アマエビは天日子・海彦で海王、「黄ぶな」は、まさに魚、つまり海王星魚座時代に通じますね。ケテル・大天使メタトロン!!
2012〜2025年は海王星魚座時代、今上天皇も魚座です。平成(いわと岩戸なる)から令和(岩戸開きで零岩)かもしれませんね。
たまたま去年訪れた龍穴神社の天の岩戸
まず椿咲きたる岩戸開きかな 高資ー 場所: 佐貫観音奥の院ご開帳
ももとせを咲く磐座の椿かな 高資
いつくしき蕊の黄金や椿咲く 高資
とこしなへ椿の下を潜りけり 高資
人をして岩戸を開く椿かな 高資ー 場所: 佐貫石仏
ビルに映えて開く岩戸や冬朝日 高資
一条の朝陽を渉る冬野かな 高資ー 場所: 宇都宮城址公園
https://www.togakushi-jinja.jp/about/index.php 【戸隠神社について】 より
戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社です。
その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしています。
平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場でした。神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えました。
江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まってきました。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めました。
明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至ります。
岩戸伝説
「昔、天照大神が、弟の素戔鳴尊の乱暴を怒って天の岩屋へお入りになってしまわれました。世の中は真っ暗闇になり、いろいろの悪い神々が出てきて、恐ろしいことや、悲しいことが次々におこりました。
大勢の神様たちは、岩屋の前に集まって、天照大神に岩屋から御出でになっていただくにはどうしたらいいだろうかと、相談をしました。その時、戸隠神社の中社にお祀りされている天八意思兼命が「良いことを思いついた。私たちが岩戸の前で踊ったり歌ったりして楽しそうにしていると、きっと天照大神様は、『あの者たちは何をしているのだろう』とおのぞきになるにちがいありません、・・・」と知恵をしぼって考えをだされました。
天八意思兼命のお考えにもとづいて、神様たちは準備をしました。まず鶏を沢山集めて鳴かせました。火之御子社に祀ってある天鈿女命(あめのうずめのみこと)は大変踊りの上手な神様ですが、この神様が伏せた桶の上にのって足拍子も面白く「とんとん、とととん、と」と踊りました。大勢の神様も「やんや、やんや」と手拍子をうってこれに応えました。
天八意思兼命が「コケコッコー」と長鳴鶏ながなきどりの鳴き声をまねると、沢山の鶏は一斉にコケコッコーと鳴きだしました。天鈿女命の踊りがあまりに面白いので、神様たちも「わっははは」「おっほほほ」と笑ったりつられて踊りだしたりしました。
岩屋のなかの天照大神は何事がおきたのかと、そっと岩戸をあけて外をご覧になりました。
その時岩戸のかげで待ち構えていた天手力雄命(奥社にお祀りしてある神様)が岩戸に手をかけ一気にガラガラと渾身の力を込めて、岩戸をあけてしまわれ、天照大神を岩屋からお出ししました。
世の中は再び明るくなり、悪い神々は、逃げ去りました。天手力雄命は、また天照大神の御手をとって岩戸にお入りになってはたいへんと、岩戸を「エイッ」と持ち上げ下界へ投げすててしまわれました。岩戸は宙を飛んで日本のだいたい真ん中に落ちました・・・・・・。
この時、天手力雄命が放り投げたのが「戸隠山」であるという話は、日本の神話として昔から語り伝えられており、この岩戸伝説と同じような話が、戸隠の古い記録である「戸隠山顕光寺流記」や「戸隠本院昔事縁起」にも記されています。
(※)一四五八年(室町時代)法林坊定与「戸隠山顕光寺流記」を書写「天手力雄命天岩戸依隠置戸隠云々」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B2%A9%E6%88%B8
【天の岩戸開き】 より
天岩戸と呼ばれる場所
恵利原の水穴
天岩戸神社西本宮(宮崎県高千穂町)
天岩戸説話は天上界の出来事であるが、「ここが天岩戸である」とする場所や関連する場所が何箇所か存在する。
天の岩戸
滋賀県米原市弥高 - 平野神社。
京都府福知山市大江町 - 皇大神宮(元伊勢内宮)、岩戸神社。
滋賀県高島市 白鬚神社 - 岩戸社。
奈良県橿原市 「天岩戸神社」 - 天香久山の南麓。
三重県伊勢市 伊勢神宮外宮 - 「高倉山古墳」。昭和時代に入山が禁止された。
三重県伊勢市二見町二見興玉神社 - 「天の岩屋」
三重県志摩市磯部町恵利原 - 恵利原の水穴
岐阜県各務原市「手力雄神社」「史跡めぐり」
兵庫県洲本市安乎町 - 岩戸川の河口北。
兵庫県洲本市先山 - 岩戸神社。
岡山県真庭市蒜山 - 茅部神社の山の上方。
徳島県美馬郡つるぎ町 - 天の岩戸神社の神域にある。
山口県山口市秋穂二島岩屋 - 塩作りの海人の在住地、玉祖命の神社に近い。
宮崎県西臼杵郡高千穂町大字岩戸 - 天岩戸神社の神域にある。同神社西本宮の背後、岩戸川を挟んだ対岸の岸壁にあり、社務所に申し込めば案内付きで遥拝所へ通してくれる。周辺には天安河原など、日本神話、特に岩戸隠れ神話にまつわる地名が多く存在する。
沖縄県島尻郡伊平屋村「クマヤ洞窟」 - 全国に数多ある「天の岩戸伝説」の中で最南端地。
岩戸
千葉県袖ヶ浦市坂戸市場 坂戸神社(袖ヶ浦市)天岩戸のかけらという伝承の岩、天磐戸の石碑がある。
長野県長野市戸隠 戸隠神社には、岩戸が落下してきた伝承がある。
岐阜県郡上市和良町 戸隠神社。天岩戸のかけらという伝承の岩がある。
奈良県奈良市柳生 天石立神社。この地まで飛ばされてきたという岩がある。
https://plaza.rakuten.co.jp/opektal/diary/200603180000/
【「岩戸開き」とは・・・】 より
どうも最近は「いわと」という言葉が気になっている。
この言葉に当たる漢字にタイトルの「岩戸」もあるのだが、その読みに数を当てて「一八十」とするとらえかたがある。
たまたまネットサーフィンしていると、ある文章に目が止まった。そこには、「岩戸(一八十)開きとは、一から八までの世界を十の世界にまで開くことである。」(「八方世界」から「十方世界」へ開くこと)と記してあった。
つまり、われわれの世界は、一から八までの「一八=いわ=岩」の中の世界であり、「九」と「十」がその「岩」の外の世界ということらしい。(岩戸の中に隠れている天照大神とは、私たち一人一人のこと)
そして、「岩戸開き」をするというのは、一から八までの世界と、九・十の世界をひとつにして、「一二三四五六七八九十(ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・ここの・たり)」の世界に結ぶこととあった。
「真理探究」の手懸かりとして「数と形の関係性」に注目する私には、ここでその「いわと=岩戸=一八十」の《形》が観えてきた。
その形の候補として取り上げたのが、今日の画像の「立体八角形」である。
上述の「八方世界」とは、四正四隅の「東・西・南・北・東北・東南・西南・西北」の八方位のことであり、これを一から八までの世界とみることができる。つまり「八方世界」とは、四方八方の「平面の世界観」と言えよう。
そして「十方世界」とは、この「八方世界(一から八までの平面世界)」に、「九・十」に相当する「天・地(上・下)」を貫く「宇宙軸(垂直軸)」をくわえた「立体の世界観」のことである。
この関係を画像の「立体八角形」で説明すると、一見すると平面図形に見える八角形が「八方世界」であり、この造形の中心を垂直視する視線を「九十(天地)」を貫く宇宙軸として加えることで、これを「十方世界」と見立てることができるというわけだ。
つまり「岩戸開き」の象徴的な表現である「八方世界から十方世界への開き」とは、「二次元の平面観」から「三次元の立体観」への認識の転換、すなわち物事を認識する世界観の《次元転換》を意味しているのではないか、と推測するわけである。
例えば月面に立って地球を眺めるような視線、つまり物事を鳥瞰(俯瞰)して観る視線(あるいは平面図形を垂直視する視線)を、「次元の方向性」として意識的に感じてみるところから、ひとりひとりの「岩戸開き」が始まるのかも知れない・・・。
《 追伸 》
「平成で岩戸が成る」という観方がある。平成の「平」の漢字を、「一八十」の数字の統合と観て、今年の18年で成年を迎えるというとらえ方だ。(昔は18歳が成人の年齢だった)
そして「ミロクの世へとひっくり返る」と続く。この「ミロク」の言葉は、「369」・「666」・「567」などの数に置き換えられ、どれも加えると「18」となり、これが「ミロク」をあらわす本質的な数であろう。
そもそも「岩戸開き」は、日本神話の物語であり、太陽信仰にまつわる話だ。とすると、「冬至」が年始とされたのは歴史時代に入ってからとされ、歴史をさかのぼれば太古の年始は(世界レベルでみても)「春分の日」に絞られてくる。
今年、平成18年3月21日(春分)をはさむ7日間(18~24日)は、「岩戸開き」を迎える転機かも・・・。
いままで見えなかったものが観えてきて、ひとりひとりが「虚構」を見抜き、「真実」を洞察する視線を獲得できますように。
https://blogs.yahoo.co.jp/nanohananatsumi/4192213.html?__ysp=5LqU5bO244Gu5aSp44Gu5bKp5bGL 【天岩屋戸→幾久山の岩谷観音】 より
「日本国家の起源-五島列島に実在した高天原」(松野尾辰五郎著)より
アマテラスとスサノオがウケヒをした
「ヤスの川」・・・・福江島の大川原川
「ヤス」とは「ヤス」→「ヤセ」→「ヤソ」と活いて「八十(やそ)」とは「大」という意味。
(記傳)「書紀には「天(あめ)の八十(やそ)の河中(かはら)」となあるも同じ川と聞こゆ、神代の天上の故事(ふるごと)をいえる、皆この河の名を言いて、他(あだ)し河の名は見えざれば、是れは一つの川の名ではあらで、ただ流れの幾筋もありて、大きなる川をいうなるべし」
つまり、二筋以上の流れからなる川だという。
ウケヒをしたのは、この大川原川と小川原川の合流地点ではないかと著者は推察している。
(参考)天照大御神が忌服屋で神御衣(かむそ)を織っていた所、スサノオが生き馬の皮を剥いで投げ込んだ。
このとき一緒に織っていた稚日女命(わかひるめのみこと)は重傷を負って落命した。
このような事態を恐れて天照大御神は天岩屋戸に隠れるのであるが、イアナの向こうの黄島には姫大明神が祀られていて、この姫神は馬が嫌いと記されている。(五民)
アマテラスが隠れた
「天岩屋戸」・・・・幾久山(いつくやま)の岩谷観音
周囲はユスの大木が鬱蒼として生い茂り、太陽の光もあまり差し込まず暗い所で、穴の入り口には戸といえるような格好の巨石(厚さ20センチ、長さ2メートル位)がある。
ここに隠れたアマテラスが「女神」であることから「女身」であると信じられている観音菩薩と一体と伝えられて岩谷観音として信仰せられるに至ったのではないか?著者はその証拠に沿道に鳥居があることを示している。
八百万の神が集った
「岩屋戸前の広場」・・・・「オドニワ」
隠れたアマテラスを引き出す為に、天宇受売命(あめのうづめのみこと)が面白可笑しく踊った場所。
この場所は、古事記では岩屋前となっているが、著者が説明する場所は、岩谷観音堂からは千メートルほど離れている。が、二千人位は集合できる場所であって、そのどよめきや笑い声は、山の八合目辺りに位置する観音堂までは届くであろうという。
神々の名は難しくてなかなか頭に入りませんが、このような誰でも知っている「天岩屋戸」の場所が出てくると興奮してしまいます。そしてその解釈がブレていないというか、説得力があるように思います。
一度、自分の目で確かめに訪れたいです。
大西日まずは岩谷へ入りにけり 高資
「日本国家の起源 五島列島に実在した高天原」を読んで
著者 松野尾辰五郎
発行者 著者の次女 村山三枝子(岡山歴史研究会会員)
平成 21 年7月 丸善(㈱)岡山支店出版サービスセンターA5 版 150 ページ 定価 2500+税
岡山歴史研究会の仲間である村山三枝子氏が、「日本国家の起源 五島列島に実在した高天原」は、昭和 53 年に出版されたご尊父の本を復刻版の形で再度世に問われたもので、平成 23 年 10 月 21~23日の全国歴史研究会主催岡山大会に参加されたことを機会に私達の目の届くところとなった。著者は大正5 年生まれで生きておいでなら 95 歳であり、この本が書かれたのは昭和 53 年で 61 歳の還暦を迎えた頃になる。
著者は私の親達の年代で、皇国史観の只中に育ち生きてきた。著作の内容から賀茂眞渕や本居宣長(古事記伝)等の江戸期に活躍した史上有名な国学者や、柳田國男・折口信夫等の民俗学そして万葉集などの古典に造詣が深いことが判る。氏は長崎県の五島列島出身であるが、独善的な郷土妄信タイプの我田引水的思考による記述ではないことは一読すれば良く判る。
その意味で志に反して氏の説が広まらないままの無念さを、娘さん(といっても私と同年代と想定)が意を決して、平成21年に再版されたことの意義は大きい。通読して次々と進展する日本書紀や古事記の内容と五島列島に今も残る地名や伝承が、特有の古語の発声・発音の技法を取り入れながらの検証で、読者を不思議な世界に引き込んでくる。知らず知らずの内に著者の説に頷いて誘引されてしまう。
元々記紀や魏志倭人伝に登場する地名や人物・神々は多岐に亘り難解で、その固有名詞の雑多さに我々素人は翻弄され、挙句の果てに迷路に入り出口が判らなくなることが多く、仕舞いには投げ出す事が多い。結果として棚上げし史実化する認識は薄い。しかしこの松野尾氏の、それを史実として検証しようとする熱意と努力には恐れ入る。戦後の波乱に富んだ人生の中でのライフワークの成果を、人生の区切りとして還暦を機に一冊の著作に纏め上げられたのがこの本であろう。確かに労作である。
私は弥生の始まりが稲作伝来と記紀が伝える神武東征が稲作文化の東進と重なっていると勝手に信じ想定している。日本列島は四面を海洋に囲まれ、その上暖流(親潮)の北上は今も昔も変らない。海人(あま=カイジン)の想像以上の活躍が中国江南から日本列島に水耕稲作の新技術を携えて渡来してきた。
元々米(稲)は連作を嫌う代表的な作物にもかかわらず、基本品種ジャポニカは今も連綿と繋がっている。
連作の出来るのは「水耕乾田方式」の技術が江南の渡来人によって持たされたことによる。その証に現代の米を陸稲にすれば育つけれども収量は年々減作してしまう。一万年も続いた縄文時代は同じジャポニカ種を陸稲(焼畑農法)で栽培していた痕跡が列島の主に山間部に残っている。九州北部に上陸した江南の渡来人は、海人の力で列島を海から河川を溯上し、水の管理がしやすい小川付近の適地に水耕稲作を始め、暫時下流域に拡張させながら伝播した。稲作文化はわずかな期間(弥生時代)で日本列島を席巻して有史時代に繋がるわけだが、そうした稲作文化と記紀の伝承とが五島列島で重なると論証している。
記紀での伝承は地名や“ことば”に残り、民俗学的に現代まで続いている。神道では中国から約 2500 年前に発生した道教思想を取り入れ祝詞(のりと)や記紀の正史だけでなく万葉の世界へと連綿と繋がって伝承されていて今日五島列島では「チャンココ踊り」(念仏踊り)として稲作文化を今に伝えていると断じている。
慣れない論理で直ぐには信じられなくても、反論の余地はない。
文語体で育った教養人の筆者は、現代(戦後)表記を基本にしてこの本を書き上げられたが、昨今の出版物に比べると「やや難しい」文体になっている。ルビも多用してあるが、それでも「忽ち」「恰も」「斯くの如き」などの慣用句は、今の我々には馴染みが薄い。娘さんが再版される機会に、もう少し安易な文体に変えておかれたら、読み易くなっていたであろう。
久々に少々骨の折れる読み物であったが、信念の通った先人の史実の検証に出会った本であった。いつか再読し五島列島を歩んでみたいものである。
2011.23.12.21 読了 感想文として記す 山崎泰二
四一号平成二十二年十二月二十日 長崎歴文協短信
「日本国家の起源五島列島に実在した高天原」 ~~コピーは無理です
父が二十年の歳月をかけてまとめた日本国家 の起源を紹介する場として 、今回この様な機会を与えて下さいました越中哲也先生のご配慮に、対して心より厚く御礼申し上げます
、父松野尾辰五郎は大正五年福江市江川町で生まれ、平成八年十二月に東京で八十才の生涯を閉じました
三井楽の嶽小学校での代用教員を経て、旧制五島中学を卒業後、
しかしなぜ 岩谷観音にお参りすることが岩戸開きになるのでしょう???
魂は観音菩薩、天照といわれます。神社仏閣に参拝する目的は 自分に出会うためともいわれます。
神社には三種の神器があります。
三種の神器は総ての存在がエネルギーであり、逆渦であることを暗示しています。
磐座に東風吹く大日如来かな 高資
佐貫石仏(国指定史跡)ー 場所: 佐貫石仏
如来の顔が見えますか。岩の中央より少し上にある鼻の大きなお顔がそうです。摩滅して分かりにくくなっています。今年3月15日に岩の上部にある十畳ほどの洞窟が136年ぶりにご開帳となります。
かつて大日如来と天照大御神とは同体と考えられていたようです。
015年2月16日
五島では岩屋観音というのがいくつかありますが、天照大神の岩戸隠れや大日如来とも重なっているようです。ここも通称・佐貫観音と呼ばれており、岩の下には洞窟があり賽の河原みたいに何やら祀られています。
よく見たら観音さんと白龍が祀られていました。
【「 佐貫観音 」訪問 栃木県 塩谷郡】
https://www.toukaiji.com/news/2015/01/post.php【佐貫観音奥の院ご開帳について】より
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