蜘蛛の巣の渦巻く宇宙ありにけり 高資
Between rocks
some cobwebs are floating
like spiral galaxies Takatoshi Gotoー 場所: 出流原弁財天
http://www.aqast.net/~tao/01seiseiron.html より
●「道(tao)」の宇宙論
まず最初に、老子の「天地生成論」を図でご紹介しておきます。
◆ 老子は、天地生成の仕組みから、君子候王に治世の道を説きました。そのため『老子』の冒頭、第1章に「天地生成論」を置き理解を求めたのです。しかし、ほとんどの『老子』註釈書は、ここからして誤解をしています。
老子の思想を正しく理解するには、『老子』の冒頭部分を、まず正しく解釈しないことには始まりません。
「道(タオ)」や「太極」、また「陰陽思想」にかかわる老子の「天地生成論」の部分です。
この第1章の解釈が、『老子』全体の解釈の基礎となる重要な部分であるために、正しく理解しておくことが、『老子』全体の理解には必要です。
ここを間違えると、老子の教えを誤解し、『老子』の解釈に齟齬(そご)をきたす箇所が生じざるをえません。
このサイトでは、老子の「天地生成論」の正しい解釈をご紹介します。
ちなみに、かねてより『老子』解釈の重要なテキストとして、魏の王弼などの註釈が参考にされてきました。
すでに、旧き時代から、さまざまな註釈書があり、『老子』は誤釈されることが多かったことが分かります。
素直に、ごく素直に第1章を読めば、老子が実に分かりやすく、「天地生成論」を述べていたことが見えてきます。
●名もなき「道(Tao)」
先に「天地生成論」の概要を述べておきます。
そののち、第1章を一文ずつ解説してまいります。
そのほうが次ページから述べる第1章を理解しやすいと思うからです。
「道(Tao)」という言葉は、誰でも聞いたことがあると思います。
実は「道(Tao)」には名がありません。
名はないけれども、宇宙の根本を「道(Tao)」としています。
宇宙天地世界が始まる前、つまり深淵(しんえん)の深淵、暗闇のまた闇をのぞくように見ることができず、形容すべき象(かたち)もなく、あるべきもないので、名がつけられません。
しかし、何か命名しておかないと伝えることができないために、仮に「道(Tao)」としたものです。
ですから、一般の道と「道(Tao)」はまったく異なります。
天地の「道理」でもなく、人の「倫理道徳」でもなく、ふつうに歩く大地の「道」でもなく、もちろん名前がないので、「無」という名前でもありません。
そんなものがあるか、って?
私は見たことがありません。 当たり前ですね。
でも、それが、老子が『老子』の冒頭で述べている「道(Tao)」です。
One-Point ◆ 第32章にも「道常無名」とあります。「道は常に名無し」です。しかし、第1章をふつうに読めば、「道(Tao)」に名が無いのは当たり前だと分かります。
●名による「無」と「有」
「道(Tao)」をなんとなく分かったところで、次にいきます。
分かりやすくするために、少し飛ばして、陰陽思想で「太極」と呼ばれる、「無」と「有」を先にご紹介します。
そのあと、話を戻して、老子がいう「名」をご説明します。
森羅万象が生じた万物世界に私たちは住んでいます。
この世界は、確かに存在しています。
この天地の「始まり」は何か? 老子は問いました。
「有る」の前は「無い」ので、天地の始まりを「無」としました。
一方、「始まり」があれば、当然、その「結果」や「結末」があります。
「結末」とはこの万物世界のことです。
しかし、「無」からいきなり万物世界は生じません。
老子は、万物を生じさせたものがあることに気づきました。
それが、「有」です。
老子は「無」と「有」をそのように位置づけたのです。
もとい。
では「無」と「有」は、どこから生じたのでしょうか?
「道(Tao)」には名がありませんが、天地の始まりは、「無」という名ですし、また万物を生じさせた母には「有」という名があります。
では、いったいどこから名が生じたのでしょうか?
「無」と「有」に先んじて、「無」とか「有」とか名付けた働きがあるのです。
それを老子は、「名」と呼んだのです。
この「名」は、ふだん言われている名前や名分ではなく、むしろ命名に近い働きを意味しています。
「名」ありて、「無」と「有」、すなわち陰陽思想で使われているような「太極」が生まれたのです。
One-Point ◆ 古来、中国では、「太極」は万物の根源とされてきました。老子以後、太極の前に「道(Tao)」を置き「無極」としたり、一緒にして「無極にして太極」とすることがあります。老子の「天地生成論」の影響です。
●『老子』は単純でよい
老子ほどの頭を持つ人です。
難しく解釈する必要はありません。
老子は、『老子』第1章にちゃんと順番に、分かりやすく「天地生成論」を記しています。
まず「道」。
次に「名」。
「名」の次に、「無」、そして「有」です。
順番に触れていき、簡潔に定義づけをしています。
素直に、ごく素直に読めば、老子の「天地生成論」を理解できるのです。
多分、多くの知者は、「名」の理解が難しかったのでしょう。
難しく考えすぎて、「道(Tao)」と「無」を同一視したり、と。
「道(Tao)」は、「名」以前ですから、当然、「道(Tao)」なるものに名はありません。
一般的にも、命名されることによって初めて認識され、「概念」としての意味づけがなされ、「存在」として認知されます。
そのような命名の働きを老子は、「名」と呼び、存在可能ならしめるものとして位置づけたのです。
天地万物世界が生じる前に「無」と「有」(俗にいう太極)があり、「名」が、それに先んじていることに気づかなければなりません。
「名」以前は、名もなき「道(Tao)」です。
これが老子の「天地生成論」の概要です。
「えーっと、そうですよね? 老子さん」
「然り!」
老子もそう言っていますので、間違いはありません。
わたくしと全てと春の露にあり 高資
春の露それぞれにある宇宙かな 高資
泡沫(うたかた)の粒立つままに氷面鏡(ひもかがみ) 高資
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