うつおぶね

時を漕ぐ栃の木の空舟(うつおぶね)かな  高資

時を漕ぐ櫂の雫も栃の花  高資

西日へと漕ぎ出す栃の空舟  高資

栃の木の舟や西日へ溯る  高資


天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に漕ぎ隠る見ゆ  柿本人麻呂

淑氣満つ宇津保舟なる月の影  高資


大辞林 第三版の解説

うつおぶね【空舟】

一本の木をくりぬいて作った中空のふね。神仏の使いや異界のものが乗り漂着するという伝説が多い。のちには丸木舟のこととされた。うつほぶね。うつろぶね。 「 -にいれてながされけるとぞきこえし/平家 4」

鳳の雲と翔るや秋夕焼  高資

https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2701U_X20C12A7CR8000/

【エジプトで最古の「太陽の船」発掘】

約5千年前の古代エジプトの王ファラオの副葬品「太陽の船」がカイロ近郊ギザで26日までに発掘された。これまでに発見されたもので最古という。エジプトのアリ文化財担当相が声明を出し発表した。

アリ氏らによると、船は、古代エジプト第1王朝(紀元前3100~同2890年)のデン王の時代に造られたとみられる。フランスの研究機関の調査隊がギザのアブラワシュ地区で発見した。保存状態は良いという。

船は11の木片から成り、1つの木片は長さ約6メートル、幅約1.5メートルの大きさ。

太陽の船は、ファラオが死後に旅ができるようにと、ピラミッドなど王の墓のそばに埋められた木製の副葬品。吉村作治・早稲田大名誉教授はクフ王(紀元前2589~同2566年)のピラミッド付近で「第2の太陽の船」の発掘・復元作業を進めている。(カイロ=共同)


https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/cc561bc14a8dd7cfc76fe41e210845b5

【日本のピラミッドとニライカナイ信仰・・水木しげるの常世探訪】より

水木しげるさんの「三途の川の渡り方」の紹介を続けます。

              *****

          (引用ここから)

もう20年ほど前のこと、ぼくはまるで招かれるように広島県庄原市に行った。

夢に子どもがでてきて、泣いて呼ぶので行ったのだが、ここには出雲のカミサマより古い、太古のピラミッドと言われる巨石がある。

その石の上にはたたみ一枚ほどの供物台があって、ここから晴れ渡った空をバックに三角形の山がはっきりと見える。

これを見て、エジプトのピラミッドも太陽神信仰だが、日本にも同じ考え方があったのじゃないだろうか、とぼくは直感した。

その信仰が忘れられているので、夢のなかの子供が泣いているのではないか。

その後の体験でこれは事実だと確信している。

その太陽をさえぎるのが雲、つまり時代を支配しようとする生きた亡者たちとも言える。

ざっと世界も見回しても、難しい教義を持った宗教が根をはった国を除けば、おおむね人間のいる世界の上方には心地よい天上界、地下には罪深い魂が落ちる暗い世界があったようだ。

韓国の古い信仰にもこうした形が見られる。

ぼくはインドネシアに縁があって、おじいさんも親父も親類も長い間、インドネシアのジャワ島に滞在していた。

森の多いところは霊の力が強い。

インドネシアは現在、イスラム教が圧倒的に信じられているが、部族によっては古い言い伝えを持ち、ここにも死後に渡る川が登場する。

たとえばボルネオ島のサラワクに住むカヤン族では、死後の魂はロングマランという大河に辿り着く。

この川には丸木橋が一本かかっていて、橋のたもとには大男がおり、この男がいつも橋を揺らしている。

生前、勇者として敵の首を取ったものはすぐに橋を渡れるが、その経験もない臆病者は橋から落ちて藻を伝いながら「ポー」というあの世に降りていく。

「ポー」の手前には「命の水の川」という川があり、ここにも番人がいる。

この番人は、魂を追い返す権利を持っている。

日本には、浄土という思想が入る前から「常世」という考えがあった。

海の向こうにすばらしい国があるという考えで、竜宮城の物語もここから生まれた。

たとえば沖縄にはニライカナイという楽土があり、先祖の霊はそこに行って、お盆には帰ってくる。

またニライカナイは時間の止まった世界で、生身の人間が間違って辿りついても、年をとらないで帰ってきたという言い伝えもある。

この海の彼方に楽土を見るのは、当時はなきがらを海に流す水葬が行われていたためだとも言われる。

熊野や室戸岬に伝わる「補陀落渡海(ふだらくとかい)」もまた、海の彼方に楽土があるという考えだ。

これは熊野の「補陀落山寺」の住職を水葬にしたのが始まりだったという。

「補陀落渡海」では、まず窓のあまりない「ウツボ舟」と言う舟をつくる。

一か月程度のわずかな食糧を乗せ、行者が中に乗ると外から釘で船を密封してしまう。

つまりは小型の棺桶船のようなものを作る。

ここに鳥居を3つか4つ付け、「補陀落浄土」を目指した。

わかっているだけで、数十人が決行している。

修行を積んだ末に行われたというが、楽土に行くのも楽ではない。

そもそも「補陀落渡海」では、楽土は西ではなく、南にあったのだ。

それが、浄土教がさかんになるにつれて、西方の極楽浄土が重要視されるようになった。

ここでも日本古来の信仰が外来の仏教と混交していったことが分かる。

(引用ここまで)

   

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日本にもピラミッドがあるという説は興味深いです。

水木しげるさんの直感では、太古の日本人は太陽神を信仰していたということになりますが、じめじめした日陰や暗がりの似合う水木さんの直感する“太陽”とはどのようなものなのか、興味があります。

広島・葦獄山(あしたけやま)のピラミッドについては、月刊ムーの単行本に説明がありましたので、以下に引用します。

         *****

          (引用ここから)

日本のピラミッド研究は1932年、酒井勝軍によって、広島県庄原市にある葦嶽山が人工のピラミッドである、と断言されたことに始まる。

明治6年、山形県に生まれた酒井はアメリカに留学し、牧師となるが、昭和2年にユダヤ・シオニズム運動の調査のため、中東・パレスチナに派遣されてから、突如としてピラミッド研究に没頭しはじめ、ついには世界中のピラミッドのルーツは日本にあるという、いわゆる日本ピラミッド発祥説を唱え始める。

その根拠として酒井は、有名な「 竹内文献」を伝える天津教竹内家神宝の一つ、御神体石に神代文字で書かれた「日来(ひらい)神宮」を挙げている。

この言葉「日来(ひらい)神宮」こそ、古代日本における「ヒラミット(ピラミッド)」の存在を暗示するものというのだ。

酒井の定義では、ピラミッドはかならずしもエジプトやマヤのように、人工的に石組みされたものである必要はないとされる。

山や丘など、自然の地形を巧みに利用しながら、その一部に石や土を積み上げ、形作られたものでもかまわない。

ただしピラミッドとして絶対に欠かせないものがある。

山頂に設置された「太陽石」と呼ばれる、一種のエネルギー集積装置だ。

つまり酒井によれば、ピラミッドは古代のテクノロジーによるエネルギー装置だった、というわけだ。

葦嶽山ピラミッド説は、当時新聞でも大々的に報じられ、広島県の山村には続々と見物客が押し寄せることになった。

たしかに葦嶽山は、中腹から山頂にかけて人工的に積み上げたような巨石が大量に存し、その山容も美しいピラミッド型をしている。

また山頂には、酒井が主張したような「太陽石」もあったのだ。

ちなみにこの「太陽石」はのちに国家によって破壊され、谷底に投げ落とされてしまったといわれている。

    (学研「ムー」スペシャル「超古代文明ファイル」より)

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この問題については、一度にはとてもまとめられないので、またの機会に譲りますが、古代日本になにがあったのか、大変気になるところです。

「太陽石」は本当にあったのでしょうか?

水木さんは次に、浄土より先にあった“常世”(とこよ)について述べています。

日本書記には、「少彦名命が熊野から常世に帰った」という記述があります。

wikipediaから引用します。

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常世の国(とこよのくに)は、古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる異世界である。

一種の理想郷として観想され、永久不変や不老不死、若返りなどと結び付けられた、日本神話の他界観をあらわす代表的な概念で、古事記、日本書紀、万葉集、風土記などの記述にその顕れがある。

こうした「海のはるか彼方の理想郷」は、沖縄における海の彼方の他界「ニライカナイ」にも通じる。

常世の国の来訪者

日本神話においては、少彦名神、御毛沼命、田道間守が常世の国に渡ったという記事が存在する。

浦島子(浦島太郎)の伝承にも、常世の国が登場する。

少彦名神

大国主国造りのくだりでは、少彦名神が大国主とともに国土を成した後に帰った地とされる。

『古事記』上巻の記述では、この国を作り固めた後、少彦名神は常世の国に渡ったとあり、日本書紀神代巻の該当箇所では、本文ではなく第八段の一書第六の大国主の記事中に、大国主神が少彦名命と力を合せて国作りの業を終えた後、少彦名命は熊野の岬に行き、そこから“常世郷”に渡ったとある。

         (引用ここまで)

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水木さんはさらに、日本史上でも異彩を放つ“海上版・死出の旅路”である「補陀落渡海(ふだらくとかい)」について述べています。

この“死出の旅路”は、海上を西方浄土ではなくて、南方の浄土をめざして進む旅路ですが、驚くべきことにその起源は仁徳天皇時代とされ、仏教伝播以前のようです。

元祖日本人は、南の海に魂の故郷をもっていたということでしょう。

そしてそういった仏教以前の日本人の心性を、「常世」という言葉であらわすことができると、水木さんは述べているのだと思います。

「三途の川」は、仏教よりはるかに古くから、日本人の心性に根付いていたのだと言えると思います。

Wikipediaから、お寺の由来と渡海行の方法を紹介します。

      

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wiki「補陀落山寺」より

補陀洛山寺(ふだらくさんじ)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある、天台宗の寺院。

補陀洛とは古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である。

「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産に登録されている。

仁徳天皇の治世(4世紀)にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹で、平安時代から江戸時代にかけて人々が観音浄土である補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海」で知られる寺である。

江戸時代まで那智七本願の一寺として大伽藍を有していたが、文化5年(1808年)の台風により主要な堂塔は全て滅失した。

Wiki「補陀落渡海(ふだらくとかい)」より

補陀落渡海(ふだらくとかい)は、日本の中世において行われた、捨身行の形態である。

この行為の基本的な形態は、南方に臨む海岸に渡海船と呼ばれる小型の木造船を浮かべて行者が乗り込み、そのまま沖に出るというものである。

最も有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると、868年から1722年の間に20回実施されたという。

この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある。

補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている。

渡海船

渡海船についての史料は少ないが、補陀洛山寺で復元された渡海船の場合は、和船の上に入母屋造りの箱を設置して、その四方に四つの鳥居が付加されるという設計となっている。

鳥居の代わりに門を模したものを付加する場合もあるが、これらの門はそれぞれ「発心門」「修行門」「菩提門」「涅槃門」と呼ばれる。

船上に設置された箱の中には行者が乗り込むことになるが、この箱は船室とは異なり、乗組員が出入りすることは考えられていない。

すなわち行者は渡海船の箱の中に入ったら、箱が壊れない限りそこから出ることは無い。

渡海船には艪、櫂、帆などの動力装置は搭載されておらず、出航後、伴走船から切り離された後は、基本的には海流に流されて漂流するだけとなる。

思想的背景

仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀落(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。

その原語は、チベット・ラサのポタラ宮の名の由来に共通する、古代サンスクリット語の「ポータラカ」である。

補陀落は華厳経によれば、観自在菩薩(観音菩薩)の浄土である。

多く渡海の行われた南紀の熊野一帯は重層的な信仰の場であった。

古くは『日本書紀』神代巻上で「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適(いでま)しぬ」という他界との繋がりがみえる。

この常世国は明らかに海との関連で語られる海上他界であった。

また熊野は深山も多く山岳信仰が発達し、前述の仏教浄土も結びついた神仏習合・熊野権現の修験道道場となる。

そして日本では平安時代に「厭離穢土・欣求浄土」に代表される浄土教往生思想が広まり、海の彼方の理想郷と浄土とが習合されたのであった。



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