雲海に生れてや厳つ室根山 高資
Mt. Murone —
sacred arises from the sea of clouds Taka
夕虹や黄金花咲く山越えて 高資
An evening rainbow —
beyond the ancient gold mine in bloom Taka Goto
朝焼の雲に渦巻く宇都宮 高資
勾玉の雲居に生るる梅雨晴間 高資
みすまるの雲の珠かも天王祭 高資
何故悲しみが伝わるのでしょう?雲の数珠は龍のように見えます。何かを叫んでいる感じ・・・
「異常気象ですね、池袋、大粒のヒョウが降っています。」という記事を見てしまいました。平穏を祈るしかないですね。
指先に天つ日影や舞妃蓮 高資
香を纏ひ天津御空へ舞妃蓮 高資
寄り添ふて世にふたもとの未敷蓮華 高資
Beyond the stream of time
lotus buds are snuggling up to each other Taka
(創世記2章18節)「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」を連想します。三木清は人生論ノートで「孤独」や「虚無」に向き合う大事さを語ります。また孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのであるとも述べています。自分らしさ、自分であることを大事にするとき孤立感を感じるしかないからでしょうか?
「一人一宇宙」、阿吽の呼吸で分かり合える世界を失った人間は「孤独」や「虚無」を人間の条件にしたともいえるのでしょうか?
芥川龍之介は「孤独地獄」を語ります。インターネットに紹介されているストーリーです。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/83_15058.html
孤独の地獄を抜けられない人間(孤独であることに耐えられない人間)は 癒着に憧れたりもするのでしょうか?
孤独を超える力は 虚無と孤独を人間の条件として受け止め、自分を表現すること、互いに受け入れ合うこと、理解しあうこと、愛しあうこと、そして寄り添いあうことにしかないのではないでしょうか? そこに「吾であり、宇宙である」安らぎが訪れると思わずにおれません。
ここに咲くこれからを咲く蓮華かな 高資
遍照もまづ足もとの蓮の花 高資
野分して寄り添ふメドーセージかな 高資
朝露や氣吹を吐けるメドーセージ 高資
遠花火闇より生(あ)れて海に散る 高資
片柳弘史@hiroshisj
·人間同士は、分かりあえないのが当たり前。相手のことを分かってあげられない自分を、責める必要はありません。大切なのは、自分に分からないことを間違いだと決めつけないこと。違いを認め合いながら、共に生きてゆくことです。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父
慈愛マスター@TOMMYEL77
·慈愛を元に繋がっていれば
相反するものさえも愛で包まれます
慈愛とは魂と魂を融合させるエネルギーです
人とも
自分の人生とも
全てと
慈愛を元に繋がりましょう
これが究極のパートナーシップです
坂村真民bot@shinminbot
·光が射しているのに
あなたはそれを浴びようとしない
呼んでおられるのに
あなたはそれを聞こうとしない
手を差しのべておられるのに
あなたはそれを握ろうとしない
お経にもそんな人のことを
書いてあります
どうか素直な心になって
二度とない人生を
意義あるよう生きて下さい
孤独を超える力は 虚無と孤独を人間の条件として受け止め、自分を表現すること、互いに受け入れ合うこと、理解しあうこと、愛しあうこと、そして寄り添いあうことにしかないのではないでしょうか?と記しました。しかし言葉で自分を表現することは極めて困難です。
言葉は往々にして表層意識の表現となるからです。
奥深い自分と繋がった自己表現を回復するために フォーカシングを活用されては如何でしょう。
【フォーカシング】
フォーカシングは人がまだ"言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごすことをいいます。
フェルトセンスとは、意識・無意識の境界に注意を向けることで直接、身体的に感じられるものです。
フォーカシングの創始者 ユージン・ジェンドリンはユダヤ人です。ナチのユダヤ人狩りから逃れるため、いつもの隠れ家に急いでいる途中で 彼の父はいきなり 胸騒ぎのようなものを感じて 違うコースに誘導しました。
いつもの隠れ家に逃げたものは皆捉えられてしまいました。
ジェンドリンは、この胸騒ぎのようなものをフェルトセンスと名付け、フォーカシングの技法を開発しました。
フェルトセンスは身体の感覚、サインとは異なり「魂からのメッセージ」といった感覚です。
胸の奥や腹の底、鳩尾など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら、何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待ちます。
次に、その感じにぴっりな言葉(ハンドル)を探し、見つかれば、その言葉がフェルト・センスにぴったりかどうかを突きあわせて感じてみます。
違っているようであれば、再びぴったりくる言葉を探し、もう一度、フェルトセンスと照合してみるという過程を繰り返します。
フェルト・センスとハンドルがぴったりであれば、フェルト・シフトと呼ばれる、ぴったりだという感覚と解放感が得られます。
さらにフォーカシングを続ける場合、今度はフェルト・センスに対して、「何がそんなに~なのか」「その感じは私の生活の何と関係があるのだろうか」などの質問をし、フェルト・センスのほうから、自然に何かしらの反応が返ってくるのを静かに待ちます。
何か反応が得られるようであれば、それを受容的に受け取ります。
時間的な限界や、フォーカシングを終えてもよいという感覚があれば、最後にフォーカシングの中で得られた体験を丁寧に自分の中に受け取る作業を行ってから、フォーカシングのセッションを終えます。
http://breath-awake.com/ より
禅の悟りとは何か?
本ページの要約
*** 悟りとは、真実の自分やこの世の真実の姿が分かること。しかし、そのような真実の姿は、残念ながら言葉・概念・観念・思考等の知性では分からない。
その理由は、常に変化する森羅万象に対して、一定不変の固定化が本質である言葉や概念は無力だからである。
また、言葉の解釈は、その解釈する個々の人の脳の記憶や勉強の範囲から、1mmたりとも出ることが出来ないからである。
従って、経典を百万巻を読んでも、或いは偉い人や悟りを開いた人の話を一万回聞いても、真実を把握することは絶対に不可能である。
マインドでなくハートで 左脳でなく両脳で
ある青年(普通の人)が禅寺の老師(大悟した人)を訪ねた時のお話し。
青年:「この辺りは空気が澄んでいて気持ちが良いですね。」
老師:「ああ。で、何をしにこんな山奥まで来られたのかな?」
青年:「早速で済みませんが、悟りとは何か、つまり本来の自分の姿を、そしてこの世界の真実の姿をお教え頂けると聞き、はるばる訪ねて来ました。」
老師:「無理じゃ。帰りなさい。」教えることは不可能
青年:「そこのところを一つ何とか。」
老師:「どうせ冷やかし半分だろ。帰りなさい。」
青年:「これまで色々な方を訪問して、老師様に辿りついたのです。どうか御願いします。」
老師:「うーん。見たところ本気そうだな。せっかく来られたのだからそれでは話そうか。」「この世界の真実の姿や真実の自分とは、知性や言葉(概念、観念、記号、データ、情報、図形も同様)では説明することは出来ないものだ。つまり、知性を司る脳の部分(前頭葉)では悟ることはできないのだ。」
青年:「そんな・・・・・いきなり・・・・・それでは不親切ではないですか。そこをもう少し説明願いします。
悟ったらどんな状態になるのかを理屈などで分かった上で、そういうことなら突き進んでみようかという気持ちになるのです。
知性では無理だがそれでも進め、と言われても逡巡してしまいます。」
老師:「それでは、あえて言葉を使って、言葉では説明出来ないということの背景・根拠を説明しよう。この点が分からないと、進む方向を誤り、色々経典や文献や人の話を渡り歩るくことになり、何年も努力しても骨折り損のくたびれ儲けということになる。もったいない。人生は短い。『知性には限界あり』という方向さえ誤らなければ案外早期に悟ることも可能だ。それでは説明しよう。」
A.言葉や論理では悟る、つまり真実を捕らえることが出来ない理由その一
老師:「この世界の森羅万象は絶えることなく瞬時に変化を続けている(縁起説、重々無尽法界縁起)。万物は流転するとも言った人がいたが。
そこで、遡ること1万年前の世界があったとしても、それ以来宇宙は変化し続けて来たから、今現在では、その1万年前の世界は存在しない。記憶の中に存在するにとどまる。記憶の中の内容は仮想であり、虚仮である。
また、1万年後の世界も未だ来ていないので存在しない。未来の予測も思考の産物であって、仮想であり、虚仮である。
同様に、1万年でなくても、1秒前の世界は今この瞬間の世界へ変化したから、今現在では、1秒前の世界は存在しない。記憶細胞中にしか存在しない仮想であり、虚仮である。
また、1秒後の世界も未だ来ていないので存在しない。これも仮想であり、虚仮である。
その結果、この世界は、今この瞬間にしか存在しないことになる。
これがこの世界の真実の姿であり、真実の自分の姿ということになる。
『灰は後、薪は先と見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、先有り後有り、前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、後有り先有り。』正法眼蔵 現成公案。 」
青年:「うーん、そう言われればそのとおりですが、それは、現在の家があり、空があり、木々が茂っている状態のことでしょう? そんなこと当たり前ですが。
明日のことを思い煩うこと無かれとか、今を生きることこそ最も重要とか、一日一生とか色々古来言われています。インターネットを見ても、今ここを生きるとかなんとか、多くの人達が主張してますが。」
老師:「まーそれはそうだ。しかし私が言っているのはもっとぎりぎりの瞬間のことだ。大体の話ではない。」
青年:「ぎりぎりの瞬間ですか。うーん。」
老師:「ま、今ここという話は、即今とかhere-nowとか色々表現されており、沢山の人が着目していて発言しているが、さて本当に分かって言っている人がどれだけいるのか?
殆どの人は、「今」には結構迫っているが、この山やビルや車が存在しているこの現実の立体的空間については常識的な世界に終始し疑っていない。今自分の居るこの家は至極当たり前の存在と思っている。
しかし、今という瞬間を本当にぎりぎり追い詰めると、いわば薄い一枚の紙の中、更には線の中、或いは点の中に、この家や富士山や近所の川や星や太陽が全て詰め込まれて存在していることになる。
例えば、東京駅が立体的な構造物であることの認識は、表側を見て、裏側を見て、上側から見て、横側から見てなどしないと分からないはず。
しかし、表側から見たあと、裏側から見ようとするとその時には、既にその表側から見た状態は過去の記憶内容である。表側の姿が分かっているように思えるのは、その時点で、頭の中の表側についての記憶細胞が活性化しているに過ぎない。それは、頭の中の想像(イメージ)に過ぎず仮想であり、虚仮である。 細部にフォーカスするものの味方
時々、禅を極めた老師が扇子でミカンを隠したり出したりしながらこのような説明をすることがある。
従って、今この瞬間を本当にぎりぎり追い詰めると、立体的なビルや道路などの存在も薄い紙一枚の中に存在しているということになる。
仮想であり虚仮である過去や未来を編み出す記憶や思考を一切使わず、今現在の一瞬の存在をギリギリまで追い詰め把握するとなると、そうならざるを得ない。」
青年:「えー! それは不可解で不安になります。まあ理屈上はともかく、実感としては全く分かりません。その実感するというか体得するにはどうしたらいいですか?」
老師:「何度も言うが言葉や図形の説明では実感することは無理である。」
青年:「言葉や図形ではだめですと言われても。。。 何故だめなのですか?」
老師:「理屈っぽいお人だな。多少理屈っぽい説明になるが、言葉というものは変化しないことを本質とするからだ。
『山』といえば『山』であって、直後に『海』の意味を持つようでは、『山』という言葉は意味をなさない。言葉は固定化が本質といえる。
脳の中の記憶を司る細胞にそれらの言葉が蓄積されているが、その蓄積の仕方は保持、維持、固定が本質である。一秒毎に内容が変化するようでは記憶とは呼べず、記憶そのものでは無くなるからだ。
極端な話し、たとえ「変化」という言葉であっても、直後に「不変」という意味は持てない。
その固定化という本質的特徴を持つ言葉や図形によって、瞬時に変化し流動するこの世界を把握しようとすることは無理である。」 固定観念、想念から自由に
青年:「なんとなく分かります。言葉や図形でだめとしたら、どのようにしたら実感する、つまり悟りを開くことができますか?」
老師:「ま、例えば、山を千回登り降りするなど何か手段があればいいのだが。それは無い。
青年:「がっかりです。」
老師:「残念だが、そうなのだ。ただ言葉や図形でだめということにヒントがある。つまり、積極的に、その言葉や図形を使わない態度がその手段となる。
その結果、この瞬間の世界を体得できる。体得すれば、この世界はすべて連続していることが分かる。森羅万象は変化し全て連続しており、一如であることが分かる。」 波動干渉波動共鳴
青年:「どうもよく分かりませんが。飛躍がありすぎるように思えます。」
老師:「そうかな。 この言葉の働きを停止するという点について、身近な話がある。
赤ん坊や幼児は、言葉を知らないので自然にその働きを停止しているといえ、この一如の世界を実感しながら生きている。脳の発達、特に前頭葉の発達が未熟なのでそういうことになる。それが次第に母さん、父さんといった言葉を知るに従って、変化しない世界を習得していき、大きくなる。自我が確立してくるということは、私という不変の固定物が定着していく過程である。
その結果、森羅万象は変化し、全て連続しており、一如であるという実感から遠ざかり分からなくなる。世界の殆どの大人はこの状態にある。」
青年:「それでは大人になってしまうと実感できないのですか?大人になっても、この瞬間の世界を体得し直して、悟ることが出来るとすればどうやって出来ますか?」
老師:「それには赤ん坊のように言葉の働きを停止すればよいことになる。言葉や図形がこの世界の真実の姿や本当の自分の姿を霧の中に追いやっているのだから。 」
青年:「言葉の停止ですか・・・ でもそんなことすれば、生活が出来なくなってしまいます。勤め先の住所は? 出勤日は何時? 今日は何曜日? これらは、脳による言葉や図形の記憶があってこそ対応出来るのであって、それらの言葉や図形を駆使してビジネスや学業を行っているのですから。言葉や図形の働きを停止するなんて無理ですが。」
老師:「ああ。簡単なことではないことは確かだ。世間には三日で悟りが開けるなんて宣伝しているセミナーもあるようだが。どんどん印可を出す偉い人もいるようだが、そう簡単に体得できるなら、お釈迦さんの出現から長い年月経過しているから、現在何千万人も悟りを開いた人達が居るはずだが。何処にいる?
自称覚醒者といった人達は殆どが未だほど遠いところにいる。中には言葉巧みに財産を吸い取る詐欺師も居る。『布施』とか『喜捨』とか都合の良い仏教用語があるから欺されやすい。」
青年:「はい簡単では無いこと、気を付けます。お続け下さい。」
(仙厓 不立文字)
老師:「この言葉や図形の働きを停止する点に関して、赤ん坊の話ではなく、大人の世界で追求して来た分野がある。
『不立文字』という言葉をご存じかな?これまた言葉だからやっかいだが。禅の世界がその分野である。」
青年:「禅ですか・・・。」
老師:「文字を立てず。つまり、禅では、文字や言葉や図形などで真実を追いかけないという意味だ。悟りを文字や言葉や図形で説明することはしないということだ。
にもかかわらず、禅の分野でもまたまた多数の言葉があふれている。
碧巌録、臨済録、無門関、正法眼蔵など様々な書物がある。」
青年:「そうですね。不立文字なのに変ですね。」
老師:「しかも、仏教の経典や有名な文献は、長い間多くの人に支持され尊重されてきたのだから権威があり、そんなもの読んでも悟ることなど出来ないとか言っても大きな抵抗がある。その結果、多くの人は碧巌録や正法眼蔵などの文献を調査し、分析し続けて来たといえる。」
青年:「わたしもその中の一人です。やはり不立文字といっても、各種経典や有名な文献を簡単には無視出来ないです。」
B.言葉や論理では真実を捕らえることが出来ない理由その二
老師:「そうだろな。ところで少しややこしい話しになるが、あんたは、それら経典や文献に書かれている文字や言葉や文章を目で見て頭で解釈し理解して、道元禅師は、ああ言っている、こう仰っていると思っているだろう?」
青年:「そうですが。他に、文献には、無我、無性、色即是空、縁起、空即是色、唯識、無碍、阿頼耶識、魂、霊魂、狗子、無字など様々な言葉が山のように書かれていますので、色々勉強し解釈してなるほど作者はそう伝えたかったのかなど感心しておりますが。」
老師:「その場合、あんたの目で見た文字や言葉を、それまであんたが勉強してきて、脳の記憶細胞に記憶している文字や言葉に照らし合わせて、例えば『菩提心を大切にせよ』と書いてあると認識し、それまで自分が勉強してきた『菩提心』とか『大切』とか『せよ』といった言葉の意味を思い出して、この文献の作者は、そういう意味を書いたのだと解釈しているだろう?」
青年:「そうです。常識です。」
老師:「その場合、作者が『菩提心を大切にせよ』という言葉、文章を書いた際の作者の内心の意図と、あんたが読み取って解釈した『菩提心を大切にせよ』の意味が、同じとおもうか?」
青年:「同じです。同じ文字、言葉、文章ですから。」
老師:「 違う!!『菩提心を大切にせよ』という言葉、文章についてあんたが解釈した意味は、あんた自らが、小学校、中学校等の学校で習い覚えたこと(あんたの脳の記憶細胞の中に蓄積)、また社会人になってから色々調べたりして得た事柄(あんたの脳の記憶細胞の中に蓄積)など、過去に経験し、勉強してきた知識(あんたの脳の記憶細胞の中に蓄積)を駆使して把握した意味に過ぎない。そして、他方、作者が『菩提心を大切にせよ』という言葉を書いて伝えたい意味内容も、所詮はその作者が過去に経験し、勉強し、彼の脳の記憶細胞に記憶してきた意味に過ぎない。書物全部についても同じことだ。」
青年:「言われてみればそれはそうですね。私の解釈した結果は、私がこれまで経験し、勉強した内容における意味でしかあり得ません。」
老師:「では、あんたの経験、勉強内容と、作者の経験、勉強内容とは同じか?」
青年:「違います。」
老師:「そうだ。違うのだ。結局、いくら丁寧に文献を読んで解釈したところで、作者とあんたとは、同じ『菩提心を大切にせよ』という言葉、文章を扱いながら、意味内容で必ず不一致が生じていることになる。
青年:「はー」。
老師:「例えば、小さいとき猫に噛まれた経験がある人と、そういった経験が無いまま猫と仲良く暮らして育った人が、互いに『猫』という言葉の解釈が一致するはずがない。そして互いに自分の方が正しいと論争したりする。このように、我々一人一人育った世界が互いに違う以上、我々一人一人の脳の記憶細胞の内容は必ず違ったものになる。つまり、異なる以上、言葉の解釈は全て違うといってよい。」
老師:「このことはそこら辺の身近な手紙や科学文献の言葉や文章でも、碧巌録や正法眼蔵などの優れたといわれている文献や言葉の解釈でも同じことだ。
仏教では、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果、輪廻転生、心身脱落、脱落心身、阿弥陀、金剛、阿羅漢、八正道、中道、四諦、法印、阿頼耶識、法身、意識、方便、一切皆苦、末那識、闡堤、印可、因果、浄土、因縁、有、世間、宇宙、回向、縁覚、執着、縁起、往生、応身、応報、真言、厭離穢土、我、帰依、地獄、機根、行、境界、空、久遠 、中道、実成、供養、薫習、小乗、解脱、還相回向、悪人正機、化身、現量、業、降魔、投機、極楽、如来、他力、根本分裂などの言葉が際限なくある。
また、キリスト教では、回心、神の子、再臨、救済、奇跡、サムソン、原罪、降誕、根本主義、三位一体、信仰義認、聖霊、証し、購い、神品、悪魔、憐れみ、異端、インマヌエル(日本語での翻訳語)などの言葉が 際限なくある。
また、イスラム教では、アッラー、信仰、礼拝、ウンマ、慈善、喜捨、断食、巡礼、預言者、啓示、相続、スーフィズム、信仰告白、経済、政治、天国、ヒヤル、地獄、ミナレット、正統カリフ、因果応報、生と死、最後の審判の原則、着物、飲食、十字軍、売買、契約、習慣、結婚、離婚(日本語での翻訳語)などの言葉が際限なくある。
これらの言葉や文献の価値を一概に否定はしないが、書いた人と読む人との間に、正確な意味内容が正しく伝達されることは絶対あり得ない。一人一宇宙
ましてや、悟りの内容が、言葉や観念、概念、図形などの知性で伝達されることは絶対無いということだ。
老師:「このことは、文献を読む場合だけではなく、偉い人の講演を聴く場合でも同じだ。
また、インターネットのサイトには、いわゆるスピリチュアル系の言葉があふれているが同じことだ。
ワンネスとか波動とか多次元とか非2元とかノンデュアリティとか色々な概念や観念が際限なく出てくるが、結局各自がそれぞれ各自の経験・記憶の範囲で解釈しているに過ぎない。」
青年:「はー、つまり、経典や、文献は全て言葉、文字、図形で構成されていますから、結局どのように読んでも、どんなに沢山読んでも、読み手側の記憶細胞の内容、つまり過去の経験と勉強で決まるということですね?」
老師:「そうだ。読み手側の本人の過去の経験、勉強内容(個々の脳の記憶細胞の内容)から一歩も出ることはなく、もし仮に、仏典に真理が言葉や図形で書かれていたと仮定しても、それを正確に把握することは全く不可能といえる。
読み手であるあんた自身の過去の経験や勉強内容をふり返れば冷や汗もんだろう。」
青年:「恥ずかしい限りです。」
老師:「私もそうだ。だからいくら立派な辞書を調べたといっても、その辞書を書いた人々の個々の経験と勉強が延々と累積されているので、何万冊の辞書を辿っていっても同じことだ。大体の擬似的な話なら未だましだが、面白おかしい嘘八百の空理空論の世界に巻き込まれてしまっては情けない。」
青年:「ということは、百万巻の経典や碧巌録や正法眼蔵などの文献をいくら読み込んでも、真実の世界の姿や真実の本当の自分の姿は絶対分からないということですね。
そしてこのことはキリスト教の聖書やイスラム教のコーランや、仏教の日蓮宗や浄土真宗の経典にも当てはまるのですね。」
老師:「そうだ、くどいようだが、それぞれを書いた人物やそれらを読む人々の経験や勉強内容(個々の脳の記憶細胞の内容)は、時代や使用言語や個々の生活体験など全てにわたって互いに異なるのだから、真実を言葉や図形に求めても永久に不可能だ。
これを不立文字と断じたのだ。 」
老師:「このことは極めて重要な点であり、悟りの存在する方向を示す生命線である。
間違った方向へ進んでしまうと、血のにじむようなありとあらゆる努力をしたとしても、無駄な歳月ということになってしまう。ま、無駄な歳月で終わるならまだしも、心の病にでもなれば一体全体何をやっているのかということになりかねない。
肝に銘じるべきである。」
青年:「肝に銘じます。」
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