山岳信仰

蓬莱へ橋を架けたり紅葉山  高資

 行道山浄因寺清心亭

方丈へ巌を渡る紅葉かな  高資

 行道山浄因寺清心亭・くものかけ橋

ヘトマトの草鞋に玉の稲積めり  高資

蓬莱やかがみの舟に稲の魂  高資

 ヘトマト(国指定重要無形民俗文化財)の大草履とわら玉

補陀落の湖へ伸べたる秋日影  高資

補陀落へ日矢のさしてや秋の湖  高資

湖の凪ぎたる釣瓶落しかな  高資ー 場所: 中禅寺湖畔イタリア大使館別荘記念公園

補陀落へ階つづく雲の峰  五島高資

田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ不尽の高嶺に雪は降りける  山部赤人

冬富士の雲を噴きたる常世かな  高資

富士塚の剣いただく冬木立  五島高資ー 場所: 大我井神社

コメント

熊谷市にある大我井神社はイザナギノミコト、イザナミノミコトの国生みの他、この国を統一したとされるオオナムチ(大国さま)など古い謂れのある古社のようですね?又富士塚とは富士浅間社の古代の火を祀る信仰であり、縄文晩期からなる自然信仰の一つとして配石遺跡(巨石、ストーンサークル)なども見られるそうです。明治の時代となってから、神仏習合により本来の社殿および歴史的な遺跡が混合となって、実態が分かりづらくなっています。何れにしましても塚ですから古墳のひとつですね?

https://www.toyama-brand.jp/TJN/?tid=103401

【立山地獄にぶるぶる! 立山曼荼羅と立山の伝説に触れる夏】

富山県[立山博物館]では、現在「特別記念展観 立山曼荼羅 吉祥坊本」を開催中。名誉館長で文芸評論家の佐伯彰一さん(富山県出身)から立山曼荼羅「吉祥坊本」の寄贈を受け、同館常設展示室に特別コーナーを設けて展示を始めた。また、立山の若手山岳ガイドと富山大大学院生が「立山曼荼羅」のオリジナル現代版を制作。日本画家が描いた漫画本『立山縁起絵巻』も話題になっている。今夏、立山曼荼羅や立山の伝説に触れ、大自然に抱かれてみよう――。

▲立山曼荼羅・吉祥坊本

●第一級の価値を持つ立山曼荼羅・吉祥坊本、特別展示

 今夏、立山曼荼羅や立山の伝承に触れ、大自然に抱かれてみよう――。富山県[立山博物館]では、現在「特別記念展観 立山曼荼羅 吉祥坊本」を開催中。名誉館長で文芸評論家の佐伯彰一さん(富山県出身)から「研究に役立ててほしい」と、立山曼荼羅「吉祥坊本」の寄贈を受け、同館常設展示室に特別コーナーを設けて展示を始めた。

 立山曼荼羅とは、平安時代末期から江戸時代にかけて山岳信仰の一つとして注目を集めた「立山信仰」の世界観が凝縮した掛軸式絵画。立山の山岳景観を背景に、閻魔大王や鬼などの立山地獄、佐伯有頼の立山開山縁起、阿弥陀三尊の来迎の様子、女人救済儀礼・布橋灌頂会の様子などが描かれている。立山山麓の芦峅寺や岩峅寺の宿坊の衆徒は、江戸時代から昭和初期まで、立山曼荼羅を携えて全国を回り、人々に立山開山の由来や、立山地獄などの絵解きを行って、立山信仰を広めていった。現在、「吉祥坊本」など49点が確認されている。

 佐伯彰一さんの先祖は芦峅寺で宿坊「吉祥坊」を営んでいた。「吉祥坊本」(絹本4幅、内寸:縦128.5cm×横147.0cm)は、生家である宿坊に伝わってきた立山曼荼羅。仁孝天皇の第八皇女として生まれ、江戸幕府第14代将軍徳川家茂の正室となった和宮とかかわりがあり、和宮の法号「静寛院」にちなんで「静寛院本」とも称されている。慶応2年(1866)に吉祥坊と師檀関係を結んでいた江戸幕府老中の本多忠民(三河国岡崎藩主)が同坊に寄進した。同年7月、第二次長州征伐で大坂城まで出陣していた将軍家茂が城中で急死(享年21歳)。そこで、忠民が、夫・家茂を亡くした和宮に対し、作品への布施といった形で家茂の追善供養をもちかけたものと推察され、作品の表の上部には和宮の寄付を示す識札、裏には家茂と和宮の法号を記した2枚の識札が、施主の代表者としての扱いで張り込まれている。「吉祥坊本」は、立山信仰が江戸城・大奥や幕府中枢にまで深く入り込んでいたことをうかがわせる史料として、現存する立山曼荼羅の中でも第一級の価値を持つ。展示は、関連史料とともに9月中旬までの予定。貴重な立山曼荼羅を鑑賞できる絶好の機会。ぜひ、今夏は立山博物館へ。

●新「立山曼荼羅」で伝える立山の魅力

 立山黒部アルペンルートを訪れる観光客らに立山信仰や伝承、立山の魅力などをわかりやすく紹介しようと、立山の若手山岳ガイド・佐伯知彦さん(立山自然保護センター勤務)と富山大大学院芸術文化学研究科2年・多智彩乃さんが、立山曼荼羅のオリジナル現代版を制作した。7月7日、立山・室堂の立山自然保護センターと立山山麓の大山農山村交流センターで開かれた講演会でお披露目され、佐伯さんがかつての信仰登山の案内人「仲語(ちゅうご)」の姿で、完成した曼荼羅を使って立山信仰や歴史、自然などについて説明した。ちなみに佐伯さんは、宇治長次郎さんと並んで名案内人といわれた「初代・平蔵」こと佐伯平蔵さんのひ孫に当たる。

 新「立山曼荼羅」は2枚1組で、各縦82cm、横51cm。佐伯さんが全体的な構図を考え、多智さんが描画を担当した。立山博物館が所蔵する立山曼荼羅を参考に、学芸員からアドバイスも受けた。既存の立山曼荼羅に描かれた立山開山縁起、立山禅定、立山地獄、立山浄土、布橋灌頂会の様子を踏襲。“生前の悪事が映る”とされる閻魔大王の「浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)」、阿鼻地獄・焦熱地獄など、おどろおどろしい立山地獄、今年7月ラムサール条約湿地に登録された弥陀ヶ原などを丁寧に描いた。また、弘法大師の念仏によって湧き水が出たとされる「弘法の清水」など、これまで描かれなかった伝説なども盛り込んだ。「仲語」の姿の佐伯さんや、立山に登る多智さん、愛らしいライチョウも描き込まれている。

 多智さんは「五箇山和紙を用いて水彩絵具で描いた。現世で悪い行いをしたら、立山地獄でどんな報いを受けるのだろうと、恐ろしく思いながら筆を運んだ。阿弥陀如来と聖衆たちの来迎の場面や布橋灌頂会の場面では、たくさんの顔、異なった表情を描くのが大変だった」、佐伯さんは「制作した立山曼荼羅を使って、立山の魅力を全国の方に紹介していきたい。現在、山岳観光地の立山は、かつて『六根清浄』と唱え、自身の心と向き合って登る信仰の山だった。『六根清浄』を現代的に言えば、“心身のリフレッシュ”。立山の雄大な自然は、今も昔も人の心を癒す空間だ。立山は“眺めて良し、登ってなお良し、歴史・文化にふれてさらに良し”。日常のストレスで疲れた心身を癒しに、ぜひ立山へ来てほしい」と話している。

●立山曼荼羅の世界を漫画に、『立山縁起絵巻――有頼と十の物語』

 立山曼荼羅に描かれた立山の開山伝説を親しみやすい物語として漫画で表現した作品が『立山縁起絵巻―有頼と十の物語―』(桂書房刊)。作者は、立山曼荼羅を題材にした作品を描く日本画家の米田昌功さん。日本画の制作・発表に取り組む一方、立山曼荼羅の継承や、アールブリュット(生の芸術)の啓蒙にも取り組み、知的障害をもつアーティストの制作支援に当たっている。

 『立山縁起絵巻』は10章からなる。越中国守・佐伯有若の息子・有頼が白鷹を追って山中に入り、立山を開山した伝説を中心に、布橋灌頂会やおんば神、因果応報、謡曲「善知鳥」などの話を織り交ぜた。ピュアで清廉な少年として語られることの多い有頼を、虚無感を抱き、無益な殺生に明け暮れている人物に仕立てた点が印象的。また、有頼を想う「伏姫」という架空の女性を登場させ、有頼を励ますなど独自の解釈を加え、ファンタジックな世界を構築した。有頼を追って女人禁制の立山へ足を踏み入れた伏姫の運命に心も痛む。“布橋灌頂の章”では、尾張から長い巡礼の道を一歩一歩踏みしめて進み、呉羽山を越え、神通川に架かる舟橋を渡り、芦峅寺まで旅した女性信者を登場させるなど、既存の立山曼荼羅にはないシーンも描かれている。

 史実からすると、有頼と伏姫の悲恋は驚きの展開だが、米田さんは「なぜ立山に登拝する人が絶えなかったのか、人を魅きつける立山の魅力はなんだろうと考え、立山や立山信仰への自分なりの思いを盛り込んだ」という。なぜなら、立山信仰の本質の1つは、女性救済にあると考えており、巫女や観音としての力を内包する女性が物語を支えることが必要だったという。作品の中でも「日本に数限りなく山あれど、おなごを救うのは立山だけ」、「立山の阿弥陀様はほんとに慈悲深い」という吹き出しを入れている。

 『立山縁起絵巻』では「鏡」が要所に描かれている。有頼や伏姫の進むべき道を示したり、行く末を見届けたり、最後には、“極楽も地獄もその身に包み込み、屏風のように広がる立山は、さながらこの世を映す鏡のようである”とまとめている。人の世や心を見つめ、映し出し、なお泰然とそびえる立山は女性の象徴のよう。『立山縁起絵巻』を読んでいると、母性に満ちた優しい山を眺めたくなる――。『立山縁起絵巻』はA5判、191頁。税込み1,260円、地方小出版流通センター扱い。

 米田さんは、「平成17年夏から1年間、文化庁の在外研修員としてネパールに滞在していたときに描いた日本画作品『立山曼荼羅 平成本』が、上市町の西田美術館で常設展示されている。こちらもご覧いただければ、幸いだ」と話している。

補陀落の茂る二荒山(ふたあらやま)神社  高資

 宇都宮二荒山神社

沈みたる閻浮檀金や秋の湖  高資

補陀落や水を抱いて山眠る  高資

 男体山ー 場所: 中禅寺湖

蓬莱や霞立ちたる室根山  高資

槌音の木霊や霞む室根山  高資 


https://ameblo.jp/taishi6764/entry-11924785297.html

【霊山と修験道と道教〜聖地に道仏教が入ってくる~日本遍~】

☞日本古来の山岳信仰

「神々は山に坐す」でも書きましたように。

日本古来の山岳信仰は,一方では山岳を御神体或いは神々の鎮まる霊地として,山麓から拝する神道となって展開しました。

わが国最初の基本的な祭祀形態の成立は、農耕生活の定着と深く関わっている。

農耕生活の普及と地域共同体の形成過程のなかで氏姓制度を根幹とする古墳時代に整ったと考えられている。その形態は、神体山信仰であり、根ざす共同体の存在したところには古墳群が在しており、山の信仰が対象としてでした。

農耕の始まる春に神を山麓 に、山から人里に迎え、秋の収穫まで神を里や田にとどめて豊穣を見守ってもらい、秋には、収穫に感謝し山中に送り戻す。

「神は降臨し、存在するが姿を現さない。」

信仰は各地域の豪族を中心として行われた。

神迎え 神送りの際には様々な神事が執り行われ、ここで活躍するのがシャーマン(巫女)であった。

☞山岳全体を神と崇める神体山の信仰

山岳信仰は、水田稲作農耕に頼った里人に稲作に必要な水をもたらす水源地として重視され、山から流れる水は飲料水として,また潅漑用水として里人にとって欠くことのできないものだった。

山岳が崇拝の対象とされるためには,里から望見し得る場所にあると云うことが必須の条件とされました。

山岳全体を神と崇める神体山の信仰も広く認められ、大和の三輪山を始め,諏訪神社の上社,金鑽神社の御室ガ岳,宇佐神社の御許山,御上神社の三上山などはこの例で,何れも神社の背後の山岳が御神体とされていた。

これらの山岳は,祭礼などの際に限られた神職が入る以外は禁足地とされました。霊山の山麓から祭祀遺跡が発掘されている。

里から望見される山岳は,死霊・祖霊・諸精霊・神々の住む他界,天界や地界への道,それ自体が神や宇宙と云うように,俗なる里と対峙する聖地であると信じられた。

☞仏教が伝来

これが、わが国に仏教が伝来してくると、これまでの古墳築造に力を注いでいたのに変わって、氏寺の建立に力を注ぎ始めた。これを機に古墳時代は終わりを告げます。

古墳時代から飛鳥時代(592~710)にかけては大陸からの渡来人が多くなり,渡来人等または、留学僧によって道教や仏教がもたらされました。

「神社や寺は宝の山を守っている?」でも書きましたように。鉱脈を探すためであったり、思っているよりも早くから人が山岳に入り「聖域」として守った所もあるでしょう。

中国の道教の神仙思想による高山・深山に居する風潮が盛んになり、わが国にも山岳修行おこります。道教は入山修行して仙人に成ることを目指しており、また仏教も山林などでの夏安居を重視していました。

これにより、「神々は山に坐す」ところに仏教徒が入り込むことになります。

☞宇宙山

世界の中心にあって天と地を結ぶ宇宙軸,或いは宇宙全体を集約した宇宙山とされています。山岳を宇宙軸と捉える信仰は,吉野の金峰山を国軸山と呼んでいることに象徴的に認められます。また宇宙山の思想は,仏教で云う須弥山に典型的に観ることができます。

修験道の聖地吉野の金峰山については、ブログの「神社や寺は宝の山を守っている?」で書いてきました。

☞葛城山と役小角

葛城山は仙境とされていて,中国から帰化した道士が住んでいたとも考えられるのです。

修験道の開祖 役小角は、『続日本紀』の二,三十年後に成立した『日本霊異記』においては,役優婆塞(小角)は岩窟を居所として,毎夜五色の雲に乗って沖虚の外に飛び出し,仙宮の者と一緒に修行しました。また葛の衣を着て,松果を食し,養生の気を吸い,清水の泉に沐して,孔雀明王の呪法を修めて,鬼神を使役しました。そして鬼神に大和の金峰山と葛城山の間に橋を架けさせようとしました。しかし葛城山の一言主神の讒言で伊豆に配流されました。伊豆においては昼間は島で過ごし,夜は富士に行って修行しました。三年後に許されましたが,一言主神を呪縛した上で,仙人となって飛び去りました。その後道昭が新羅において五百の虎の招きに応じて法華経を講じた際,その中に役優婆塞が居たとの話を載せています。この役小角の,岩窟を居所として葛の衣を着て,松果を食し,養生の気を吸って長生を図り,沖虚を出て五色の雲に乗って仙宮に赴いたり,鬼神を使役する修行や呪法は,一般に道士の修行とされているもの

『諸山縁起』には,金峰山や大峰の要事に関する先達の口伝が収録されており、役小角が修行道場とした大峰山には百二十の宿があって,三百八十人の仙人が住んでいたという。

平安後期の学者である大江匡房(おおえのまさふさ)(1041‐1111)の『本朝神仙伝』正史・僧伝・縁起・口伝を素材とし,撰者が神仙と判断した人々の伝を集めたものに、三十七人の仙人が挙げられている。この中には役行者,泰澄,窺詮,教侍,陽勝,出羽国の石窟仙,浄蔵,比良山の仙人,日蔵など修験者と思料される者が収録されている。

☞神仙思想

神仙思想には、「仙人は深山に至り、不老長寿の霊薬を飲む」という一説があり、山深い所で、不老長寿の霊薬を飲めば、その人はいつまでも若く、年をとらないという教えである。即ち、どうしたら人間が、超能力のある仙人になれるかを詳しく説いたものである。

仙人には天仙、地仙、水仙と死界仙の4種類があり、人間は天・地・水の仙人にはなれないが死界仙には、修行次第でなれるとした。

仙人は主に高い山の上や仙島、俗界を離れた静かで清浄な所天上などの仙境(神仙郷、仙郷、仙界)に住む。

(中国の)東海に蓬莱、方丈、瀛洲の三つの仙人の島(三島)があるともいう。仙人がいる、あるいはそこにいけば仙人同様になれる聖地を故事になぞらえ桃源郷と呼ぶこともある。

(*仙人が住むと言われるのはもとは五神山で、三島の他の「岱輿」及び「員喬」は流れて消えてしまったとされている。)

方士である徐福は秦の始皇帝の命を受けて東海の仙島に仙薬を求めて出航した。徐福は日本に逢着したともいわれ、日本各地に徐福伝説が残る。

1-2世紀に神仙に憧れた漢の武帝は、威陽の西北の甘泉台に巨大な建造物や仙人像を作り、更に建章宮の北方には太液池を作り、池に蓬莱、方丈、瀛州の3神島を作った。

また4世紀には北魏の華林園に海のような大きな池が作られ、その中に蓬莱宮がもうけられたことが「洛陽伽藍記」に見える。

☞金峰山と熊野三山

金峰山と共に修験道の中心地として盛えた熊野は、平安時代中期には本宮・新宮・那智の熊野三山が成立しますが,本宮は阿弥陀の浄土,那智は観音の浄土とされています。また新宮には蓬莱島があって徐福が到来したとの伝承が認められます。

熊野三山を蓬莱・方丈・瀛州の三神山に準えたり,仙人の住まう処とする伝承も認められます。

また十世紀初頭に浄蔵が那智滝において,塩酢を断ち,松果を食し,蔦や苔を衣とし,法華経を読誦し真言洛又遍呪を唱えて修行し,その結果護法を使役し,予兆力を得たとの話も伝わっています。

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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