陰陽の渦巻いて楡若葉かな 高資
渦巻いて玉と光るや楡若葉 高資
An elm with green leaves -
dividing the bough between yin and yang
and spiralling up... T. Goto
地から氣を湛へて月下美人かな 高資
The Queen of the Night -
beaming with spirits
of terra firma Taka
https://blog.goo.ne.jp/smgrh1992/e/20e23409ec54d51fd4c8dfc2e36751cc
【空と一体は同義語】
しょっちゅう、「空と一如は同義語です。空とは、宇宙のすべてのものが一体だという意味なのです」と言っていますが、実はどの経典のどこに書いてあるかははっきり把握できていませんでした。
大雑把な性格なもので、たくさん読んできた空に関する文献のどこかにまちがいなく書いてあった、という記憶でしゃべっていたのです。
しかし読書はするものです。
大学への電車の中の読書、『摩訶般若波羅蜜経』にあることを見つけました。
「諸仏如相(しょぶつにょそう)は皆是れ一如相(いちにょそう)なり。不二不別不尽不壊(ふにふべつふじんふえ)、是れを一切諸法如相と名く。…仏、般若波羅蜜に因りて、是の如相を得。…是の如相を得るが故に仏を如来と名く。」(「仏母品第四十八」)
「諸仏のありのままの姿はすべてこれ一体性という姿である。二つでなく別れておらず尽きることなく壊れることがない。これを一切の存在のありのままの姿と名づける。仏は、般若波羅蜜によって、このありのままの姿を覚り得たのである。このありのままの姿を覚り得たので仏を如来・ありのままからやって来た人と名づけるのである。」
また忘れてしまわないうちに、メモ―紹介しておくことにしました。
これから授業、帰宅してから、解説を書くつもりです。
乞うご期待。
*以下、簡単な解説です。
ここでは、仏が般若波羅蜜=智慧の実践によって覚ったのは、一如相=世界が一体だということだ、といわれています。
また別のところでは、仏は智慧の実践によって空を覚ったことになっていますから、つまり一如=空だということです。
すべてがつながっていて、結局は一つであり、徹底的に一つで他に比べて数えるものがないので、ゼロ=空という表現にもなるというのが、深い禅定によって体験される世界のありのままのリアルな姿なのです。
私たちは、まずつながりコスモロジーによって、理論的に学び、ワークによって少し実感し、さらに禅定を実行すれば、いっそう深くコスモスとの一体性を体験することができます
https://blog.goo.ne.jp/smgrh1992/c/ea19ceedc5db57e83cdaa041e246f074 より
【足の痛み・しびれは心配ありません:禅定の話(増補再録)】
もう十年以上前に書いた「足の痛み・しびれは心配ありません:禅定の話2」という記事が今でも毎日かなりの数読まれています。
それどころか、特に9月9日には8千人以上の方が読んでくださいました。
それは、坐禅・瞑想をやってみたいが、足の痛み・しびれが心配でなかなか踏み出せないという方、思い切ってやってみたがやっぱり辛くて続けられなかったという方が、驚くほど多いということなのかと思われます。
そこで、そういう方々のために、過去の記事を増補改訂して再録しておくことにしました。参考にしていただければ幸いです。
坐禅・瞑想は、覚りというレベルまで目指さなくても、ストレスを緩和する効果がとても高いことからしても、それはもったいないことだと思い、筆者は、なるべく痛い思いをしないですむよう、柔軟体操付の坐禅の指導をしてきました。
さらに、最近では、マインドフルネス瞑想の効果の科学的研究により、ストレス緩和という目的には、両足を組むいわゆる結跏趺坐は必ずしも不可欠でなく、呼吸法がポイントであることが明らかになったようなので、イスでできるやさしい呼吸法・瞑想法=イス坐禅もお伝えすることにしています。
足の痛みやしびれがやっぱり心配だという方は、ここからスタートしていただけると、楽に入門できると思います。
もちろん、本格的になってきたら結跏趺坐の坐禅を身に付けていただくのが望ましいと思いますが。
私は、四十五年以上前に、臨済宗系の秋月龍珉(あきづきりょうみん)先生の道場で坐禅を教わりました。
他にいろいろな瞑想法があることは、いろいろな文献で学んできましたし、試しにやってみたこともありますが、自分にはこれがいちばん合っていると感じてきました。
ただ最近は、先にも書いたとおり、試してみてマインドフルネス瞑想法も悪くないと感じていますが。
ともかく、私がこれまでお伝えしてきたのは、臨済禅系の「坐禅」というかたちの禅定・瞑想です。
まず「調身」といって体の姿勢を調えるのですが、ご存知のように、坐禅では、左右の足を組む「結跏趺坐(けっかふざ)」というかたちを取ります。
これはもともと、足をしびれさせて我慢会をさせ、根性を養うためにするのではありません。
両ひざとお尻の下にしいた座蒲(ざふ)で長さを足した尾てい骨の3点で、ちょうどカメラの三脚のような安定した状態を作るためにするのです。
これは、脚が長くて痩せている人の多いインド人にとって、静かに長く坐っているためにはいちばん楽な姿勢だと言われています。
確かに比較的脚の短めの日本人が、足首、膝、股関節やその周辺の筋肉がこちこちに硬いままで、最初から無理にこんな姿勢をすると痛い目にあいます。
最近は、脚が長い若い世代も多くなりましたが、筋肉・関節が硬いままだと、やはりかなり痛みはあるでしょう。
かつては、社員研修などで無理やりに坐禅をさせられて、足のしびれと痛みですっかり懲りて、坐禅なんか二度としたくないと思ってしまう人が多かったようで、残念なことでした。
しかし、ちゃんと準備の柔軟体操をして筋肉・関節を柔らかくしてからすると、それほどひどいことにはなりませんし、慣れてくると体を安定した姿勢にして心を安定させるという目的のためにはやはり結跏趺坐がいちばんふさわしいと感じるようになります。
最近は、柔軟体操から指導する禅道場もあるようですし、イス坐禅を指導している若い僧侶の方もおられるようですし、私の講座では、必ず柔軟体操をしてから坐っています。
これまで、このブログの唯識‐仏教の記事を読んできて、人間の根本問題を解決するには、やはりアーラヤ識、マナ識という無意識の領域まで含めた心全体の浄化が必要だと感じた方、少なくとも私のところでは、「足がしびれて痛くてひどい目にあうのではないか」という心配はありません。
それに、人間の体はとても柔軟に適応できるように出来ていて、坐禅の結跏趺坐や茶道の正座のようなふだんしない坐り方もしばらく続けていると、脚の血管にバイパスが作られてちゃんと血液が流れるようになり、しびれは問題なくなると言われています。
慣れるまで、つまりバイパスが出来るまで、ほんのしばらくの辛抱です。
思い切ってがんばって、坐禅に取り組んでみませんか。あるいは、やさしいイスでできる瞑想・イス坐禅からでも始めてみませんか。
どんなに効果の高いトレーニング・メニューがあっても、それを読んでいるだけでは、レベル・アップはしません。
どんな特効薬の効能書きがあっても、読んでいるだけでは治りません。
まちがえないでいただけるとうれしいのですが、仏教の話・知識は薬の効能書きのようなものだと筆者は考えています。
読んだだけでも、ほっとするという安心効果があるのですから、それではダメだとは思いませんが、それだけではもったいないと思うのです。
薬やリハビリ・メニューにあたる実際の効果をもたらすのは、六波羅蜜です。
私は、まわりの若い人によく「飲まない薬は効きません」と言ったものです。
「飲まない薬が効かなくて、病気がよくならないのは、ぼくの責任じゃないよね?」と。
これは別に意地悪を言っているわけではないと思いますが、どう思われますか?
因みに、過去記事のコメントで、お釈迦さまも『遺教経』で「服すと服せざるとは医の咎(とが)に非ず」(飲むか飲まないかは医者の責任ではない)と言っておられることを教えていただきました。
もっとも最近は、よりポジティブかつやさしく、「飲んだら、よくなりますよ」と言うようにしています。
地に落葉天に蛇柳うねりたる 五島高資
蛇柳の天を分けたるうねりかな 五島高資
Winding generously-
two boughs of a Salix eriocarpa
are holding the sky Takatoshi Goto
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