弘法大師はその場でたちまち五体が五色に輝き、疑っていた高僧たちもひれふしたと『五輪九字明秘密釈』に記されています。
42歳・四国八十八カ所を開く
弘法大師は42歳のとき、若い頃、室戸崎などで修行した因縁で、故郷の四国の阿波(徳島県)、土佐(高知県)、伊予(愛媛県)、讃岐(香川県)を巡ります。
各地で布教すると共に、寺を建て、いろいろな奇蹟を残したという伝説が伝えられています。
これが現在の四国八十八ヵ所といわれます。
43歳・高野山を開く
弘法大師は、真言密教の根本道場を開くため、唐から帰国した頃から適当な場所を探していました。
やがてある日、『金剛峯寺建立修行縁起』によれば、弘法大師が奈良県で「四郎」「九郎」という白と黒の2匹の犬を連れた狩人に出会い、「何用か」と聞かれます。
「密教の道場を建立するにふさわしい場所を探しております」
と答えると、「この犬に案内させよう」と姿を消します。
ついていくと、紀州(和歌山県)の高野山でした。
高野山に登る途中、社を通りかかると、丹生明神(にゅうみょうじん)が現れて
「弘法大師が来られたことを幸せに思います。この土地を永久にあなたに献上しましょう」
と言います。
弘法大師は、狩人を狩場明神(かりばみょうじん)という神として、丹生明神と共に、高野山の地主の神としてまつりました。
さらに、『高野山御影堂飛行三鈷記』によれば、弘法大師が唐から帰国するとき「密教にふさわしい土地があれば、早く帰って示したまえ」といって、恵果から授かった三鈷杵(さんこしょ)を明州の浜辺から投げたといわれます。三鈷杵とは、密教の修行に使う法具です。それから10年後、高野山を開いたとき、松の木にその三鈷があったという伝説もあります。
弘法大師は「この場所こそ、私の求めていた土地だ」と喜んで、高野山を密教の根本道場に定めました。そして、43歳のとき、上表して嵯峨天皇からの許しをもらいました。
ただ、国の援助はなかったため、お布施を募って寺院の建立を始めました。
こうしてついに帰国以来の念願がかなったのです。
45歳・般若心経を講義
弘法大師が45歳のとき、日本中にチフスが流行し、多くの人が亡くなりました。
当時の医学ではどうにもならなかったので、嵯峨天皇は、弘法大師に祈祷を命じました。
そして、紺の紙に金文字で般若心経を写経し、内容の講義を弘法大師に命じました。
仏教では、祈祷や写経、講義には病気を治す力はありませんが、その講義が終わる頃には、チフスもおさまります。
48歳・満濃池(まんのういけ)修築
弘法大師は、高野山の寺院建立の計画を終わると、全国に布教に回ります。
関東や北陸、東北にも足を運びました。
そんなとき、故郷の讃岐から手紙が届きます。
田畑をうるおすための人工の満濃池が、何雨が降るとすぐに堤防が決壊するからです。
周囲は16キロメートルもあり、何度か移築しても堤防が破れ、地元の人たちが困っていたのです。
そこで、嵯峨天皇は土木技術も持っていた弘法大師に改築するよう命じました。
そしてわずか3カ月で改築を完成し、大雨でも決壊しなくなったのです。
その工法はすばらしく、現在でも世界中から見学に来るほどでした。
50歳・東寺(とうじ)を真言宗とする
50歳の1月、嵯峨天皇から京都の東寺を与えられました。
非常に喜んだ弘法大師は、「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」と名づけて皇室の安泰を祈願しました。
そして東寺を真言宗の道場とし、他の宗派の僧侶は居住してはならないことに定めました。1つの寺を1つの宗派に限ったのは、これが初めてのことでした。
弘法大師は未完成だった造営を進め、五重塔を建て始めます。
何度か焼失して、最後は徳川家道によるものですが、これは、今日京都に4つある五重塔のうち、最も有名なものです。
国宝と世界遺産に指定されています。
51歳・神泉苑(しんぜんえん)の雨乞い
51歳の頃、日本中が日照りとなり、作物も枯れてしまい、多くの人が苦しんでいました。
時の淳和天皇(じゅんなてんのう)の命を受けて、宮中の神泉苑で雨乞いの祈祷をしました。
それは、恵果から学んだ「請雨修法」でした。八人の弟子と共に7日間祈り続けたところ、竜が現れ、三日三晩雨が降り続けましたという伝説があります。
それに満足した淳和天皇は、弘法大師を少僧都に任じました。
弘法大師は辞退しましたが、3年後には、大僧都に任じられています。
55歳・学校といろは歌
当時、貴族のための学校はありましたが、一般庶民の学校はありませんでした。
そこで弘法大師は、55歳の12月、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という庶民のための学校を創りました。
そこでは貧しい学生でも学べるように、食事と学費はすべて出してもらうことができました。これが学校給食の始まりといわれます。
学ぶ教科も、仏教以外にも、儒教、道教、法律、医学、工学など、あらゆる学問が教えられました。
ここで弘法大師は、涅槃経の言葉を仮名文字を1回ずつ使って日本語にした「いろは歌」を使って、仮名文字を教えたといわれています。一説には「いろは歌」自体も弘法大師の制作ともいわれます。
62歳・ 入定(にゅうじょう)
59歳になると、ようやく官職を引退して高野山に移り住むことができました。
8月に万灯・万華会を行い、「迷える衆生がすべて救われ、涅槃もいらなくならなければ、私の願いは尽きない」という願いを表明しています。
61歳の1月には、8日から7日間、宮中で御修法(みしほ)という祈祷の法要を行います。
その後650年間は宮中の年中行事となり、現在も東寺で行われています。
62歳の1月22日には、真言宗に年分度者3名を願い出て許されます。これで、真言宗も毎年3人、国のお金で僧侶を養成することができるようになりました。
3月になると、命の尽きるのを予感し、15日に弟子達を集めます。一週間後の21日を入定の日と定め、25箇条の遺告(ゆいごう)を残しました。そこには、
「もろもろの弟子等、あきらかに聴け、あきらかに聴け。
われ生期今いくばくもあらず。汝らよく住して慎んで教法を守れ。
われ永く山に帰らん。われ入滅せんと擬するは、今年3月21日寅の剋なり。
諸の弟子等悲泣を為すことなかれ。
われもし滅すとも帰住して両部の三宝を信ぜよ」
とあります。
「私が死んでも、悲しまずに帰って仏法を信じなさい」
ということです。
そして、「我閉眼の後は必ずまさに兜率陀天に往生して、弥勒慈尊の御前にはべるべし。56億余の後には、必ず慈尊と御共に下生し祇候(しこう)して、わが先跡を問うべし」と記しています。
死後は弥勒菩薩の修行している兜率天に往生して、56億7千万年後に、必ず弥勒菩薩と共に帰ってきて真言宗を問うだろう、というものでした。
それから一切の穀物を断ち、予告通り1週間後の3月21日に亡くなったのでした。
「弘法大師」という大師号は亡くなった86年後に与えられたものです。
弘法大師の求めたものとは?
このように、密教を体系化して真言宗を開き、大日如来と一体化する即身成仏を唱え、八宗論では即身成仏の証拠も示したといわれますが、最後は、弥勒菩薩の元へ往生すると言っているので、即身成仏は果たせなかったとということです。
わずか62年の短期間に現在に残るさまざまな影響を残し、超人的な活躍をした弘法大師でも、即身成仏ができなかったように、その後の僧侶も1人もできませんでした。
もちろん庶民には想像も及びません。
最後に、弘法大師には、このような歌が残されています。
「空海の心の中に咲く花は 弥陀より外に知る人はなし」
これは、弘法大師の心の中に開いた信心は、阿弥陀如来以外には知らないのだ、ということです。
弘法大師のあのような天才をもってしても即身成仏まで三密加持を修めきれず、阿弥陀如来の救いを求めていたことがわかります。
諸仏の王と説かれる阿弥陀如来は、すべての人の苦悩の根元を無条件で取り除き、煩悩あるがままで本当の幸せに救うと約束されているからです。
ではその苦悩の根元とは何か、どうすれば苦悩の根元を断ち切られ、絶対の幸福になれるのかという仏教の真髄については、わかりやすく小冊子とメール講座にまとめておきました。
ぜひ見ておいてください。
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