神話の不思議

出雲大社月始祭

さきみたまくしみたま身に入みにけり  高資


https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/seisaku/koho/esque/2012/84/01.html

【神々の国しまねだいこく様とオオクニヌシ】  より

わが国最古の歴史書「古事記」が編纂(へんさん)されて今年で1300年。古事記に記されている神話に、八岐大蛇(やまたのおろち)退治のスサノオノミコト(須佐之男命)とともに多く登場するのが、「だいこく様」として知られるオオクニヌシノミコト(大国主命)です。

スサノオの6世の孫とされているオオクニヌシは、稲羽(いなば)(因幡)の国へヤカミヒメ(八上比売)に求婚しに行く兄弟神の八十神(やそがみ)に従っていた際、ワニ(サメ)に皮を剥がれて苦しんでいた素兎(しろうさぎ)を助けました。

ヤカミヒメがオオクニヌシを選んだため、怒った八十神に2度も殺されたオオクニヌシはその都度生き返り、スサノオのいる根(ね)の堅州国(かたすくに)に逃げ延びました。

スサノオから与えられた試練を乗り切り、生大刀(いくたち)、生弓矢(いくゆみや)などを持って帰還し、八十神を追いはらいます。

出雲国風土記によると、八十神と戦うため、城名樋山(きなひやま)(雲南市木次町、標高約100メートル)に城を造ったとされています。

国つくりはスクナビコナ(少名毘古那)の協力を得て行います。

出雲国風土記には、多祢郷(たねのさと)(現雲南市掛合町)で2神が稲の種を落としたことから、その名がついたと記述があります。

地元の多根神社ではこの両神を祀(まつ)っています。

スクナビコナはやがて立ち去り、試練に立たされて悩むオオクニヌシは自らの幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)に出会い、偉大な霊力を備えていることを悟って、国つくりの偉業を達成します。

日本書紀に記されているこの話を像にしたのが、出雲大社の参道にある、波と玉に向かい合うオオクニヌシの像です。

オオクニヌシは慈悲深い、五穀豊穣(ごこくほうじょう)の神様です。

仏教には大黒天(だいこくてん)という天部に属する神がいます。もとは恐ろしい戦闘の神様であり、福財の神様でもあります。

ともに大きな袋を肩にかけ、「ダイコク」の音も同じことから、しだいにオオクニヌシと大黒天のイメージが重なって、オオクニヌシは「だいこく様」とも呼ばれ慕われるようになったとみられています。

寺院に安置されている大黒天像は、七福神の大黒様の姿をはじめ、顔を3つ持つもの(三面大黒)もあります。

これに対して、オオクニヌシを主祭神とする出雲大社にちなむ像は、両手に玉を抱えているものもあり、幸魂奇魂に出会ったオオクニヌシの姿を思い起こさせます。

大黒天の前身はチベット密教のマハーカーラー・破壊神 

ウィキペディアには「マハーカーラ(Mahākāla)は、ヒンドゥー教の神の一柱で、シヴァの別名のひとつとされる。

マハーは「大いなる」、カーラは「黒、暗黒、時間」を意味し、世界を破壊するときに恐ろしい黒い姿で現れる。

秋の燈や大黒天の笑ひたる  五島高資


大国主命の国譲りに反対して敗れた 建御名方冨命を祀ると言われる諏訪大社

http://www.y-tohara.com/suwataisha.html 【諏訪大社】

http://zundoko.jp/html_template/jinja1/origin.html  【諏訪神社の由来】

玉砂利に色なき風の渡りけり  五島高資

柏手に破風の羽ばたく葉月かな  五島高資ー 場所: 諏訪神社

浦島の鰐に跨がる伊奈良かな  五島高資ー 場所: 雷電神社

雷電神社(らいでんじんじゃ)は、関東地方を中心に日本全国に点在する神社。一様に雷除けの神とされる(雷神社・スサノオとは別)

コメントのやり取り

亀じゃないんですかm(_ _)m

五島高資  和爾宮司さんが確かに鰐だと申しておりました。縁起が和爾 (柿本若子の祖先)・王仁に通じるのかもしれません。南方系と北方系の神話が混交したのかもしれません。坂東とはそいう土地柄なのでしょう。ちなみに因幡は人麻呂の終焉の地と云われる石見の近くですね。

http://awa.rgr.jp/wiki.cgi?page=No289%2F%A3%D7%A3%E5%A3%E2%C8%C7%2F07

【古代豪族和邇氏】

 金田英治氏の古代豪族には、【元来和邇氏は、安曇氏、海部氏らと同じく海人族系とされた。元々は「春日」氏と呼ばれた。その後和邇姓となり、29欽明天皇頃からまた春日姓に改姓されたとも言われている。古くから天皇家に妃を供給する氏族の役割を果たしてきた。多くの女性を妃として天皇家に出した氏族は他には無いと書かれ、後の藤原氏を除けば歴史的には存在しないのに、そこから直接天皇が輩出してないのはと金田英治氏は書かれています。それでは、宇佐公康氏の文から和邇族について・・・

 ・・・大和は国のまはろば、青垣山のかなたに、また幾重にも山なみをつちねたこの地に、朝鮮系の海洋民族であった和邇族は、紀元前のいにしえより土着して、春日山系の山麓や奈良盆地を本拠に、畿内一円から東海地方にまで勢力を張りめぐらし、村々を統合して大和国をつくった。そして、大和朝廷が統一王朝として、律令制による中央集権的な国家体制をなすまでには、幾多の変遷をへて歴史が流れ、長い歳月が経過した。・・・

 こうした大和の地で、和邇の祖神は、ワニ神と称する朝鮮系の海神だそうです。でも、このワニは、ワニザメのことで、サメの一種を古くからワニと呼んでいたところからの名で、私たちには、違和感がありますが、古代の日本では、動物や土地の呼び名になぞらえて、各民族の名称としていたということです。和邇族の場合は、ワニザメが多くいる山陰・北陸地方の海、日本海との関係があったようです。和邇族は、後期旧石器時代に、朝鮮半島から日本列島に渡来した種族で、紀元前1万年ごろには、すでに九州に渡って、長崎県の五島列島や松浦半島の海岸地方で、原始的な漁労・採集の生活をいとなんでいたと書かれています。漁労・採集で恐ろしいものは、人を喰うワニザメというところから、その精霊をワニ神として祀り、海神として恐れうやまうと同時に、氏族の生活を守る祖神として、ワニの名にちなんで和邇族と称するようになったとのことです。

・・【和邇族は日本海に面して栄え、壱岐・対馬から山陰地方に進出するに及んで、中国系の先住民族であった出雲族と接触交流し、その勢力下に統合管理されながら、紀元前1000年ごろの後期縄文土器文化の時代までには、近畿・東海地方に進出するに至った】。

 ということで、多くの分家をもった氏族で、紀元前3世紀ごろのはじめから7世紀のおわりごろまでに、【春日(奈艮市)より木津川沿岸に発展、琵琶湖の周辺に勢力をひろげ、北進して越前(福井県)の敦賀または若狭の地、日本海に出て繁栄】【大和川で、河内国(大阪府)君江郡に、古代の難波の海を制す。」ということです。

 そして、【伊勢から伊勢湾を海路によって東海地方へ進み、濃尾平野を流れる揖斐川・長良川・木曽川・庄内川などの下流地域に勢力をのばして、この地域を和邇族勢力圏の尾張と称して一族の尾張氏が居住し、東国への交通の要衝とした。】ということです。

 和邇族は、海洋民族である。和適族の戦いは、ほとんど、海岸や河口の水辺でおこなわれた。それは新しい土地をもとめて進出する上陸戦闘であった】と書かれています。海洋民族としての和邇氏の古代に生き、更に、陸に水稲耕作に土地を広げていく様子です。

大和の地に君臨した和邇氏

 紀元前300年ごろ、すなわち、縄文時代のおわりから、弥生時代のはじめのころに、揚子江の下流域から、今の長崎県の島原半島に渡来した中国南部の人たちによって、稲の種子と農耕の技術がもたらされた。稲は日本の風土にもっとも適していて、米は味がいいので、稲作は急速に普及し、その範囲をひろげて、北九州地方から山陰・山陽・四国・近畿地方におよんで、紀元前後ごろには東海一帯に、さらに100年後くらいには、東北地方中部にまで伝わっていった。このことは、日本の古代史において重大な生活革命である。・・・

 和邇一族は、数千年間つづけてきた漁労・採集の生活を農耕生活に転換させていった。水を利用した稲作がはじまると、水稲耕作が本格的に発達して、広大な平野をもとめて氏族は移動していった。・・・

 大和(奈良県)を中心にして、近畿東海地方に多くの同族・分家を展開した和邇族には、だいたい、16の氏族が数えられる。大和に栄えたのは、まず本家の和邇につづいて、春日・小野・柿木・轢本・大阪の諸氏であった。7世紀のおわりに、有名な万葉の歌人柿本人麻呂(生没年不詳)も、和邇氏から分かれた家系である。


https://nami3291.exblog.jp/23329036/  【ヒンドゥー教はシンドー教】

ヒンドゥー教

ヒンドゥーの語源は、サンスクリットでインダス川を意味する「sindhu」が、古代ペルシアで転訛したものという。

「sindhu」は、そのまま読めば「シンドー」であり、これに「神道」を充てたのが日本の神道らしい。すなわち、ヒンドゥー教とは、元名がシンドー教だったのです。

紀元前2000年ごろ、イランからインド北西部に侵入したアーリア人は、前1500年頃ヴェーダ聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰しました。

だが、前五世紀ごろに政治的変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた結果、民間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化して行きます。

ヒンドゥー教の三神

ヒンドゥー教には、その基本に三人の神があります。

ブラフマー神(宇宙の創造を司る神)、

ヴィシュヌ神(宇宙の維持を司る神)、

シヴァ神(世界の破壊を司る神)の三神で、三神は一体とされています。

シヴァ=邪馬

この中のシヴァ神を信仰したのが邪馬台国・邪馬壱国だったらしい。

邪馬の読みは「シャバ」であり、シヴァ神そのものを意味している。

邪馬国と記された紀元三世紀の日本に存在したのは、ヒンドゥー教のシヴァ神であり、同時に、巴利(はり)国の南伝上座部(じょうざぶ)仏教=小乗仏教だったらしい。

ヴィシュヌ=御中主

そしてさらに、古代日本には、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神も伝わっていたらしい。

ヴィシュヌ神を漢字で書き直すとー、

美(ビ)中(ジュウ)主(ヌシ)神(シン)で、「美はミ→御」と変化すると、ヴィシュヌ神とは、=御中主神、ではないか?

一般に、インド仏教は、ヒンドゥー教でありその前身はバラモン教と大別されている。

しかし、ヒンドゥー教・バラモン教の名称は、後世の歴史家が区別のために作った名称である。

ヒンドゥーの語源は、サンスクリットの「sindhu」であり、意味はインダス川のこと。当時は単に、インダス川の所の宗教と呼ばれていたらしい。

「sindhu」は「シンドゥー」であり、これが日本の「神道」になったらしい。

ヒンドゥー教は紀元前五世紀ごろからの始まりとされるが、単に「インダス川の宗教」という意味で、シンドゥー教と呼ばれていたのではないかー。

仲哀天皇と神宮皇后

では、巴利(はり)国は日本に来ていたのだろうか?

加治木義博氏・著書/卑弥呼によれば、日本に来ていたらしい痕跡が、天皇の名前の中にあります。

14代仲哀天皇とその后の神宮皇后の名前です。

仲哀天皇の名前は「足中彦」、これを通説では「たらしなかつひこ」と読んでいますが、これをそのまま素直に読み直すと、「あし→そく・なか・ひこ」です。

后の神宮皇后の名前で、古事記で記された「息長帯比売命(おきながたらしひめ)」…、これを読み直すと、

「息(いき→そく)長(なが)帯(たらし)比売(ひめ)」で、「そく・なが・ひめ」ー。

つまり、「足中彦(そくなかひこ)」と「息長比売(そくながひめ)」で、これを万葉ガナとして読み下すと「ソナカ彦」と「ソナカ姫」…、南伝仏教宣布団のソナカ王の名が、天皇・皇后の名前に反映されている。

有史のころの古代日本に南伝の上座部(じょうざぶ)仏教が渡来していた。

その伝播地が倭人伝の中の巴利(はり)国であり、九州南部から上陸した巴利(はり)国は北へ移動し、後世、播磨と呼ばれた兵庫県南部の地域に落ち着いていたのだ。

⇒参照/加治木義博氏の「新説・日本誕生」

http://ikuno.lolipop.jp/piramido/spot/book02/am01.htm#01

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