幼子を自由気ままにさせることを放任と言います。社会のルールを身に着けそこなうと 社会という枠組みから逸脱した人間に育ちます。アヴェロンの野生児の話はあまりにもよく知られています。環境が大事か、素質が大事かと論じられもしました。
「何をしても自由ですよ」と言われると何をしたいのかわからなくなります。
自由とは何でしょうか?
金子氏は自由を「自他に害をおよぼさない本能のまま」に生きると語っています。
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7762760
【『酒止めようかどの本能で遊ぼうか』金子兜太】
聖書の創造物語は 名づけることによって成り立ちます。(創世記1章)
名つけたもののみが、認知したもののみが 自分の世界の現実となります。
名つけるとは混沌から体を出現させること。規定することと言えます。
姿を変え、流れる雲は、自由なのでしょうか?
萍のひしめくたまとなりにけり 高資ー 場所: 日下田藍染工房
流れのままに浮遊する浮草は自由なのでしょうか?
水は 愛、自由の象徴といわれます。
温度によって個体・液体・気体と形を変える水。
器に入れられ形状が保たれる水。器が無ければ霧散する水。水が水としての実態を保つためには枠組み(概念。名前)が必要なのではないでしょうか?
器が必要なのは水だけではありません。
物質の容れものである、空間の最小領域のことを素領域と呼びます。
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/2968402
【これも素領域?】 ご参照ください。
http://hanaken.hatenablog.com/entry/2017/07/25/202551
【自由と幸福。あるいは不自由を知ることについて】 より
”自由である”という”認識”は不自由に盲目だということである。
しかし、自由であるということは不自由を知るということである。
選択肢を知り、どうなるかを知り、それらを決定することが自由である。
なにもないところに選択の余地はない。
自由とはなんらかのシステムの上で成り立つものである。
それはつまり同時にシステムに制約を受けることでもある。
人間が自由を謳歌するには舞台が必要である。
しかし、同時にその舞台に縛られる存在でもある。
自由というのは不自由を知ることである。
そういう意味で自由とは幸せの対極にあるのである。
自由意志、選択、合理化。
あらゆるものが計算可能化された世界の行き着く先は自由意志の計算可能化である。
自由意志とは、独立して人間が持つ機能でなく、何かのシステムに縛られ影響を受けた結果起こり得る1つの事象でしかないことが証明される。
自由が幻想だったことが白日の下に晒される。
自由とは足掻きである。
コントロール不可能な時間の流れをコントロールできるかのように、あらゆる影響から独立した"自分自身"が選択し未来をコントロールできるかのように、錯覚し足掻くことこそが自由。
近代化以後の自由意志と計算可能化の流れによって、あらゆるものから解放されようとした結果、人々の存在は社会の中の交点から世界という空虚に彷徨う点になる。
世界という空虚の中では自由というものはない。
そしてそれをまた社会の中で意味ある交点に引き戻すのは全てを計算可能化した存在=AIなのだと思う。
自由とはただの幻想であったと気がつく。
カオスに飲み込まれないために、自由には枠組みが必要なのではないでしょうか?
「温故知新」人生の先達たちから学び 自分で人生のルールを作り出す必要があるのではないでしょうか?
集合無意識(アカシックレコード)から訪れる閃きや啓示からくみ取るルールは 独りよがりの基準にならずに 関係存在としての自分の助けになるのではないでしょうか?
ありのままは 本能のままなのでしょうか?? 本質のままなのでしょうか?
イドとセルフの違いを感じます。
『機』2010年6月号:俳句/短歌をつなぐもの 金子兜太+佐佐木 ...
www.fujiwara-shoten.co.jp/pr_ki_article/ki_201006-01/
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フロイトは生の本能というんでしょう。 【佐佐木】 〈梅咲いて庭中に青鮫が来ている〉(『 遊牧集』)。ぼくは兜太のアニミズムの俳句というとこの句を思い浮かべます。すばらしいですね。 【金子】 ええ。言おうと思っていた。青鮫イコール命なんです。
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